賊都8
鉄格子越しに横たわる赤髪の少女を眺める。手にした酒盃になみなみと果実酒を満たし、その芳醇な香りを愉しみながら一口、口に含んだ。
抓みのチーズを頬張り、再び果実酒を飲み干す。
「ねえ、ルク……あたしは、蛇が怖いのさ。女将さん程に、雪華と四役の力を信じてないんだ」
いまだ意識のない彼女に向かって、ジルは一人呟いた。
「雪華の頭なのに、情けない話だけどねぇ……」
苦笑とともに、不安という名の毒を吐き出す。
「あんたは、あたしの切り札さ。可愛いルク……」
横目で彼女を伺うと、床に漂う冷たさにルクが身じろぎした所だった。
鼻につくのは、むっとするほどの酒気。そして鼓膜が捉えたのは、酔ったような明るい声。
「目が覚めたぁ?」
目の前には、鉄格子。その向こう側に背もたれに寄りかかりながら、酒盃を飲み干すジルの姿があった。
「……ジル? 私なんで」
周囲をひとしきり眺めてみる。
薄暗く、今にも崩れてしまいそうな地下牢。ところどころ砂の侵食が見られる石壁に、蝋燭の火が灯る燭台。
「ここはねぇ、本当は性質の悪い客を閉じ込めて頭を冷やさせる場所なんだけど、今夜は貸切さ」
どこか心ここに在らずといったジルの言葉。それにルクは周囲を見渡していた視線を、彼女に向ける。
「ルク……ルク・ツラド」
久しぶりに聞いた自分の家名。戻ることのないそれに、ルクは目を見開いた。
「なんで、ジルが──」
ふふっと、寂しげに微笑してジルは言葉を次ぐ。
「まさか、こんなところにいるなんてねぇ。双頭の蛇がロクサーヌで動いてたから何かあるとは思ってたけど」
朱の差す頬、艶然と微笑みながらジルはルクの表情を覗き込んだ。
「ジル、何が目的なの?」
「目的……そうさね、お金かね」
ぼんやりと答えるジルに、ルクは俯いて唇をかみ締めた。
「私はジルのこと、友達だと思ってた……」
「あたしだって思ってるさ。……ねぇルク、友達を失うのは辛い?」
その言葉に、反射的に顔を上げる。
「当たり前じゃない、何言ってるのよ!?」
自分を攫ったのがジルだと言うことが未だに信じられない。ふむ、と考え込んでからジルはルクに視線を向ける。
「ねえ、ルク──」
激昂するルクに対してあくまで静かに、暗い地下牢よりもなお暗い胸の内から浮かび上がってくるように彼女は声を出した。
「友達ってのは、お金より大事なのかねぇ?」
「バカな事言わないで、当たり前じゃない!」
怒鳴るルクを冷然と見下ろし、ジルは疑問を投げかける。
「あんたにはスカルディア・ヘルシオ両家の連名で莫大な懸賞金が懸かっている。ルク・ツラドを見つけ出してロクサーヌに連れて行けば、あたし達にも多少の金は回ってくるってもんさ」
暗い笑み、そこからでた名前にルクの背筋に怖気が走る。
「スカルディア……」
カルが自分を殺そうとしている。その事実に、ルクは首を絞められたかのような息苦しさを覚えた。
「カルが……」
俯くルクに、ジルは言葉を重ねる。
「サイシャとルカンドは死に、双頭の蛇の力は半減する。あたしら雪華はあんたを売った金で更に力を増すだろう。荒地から這い出てきた蛇は、雪の華に凍えてもらおうって寸法さ」
俯いたままのルクにジルは溜め息を吐く。
だが。
「……と言うのが女将さんの考えだろうね」
だが、そう上手くことが運ぶだろうか? 相手は荒地を統べる魔女と呼ばれる女だ。血と暴力のみが支配する不毛の荒地。生きているのは食人鬼か、そこに捨てられたゴミを漁る餓鬼どもだけだ。
「え?」
そのルクの態度に、ジルは眉を顰める。
