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The Kingdom  作者: 春野隠者
ゴード暦524年 覇を統べる王
2/103

箱庭の夢

やたらと人が死ぬ話になっています。

ご承知の上読み進めください。


 積み上げられた煉瓦の壁垣、幾本もの蔦を絡ませ、それでもなお毅然としてあるその囲いの中に、庭園はあった。咲き乱れる大輪の花々、百を超す種の花々が競い合い咲き乱れる。

 強風に舞い上がる花弁の先には抜けるような青空、小さな雲が空の青さを強調するかのように浮かんでいる。

「カル?」

 突然、その声と共に、空は遮られた。遮られた空には影がある。少年は幼く大切な、自分を呼ぶ声に影の主を悟った。

「なに? ルク」

 ルクと呼ばれた少女は大きな目で瞬きをして、カルの顔を見返す。愛らしくふくれた頬と腰に当てられた手が彼女の不機嫌さを物語るが、眠たげに目をこするカルには、彼女の不機嫌に思い当たる節がない。

「なに、じゃないわ! またこんなところで眠っちゃってたの? お洋服もこんなに汚してしまって、また怒られちゃうわ!」

 豪華な刺繍に彩られたカルの服、だがカル自身もその服に全く見劣りすることなく端整な顔立ちをしていた。

 ともすれば女の子に間違われそうなほど色の白い白磁のような肌、黄金色の髪はこの国の貴族の証として貴種の血を誇示する。愛らしく大きな目に収まる瞳の色は、静かな湖面のように深い青、通った鼻筋は母親譲り、幸福を噛みしめて優しく笑う口元は名のある彫刻家が彫ったように美しい。

「寝てたんじゃないよっと!」

 そういって立ち上がる少年に、ルクと呼ばれた少女は再び口を開く。

「さあ、カルのお母様が呼んでいらっしゃったわ、一緒に行きましょう」

 カルの隣にたつ少女ルクも、愛らしい。フリルのついたドレスを纏って可憐に微笑む。赤茶掛かった髪を後ろで一つにまとめ、少年と似た青い瞳、赤みの差す頬、微笑む口元は慈しみの色を讃える。掴めば壊れてしまいそうなほど、その細い華奢な腕をカルの腕に絡ませると、彼を引っ張るように歩き出す。

「なんだろう、おやつかな」

 呑気な独り言を呟くと、カルはルクに従って花咲く庭園から、煉瓦作りの茶色の建物の中へ入っていった。建物の中では、一人の美女が紅茶を飲んでいた。先ほどの庭園で咲き乱れていた花をも色褪せてしまうような、通り過ぎる人が皆が皆振り返る美女。口元に漂うのは慈母の微笑み、瞳に宿るのは賢母の知性。

 ルクはそんな彼女に見とれてしまった。何度もあって実際に話もしているのだが、つい見とれてしまう。大好きなカルがお母さんにべったりなのも頷けると、一人納得して歩む足が止まっているルクを置き去りに、カルは美女に声をかけた。

「お母様!」

 その声にハッと美女が振り返る。

「カル……あらあらまた服を汚しちゃって」

 苦笑するカルの母は、ルクに視線をあげた。ドキリとしたルクを知ってか知らずか、彼女は優しい笑みを向ける。

「ルクちゃんありがとう。カルがお世話をかけるわね」

「いえ、おばさまもったいないです」

「カル、先ほどお父様から使いの者がきました。今日はこれで帰らねばなりません。ルクちゃんにお別れを言いなさい」

 はい、っとしっかりした返事をしてカルはルクに別れの挨拶をした。柔らかな光の包む一室に、硬質なノックの音が響く。召使いの男が迎えの馬車の来訪を告げた。

「では、ルクちゃんご機嫌よう」

「はい、おばさまご機嫌よう」

 ルクが見送る前を、豪華に飾り立てられた馬車は、遠ざかっていった。馬車が目指すはスカルディアの家、この街を代表する貴族の屋敷だった。カルは場所の窓から覗く街の風景が好きだった。流れる景色、人の営み、笑顔、それぞれが次々と目に入ってくる。

