賊都25
ヘルベルにはその道が永遠のように長く感じられた。
荒れた道は、走ることを妨げるように石ころを撒き散らし、ガドリアの夕闇に吹き抜ける強風は、ヘルベルをあの魔女の元へと押し戻すかのように吹き付ける。
怖かった、恐ろしかった。今まで出会った中であれほど恐ろしいと思う存在など居なかった。
息が乱れるのもかまわず、ひたすら走る。怖いという感情が心臓を煽り立て足を勝手に運ぶ。
街が見えてくる。そこでやっとヘルベルは後ろを振り返る余裕が出来た。
「……追って、来ない」
吹き出す汗を拭い、重なる大岩を見る。そう思った途端、急に疲れが足にくる。重くなった体そのままにヘルベルは炉端に腰を下ろした。
「助かった、のか?」
そう思った途端乾いた笑いがこみ上げてきた。なにも考えず、ひたすら笑う。気が狂ってしまったかのように笑い続け、なぜ笑っているのか彼自身にも分からなくなってからようやく収まった。
ガドリアに再び視線を向けた、ヘルベルの視界に入ったのは領主軍の旗を掲げる予備軍。そして包帯を巻いたバーンの馬上姿。声もなく見守っていたヘルベルに彼らが合流する。
「閣下、ヘルベル様ご無事でしたか!?」
バーンは馬上からひらりと飛び降り、ヘルベルの前にひざを突く。
「あぁ」
いつもなら怒鳴り散らしていたはずのヘルベルの変化に、バーンは僅かに首を傾げた。
「残りの兵は……」
黙って首を振るヘルベルに予備軍の合間から、どよめきが上がる。無念そうに唇を噛みしめるもの、天を仰ぐものたちをバーンは鎮めヘルベルに向き直る。
「閣下、かくなる上は致し方ありません。和睦を進言致します。ですが今は何より、城へ引き揚げましょう」
「任せる」
足腰の立たなくなっているヘルベルを馬上に上げると、バーンは一路城へ進路を取った。
「ちっ……なんで俺が」
「それはあたしも聞きだいもんだね」
「私は特に、何も」
シロキア、ジル、クルドバーツがそれぞれ発言し全員がサギリを見る。
「何でって言われてもねぇ」
苦笑を張り付かせ、三人を見渡した。
「敢えて言えば、必要だから?」
「何のために?」
すかさずジルが鋭い視線を向ける。返答次第では即座に席を立ちそうなジルに向けてサギリは肩をすくめた。
今、サギリを始めとする三人はガドリアの高級宿秋春亭に雁首をそろえていた。
「アタシの可愛い手下を救い出すため、と言ったら納得してくれるかい?」
「ルカンドか」
苦々しい声を出したのはシロキア。
「おや、不服そうですね大旦那」
茶々を入れるジルに鋭い視線を向ける。それを軽く受け流しながらジルは微笑を浮かべる。
「そういうことなら、あたしに異存はないよ」
見込みがありそうだしね、と笑って煙管に火を灯す。高く揺らめく紫煙を怨敵であるかのようにシロキアは睨んだ。
「シロキアとクルドバーツには他にも話があるンだがね」
「愉快そうな話ではなさそうですね」
神妙な顔で頷くクルドバーツ。
「かもしれないねぇ」
曖昧に頷くサギリは、椅子から立ち上がりシロキアとクルドバーツを見下ろした。
「アンタらアタシの手下にならないかい?」
その場に降りる沈黙は、始め言葉の意味を捉えきれない疑問。そして三人が言葉の意味を理解した後には、困惑が原因だった。
「……シロキア一家まるごとてめえの手下になれってか?」
不穏な気配にクルドバーツは一歩身を引く。だが逆にサギリは身を乗り出した。
「当たり前だろ」
「この俺が十五年来ガドリアを仕切っていたことも知った上での提案なんだな!?」
刃物じみた鋭い視線は直ぐにでもサギリを切り刻んでしまいそうだった。
「あぁそうだよ!」
だが、サギリは腕を組んで逆にシロキアを睨み付ける。
「ふっ──」
シロキアの引きつった頬から、誰もが怒号に備え身構える。