「ちょっと、あたしの話聞いてたの?」
綺麗に結った銀の髪をかきあげて、ジルは口を尖らせた。
「ジルは私を売ったんじゃ……?」
深い息を吐いて、じと目で睨む。
「あたし最初に、友達だと言わなかった?」
「だって、友達よりもお金が大事だって」
首をひねり、虚空を睨むとジルは思い付いたように手を打った。
「あぁ、女将さんのことだよ。モルトの爺さんとは十年来の友達なんだってさ」
「じゃあジルは――」
「ああっと、勘違いはしないでよ。あたしは雪華を率いてるんだ。艶花のハンナに逆らうなんて出来ないよ。今のままじゃどうしたってあんたの敵さね。内心どうあろうとね」
「うん」
しょげた様子のルクに、姉のようにジルは助言する。
「だからね、あんたにはそこをなんとかしてほしい」
そう、だからこそルク・ツラドに意味がある。
「え?」
「だからさ、あんたにはうちと蛇の仲の修復を頼みたいのさ。まぁひいては、女将さんとモルトの爺さんの仲をね」
「私が?」
唖然とするルクに、ジルはにこりと微笑む。
「そう、大人はなかなか動き辛くてね」
でも、と言いよどむ彼女にジルは畳み掛ける。
「出来なきゃ、あんたは死ぬだけさ。ね、やるしかないだろ? あ、ちなみにね、あの人たちの機嫌を損ねてもやっぱり地獄を見るから気をつけなさいな」
しばしの沈黙の後、ルクは口を開いた。
「前からこれだけは言おうと思ってたんだ……」
「うん?」
キッとしてルクは顔を上げる。
「この、性悪女!」
聞くに耐えないはずの罵詈雑言。それが彼女を通すだけで、なぜこうも好意的に聞こえてしまうのか。内心で自分自身に苦笑しつつ、ジルは表情だけは不敵に微笑んだ。
慌ただしく行き交う兵士達の合間を縫って、商人クルドバーツは与えられた客室に戻った。その部屋に誰もいないことを確認して、小太りの体を揺らすようにため息をつく。
愚鈍なだけのお飾りとして祭り上げたはずのあの若い領主。だが、自分達は選択を間違えたのではないか?
その思いが冷や汗となって背中を伝い落ちる。冷ややかに自らの父を殺したことを誇るあの視線。破滅を弄ぶかような思考。
いや、問題なのは彼が弄ぶ破滅が自身を巻き込むのを恐れていない所だ。
一言で現すなら、狂気。
理解できない故に、クルドバーツはかの領主を恐れた。
ぶるりと、全身を震わせると寝台に向かう。天蓋付の豪華な寝台だった。絹の敷き布と掛け布は皺一つなく整えられ、枕には羽毛の柔らかさ、広さは大柄な彼が寝ても満足を得るに充分だった。
その寝台をクルドバーツはずらす。腰を屈めた小太りの体はまるで牛のようだ。下から現れた絨毯を探れば、鉄製のフックがある。
それをなでると、彼は一つため息をついて立ち上がり全てを元に戻した。この城のことなら隅から隅で知り尽くしている。
ごくりと生唾を飲み込み、これから誰に味方するのか、どう行動するのかを考えた。
背中に走る激痛。あまりの痛さに、痛みを感じているのかさえも曖昧になる。そしてその中で感じる圧倒的な熱。体の中に火鉢を通されたような熱さに、サイシャは呻き声を上げた。
「ははっ! 討ち取ったぞ」
背中から聞こえた不愉快な勝ち鬨に向かって、短剣を振るう。
振り抜いた短剣、手応えを感じる余裕すらなく振り向いたその先に、血塗れた剣を握った兵士の屍があった。
「はぁー……はぁー……くぅ」
荒い息、落ち着こうとして深く息を吸った所で背中に激痛が走る。耐え難い苦痛に、彼女は壁に手をついた。
――走れるか?
自問して、一歩足を踏み出す。
――鼓動が早い。痛い。痛い痛い痛いっ!