 いつものように、街を眺める。もうすぐ屋敷に到着するというところで、カルの目に偶然留まったのは、汚い服を着て鎖で繋がれた人の群れだった。

「ねえ、お母様あの人たちはなに?」

 聡明な母なら知っているだろうと訪ねた母は、わずかに顔を曇らせた。

「あれはね、奴隷の人たちね」

 悲しそうな母の声音に、カルは気づかず質問を続ける。

「どれいって?」

「悪いことをした人がなってしまうものよ」

 ふ〜んと言いながら、奴隷の群れを眺めるカルは偶然その中の一人の少女と目が合った。汚れてはいるが、緑色の髪を肩の辺りまで切り揃えた少女だった。強固な想いを込めた琥珀の瞳。きりっと結んだ口元は意志の強さを感じさせる。

 心臓の跳ねる音を聞いたような気がした。

 目をそらさないカルと少女。馬車が奴隷の群れを通り過ぎるほんの一瞬の間だったが二人は見つめ合った。

「カル?」

 母の呼ぶ声で、カルは窓へ向けていた顔を母に向けた。

「ううん、なんでもないよ。あの人たち可哀想だね」

「カルは優しい子ね」

 抱きしめられた母の温もりに、カルは身を委ねた。


▲△△


「はぁはぁ……」


 暗闇の中を全力で走る。裏路地から裏路地へ月の光さえも恐れるように、緑色の髪の少女は走った。仲間は無事に逃げられただろうか、脳裏の片隅にある疑問。だが、肉体的な疲労が思考を麻痺させる。

 ともかく逃げなければ、捕まったら何をされるかわかったものではない。舗装された道とはいえ、素足で走るには厳しい。一度十字路を曲がったところで息を整えた。

「大丈夫よ、シュセ=ノイスター。貴方はできる。貴方ならできるわ」

 自身を鼓舞すると、少女は再び走り出した。

 シュセが生まれたのは地方の貴族の家だった。貧しくとも清らかな生活を好んだ父をシュセは未だに尊敬している。恨む相手は他にいる。父が死んだのち、私を死んだことにして奴隷商人に売り飛ばした叔父達にこそ、憎悪の対象だった。土地を奪い、家名を奪われた。

 許せない、負けられない。

 疲労した肉体を支えるのはその想いだ。

「居たぞ! あの娘だ!」

 見つかった、早くどこかに隠れなければ……。

 でたらめに角を曲がる。

「はぁはぁ……」

 鉄格子のはまった行き止まりに、シュセは天を仰ぐ。鉄格子のさらに向こうは茨の茂みだ。切り刻まれる己の肌を想像して、シュセは一度身震いした。

 追跡者の足音が聞こえる。

「あのくそ餓鬼、どこへ行きやがった!」

 怒声も近づいている。

「シュセ、できる、できるわ!」

 一度目をつむり、意を決してシュセは鉄格子の間に体を滑り込ませ、茨の茂みへ身を躍らせた。獣か何かのようになって、シュセは茨の茂みを転がり出た。想像したとおり肌は幾重にも茨の棘が食い込み、血を流している。

「う、わっ」

 転がり出たシュセを待ち受けていたのは、黒く巨大な猛犬だった。犬歯をむき出しにうなり声をあげている。一瞬面と向かって犬と視線が合う。

 まずいと思う間もなく、猛犬はシュセに吠え掛かる。

 とにかく逃げなければ、その思いが彼女を再び動かした。猛犬に背を向けて逃げようとすると、犬は彼女の汚れた服に噛みついている。思った以上のその犬の力に、シュセはバランスを崩す。

