謀略の使徒22
「ご機嫌麗しゅう、ティザル・ケミリオ殿」
美姫すら酔わす口元で、僅かにカルは微笑んだ。
ぴくりと、一瞬だけ眉を跳ね上げたティザルはだが余裕の笑みを持って見返えす。
「……小僧」
だがティザルとは対照的に憎しみがありありと篭る声が、バトゥの口から漏れる。酒によって理性の弱まった今のバトゥでは、いつカルに飛び掛っていくとも限らない。
「おや、いらしたので? バトゥ殿」
挑発的な言葉と、湖水色に澄み渡る冷たい視線。それを投げつけられたバトゥは、うなり声を上げた。
「よくおいでくださいました」
不穏な気配に口を挟んだのはフィクスだった。彼にしてみれば、虎口に飛び込む覚悟をもっての発言だ。彼自身、声が震えなかったのが不思議でならない。同時に深々と頭をたれると、席をひとつ用意する。
「さあ、立ち話しもなんです。どうぞお座りになってください。ちょうど今デュマが終わったところ……会食と休息の時間でございますれば」
そそくさと席を勧めるフィクスに、ティザルの鋭い声がかかる。
「いや、スカルディアの席次はそこではない」
フィクスがカルに薦めた席は、ティザル、バトゥに次いで三番目の席。
「その席には、ヘルシオ家のウェンディさまが座っていただく」
主席の高みからティザルの声が響く。
楽団の演奏すらも止んだその舞踏会場の中で、ティザルの声は響いた。
「スカルディアは末席の地位に着かれたい」
嘲笑をもって告げるティザルに、驚愕したのはフィクスだった。席次はすなわち、十貴族内での序列の高低を表すものだ。ましてや、ミザークの夜会はケミリオ・ラストゥーヌとスカルディアの和睦のための場という意味合いがある。
元々席次では、スカルディアが上のところをさらに末席にまで下げるなど普通は激怒してしかるべきだ。しかも聴衆での面前となれば、スカルディアは恥をかかされた事になる。
「ふん、いい気味だ」
バトゥの吐き捨てた台詞に、カルは静かに頭を下げた。
「従いましょう」
腹を抱えて笑うバトゥとは対照的に、ティザルはカルの金髪に、持っていたグラスを投げつけてやりたかった。
――従順すぎるっ!
敢えて聴衆の面前で、逆らってくれた方が今後の主導権を取りやすい。何より自身の権力を見せ付けることができる。
「では、これにて」
引きつる笑みのティザルに背を向けたカルに、粘り着くような甘い声がかかった。
「お待ちになって」
ぞくりと背をなでる不快感。背を向けたまま、カルは踏み出しかけた足を止めた。
「何か?」
刺繍は複雑な文様を幾重にも刻み、フリルのひとつにいたるまで完璧なる調和の元に作られた漆黒のドレス姿。結われた髪を止めるのは、金剛石を散りばめた髪留め。首元に光るのは炎の意匠を凝らした首飾り。一分の隙もなく飾り立てたウェンディは口元を扇で覆い隠しながら、ウェンディはカルに近づいた。
硬質な宝玉を思わせるカルの視線がウェンディを見下ろす。だがその視線をものともせず、ウェンディは緩く気だるげに右腕を差し出した。
嫣然と微笑む目じりは、悪戯を思いついた童女のようにあどけなく、扇で隠された口元には蛇の如き狡猾な笑み。
挨拶をせよ、とウェンディは無言の内に迫っていたのだ。
当然、序列を考えればいくら義理の親子とは言え、カルから挨拶をすることなどありえない。正当なるスカルディアとヘルシオの血を引く彼は十貴族中誰よりも高貴な血筋と言うべき立場だ。
「……これは、失礼を」
だが、彼は膝を折って差し出された右手に──その黒いレースの手袋越しに、口付けをした。一連の動作は優雅に舞う白鳥を思わせるほどに洗練されている。
「では、これにて」
言うなり嫣然と微笑むウェンディに背を向けて、貴賓席の末席へと着席した。
「……ふふふ、まだまだ坊やね」
扇をパチリと閉じると、ティザルに寄り添うように彼の隣に戻っていく。
「義理とはいえ、息子のご無礼これで許してくださるかしら?」
その意図に、ティザルも気づかないわけがない。
「もちろんだとも、貴女の頼みとあらば」
にこやかに、微笑むと彼女の手をとる。
「音楽を」
