双頭の蛇
サギリがジンに出会って一年が経った。サギリは17歳に、ジンは13歳になっていた。
サギリとジンが暮らす荒地には、短い雨季と長い乾季が代わる代わるにやって来る。
そこが荒地と呼ばれるのは人にとって有用な植物が自生せず、雨を溜め込まない土壌に由来した。荒地を支配するのは砂礫と岩石、それに年中吹き荒れる強風だった。
頬を掠める白銀の光、吹き抜ける風に短剣が通り抜けたのだとわかる。反撃をしようと、右手に持った短剣を突き出そうとした瞬間、体の真ん中に鈍い衝撃が走る。同時にジンは、笑うサギリの顔から強制的に顔を背けさせられ、後方に吹き飛ばされた。
「どうした? アタシを殺すんだろう?」
「くそっ!」
何度か地面を転がって、一気に飛び起きる。姿勢を低くして再び突進。転がった拍子に左手に掴んだ砂を投げつける。
「くそがき!」
砂で目が潰れたのを確認して、勢いを殺さず走る。
「うるせえ!」
言葉とともにサギリの喉目掛けて短剣を突き出す。サギリの白い肌に鉄の牙が食い込むのを幻視した瞬間、切り裂かれていたのは突き出したジンの腕のほうだった。前腕から肩近くまで薄くだが、一気に切り裂かれた。
「っ……」
悲鳴を押し殺し、無理やり腕を動かそうとし、
「はい、おしまい」
傷口ごと、押さえつけられた。
「まだ、やれる!」
片手で目をこすりながら、もう片方はがっちりとジンの腕を固定しているサギリに吠え掛かる。
「アンタねぇ、アタシがどんだけ手加減してるかわかってる? 殺さないように斬るのって案外難しいんだよ?」
「ふざけんな! それはそっちの勝手だろうが」
ため息をつくサギリに、邪悪な笑みが浮かぶ。と同時に、腕から響く強烈な痛み。
「あああぁぁ!」
堪らずあげた悲鳴に、傷口を握り締めるサギリの目には残虐な色が宿っていた。
「お、し、ま、い。わかった?」
無言で頷いたジンに笑顔の質が変わる。
「じゃ、手当てするからこっちおいで」
腰に吊るした革製の鞘に短剣を押し込むと、その後に続く。
「見せてみな」
「一人でできる」
「み、せ、ろ」
躊躇ったあと、ジンは腕を差し出した。
「……少し浅かったか」
物騒な独り言を呟きながら、手際よく傷口を縫いつける。じっと痛みに耐えていると、そのうち化膿止めの薬草と一緒に清潔な布を幾重にも巻きつけられる。傷むのを避けるため、それらはまとめて小さな壷に入れて封をしてある。
「ま、しばらくは動かすんじゃないよ。大体10日位経てば治るから」
「もっと早く治してくれよ」
「アンタの体に言いな」
テキパキと壷を片付けると、サギリは寝台代わりの、藁の上に布を敷いた寝床へ向かう。
「アタシはしばらく寝るから、食事の用意忘れるんじゃないよ」
「俺怪我してんだけど?」
「負け犬がぐだぐだ言うな、行け」
舌打ちを残して、ジンは水を汲みに近くの泉まで足を伸ばした。
簡単な食事を取り終えた後、一人何が悪かったのかを考えながら、小屋の外で短剣を振るう。前に一度見たサギリの短剣捌きは思わず見惚れるほど自由だった。両手に一本ずつそれが上下左右、どこからでも相手を襲う。その様を想像して腕を動かす。
「っつう……」
右腕に走る痛みに、想像は姿を消してしまった。暗闇の中、理想の姿を探して片手で短剣を振るう。目を瞑って必死に思い描く姿はいつしか、サギリのその張り詰めたような横顔だけに吸い寄せられていた。
「そんなに、力任せじゃ振りが遅くなるだけだよ」
背後から聞こえたその声に、一瞬にして全てが霧散する。
「……なんだよ、飯は終わったんだから、俺の自由だろ放っておいてくれ」
考えていた事が顔に出そうで、ジンは振り向かなかった。
「別に、どうぞ続けたら?」
「お前が居ると集中できねえんだよ」
「あぁなるほど、そりゃアタシに勝てないわけだ」
「うるせえ」
背後に立った気配がジンの背にそっと寄り添って左手に手を添える。
「……っおい!」
「逃げるな」
逃げ出したいのを必死で堪える。否が応でもジンの背中がサギリの体の線を感じ取ってしまう。
ジンは自分の考えに思わず赤面する。
「握りは、そんな硬くする必要はない、もっと柔らかく」
添えられた手が、震えそうになるジンの手を柔らかく押し開く。
「丸い石を軽く握るみたいに、意識するのは小指から薬指……手首は自由を持たせて」
言葉とともに柔らかな指が触れられていく。
「そう、力抜けてきたじゃない。そのまま振りぬくのは腕全体を使うように一気に振り貫く……やってみな」
スッと離れていくサギリに、心からの安堵を感じジンは言われた通りに短剣を右から左へ振りぬいた。
