謀略の使徒7
新しいシャツに袖を通し、暖かな毛布を被る。湯気をたてる紅茶を一口飲めば、固まっていた心までが溶け出すようだった。
「少しは落ち着かれましたか?」
落ち着いた雰囲気に優しい言葉。
「あ、……ハイ」
溶け出しそうだった心が音を立てて硬さを取り戻したようだった。アンネリーは目の前に座る少女から掛けられたそれに、硬い返事しか返せない。
「そんなに緊張しなくても」
そう言われても、と思ってしまう。泥だらけの格好を見かねたシュセが用立ててくれた着替えもさることながら、アンネリーは初めて足を踏み入れる上級貴族の屋敷と言うものに萎縮していた。
柔らかな絨毯の敷き詰められた部屋や、飛び上がって手を伸ばしても届きそうに無い天井。扉の一枚に到るまで施された精巧なる装飾。そのどれもが、アンネリーが場違いな場所にいると言うことを無言のうちに責めているようだった。
「最初はあんなに威勢が良かったのに」
くすり、と上品に笑われると返す言葉も無い。
「あ、えっと……あれは」
慌てる彼女を、くすくすと笑いながら見守るシュセ。
コンコン、と硬質なノックの音が響いたのはそんな時だった。
「少し待っていてくださいね」
シュセが立ち上がるのを見届けて、再びアンネリーは湯気を上げる紅茶に視線を落とした。
襲撃者の始末をつけた後、シュセは衛士を呼んで彼らの遺体を引き取らせた。そしてアンネリーを伴ってこの屋敷に帰還したのだ。
どこの大貴族だろう。アンネリーが知る限り、ノイスターという家名は知らなかった。客分と言う扱いなのだろうか。シュセに助けられてからと言うもの、よく働かない頭で道順すら定かではないのだ。
アンネリーが考え込んでいる中、シュセの声がする。
「アンネリーさん」
先ほどアンネリーをからかっていたときよりは幾分沈んだ声。良くないことなのだと、アンネリーは顔を上げる。
「悪い知らせです。あなたのご実家の方を捜索させていたのですが……ご家族の方の行方が分かりません」
ぐっとかみ締める奥歯の間から、心に渦巻く感情があふれてしまいそうで、アンネリーは強く目を瞑った。
「詳しいことは、明るくなってからになると思います……辛いでしょうけど、少しだけ我慢してください」
真っ直ぐにアンネリーの瞳を見つめるシュセの琥珀の瞳が、彼女を気遣う色を灯している。気丈に振舞わなければならない、とアンネリーは自身に言い聞かせた。
それでも脳裏を駆けるのは最悪の結末。
血に塗れた父と、母の姿。もしかしたら永遠に会えないかもしれない最も身近な二人に、迷惑ばかりをかけた後悔の念。
すっと、頬に触れる暖かな手触りにアンネリーは顔を上げた。
目の前にいるのは、シュセ。全てを許す優しい声音に、アンネリーの強がりは崩れ去る。
「泣きたければ、泣いても良いのですよ」
アンネリーの頬を一筋の涙が伝った。
深夜、割り当てられた官舎に密かに届けられた便箋。その内容に、ヘリオンは眉間に深い皺を刻んだ。感情のままぐしゃり、と便箋を握りつぶし、感情を押し潰すかのように奥歯をかみ締めて再度内容を確認する。
「兄上……義姉上……」
呟かれる声は掠れていた。
部屋にあるのは、僅かばかりの私物。幼い頃に習っていた刀剣に、興味のままに集めた書物。ベッドに机。それだけしかない。燭台の蝋燭の火が、じじっ、と音を立てる。
年は離れていたが、仲の良い兄弟だった。勉学に才は無くとも温和な性格の兄は、出来るが故に周囲と衝突しがちな弟を良く庇った。
弟もそんな兄を尊敬し、二人は仲の良い兄弟であったのだ。例え、弟が牢に囚われようと、毎月必要なものを届けてくれる兄をヘリオンは心の底から信頼し、尊敬していた。
兄が捕らわれた。
便箋には、明日の夜に一人で中央広場に来いと指名してあった。
ちらり、と立てかけてある刀剣に視線を移し、手に取る。鞘から引き抜けば、その重みがずしりと手に掛かる。人の命を奪い去る重みだ。手入れの行き届いた刀剣は、錆などは見当たらず、振り下ろせば確実に敵の骨まで切り裂いてくれるだろう。
静かに瞑目すると、ヘリオンは刀剣を鞘に戻した。
「兄上」
激情を胸の奥に仕舞いこみ、ヘリオンは蝋燭の火を吹き消した。
「なにが、お気に召さないのですかオウカ翁」
十貴族の会合。毎夜場所を変えて行われている会合で、ティザルはオウカに食って掛る。
「なにが、と言われてものぅ……ティザルや。そなた自分のしていることが分かっておるのか?」
孫に言い聞かすような丁寧な口調。だがそれが逆にティザルの癇に障る。
「無法者どもを使いレイング家を襲撃。当主ならびにその妻を誘拐監禁しただけです」
それがなにか、と問いかけるティザルに、オウカは深くため息をついた。
「わしは確かにヘリオンの弱みを握れ、とは言うたが直接家族を人質にとれなどとは一言も言っておらぬぞ」
「同じことでしょう。ヘリオンめに、あの生意気なスカルディアの小僧を殺させれば万事上手くいく」
その余りにも堂々とした態度に、幾人かが頷く。頷いた何人かは、やはり若い貴族達だった。悟られないよう鋭くそれらを確認するとオウカは皺くちゃな顔に笑みを浮かべる。
「それも、ヘルシオの後妻に吹き込まれたのか?」
「なっ……なにを仰るっ!?」
顔を朱に染め、激情を露にするティザルにオウカは笑みを絶やさず問いかける。
「お前が足しげくヘルシオ家のウェンディの元へ通っているなど、先刻お見通しじゃ。若さゆえの過ちと目を瞑ってきたが……ティザル」
ティザルの朱に染まった顔が蒼白に変わる。
「わしとしても、前途有望なお前をこんな所で失いたくは無い。以後、この件より離れよ」
事実を確認するような断定的な声に、ティザルは声を荒げた。
「オウカ翁!」
「フィクス、以後ヘルシオの妖婦はそなたに任せる」
ティザルの絶叫も虚しく、声を掛けられたのは年配の貴族。オウカの側に忠犬よろしく侍る男が慇懃に頭を下げた。
「さて、スカルディアに対する策だが……」
消沈して席に座り込むティザルを横目に、オウカは口を開く。
「攫ってしまったものは仕方あるまい。バトゥ」
「はっ」
柔らかなオウカの声にもかかわらず、バトゥは一瞬怒鳴りつけられたかのような錯覚を覚えた。彼とてヘルシオの家で快楽に耽っていた事には変わりないのだ。
「ヘリオンという男の口からはスカルディアの情報だけを得るように……良いかな、追い詰めてはならぬぞ。レイング家の者は無事なのだな?」
椅子に沈み込んだティザルは答えない。その様子を一瞥して、バトゥが慌てて答える。
「はい、雇った者どもに金を握らせ郊外に監禁させております」
「よろしい……では、時期を見計らってその場所衛士の耳に入れよう」
「ヘリオンに情報を喋らせた後で、家族を帰してやれば口も軽くなろう」
「では、雇った者達は……」
「喋られては面倒であろう? 何かと、のう」
愉快そうに笑うオウカに若い貴族達は凍りついた。ただ一人、俯いて狂った熱情を耐えているティザルを除いては。