「ディーダ、ディーダどこ〜?」

 声と明かりが近づいてくる。この犬の所有者だろう。逃げようとするシュセと、そのシュセを逃がすまいとする犬。無言の格闘は、犬の所有者の登場によって打ち切られた。

「ディーダなにやってるの? 誰か居るの?」

 人を呼ばれる。もうだめだ。抵抗をやめたシュセを離すとディーダと呼ばれた犬は主人の下へ駆け寄る。甘えるようにしっぽを振り、小さな主に駆け寄る。

「うわ、たいへん」

 シュセを一目見た少年はディーダに問いかける。

「どうしよう、ディーダ! 女の人だ。あ、もしかしてこれディーダがやったの?」

 わんわん! と心外だとばかりに答える犬に、少年はすまなそうに頭をかく。

「そうだよね、ディーダがするはずないもんね。えっと、それはそうと、どうしよう!?」

 わん! と犬は主を先導するように屋敷の方に主の服を引っ張る。

「ああ、そうかお母様に知らせて手当してもらわないと!」

 わん! と肯定の返事をする犬。 

「じゃあディーダその人動かないようにみていてね!」

 わん! まるで人間の言葉を完璧に理解しているような仕草に呆気にとられるシュセ。少年が走り去ると、ディーダは再びシュセの側に近寄る。だが今度は、無理矢理彼女を押さえつけようとはせずに、寄り添うように側にいるだけだ。

 荒い息をつく少女は、犬の方をみる。

「あなた、私を助けてくれるの?」

 鳴く代わりにディーダは少女の頬をぺろりと舐めた。

 草を踏んで幾人かの足音が聞こえる。

 助かったと思った途端、彼女は睡魔に意識を委ねた。



△▲△


 シュセがカルの屋敷で奉公をすることになって10日間が経とうとしていた。傷ついた体は癒えシュセも徐々に仕事に慣れてきていた。

 年が近いということもあり、カルの世話係ということで彼女の立場は落ち着いている。カルの母の強い推薦ということもあり、他の使用人達も敢えて逆らおうとはしなかった。それに仕事に対するシュセ自身の熱心な態度も、他の使用人達から好感を得ることに成功していた。

「シュセ、本読んで!」

 幼い、と言ってもシュセとカルの年齢は1つしか変わらない。その主の願いで彼女は毎晩彼に本を読み聞かせる。傷が癒えてからと言うもの、シュセはカルのお気に入りだった。

 シュセの目からみても、カルは愛らしい。大きなベットで二人横になりながら本を読む。カルが寝付くのを確認すると、シュセはベットから起きあがった。シュセが起きあがるのとカルの部屋の扉が開かれるのはほとんど同時だった。顔を覗かせたのはこの館の美貌の女主人。

