賊都16
「くそっ……あたしとしたことがっ!」
雪華の手下を掻き分けて進みながら、ジルは歯噛みした。蛇の動向には注意を払っているつもりだった。
なのに、肝心なときにこのざまだ。
モルトとの戦いに熱くなりすぎ、ハンナの周囲の警戒を怠ってしまったのが拙かった。
長い髪が乱れるのも構わずジルは駆けた。
──もし、女将さんに何かあったら……。
唇をかみ締め、ジルはただ早くハンナの元にたどり着く事だけを考えた。
「よぉ、雪華のジルさんじゃないか」
ハンナの喉元に無骨な短剣を突き付け、サギリは口元を歪めた。
「あんたの女将さんが、危ないって時に随分遅い登場だねぇ」
嘲笑うサギリの背後では、魔女の狼が睨みを効かせ、サギリとジルの間を遮るようにケイフゥが身の丈に合わない長剣を構えていた。
「女将さんを放しな!」
「嫌だね」
ハンナの首筋に短剣の刃を食い込ませながら、サギリは口の端を歪めた。
「お前こそ得物を捨てなまさかコイツを見捨てるってえことは、ないだろう?」
なんとか隙を見つけたいジルと、笑みを見せる余裕のあるサギリ。
その間に割り込んだのは、ハンナの静かな声だった。
「やっちまいな、ジル」
「艶花のハンナも地に落ちたね。てめえの手下の事もわからねえとは……あれはお前を殺す覚悟なんて持てねえさ」
嘲笑うサギリは、ハンナの首筋に押し当てた短剣を僅かに引いた。現れる赤い線と、一筋の血。
「女将さん!」
ジルの悲鳴が響き、サギリの笑みが深く禍々しくなる。
「得物を捨てな! ジル!」
「捨てるんじゃない! 私ごと双頭の蛇を皆殺しにするんだ!」
相反する二つの声にジルは頭を抱えた。頭を占めるのは、ハンナが死ぬかもしれないということのみ。
激しく頭を降り、耳を塞いでその声から逃れようと必死に抵抗する。長く銀の髪が、顔にかかり張り付くのも厭わず振り乱す。
「あたしは……」
涙と共に瞳に浮かぶのは、狂気の光。怪しく光るそれが、サギリを睨み据える。
ゆっくりとジルの手が挙がる。握られているの短剣が、松明の火を反射して、鈍く光る。
「やめねえかっ!」
一喝する野太い声に、ジルが振り下ろそうとしていたその腕は、ビクリと動きを止めた。
「おやおやモルトのジジイじゃないか、とっくにくたばったと思ってたんだが無事で何よりだねえ」
嗤うサギリと、後ろを振り返るジルが見たのは、ルクに支えられたモルトの姿。
「動かすなって言ったろうに!」
舌打ちを一つすると、ジルはサギリを睨み付けた。
「蛇娘、ハンナを放せ!」
病に蝕まれているとは思えないモルトの声に、ハンナの首筋に短剣を当てたまま、もう片方の手でサギリは頭を掻いた。
「ち、しくったなぁ」
誰にも見せないように俯いて、呟かれたサギリの言葉はハンナにだけ聞こえた。
驚いたのはジルだ。
モルトの言葉の意味する所が理解できず、一歩引いてモルトサギリを交互に見返す。
「一つ貸しにしとくよ。爺さん」
あっさりとハンナの首から短剣を引くと、サギリはハンナの背に短剣を押し付けながらハンナとモルトの間に居る雪華の雑兵を睨み付けた。
「どきな!」
発する暴威に似た威圧。それに、自然と道ができる。
「さあて、数年ぶりの再会といこうか」
ハンナの背を押すサギリの声は、当の本人に届いていなかった。ハンナの瞳が捉えるのは、病に蝕まれたモルトの姿。それのみが彼女の全ての思考を奪っていた。
ふらふらとモルトに近寄るハンナと、ルクから離れて一人杖にすがり歩くモルト。
ハンナがジルの横を通り抜ける。
ジルが目に入っていないハンナに、ジルもまたハンナに掛ける言葉を見つけられなかった。
そのジルの目の前に迫るサギリ。歩みを止めよとしないサギリに、咄嗟にジルは短剣を突きつけた。
「動くんじゃないっ!」
小さく囁くような大きさで、だが必殺の気をこめたジルの声。
サギリはにやり、と嗤いその場で動きを止めた。
つい先ほどまで、殺し合いをしていた人の群れはその光景をただ声もなく見守っていた。
雪華の兵たちに囲まれた中央、人だかりの中二人はただ見つめ合っていた。
互いに言葉を捜すように、ただ相手の姿を労るように見つめあう。
「そんなに、なっちまって……」
先に言葉を発したのはハンナだった。涙で掠れるその声に、日頃のハンナの事を知っている雪華の手下達は、信じられぬものでも見るような面持ちだった。
「だいぶ、年を取っちまったからな」
答えるモルトの声には、隠し切れない疲労と苦痛の色がある。だがそれを、押し殺してモルトは笑った。
「ここいらで、手打ちってことにしねえかい。ハンナ」
親しみをこめた優しいモルトの声に、若い娘のようにハンナは俯き答えない。
「おめえさんが金に拘る理由をわしは、知っている」
ハッと顔を上げるハンナの顔に浮かぶのは、後悔の念。
正しいと信じても尚悔いの残る自分の生き方、その苦悩の色だった。
「モルト……」
呟かれた言葉に力はない。
「ジルを見れば、おめえさんの正しさがわかるってもんだ。なあ? 立派に育った娘じゃねえか……だからもう、肩の荷は降ろしちまって良いんじゃねえのかい」
ガドリアに打ち捨てられた子供を引き取り育てる。口で言うのは簡単だ。
だがその為には金が必要だった。何にもまして莫大な金が……。
その金の為に、ハンナは愛する男を裏切り、育てら子供らで色町を仕切り、金を生み出してきた。ハンナ自身それを何度後悔しただろう。
ただ、他に選ぶ道がなかった。
目の前で死んでいく子供を助けるためには……。
ぐっとかみ締めたハンナの口から漏れるのは、声にならない声だった。
「モルト……私は」
かつて愛した優しさが、ハンナの乾いたはずの心に染み入ってくる。捨てたはずの涙はとめどなく、殺し続けてきた後悔の感情は胸を打つ。
肩にかかる、モルトの手にそっと自らの手を重ねるとハンナは声を絞り出した。
「……艶花のハンナは、今日を持って引退させてもらうよ、ジル」
黙って二人を見守っていたジルは、静かに頷いた。
「はい……」
それが、育ててくれた親に対する恩返しだと信じてジルは頷いた。
「んで……この喧嘩まだ続けるのかい? ジル」
面白そうに事態を眺めていたサギリの言葉に、ジルは振り向いた。
「まぁ、女将さんが引退しちまったんだ。うちの負けってことで良いさ……新しい艶花も決めなきゃならないしね」
振り向いたその顔は、いつもの油断のならないカラッとしたジルだった。
「ただ、あんたらが続きをしたいってんなら……相手になるよ」
妖艶に笑い、サギリに微笑む。
「けっ、アタシらそんなに暇じゃないのさ、シロキアの爺に引導を渡さなきゃならないんでね」
「ふぅ〜ん……それじゃあたしらは帰るよ」
「好きにしな」
「引き上げだ!」
ジルの一声で、雪華は引き上げていく。怪我をしたものに肩を貸し、歩けないものを背負いながら。
次第に遠くなる松明の火、やがてそれは完全に闇の中に吸い込まれていった。
やっと更新です。
遅くなり申し訳ありません。