「はっはっはははは!」
だが、聞こえてきたのは聞いたことも無いような無邪気な笑い声。
「この俺を手下にか、正面切って言われたのは初めてだぜ」
至極機嫌の良さそうなシロキアに、ジルとクルドバーツは呆気に取られていた。笑ってみせるという類の笑顔ではない。心の底から愉快そうに笑うシロキア。
そのシロキアが笑いを収めてサギリを見る。
「で、俺を手下にして何をしようってんだ?」
機嫌の良さは疑うべくも無い。だが、シロキアの一言で空気が変わる。
もし気に食わない理由なら今すぐにでも噛み付いてきそうな、凄みのある笑みがシロキアの顔に浮かんでいた。
だがその空気の中、いつもと変わらぬ余裕を見せてサギリが笑う。
「この国をいただく」
「この……」
「国だと?」
三者三様に驚く彼らの視線をサギリは受け止めた。
「不満か? シロキア」
口の端を歪め、禍々しく笑うサギリ。だが彼女が纏うのは、紛うことなく圧倒的な威厳だった。歳などは関係ない。ただその器が他人を惹きつける。
「クックック……まさか国とはな」
笑いをかみ殺し、シロキアが椅子から立ち上がり痛む足を折り曲げて床に膝を着く。
「俺ぁ今まで生きてきて、他人に頭なんざ下げたことがねえ……だが、お前になら下げてもいい気がしてきたぜ」
ジルとクルドバーツが唖然と見守る中、シロキアはサギリを見上げる。
「ガドリアが博徒シロキア……謹んでサギリ様をカシラと仰ぎ、その手下にならせていただきやす!」
威儀を正し、まっすぐに見上げる視線をサギリは悠然と受けた。
「よろしく頼むよ」
「へい」
シロキアの返事を聞くと、サギリはクルドバーツに視線を向ける。
「んで、アンタはどうすんだい?」
拒まれることなど考えもしない傲慢な、しかしそれゆえに美しい笑み。
「私に拒否権などないでしょう。先の件で私の財産はほとんどが貴女の手元だ」
黒曜石のように輝くその視線を受けて、クルドバーツは渋い顔になる。
「ま、そう言うと思ってたよ、それじゃよろしく頼むよクルドバーツ」
「とりあえずは、道の確保からですかね……」
ため息と共に頷いて、クルドバーツは黙る。
「ついでにジルもなっておくかい? アタシの手下」
「止めておくよ、うちはあんたの所が立ち行かなくなった時に乗っ取る計画なんだ」
にやりと、笑みを浮かべてジルはとんでもないことを口にする。
「そりゃ怖い、しっかり釘を刺しておかないとねぇ」
不穏な言葉の応酬に止めを刺して、サギリは本題を切り出す。
「でだ、とりあえずアタシはここの領主の地位がほしい……分かるだろ?」
四人で囲むテーブルに片手を叩きつけて、サギリは四人を順番に見渡した。
「ルカンドを救い出す……大儀名分としちゃ十分だな」
シロキアが立ち上がり。
「やれやれ、金の工面が大変ですな」
クルドバーツが立つ。
「艶花も噛ませてもらうとするよ、勝ち馬には乗らなきゃね」
最後にジルが立ち上がった。
「仕掛けるのは明朝日の出だ。しっかり頼むよ」
その声を合図に、集会は解散した。
石畳を叩く靴の音。石壁に反響し、暗闇に吸い込まれていくようなその音をルカンドは聞くともなく聞いていた。手には鎖が巻きつけられ身動きが取れないようになっている。
「く……」
体を動かそうとして口から苦悶の声が漏れる。全身を痛めつけられてはいたが、特に酷いのは右足だった。殺されない程度に生かしておくのが、領主の意思だったのだろう。ナイフを突き立てられ、抉られた右足は彼専属の医師によって最低限の応急措置がしてあった。
自分の意思ではもはや動かせない右足を引きずるようにして体を起こす。
鉄格子越しに見えるのは、領主ヘルベル。その背後に控えるのは近衛の騎士だろうか、がっちりとした体格の男が一人彼に付き添う。
「……四役を廃するのは失敗したみたいだね」