固唾を呑んで見守っていた聴衆に向かって言われたティザルの言葉。我に返った演奏者達と同様が楽器をかなで始めると同時に、止まっていた時が動き出すようだった。左手にウェンディの手を優雅にとったまま、ティザルは中小貴族達の挨拶を受ける。
一安心したフィクスは、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。
「しばらく席をはずします。ごゆるりと……」
家宰に目配せすると席を立つ。
限界だった。これ以上あの環境で接待を続けていればバトゥの相手を務められそうにない。一時にしても休養が必要だ。
そう判断したフィクスは自身の休憩部屋に戻っていった。
テーブルの上にある高級酒。自身は飲めるほうではないのだが、それを乱暴に開けると一気に飲み干した。ぐらりと、揺れる頭を何度か振り心を静める。
「父上、こちらでしたか」
扉の開く音と同時に聞こえた声に、フィクスは収まり始めた怒りをぶつける。
「貴様っ! なんということをしてくれたのだ!」
カル・スカルディアが入ってきたときの声。紛れもなく息子のテクニアのものだった。
「父上、聞いてください」
扉を慎重に閉めると早足で父の元に駆け寄る息子。
「何を聞くと言うのだ! わざわざバトゥを挑発し、あの小僧の登場に色を加えるなど、気でも狂ったか!? テクニア何の故あって我が家を貶めるや!」
感情のままに喚く父親の罵声を、甘受し息子は父の前に立つ。
「私はあのカル・スカルディアに未来を見ました」
「未来? ふん、破滅の未来なら一人で見るが良かろう! だがな、お前の双肩には老い先短いわしを始め、ミザーク一門とそれに寄り添う貴族達の運命がかかっているのだ!」
「私とて、軽々に動いているわけではございません。ですが、あの方には王の器がございます」
テクニアが王という言葉を口にした途端、フィクスは苦虫でも噛み潰したように顔をゆがめた。
「王!? 王だと! テクニア、軽々しくそのような言葉口にする出ない! わが国は共和制だぞ! 十貴族が和を持って治める。それが共和制だ……王などと……」
まるで王という言葉に怯えるように、フィクスは身震いすると酒を一杯飲み干した。
「ですが、父上」
「言うな! どれほどあの小僧が優れていようとも、ラストゥーヌとケミリオは強大だ。わがミザークは大樹に寄り添わねば生き残ってはいけぬ……忌々しいことだがな」
苦々しく吐き出すと、再びフィクスは酒を呷った。
「……わかりました」
故ヘェルキオスに、十貴族の長老オウカに、フィクスがどれほどの思いを耐えて従ってきたか、テクニアはまざまざと見ている。家門のため、頼ってくれる貴族のため、必死に生き残りをかけて戦ってきた父をテクニアは見てきている。
「父上──」
だが、だからこそ。
「──引退なされませ」
ここで引くわけには行かなかった。
「な、テクニア……貴様っ!」
「父上の御心中お察し申し上げます。ミザークは必ず、私が守り栄えさせます」
「テクニアっ……貴様に我が家を動かすことなど──」
「いえ、私どもも若様とご一緒の考えにてございます」
主の会話に入り込む無礼を甘受しながら、それでも敢えて口を挟んだのは扉を開けて入ってきた侍従達だった。
「な、貴様ら……」
代々ミザークの使用人達をまとめる侍従長、警護を担当する衛士長、そして先ほど夜会を任せた家宰までもが、居並んでいた。ミザークを動かす彼ら三人は、テクニアの後ろに並び一斉に頭を下げる。
「どうか、お舘さま」
辛い時も、苦しいときも共に歩んできた家族達。
「……わかった。テクニア、好きにせよ」
きつく目をつぶり、フィクスはそう言った。
「ありがたき、しあわせ」
いつの間に息子はここまで、家の中をまとめていたのだろうか。
「わしも、老いたな」
ほろ苦くフィクスは笑った。暗いまぶたの裏に浮かぶのは、紋章“一つ目の鴉”生き抜くためにもっとも知恵を身につけた鴉が代を重ねる。
フィクスとテクニアが貴賓席に戻ったときには、既に前曲の会食の時間は終わり、中曲が始まろうとしていた。
未だ貴賓席に漂うのは、寒々しいほどの重い気配。
フィクスはバトゥの酒を注ぐために彼らに寄り添い、テクニアはカルの元へ寄る。一見何の変化もないような構図だが、フィクスの心は軽かった。