単語が頭の中に浮かび消えていく。息だけが荒い。
「ルカ」
その名前だけを頼りに、彼女はまた一歩踏み出す。奇跡的に出来た敵の空白。霞む視界を酷使して前を睨む。
「ルカ」
助けなければ、その思いが足を踏み出させる。
「私の姉弟……」
壁に付く手を支えに、また一歩踏み出す。
「居たぞ!」
その声に壁から手を離し、ふらつく足と揺れる視界で短剣を構える。
震える唇を堅く結ぶ。倒れるようにして前に進む。敵までの距離が果てしなく長く感じられた。
サイシャは残りの小剣はいくつだったかと考えて、止めた。この分では後何回も、投げることは出来ない。
体を少しでも動かすだけで、悲鳴をあげる背中の傷。その声を無視するように小剣を握り締め、死に物狂いで投げた。
「ぐぅ……うぁぁぁ!」
走り抜ける激痛を奥歯を噛み締めることで耐える。硬質な音と共に堅い鎧に弾かれたのが二つ。隙間に吸い込まれるもう一本が敵を一人動けなくする。
振り下ろされる槍の穂先に、鍔広の帽子が巻き込まれる。癖のある黒髪が乱れ、だがサイシャは止まらない。いや、止まる余裕など無かった。駆け抜けざまの一閃。
手応えだけでもう一人の方を向き直る。突き出される長剣が彼女の髪を掠めて通り過ぎた。 出来た懐の空間。そこに体を滑り込ませ勝利を確信して、短剣を突き出す。
――ガツリ、と硬質な音を立てて噛み合う刃と刃。サイシャが見上げる視線の先に、鎧の合間から覗く笑う兵士の野卑な顔があった。
「くっ……」
――避けないと。
考えて、足に力を込めようとして崩れ落ちた。かいくぐった長剣が戻ってくるのに、短剣を勘で合わせる。
吹き飛ばされる小柄な体躯。力を受け流すこともできず、直撃を受ける。短剣から伝わる衝撃に、視界が歪む。
「――っはぁ!」
息が出来ず、苦痛に喘ぐ。視界は生理的な涙で滲み、悶えるように体が震える。
動けないサイシャにゆっくりと兵士が近寄る。勝利を確信した笑みを浮かべる長剣と短剣の二刀使い。
息も出来ず体は満身創痍、体力はなしに等しい。だが、それでもサイシャは立ち上がろうとした。手に握るのは、折れた短剣。それを床に突き立てようとして失敗する。痙攣する腕と、非力な彼女の力では叶わぬ事だった。
兵士は折れた短剣を杖にしようとする彼女を嘲笑いその短剣を蹴り飛ばす。潰れるようにして、倒れ込むサイシャが短剣の鞘を投げつける。片手でそれを払いのければ、その手に染み込む透明な水滴。
「死ね」
兵士の無慈悲な声が降ってくる。振り上げたのは長剣、勢い良く振り下ろされたそれは、ガツリと固い床を叩いた。
「ぐっ……」
歪む兵士の視界。揺れるその向こうで、サイシャは立ち上がった。
荒い呼吸は相変わらず、ふるえの走る腕で自身を支えて立ち上がる。
無言で二刀使いの兵士を見下ろし通り過ぎる。とどめを刺している余裕すらない。歩くのがやっとのサイシャの前に槍と革の鎧で武装した、軽装の兵士達が現れる。
逃げる体力すらないサイシャは、それでも彼らを睨み付けた。
自身に向けられる槍の穂先。逃げるすべはなく、死を運ぶ槍を見つめるサイシャの耳に、彼女を呼ぶ声が聞こえた。
ざわりと、槍の列が乱れる。その後ろ、影が血風を伴って躍っていた。
「サイシャ!」
聞こえたのは、姉弟の声。その声が聞こえた瞬間、サイシャの意識は途切れた。
躍る長剣が兵士の首をはね飛ばす。吹き上げる血潮が他の兵士達の目をくらませ、犠牲者の数を更に増やしていく。小柄な体躯に不釣り合いな長剣。それがまるで剣舞のような軽やかさで振るわれる。
「ケイフゥ余り出過ぎるな!」
