謀略の使徒21
ミザークの紋章は、“一つ目の鴉”
観音開きの扉の両板に、朱宝玉と蒼宝玉をそれぞれ、一つ目に埋め込んだ鴉が描かれていた。両脇に控えるのは招待客を完璧な礼節を持って向かえる侍従達。見るからに重厚なその扉が開かれる。
「ようこそ、おいでくださいました」
長い渡り廊下には深紅の絨毯が敷き詰められ、頭上からは硝子夜灯が吊り下げられている。昼かと思うほどに明るいその廊下の中央に、テクニア・ミザークは深々と腰を折りながらカルを出迎えた。
「栄光あるスカルディア家の当主を、我が家の夜会に迎えられたこと誠に光栄に思います」
テクニアの声には、阿諛追従とは取れないだけの真摯さがある。
返事を無視して進もうと考えていたカルは、少しだけ考えを改めることにした。
「お招き預かり、光栄の極み」
短くも返事を返すカルに、テクニアはそこでようやく頭を上げる。
「お初にお目にかかります。私はテクニア・ミザークと申します。今宵の付き添い役は私が務めさせていただきます」
優雅に洗練されたテクニアの動作に、カルは頷くだけで答えた。一般的に来客が男なら女が、逆に来客が女なら男が付き添い役を務めるものだ。もちろん、招待客に相応しい身分や品性を伴った者が選ばれる。夜会にほとんど出席しないカルには気にならないことだったが、テクニアにしてみればスカルディア派と表明しているようなもの。
自身で出迎えることは、招待客に対して最高の礼儀を示すことに他ならない。
「手間をかける」
必要最低限のことしか口にしないカルは、柔らかな絨毯を踏みしめテクニアの前にまで進む。豪奢な黄金の髪、鞭のように引き締まった身体に舞踏会用に設えた衣装が映える。
ロクサーヌ随一の美貌と称えられるその中性的な顔立ちと相俟って、見るものの目を惹きつけずにはおかない妖しさすら漂っていた。あるいは戦場を潜り抜けてきた湖水色の瞳が──激しさを内包しつつも静かに波打つ大海のような、見る者を圧しているのかもしれない。
「……カル・スカルディア様」
再び頭を下げるテクにアが口にしたのは、主催者側としても、また付き添い役としても言ってはならない一言だった。
「このまま、お引き取り願えませんか?」
下げた頭の為に見えない表情。だがその苦渋に満ちた声音が、テクニアの心を物語っている。
テクニアは目の前の、まだ少年と言える若き名門の当主を見て一目で気がついてしまった。
ティザルやバトゥとは違う。これこそが本物の貴族ではないかと。
テクニア・ミザークは戦場に出たことはない。ほかの十貴族の子弟達と同様に、社交界をその生きる場として選んできた青年である。顔に笑顔の仮面を張り付かせ、毒の言葉で相手を牽制する。ひとつの言葉が命取りとなり、ひとつの行動が己が一門の衰退を招く。あるいは命を懸けて戦う戦場よりもよほどの緊張感を伴うその社交界において、彼は身に着けざるを得なかった。
財を握るケミリオや武を誇るラストゥーヌ達のように力のある家柄ではないミザーク家。それゆえに一目で相手の質とも言うべきものを見抜く力を磨かねばならなかったのだ。
勘に近いその眼力は、これまで外れたことがない。テクニアはそれにかなりの信を置いていた。
そしてその眼力が告げるのだ。
目の前の男は、未だ若いが誇り高い獅子であると。民の上に君臨し、戦場を駆け抜ける百獣の王。
そう、言い表すなら王の素質を持っている。
そのような若者を、みすみす屈辱と陰謀渦巻くこの舞踏会に案内せねばならない。無念に思うと同時に、社交界を生き抜く冷徹な“一つ目の鴉”が計算をするのだ。
果たして、その結果がミザーク一門に何をもたらすのか、と。
「一つ目の鴉のお眼鏡には、適わぬと言われるか」