「さあ、バトゥ殿、もう一献」
差し出される酒盃を立て続けに空けるバトゥに、飽かず酌をする。
一方カルに近づいたテクニアも、彼に酒を勧めるが、カルはあまり口にしなかった。
「ご心痛のみぎりには、これが一番だと思いますが」
カルの心の苦痛を幾分かでも和らげようと、言葉をかけるテクニア。
「そんなに気を使わなくてもいい……あまり飲めない方でね」
肘掛によりかかりながら、ヒューネを観賞する。
テクニアとフィクスの甲斐甲斐しい世話があってか、ヒューネが過ぎその後の休憩の時間になっても、カルと十貴族の間で問題は起こらなかった。
後はデピュネを残すのみ。
社交界にデューする少女達は、この日のために何ヶ月も、あるいは何年も前から支度をするものが多い。古くは王家の、そして今現在は大貴族の目に留まれば、中小の貴族から一躍大貴族の夫人にまで上り詰めることも夢ではないからだ。それゆえに一家を挙げてこの日のために財を惜しまず支度をする。
大貴族との結びつきが強くなれば、それだけ自身の出世にも影響がでてくる。中小貴族のそんな思惑も絡んで、デピュネはミザークの夜会で最大の盛り上がりを見せることになる。
古くは王の側室を輩出し、新しくは当時最大の権門だったヘェルキオスに見初められたウェンディの例がある。そのデピュネの舞台は、社交界にデビューする彼女らに正しく憧れの舞台であった。
そしてその日の夜会には、ロクサーヌ随一の美貌と謳われるスカルディアのカルも来ているのだ。緊張するなと言うほうが無理であろう。
甘い音楽に合わせて、デピュネが始まる。
色とりどりの衣装に、未だ蕾を開花させる前の少女達が舞い踊る。相手を務めるのはいずれも容姿端麗な少年達。だがどこか、硬さが抜けきらない。
「ふふ……懐かしいわね」
扇を口元にウェンディは嘆息した。
若き日を思い出すかのように目を細め、感情をうかがわせないその妖艶な微笑はデピュネの舞台を眺めている。
「だが、少し硬いな」
流石に毎年見慣れたティザルには、その年の出来がわかる。目に止まるほどの少女や少年はいないようだし、硬さに顔が強張っているものばかりだ。
「そうね、少し退屈かもしれませんわ」
ティザルの隣の席から立ち上がると、彼の耳元でウェンディは囁いた。
「坊やで遊んできてもよろしいかしら?」
「何をするつもりだ?」
囁きあう二人の声は舞踏会場の音楽に紛れてしまうほどに小さな声。
「よろしいことティザル? 十貴族の主導者たる威厳を持って下を見てくださいませ」
「ウェンディ」
呼び止める声に、嫣然と微笑む。
「社交界での戦いをご覧になって、私のティザル」
女王のように優雅な歩調でカルの元まで歩いて行くと、右手を差し出す。
「退屈でしょう……踊ってくださるかしら? 坊や」
挑戦的な笑みを見せるウェンディに、カルの傍に控えていたテクニアが口を挟む。
「僭越ながら、お相手は私が……」
だがそのテクニアをカルは片手で制した。
「スカルディアでは、わたくしの相手は務まらない?」
「お望みとあらば」
挑発的なウェンディに、敢えて答えるカル。
ミザークの夜会はまだ終わらない。
羽毛をつかむような柔らかな手つきで、ウェンディの手を取ると、そのままカルは階段を折り始めた。折りしも時刻は、デピュネの真っ最中である。舞踏会場を所狭しと踊る少女達の中に、静かに分け入って行った。
「あっ!」
最初に気が付いたのは踊る少女達の中の誰かだった。
悲鳴に近いその声に、自然と周囲の注目を集める。視線を向けた先にいるのは、カル・スカルディアとヘルシオ家の未亡人ウェンディ。自然と彼らの周りで踊る少女達は、踊りをやめて彼らに見入ってしまう。いつの間にか音楽も止んだ只中。
二人とも少女達にとっては憧れの人物に違いはない。
カルはその美貌によって、ウェンディは彼女達の中から成り上がった言わば先達にあたる。
「あら、止まらなくても結構よ。これはただの余興ですから」
嫣然と週に微笑むウェンディ。その微笑に、少年少女問わず顔を赤らめる者が居たとしても仕方のないことかもしれない。
「確かに、余興以外の何者でもない」