「奥様!」

 思わず声を上げたシュセに、指をその形のよい唇に当て静かにするように指示をする。

「あ、失礼しました」

 寝付いたばかりのカルを横目で確認しながらシュセは、ベットを振動で揺らさぬように離れた。

「あの子ったらすっかり貴女に懐いてしまったわね」

 優しい笑みをシュセに向けるカルの母。

「いえ、私なんて……」

 我が子に布団をかけ直すのは、紛れもなく慈母の姿だった。

「隣の部屋で、少し付き合わない? 良い紅茶が届けられたのよ」

 無邪気に笑うと女主人は、まるで十代の少女にも見えてしまう。

「私などでよろしければ」

 二人は隣の部屋へ移る。足下には黒い犬のディーダ。

 紅茶から立ち上る芳醇な香りが、部屋を満たしていた。

「どうぞ」

 勧められるままに、シュセは繊細な細工を施された椅子に座らされる。

「私の淹れたもので口に合うとよろしいんだけど」

 少し困った様子を見せて、女主人はシュセに紅茶を差し出した。

「美味しいです!」

 紅茶を口に付けた途端、その風味と仄かに香る甘みにシュセは目を開いた。

「ふふ、ありがとう」

 女主人は、両肘をテーブルに突き、少し行儀悪くシュセの顔を覗き込む。

「シュセ、カルのこと好き?」

「はい?」

 唐突な質問に、シュセは相手が自分の主人だと言うことも忘れて、問い返してしまっていた。

「私はね、我が子ながらあの子が可愛くて仕方ないのよ」

 シュセは曖昧に頷く。

「親ってのはね、子供が大事なの。たぶん自分の命よりもね、私もカルには幸せになってほしいし、楽しく生きてほしいと思う」

「はい……」

「だからね、シュセ。敵討ちなんてやめて、ずっとここに居ない?」

 シュセの事情は、助けてもらってすぐ話してある。だから驚くには至らない。

「申し出は、凄く嬉しいです。でも……」

 困った顔をしているシュセをみて、女主人は表情を変えた。

「仕方ない子ね、強情なんだから」

 そう言って彼女の緑色の髪を撫でる。

「でもね、気が変わったらすぐに言って頂戴。私は貴女のこと気に入ってるし、できればずっと手元に置いておきたいんですからね」

 悪戯っぽく微笑む女主人の好意にシュセは、涙を流した。

 シュセが涙を拭き終わった頃、足下で惰眠をむさぼっていたディーダが、うなり声をあげる。どこか切迫したその声に、シュセ達の表情が曇る。

「どうしたのかしら、この子がこんなに怯えるなんて……」

 女主人はディーダを宥めるように、その頭を撫でる。だがディーダは忙しなく部屋中を歩き回り、怯えの色を隠そうともしない。

「シュセ、念のためカルのところにいて。私は使用人を起こしてきます」

 はい、と答えてシュセは隣のカルの部屋に向かった。何も起きなければいい、そう思いながらも不安な予感は止め処なく胸に広がっていった。

 段々と屋敷の中が騒がしくなってくるのを肌で感じながら、シュセはカルを揺り起こした。寝ぼけ眼のカルをなだめすかしてすぐに動ける格好に着替えさせる。

 ドンという衝撃と共に扉は開いた。

「カル、シュセ無事!?」

 シュセは乱暴に扉を開けた館の女主人の姿に、驚愕と共に安堵を感じる。細身の腕に握られているのは、レイピア。滴る赤い液体が視界に入った時、シュセは事態が切迫していることを知った。

「私も戦います」

 そう願い出る彼女を、カルの母親は優しく退けた。

「貴女にはカルの護衛をお願いするわ。良い? これは何にもまして重要な私の頼み事よ」

 念を押す主人の言葉に、シュセは頷くことしかできない。その返事を了承と取って女主人は二人を促した。

「館に賊が入ったわ、狙いはわからないけど、手際の良さからみてカルね。奥の一室へ向かいなさい、私もすぐに向かいます」

 シュセとカルが部屋を出て、すぐに黒い装束の賊が凶刃を振るわれた。縮こまるシュセとその腕に抱かれるカル。それを防いだのは、女主人の華麗な剣捌きだった。よくしなるレイピアは、持ち主の意志に過たず賊の心臓を一瞬にして貫く。

「行きなさい!」

 シュセは奥まった一室の扉を開ける。中は倉庫として使われている部屋だ。

「カル様、大丈夫です」

 怯える彼を宥めるように、必死にかき抱いた。そういう彼女自身の声も震えている。

 倉庫に息を切って部屋に入り込んでいた女主人は、使用人を二人連れていた。まずは部屋にカルとシュセが居ることに安堵したのか、二人に微笑むが彼女の姿は凄惨というしかなかった。返り血を幾重にも浴び、ネグリジェは所々破けて軽い切り傷が伺える。