ヘルベルの顔色がいつにも増して悪いことを察しルカンドはかまを掛けてみた。
「貴様の、知ったことではない!」
そう言ったきり領主はルカンドの前から消える。石畳を荒々しく叩く音が徐々に遠ざかるのを聞きながら、ルカンドは痛みの為に息をついた。
「邪魔をする」
がちゃりと、錠前が開く音がしたかと思うとルカンドの前に立つのはヘルベルと一緒にいた近衛の騎士だった。
「私の名前はバーンと言う」
痛みと疲労で全身に回る熱を押さえ込み、視線を上げる。
「何の御用ですか?」
「単刀直入に言おう。ヘルベル様を助けてやってくれ」
「この体を見て、あなたは尚ぼくにその役目を負えと仰るのですか」
消え入りそうなほどに声はか細い。だが今にも消えそうなその声に篭るのは、鉄をも焼き尽くす怒りの炎。痩せこけた体、力の入らない手足。そして、自分を苦しめるためだけに殺された少女達。目蓋に焼きついたその死に顔が、ルカンドを地獄の業火に突き落とす。
「君の怒りは分かる……だが、それでもこのガドリアに領主は必要なのだ」
「お断りします」
バーンの眉間に皺がよる。だがソレを無視してルカンドは話を打ち切った。
「仕方ない、今日はお暇しよう。だが分かってくれ、これ以上血を流さぬためには双頭の蛇が矛を収めてくれる以外にないのだ」
バーンの語る言葉が領主側の勝手な言い分だと言うことはルカンドにも分かっていた。だが、人の血が流れるということは紛れもない事実だ。
敵であれ、味方であれ理不尽に唐突に振り撒かれる死。もしそれが自分の大切な人に降りかかるかもしれないと考えれば、自然と今の双頭の蛇の在り方に疑問を持ってしまう。
殺しすぎるのだ。誰も彼も簡単に。
鉄格子の前で錠前の落ちる音が聞こえた。
明かりが消えた牢の中、ルカンドはまどろみの中にいた。
夢に見るのは、サギリと出会いジンに救われた日のこと。
初めて人を手に掛け、盗賊へと堕ちた日のことだった。それが正しかったのか今でもルカンドは悩んでいた。あの日から数え切れないくらいの人の死を見て来た。
荒地を渡る商人、同じ盗賊、そして奴隷の子供。
なぜ彼らは死ななければならなかったのか、何が悪かったのか。
いったい誰が──。
「うぅ……」
口から漏れたのは苦悶の声。目を開けるのも億劫で、ルカンドは目を閉じていた。静寂と暗闇の支配する牢屋では目を開けても見るべきものなど無い。いつもそうするように目を閉じていさえ居れば、再び安楽な眠りに誘われるかもしれないと思ったからだ。
だが、その日は違った。
いつもは聞こえないはずの城のざわめきが地下の牢屋にまで聞こえてくる。
(何があったのだろうか……?)
疑問に思いつつも、ルカンドは耳を澄ますだけに留めた。拘束されている上に、怪我まで負っていてはできることなど高が知れている。
(人の争う声……?)
次第にそのざわめきは、地下牢に近づきつつあった。
「ぎゃぁ!」
悲鳴と共に、地上へと続く階段から人が落ちてくる音を聞く。
その後を追って、地下牢へ降りてくる気配があった。
「──っ!」
その気配が牢の手前で息を呑む。
牢屋の腐敗臭の中でも、嗅ぎ分けられる懐かしい香り。
がちゃりと、鍵の外れる音がした。ゆっくりと近づいてくるその気配は、ほんの十日しか離れていなかったのに泣きたいほどに懐かしかった。
ふわりと、ルカンドを包み込む暖かな手触りにルカンドは目を開けた。
「サイシャ……」
「ルカ……」
サイシャの翡翠の瞳が潤み、目じりには光るものがあった。
「みんな、待ってる」
「ごめん……迷惑掛けちゃって」
ルカンドの首筋に顔を埋め、サイシャはルカンドに抱きついた。
その日、ガドリアの領主ヘルベルは荒地へ追放され、新たな領主の座には炎の運び手のモルトが就くことになった。