酷く感情を抑えた声でカルもまた言った。
「気にするな、と言っても無理であろう。せめて互いに良き踊りを」
周囲を見渡して声をかける。
少年達にとっては思わず頭を垂れたくなるような威厳に満ちた声、少女達には吸い込まれてしまいそうな声で。
「では」
ウェンディが視線を楽団に送れば、まるで意図を理解したかのように楽曲が流れ始める。
“クラウディ13番 憂う胡蝶”
最初はスローテンポとアップテンポが交互にやってくる難しい曲だ。
流れる楽曲を従えるように甘く舞うが如きその動き。彼女の周りで踊る少女らさえも、自身の彩として引き立てる彼女の仕草ひとつひとつが、楽曲と同一になったかのようだった。
だが彼女の相手として選んだカルもそれに引けを取るものではない。ウェンディが楽曲を従えるのなら、カルはその楽曲に自在に乗って見せた。華麗なステップは、決して踏み間違うことのない精密な機械仕掛けのように、だがウェンディを支える手には確かな弾力を持って。
「なかなかやるものね、坊や」
流れる間奏に、二人は距離をとった。これからがこの曲の見せ場、アップテンポが際限なくきりあがっていくのだ。結い上げてあった藍色に近い黒髪から髪留めを外したウェンディは、金剛石で作ったその髪留めを豊かな胸の谷間に挟み込む。
「準備はよろしくて?」
軽く首元を緩めたカルに問いかけた。彼女から差し出す手は、カルを誘うようにゆっくりと差し伸べられる。カルが恭しくその手を取るのと、急激に曲が激しくなるのは同時だった。
ウェンディの腰まである黒髪がふわりと、風に流れる。引き寄せられる体に、崩れるかと思われた瞬間カルの力強い手が彼女を支える。
反転。くるりと、カルの手を軸にして回るウェンディが、白い脚線美を惜しげもなく晒し、体を後ろに倒す。腰を支えるカルの腕に全ての体重を預けた彼女に、カルが内心舌打ちした。
腰を支える腕を一気に跳ね除ければ、左手一本だけで繋がったカルとウェンディは遠心力に任せて円を描く。息つく暇もなく、延びきった腕を支点に切り替え、ウェンディがカルの腕を巻き込むように胸の中へ入ってくる。
お互いに交わされる熱い吐息。
間近で交わされる視線。
愛を語るより熱く、殺しあうようも情熱的にウェンディはカルに挑む。かつて一国の権力者を魅了したその踊りは、炎よりも熱く燃えて謀略よりも尚、油断がならない。やがて熱情の時間は終わり、ゆるりとした二度目の間奏がくる。
体を寄せ合うようにして踊りながら、ウェンディはカルの整った顔を見上げた。上気した頬を紅に染めるウェンディは全身から立ち上る色香を振りまきながら、カルを口説く。
「坊や、なかなか楽しめるわね」
「貴様に坊やなどと呼ばれる筋合いはない。前にも言ったはずだ。貴様と母と呼ぶことなど永劫ないとな」
息一つ乱さずに言ってのけるカルの体に、自身の豊満な胸を押し付けつつなおも言葉をつむぐ。
「では、あなたは私を“女”として見ているのね? うれしいわ」
甘さを伴ったウェンディの声に、眉間の皺を深くするカル。周囲には聞こえない程度の小声で反論する。
「貴様は敵だ。それ以外の何者でもない」
「面白みのない答えね。敵と談笑できる程度の余裕もないの?」
無表情を貫くカルに、ウェンディが微笑む。
「この世はね、面白おかしく暮らした者が勝ちなのよ。どんな逆境にあっても笑っていられる余裕をもてないから貴方は坊やなの」
近づくウェンディの妖しい口許。紅が誘うように笑みを形作る。肩に置かれていたウェンディの手が徐々にカルの引き締まった腕をなぞる様に、下に降り。自身の腰に回されている手を、下に誘う。
「……だからヘェルキオスに取り入ったのか」
務めて感情を抑えたカルの声に、ウェンディの手がカルの手に重なる。
「そうよ。そうして次はティザル……権力者の間を泳ぎ回り、ほしいものを手に入れていく。それが私の生き方」
覗き込んだウェンディの瞳は、深遠よりも深い青。
「今ほしいのは、貴方よ……必ず手に入れて見せるわ」
「私の家門、の間違いだろう?」
「ふふ……秘密、ということにしておきましょう」
重なった手が離れ、カルの頬に触れる。
再び流れる激しい音の調べに、二人は身を任せた。