「扉を閉めなさい!」

 使用人の二人に命じて、カルとシュセに近寄りしっかりと抱擁する。

「ごめんね、私の力が足りないばかりに……でもあなた達だけは必ず生き延びさせてあげるから」

 女主人は手早く、首から銀の首飾りを外すとカルの首にかけた。

「カル……貴方を愛してるわ。誰よりも」

 カルには、まだ事態が理解できていない。

「お母様?」

 優しく彼の黄金色に輝く髪を梳くと、頬にキスをする。そしてシュセを振り向く。

「こんなことになってしまって、ごめんなさいシュセ。カルを……お願いね」

 死を覚悟しているカルの母の笑顔、不謹慎だがシュセはそれが例えようもなく美しいと感じてしまった。

「さあ、あの箱に入って」

 いやがるカルを連れて、シュセは木箱の中に隠れる。

「奥様、扉が破られます」

 使用人に声をかけられ、女主人は頷く。木箱の上に新たに荷物を置き、内側からも出てこられないようにして、殺到してくるだろう敵を迎え撃つため彼女は扉に目を向けた。

 グシャリと扉が破かれる音と共に、賊が殺到してくる。入ってきた最初の賊を使用人達が切り伏せていくが、それも多勢に無勢。たちまち押し込まれてしまう。

「居たぞ、あの女だ! あの女だけは殺すなよ」

 賊の中から声が上がる。

 圧倒的な数の敵に囲まれて、それでも女主人は気丈であった。群がる賊を、レイピアの一突きで葬り去る。まるで舞踊のようなその動きで、3人の賊を一気に倒す。

「賊如き、私が一人で全て葬り去ってくれる!」

 裂帛の気合いと共に更に一人を突き殺す。女主人には広すぎる部屋だったが賊にしてみれば狭すぎるその倉庫で、段々と彼女を囲む輪は遠巻きになっていった。

 女如き情けねえと、その輪から出てきた巨躯の男を、瞬きをする合間に斬って捨てた女主人は剣を一振りしてレイピアの血を飛ばす。

「次は!?」

 輪の間から、血だらけの男が投げて寄越される。フラフラと彼女の元へ歩み寄った男は使用人の一人だった。

「ポーシュ!?」

「奥様、申し訳……ありま、せん」

 膝をつき崩れ落ちる使用人の男に気を取られたのが、女主人の不覚だった。背後から忍び寄った一刀は、彼女の動きを奪うのに十分であった。

「くっ……」

 蹌踉ける彼女に迫る獣の群れ。手を足を身体を、満遍なく膾にされた。それでもなんとか致命傷を避けているのは彼女の卓越した技能と、先ほど彼女のを殺すなと言った声のおかげだろう。

 満足に動く部分が無くなった身体を、気力で奮い立たせる。

 木箱の隙間からその光景を覗くカルとシュセは抱き合いながらその光景を見ていた。お互いに抱きしめていなければすぐにでも飛び出していきそうなほど、自分自身の理性というものが信じられなくなっていた。

 だが、女主人にできるのもここまでだった。

 剣折れ、力尽きた彼女は床に倒れる。

 抵抗するすべの無くなった彼女に、賊達が止めを刺そうとしたその時、それを留める声が聞こえた。

 しかし、それはさらなる地獄の始まりでしかなかった。

「その女には、まだ聞きたいことがある」

 賊達の頭だろう。右頬から目に切り上げられた古傷が男の印象を凶悪なものにしている。口元に歪んだ笑みを張り付かせ、男は短剣を取り出して女主人に尋ねる。

「餓鬼はどこだ?」

「屑が!」

 荒い息の合間から堪える女主人の左手に短剣を打ち込む。一拍遅れて彼女の絶叫が口から漏れる。

「餓鬼はどこだ?」

「地獄へ、堕ちろ!」

 今度は右腕に、抉るように差し込まれる短剣。繰り返される絶叫。

 それが四肢に及んだとき、木箱の中のカルは自分の中で何かが音を立てて壊れるのを聞いた。自分の口を、身体を押さえつけてくれているシュセが居なければ、間違いなく母を救いに飛び出していったに違いない。

「放して、放してよ! シュセ……」

 そのカルの体から急に力が抜ける。と、同時にシュセの意識も裏返る。



△▽▼



 そこは赤い空。


 黒い月。


 十字架に張り付けられた、黒髪の女が哂う場所。


『憎い? ねえ、憎い?』


 歌うように、願うように、女の三日月に裂けた真っ赤な口から言葉が漏れる。


『私もね、憎いのよ』


 ──この世の全てが。


 それは紛れもなく、呪いの言葉。


 垂れ流される悪意。


 膨れ上がる憎悪。


 心を切り裂く敵意。


 這い寄る嫌悪。


 生きとし生けるものへの嫉妬。


『──憎い』


 百万の罵詈雑言を、一言に凝縮したような重み。


 その女と目が合った瞬間、カルとシュセは同時に意識を失った。



▼▼▼



「強情な女だな、まぁ次で最後だ。餓鬼はどこだ?」

 五本目の短剣を振り上げながら、問いかけた男に罵倒の言葉は返ってこなかった。

「あん? 死んでんじゃねえか。遊びすぎたか……」

 あくまで平坦な言葉。何の感情も灯っていないような声に、彼の部下でさえ恐れを抱く。

「頭! ヘェルキオスの私兵がもうきやがりました!」

「予定より随分早いな、引き上げだ」

「けど、それじゃ依頼が……」

 そう言った部下の首を何の容赦もなく短剣で切り裂く。

「俺に意見するんじゃねえ」

 彼の苛立ちを示すその言葉を残すと、後はいつものように平坦な声に戻る。

「いくぞ」

 木箱の中の二人は、ヘェルキオスの私兵に発見されるまで意識を失っていた。



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