「まだ、固いねぇ。ま、後は勝手にやってよ」
そういうなり、サギリの足音は小屋のほうへ向かって遠ざかっていった。満足するまで短剣を振るった後、ジンは寝床についた。
藁の寝床に、獣のように丸くなってサギリの隣に寝転ぶ。怪我をした腕を上に向けて寝転がると、サギリの寝顔が近くなってしまう。遠ざかろうとすれば、藁の寝床から滑り落ちる。早くなる鼓動を無視するように、固く目を瞑った。
△▼△
一年のうちの何度目かの短い雨季が、荒地を僅かばかり潤していた時期、アタシはジンと狩りに出かけていた。
雨除けのフード付きの黒いローブを頭から被り、必要最低限の荷物をジンに背負わせる。雨を吸ったローブが足取りを重くする。腰にはいつものように、双剣が収まっている。
「この辺だな……ジンここで待ち伏せる。雨除けしっかりしとけよ」
小高い丘の上にある岩の隙間に入り込む。その隙間から出て周囲を見渡せば、雨に霞む街道が視界に収まる。
「なぁサギリ」
布を張り終えたジンは、荷物から干し肉を取り出してかじりつく。
「あん?」
体が冷えないように、ジンと体を寄せ合う。
「あの道はどこからどこにに行くんだ?」
ジンのかじっていた干し肉を奪い取りながら、ぼんやりと街道を見る。
「向こう側は王都ロクサーヌ。こっちは東都ガドリアだな」
指を指して説明してやるが眉をひそめて、道を見るジン。
「ロクサーヌってのは、この国の中心。王様がいる場所だよ。ガドリアってのは荒地の盗賊の親玉がいる場所だ」
いい加減な説明だが、ジンは納得したようだった。
「盗賊の親玉ってことは、サギリよりも強いのか?」
視線をアタシに合わせて、真剣に問いかける。
「さぁ? 会ったこと無いからね」
そうか、と言ってジンは視線をアタシから道に戻した。
「アタシは少し寝るから、見張り頼むよ」
ローブをジンに掛けてやりアタシ自身は、ジンの懐に入り込む。
「っおい!」
戸惑いを隠せていないジンを無視して、ジンの胸板にアタシの背中を預ける。
「何かあれば、起こしな。んじゃお休み」
目を閉じれば、睡魔はすぐにやって来た。
▼△▼▽
視界を曇らす豪雨の中、迫り来る白刃を寸での所で避け、相手の懐に潜り込んで双剣を一閃する。敵の血の噴き出した傷口を殴りつけ、投擲用の小剣を指呼に挟む。
「ジン! 頭下げな!」
ジンが動く寸前、アタシの手から小剣は飛び立った。ジンの髪を掠めながら飛翔した小剣は、狙い通り敵に牙を剥く。
ジンが残りの護衛を引き付けている間に、アタシは本命を狙いに幌馬車へ向かった。
「や、やめろ! 来るっ──」
無様に叫ぶソイツの喉笛を掻き斬り、御者台から蹴り落とす。
雨の飛沫が返り血を洗い流し、流れた血を大地に運ぶ。横目で確認すれば、ジンもなんとか相手をしていた護衛を倒した所だった。
「ったく、手間かけさせやがって」
毒づきながら,幌馬車を街道から外す。人通りがあるとは思えないが、念のためだ。
「ジン荷物確かめて、使えそうなもんは持って来な」
不満そうなジンが、視界に入ったので説得してみる。
「さっき助けてやったろ?」
「どさくさに紛れて、俺を狙ったんじゃないのか」
ひどいことを言う。まぁ当たっても良いかなぁ、とは思ったけど。それでもジンは不承不承、アタシの命令に従う。
護衛どもの呻き声が聞こえる中、馬が暴れないように、御者台で手綱を握りながら勢いの衰えた雨音に耳を澄ませる。
雨粒が大地を濡らす。何千何万と降ってくる雨粒を大地は抱えきれなくなり、大地の上に薄い膜を張るように、水溜まりが出来ていた。その上から更に降る雨粒は、水溜まりを押し流して流れを作る。高いところ低いところへ、強い所から弱い所へ。
「ひぃ」
アタシの思考は、後ろから聞こえてきた声に遮られた。
「サギリ」
声をかけてきたジンの足元には、肥え太った男が転がっていた。
「これがカシラらしい」
ジンが無造作に蹴ると、悲鳴が上がる。
「そんなの捕まえてどうすんだよ。積み荷は何だった?」
ジンは痛みを堪えるように、幌馬車の方へ声を掛けた。アタシは御者台から降りて、ジンの傍らに立つ。
幌馬車から恐る恐る降りて来たのは、薄汚いガキが三匹。
「奴隷か」
使えそうにねーな。
「お前奴隷商人か」
自分の声から温度が失われて行くのが分かる。
「ジン」
痛ましそうに、奴隷のガキどもを見つめるジンを呼ぶ。
「殺せ。奴隷もな」
やだやだ、苦労して獲たのは幌馬車だけとは。まぁどこかで売りさばけば……
「サギリ!」
「あん?」
アタシを睨むジンの姿に驚いてしまった。もしかして怒ってる? 何で?
