謀略の使徒19
夜の空には青白い満月が浮かび、風に流された雲が丸い月に薄く膜をかけていた。
一応の決着を見たスカルディア家との闘争の後、ラストゥーヌの家宰は独り夜風に当たっていた。
見上げる空に、受けた傷が痛む。
「ラストゥーヌの命運も尽きたか……」
今一思いに、スカルディア家を潰してしまわなくて、どうしてこの街の支配がなし得ようか。確かに、今ラストゥーヌとケミリオは実権を握っている。
だが、それとて明日は分からないのだ。
伝え聞く所に寄れば、スカルディアの若い当主は最後まで帰還する兵のために、自身の居場所がばれるのも構わず、紋章旗を掲げていたそうだ。
例え敗れたと言えども、そのような当主が今後脅威にならないわけがない。そして今度彼が立ち上がることがあれば、いかなる者が止められるのか。
未だ十代の少年が、今後勢いを得てどれほど強大になるのか、想像もできない。
「いや、もはや詮無いことか」
せめて、自身の後に続くラストゥーヌの若人達の武運を祈らずには居られない。
「懐かしい戦の匂いに誘われて出てきてみれば、懐かしい顔に出会っちまったな?」
突然の声に、家宰はその声の主を振り返えり、そして驚愕に目を見開いた。
「よぉ、久しぶりだな」
軽く手を上げた相手は、着流し姿に腰には大刀。手には酒の入った瓢箪を持っている。大柄な体躯に、人好きのする笑顔──。
だが家宰の記憶に蘇るのは、千の味方を率いて万の敵に挑む勇者の姿だった。黒塗りの鎧姿、黒き旗を掲げた王の軍勢。常にその先陣を切る古今無双の勇者。
「ベイシュ……」
喉から漏れた声は掠れていた。
見間違うはずも無い、かつてともに戦場を駆け抜け、同じ夢を見た戦友──。
「生きて、いたのか」
「多少、老けちまったがな……ロメリアもヒュラドも生きてるぜ」
そう言ってガシガシと短い黒髪を掻く。
「“閃光”に“魔弾”懐かしい名前だな」
銀色の長い髪を靡かせて細剣を振るう閃光のロメリア。どんな敵でも射抜いて見せた魔弾のヒュラド。背を預け、戦った友の名に家宰の頬が綻ぶ。
兇王と呼ばれたかつての王に仕えた黒旗軍、その最精鋭で固められた近衛軍『王の剣』忘れたくとも忘れえぬ懐かしき若き時代だった。
技を競い合い、酒を飲み交わし、同じ人を主と仰いだ。
ラストゥーヌの家宰となってからは、無意識に封じ込めていた泣きたくなる様な郷愁の思いに、ふと家宰は月を仰ぎ見る。
風に雲を洗い流した月が煌々と、懐かしき日々を照らしているようだった。
「15年か……」
主と仰いだヴェルが、その遠征途上で死して後、黒旗軍は解体された。
「老いたのは私も変わらぬ……王を殺した謀反人の一族を、討ち損じてしまった。昔なら考えられない失態だな」
「ヘェルキオスの息子か」
言いようの無い沈黙に、家宰が話題を変える。
「それで、今までどうしていた? お前ほどの腕ならここでなくとも、引き手あまただろうに?」
「……待ってんのさ」
未だ燃え尽きぬ男が口にしたのは、過去ではなく今──そして未来だった。不敵に口の端を歪ませて、ベイシュは笑った。その笑みは、過去からの亡霊が笑ったような気がして、家宰は背筋に冷たいものが走る。
「何を?」
だが、問わないわけにはいかなかった。
道の途中でくじけてしまった自分とは違って、目の前の男にはまだ燃え尽きない炎を見たからだ。
「再び俺達の黒旗を掲げる日が訪れるのをな」
その言葉に、家宰の背を雷が走り抜ける。
「まさか、ヴェル様は生きているのか!?」