皮肉の篭った言葉に、テクニアは思わず顔を上げる。
「いえ、決してそのような……ですが」
ですが、と言ってしまってからテクニアは再び下を向いて唇をかむ。どう言って納得してもらえばいいのかと。未だ若く誇り高い少年に、目の前の危機を告げても跳ね返されるだけだろう。
「この場で私に与えられるであろう屈辱のことなら、心配は無用にお願いする」
テクニアの見上げたカルの表情には、微塵も感情のゆれが現れていない。
「貴族たるもの、己が率いる一門の為なら毒でも笑って飲ませていただこう」
気負いもてらいもなく、それを言い切るカルにテクニアは感動を通り越して戦慄を覚えた。
「……わかりました。ご案内しましょう」
体に走る戦慄をよそに、テクニアの口元だけが痙攣したように笑っていた。
流れる楽曲は緩く漂う紫煙のごとく、舞踏会場を満たす。奏でるのは遠く北方、自由都市郡ギーレから招いた楽団の演奏だった。ゆっくりとたゆたう音曲にあわせて、一階の会場ではすでにケミリオやラストゥーヌらに心を寄せる中小の貴族たちがパートナーを見つけてダンスを踊っていた。
「くだらぬ」
色鮮やかに咲き誇る花々に似た婦人達。それを引き立てる漆黒の燕尾服を纏う紳士。不快気にそれらを見下ろしてバトゥは、臓腑に酒を送り込んだ。
「これは手厳しい」
柔和な笑顔でそれに答えるのはフィクス。息子のテクニアがバトゥの機嫌を損ねてしまった後、必死の思いでその機嫌をとっていた。ただし表情には出さずに。
「ですが、ティザル殿はいささか遅いようですな」
ミザークの夜会は大きく三つに分かれる。
婦人たちの踊る前曲。既に社交界にはデビューしたが未婚の女性が踊る中曲。そして今年初めて社交界にデビューする少女たちの舞う後曲。それぞれの曲の合間には食事などの時間もあり、夕方に始まり真夜中に終わるこの宴を、ミザークの夜会と称していた。
既にデュマの中ほどまで進んだ音楽に、耳を止めながらフィクスは周囲を見渡した。
「先ほど、使いは出したはずなのですが……」
この度の夜会は何も彼自身が望んだものではない。その政治的意味合いからも、ケミリオ・ラストゥーヌとスカルディアの為のものだ。
彼とてミザーク一門を率いる身、それなりの権謀術数には少なからず関わってきた。何しろつい先ごろまで十貴族を統括していたのは策略をもって国を支配していたオウカだ。だが、それと彼自身の心情はまた別にあった。
できれば何事もなく終わってほしい。
彼の心情を表すならその一言に尽きる。先の戦の激しさに、戦場を経験したことのないフィクスはすっかり参ってしまっていた。槍で突き殺され、臓腑を撒き散らし死んだ兵士の惨さ。そのあまりの悲惨さにフィクスは目をそむけずには居られなかった。
それが遠き戦場のことなら、まだいい。問題はそれがロクサーヌのよく知る街角で、自身の庭とも言うべき大通りで、行われたことが問題なのだ。あまりに近くで行われた戦にフィクスは震え上がった。できれば早々と息子のテクニアに家督を譲り渡したいのだが、先ほどの態度を見る限り未だ彼に家督を譲る気にはなれなかった。
父親として当主としてフィクスの懊悩は深かった。
その懊悩が、ため息となって外に漏れる。
目ざとくそれを見つけたのは、先ほどから機嫌の悪いバトゥだった。
「フィクス殿は、わしと酒を飲み交わすのが楽しくないと見える」
既にかなりの量を飲み干したバトゥの顔は赤い。その赤ら顔に据わった目でフィクスを睨み付けた。
「いえ、そのようなことは……」
内心ため息を吐きたいのを堪えつつ、フィクスは柔和に笑って見せた。
「遅くなりました」