「俺は子供は殺せない」
「じゃあ、アタシがやるよ。どきな」
「サギリ!」
「なんだよ!」
段々とアタシの機嫌も悪くなる。元々、獲物が少なくって落ち込んでたのだ。
「こいつらを逃がしてやってくれ」
「はぁ?」
奴隷のガキどもを庇うようにして、前にでる。
この何の取り柄も無さそうなガキどもを助けろ? 一人一人の瞳を覗き込もうとするが、逃げるように目を逸らす。まるで、そうしていればジンが助けてくれるとでも言うように。
段々と怒りが沸いてくる。抗うこともせず、何もせず、考えもせず、誰かに縋り付き助けを求める。その脆弱さが許せない。何よりも許せないのはそのせいでジンがアタシに逆らっている事実。
「どけ、ジン」
腰に差した双剣を抜き放つ。アタシのジンを惑わす奴は殺しておくに限る。
ジンは動かない。首を振って止めようとする。
一歩踏み出す。
それでもジンは動かない。動けよ、アタシの邪魔をするな。
「ジン、アタシがお前を殺さないとでも思ってんのか?」
殺すつもりは無かったが、あくまで逆らうならアタシにも考えがある。視線に殺気が篭もって来る。
「俺は嫌なんだ」
ジンが体の中から声を絞り出す。
「サギリがこいつらを殺すのなんて見たくない」
ぶちりと、アタシの中で何かが切れた。
「甘えてんじゃねえ!」
ジンの胸ぐらを掴み睨み付ける。
「ジン! こいつらを逃がしてどうするつもりだ! こいつらがこの荒地で生きていけると思ってんのか、ここで殺してやるのが慈悲ってもんだろうが!」
雨はもう気にならなかった。ジンの髪を水滴が伝って落ちる。
「お前も知ってんだろうが、ここは力がない奴が生きていくには、地獄だ」
怒りで震えたアタシの言葉は雨粒と一緒に落ちていった。
「知ってる」
アタシでない何か遠くを見て俯くジン。
「分かってん――」
「けどよ! 俺はサギリに出会っただろ!」
何言ってんだ。アタシと出会ったからって……それが。
「俺に名前をくれて、生きる理由も、場所もくれただろ!」
アタシの為に生きて、アタシの為に死ね。出会ったその日の言葉だった。律儀に覚えていたのか。
「お前には力があった。けど、こいつらには無い。なんでそれだけのことが理解出来ない!」
熱くなるな。ジンはまだまだ使える。落ち着け。
アタシの言葉を受け入れたのか、俯き荒い息を吐いていた。
アタシはジンの肩に手を乗せる。
「お前が悪いわけじゃない。アタシ達には力の無い奴を抱えて、生きていくだけの余裕なんか無いってだけだ」
誰が悪い訳でもない。敢えて言えば運が悪かった。アタシはその現実を受け入れた。
だからジン、お前も受け入れて生きていくんだ。
ジンの肩に置いた手にジンの手が重なる。
「……こいつらが、力があってサギリの為に役に立てば良いんだな?」
ジンは泣いていたのかも知れない。また激しくなった雨がアタシに判断を許さなかったけど。
「あぁ、そうだよ」
だがそんなことは有り得ない。こいつらは弱く、アタシやジンとは違う。
「わかった」
そう言ってジンは奴隷のガキどもに、小剣を一つずつ渡した。怯えるガキどもにジンは言葉をかける。
「お前ら、名前は?」
一人一人、頭を撫でながらジンは聞いていく。アタシには聞き取れない程小さな声で名前を告げる奴隷のガキども。
「サイシャ、ケイフゥ、ルカンド。お前らに一度だけ機会をやる」
ジンは三人を抱き締めながら命令した。
「あの奴隷商人を殺せ」
その言葉は懇願に似ていた。
「息のある護衛どもを殺せ」
その懇願はアタシと、奴隷のガキども、そしてこれから死ぬ奴隷商人達に向けられていた。
「俺がお前らを守ってやる。だからお前らは生き延びる為に、殺せ」
これは契りだと、アタシは思った。
人ではない、この荒地で生きるアタシを含めた獣達の。
弱い奴は死ぬ。
生き延びたければ、強くなるしかない。
例え人という範疇から洩れ、屍肉を漁ってでも……。
ガキどもは躊躇わなかった。
その日奴隷のガキどもは死んで、餓えた獣が三匹生まれた。
アタシは認めるしかなかった。
アタシは一声で三人もの人間の心を動かす術を知らない。
恐怖に縛られたガキどもに、狂気を選ばせる言葉をアタシは知らない。
それは間違いなくアタシには無い力と呼ぶべきものだ。
強い奴に従え。意志を通したきゃ力を示せ。
それがアタシ達のルールになった。
そしてアタシ達はその日から、盗賊団『双頭の蛇』を名乗ることになる。
人から忌み嫌われた魔女と、狼と、蛇どもの血まみれの組織は産声を上げた。
荒地の気候はステップ気候と砂礫の砂漠の悪いところだけを混ぜたような感じを想像してくださいませ。