その問いに、ベイシュは首を振る。
「いいや、だが俺達が主と仰ぐ御方はまだ残っている」
苦い者を噛み潰すような表情で、ベイシュは家宰を見た。
「……姫様が? だが彼女らは王妃様と共に行方知れずに……それにどうやってそれを証明する?」
「証明? 必要ねえさ、お前もあの姿を一度でも見れば思い知る。俺達の仰ぐ旗は、まだ変わらずにあるってことをな」
ベイシュが酒の入った瓢箪を捨て去り、家宰に手を差し出す。
「一緒に来い。黒旗を立てて俺達の夢見た国を取り戻す! もう一度、夢を見ようじゃねえか、『王の剣』勇士ラクシュ──」
「もう、その名は私の名ではない! 私はラストゥーヌの家宰だ!」
遠くに離れてしまった過去を振り払うかのように、家宰は語気を強めた。
ベイシュの姿は家宰にとって亡霊でしかない。懐かしく胸を締め付けるその思いと共に、葬り去られるべき過去だ。
「王は死に、『王の剣』は解体した。俺達は負けたんだ!」
家宰の仮面の奥から、僅かに覗く勇士の素顔。
「いいや、負けてねえ! 俺達の黒旗軍は……俺はまだ生きているっ!」
鬼気迫るベイシュの表情に、家宰は力なく首を振った。
自嘲に口元を歪ませ、家宰は泣き出しそうな双眸でベイシュを見た。
「もう一度言う。一緒に来い! “勇士”ラクシュ・ラスティア!」
「……許せ、“戦鬼”ベイシュ・ライラック。老いさらばえた今の私には守るべき者がある」
封印し過去に打ち捨てた栄光の名。僅かに胸の鼓動が早まるその名に、家宰は深く、深く項垂れた。
“ラスティア”の名も勇士の誉れも、過ぎ去ってしまった過去に過ぎない。
ベイシュが差し出した手を、家宰が握ることはついに無かった。
スカルディアと十貴族派の戦いに一応の決着を見てから、3日。
スカルディア私兵は事実上解散させられたと言っていい。重傷者を除く私兵は、領地に帰され、僅かにカル自身の従える兵は二十人にも満たない。
そのような中、十名ほどの護衛の騎士と私兵を従えたカルは、臨時の行政府となっているミザーク邸へ向っていた。品よく仕立てられた馬車に揺られ、深く目を瞑っている。傍らに控えるヘリオンも同じような姿勢だったが、ヘリオンは忙しなく書類に目を通している。
「シュセ殿からの書状が来ていた」
最も信頼する騎士の名前に、カルは瞑っていた目を見開く。
「やはり、ポーレに動きがあるらしい」
「エルシドは止められそうか?」
ほんの少しその口調に滲む心配。
「やるだろう、あの男は」
それをヘリオンは一蹴した。
「よくも、そこまで他人を信頼できるものだ」
美しく整った口元を歪ませて笑うカル。
「それはお前があの男を知らぬからだ」
ヘリオンは皮肉を受け流し、剃刀色の瞳で次の書類に目を通す。
「……いつまで拗ねている? 女が拗ねるのは可愛げがあるが、男が拗ねても無様なだけだぞ」
書類から目を放さずに、ヘリオンは問いかける。
「拗ねてなどいない。不愉快なだけだ」
怒りを滲ませる口調に、小さくヘリオンはため息をついた。
「だが、奴らに頭を下げねば……」
「分かっている。人が死ぬのだろう? 守るべき民を死なせるなど、家名の名折れだ」
言って尚、眉間に皺を刻むカル。
「分かっていると思うが──」
ヘリオンが言いかけたとき、馬車が目的の場所にまで着いた。慌しく御者が駆け寄り、扉を開ける。
「分かっている。こんな下らぬ舞踏会でも、出ねばならぬのだろう?」
煌びやかな衣装を翻し、カルは馬車を勢いよく飛び降りた。