ともすれば爆発しそうなバトゥの行動をさえぎったのは、傍らにウェンディを伴ったティザルの姿だった。撫で付けられた髪に、しっかり整えられた服装。芳香香るその姿からは、十貴族の気品がうかがえた。
「おお、ティザル殿!」
地獄に仏とばかり、ティザルを迎えるフィクス。面白くもないという風に、一人酒を飲み干すバトゥ。彼らの間を割るようにして、ティザルは着席し、隣にウェンディを伴った。
フィクスの用意した二階席には、出席者の格に応じて主席から末席まで厳然たる序列で分けられていた。その主席の位置に座るティザル。
「ヘルシオ家の奥方様、ご健勝で何よりです」
如才なく挨拶をするフィクスに、ウェンディも微笑を返す。
「フィクス殿もこの度は、ご災難でございました」
妖艶に微笑むウェンディの言葉に、咄嗟にフィクスはティザルとバトゥを盗み見た。だが、予想したバトゥやティザルの怒りは起こらずそっぽを向くバトゥ。ティザルにいたっては、笑みすら浮かべて眺めている。
言葉以上の意味はないのかと、密かに胸を撫で下ろしつつ、遅れてやってきたティザルとウェンディにギーレの演奏楽団のことなどを講釈する。
やがてデュマが終わり、会場で踊っていた婦人達が一列になって二階席のティザルに次々と挨拶をする。二階席からみおろすティザルは、ぶどう酒のグラスを片手に、その挨拶に答えていた。まるでそれは王が家臣を謁見するようだった。
挨拶をする貴族たちの背後では、既に会食のための準備が着々と進んでいる。すべて滞りなく進んでいることにフィクスが安堵のため息を漏らした。
「カル・スカルディア様おなりにございます!」
ほっと息を吐いたフィクスの心臓を鷲掴みにする声が響いたのは、その直後だった。
ちょうどデュマが終わり、舞踏会場は会食の場へと変わっていた時だった。豪奢な金髪をなびかせ、これでもかと贅を尽くした衣装を着、それにまったく見劣りすることのない少年が舞踏会場の扉から入ってきたのは。
一瞬の後に起きるどよめき。
中世的な顔立ちに、白磁の肌。これが戦場を駆ける男かと疑ってしまうような涼やかな目元。だが見るものが見れば、その豪華に設えた服の下に鞭のように強靭な体を見ることができる。湖水色の透き通った視線が色鮮やかに着飾った婦人達の上を通り過ぎるたび、会場のあちこちから羨望のため息がもれていた。
「あれが、カル・スカルディアか」
ひそひそと交わされる囁きは、社交界嫌いのカルを初めて目にする者達の声。ティザルに挨拶をするために並んでいた貴族たちでさえ、そのカルの出で立ちに息を呑み彼に視線を吸い寄せられていた。その中でも一際、カルに魅せられたのは彼と同年代の少女達だった。
今年初めて社交界にデビューする彼女らに、カルの容姿は刺激が強すぎたのかもしれない。何人かの少女はあまりのことに気を失ってしまう有様だった。
舞踏会場全ての耳目を集めたカルは、ゆっくりと周囲を見渡し、やがて二階席のティザルとバトゥ、そしてウェンディに視線をとめた。あるいはこの会場内でカルの雰囲気に呑まれていない者があるとすれば、それはティザルの横に侍るウェンディだけだったのかもしれない。
カツリ。
と硬質な床を踏みしめる音と共に、カルが二階席に向かう。それだけでまるで海が割れる様に、人並みに道ができていく。
「ふふふ……」
どこか美しすぎて現実味のないその姿に、二階席の面々が我を取り戻したのはウェンディの小さな笑い声からだった。
「随分、おめかししたものね」
その言葉に我に返ると同時に、怒気を発するバトゥとティザル。一方で、それらを感じ取り慌てるフィクス。
階段を上り、一階の視線全てを集めながらカルは十貴族の前に立った。
遅くなって申し訳ありませんでした。
後4話ほどで謀略の使徒編を終わらせようと考えています。