剣舞うケイフゥの後ろ、こちらは屠殺の戦斧が振るわれる。モルトの柄の長い戦斧がうち漏らした兵士を肉塊に変えていく。重く激しい一撃が容赦なく、兵士の頭蓋を割り、返す刀で腕をもぎ取る。
「サイシャが!」
切羽詰まったケイフゥの声に舌打ちすると、モルトは猛然と兵士達を薙ぎ払う。
「行けっ!」
モルトが薙ぎ払った兵士の体が宙を舞う。それを盾にして、一直線にケイフゥはサイシャを襲おうとする兵士達に打ち掛かかった。
舞う長剣が死を撒き散らす。鎧どころか、身体の弱点を正確に突いてくる彼の長剣。
縦横無尽に振るわれる彼の長剣が兵士達の列を断ち切り、サイシャとの間に割り込んだ。
「サイシャ大丈夫?」
問い掛ける声に余裕はなく、倒れ伏した彼女から返事が戻ってくることもまたなかった。背中には肩から斜めに走った傷。かなり危険な状態だとケイフゥは思った。
「ケイフゥ、サイシャは!?」
ぜえぜえと、息を切らしたモルトがケイフゥの背を庇うように、兵士達の前に立つ。
「まだ生きてる!」
ケイフゥは長剣を置いて、サイシャの横に屈み込む。怒鳴るような声に、モルトは頷いた。
「引き上げるぞ! サイシャはわしが背負う。退路を開け!」
「うんっ!」
長剣を持ち直すと、ケイフゥは兵士に向かって駆ける。独楽のように回転し、勢いをつけて兵士達を斬り捨てていく。小柄なケイフゥの長剣が真下から膝を絶ち腕を切り裂く。瞬く間に三人を斬り倒し、怯んだ兵士を更に二人葬る。
「年寄りより先に死ぬなんて罰当たりなことは、してくれるなよ」
蒼白なサイシャの顔色、モルトは彼女を背負うとケイフゥの開いた血まみれの退路を走り出した。
ケイフゥ達がサイシャと合成したころ、城の主であるヘルベルは博徒の元締めであるシロキアと向き合っていた。
「随分騒がしいみたいだなぁ」
「すぐに収まるでしょう」
呑気なシロキアの問に、ヘルベルは落ち着いて答えた。その答えに、シロキアは珍しいものでも見るように、横目でヘルベルを観察した。
最初に見たときは、ただの愚物だと思ったが意外と胆力がある。それに目つきが違った。以前よりも、遥かに陰の光が強い。
「何かあったのかい?」
「いえ、特に」
答えるヘルベルの口元には陰惨な笑い。以前には見られなかったものだ。少なくとも、自分の前では……そこまで考えてシロキアは話題を変えた。
「ところで今日は何の用だ? わざわざ呼びつけたんださっさと用を言え」
「実は近々布告を発しようと思いまして、シロキア様に意見を伺おうかと」
「布告? んなもん勝手に出せば良いだろう」
「そう言わずに是非。若輩者ですので、不備が心配なのです」
「まぁいいさ。でどんな布告だ?」
シロキアは再び認識を改めた。なかなかどうして、執拗さが滲みでている。傲慢な本性を何に拠ってかは知らないが、うまく押さえ込んだものだと感心する。
ルカンドの言葉が槍とするなら、ヘルベルは縄か鎖だろう。質の違いはあれ、二人とも稀有なものだ。更に不敵に笑う表情からは不気味さを感じさせ、今までに感じない圧力のようなものを感じる。
「賊の処刑。日時は八日後になりましょうか、明け方に行います」
「そんなもんに、布告を出す必要があんのかね?」
「ええ、もちろん」
口元に刻まれた陰惨な笑いが深くなる。
「罪人の名前はルカンド。罪は窃盗、殺人及び不敬罪」
「……なんだと?」
ぎらり、と音がするほどにシロキアはヘルベルを睨みつける。だがそれにも動じず、再びヘルベルは口を開いた。
「何かご不満でも?」
その言葉が終わると同時に、ヘルベルを守る近衛の兵士が床を踏み鳴らす。
「ガドリアの四役の顔に泥を塗るってんだな?」
顔の古傷を歪ませて、シロキアは凄みのある笑顔を向けた。
「もはや、四役の時代ではないでしょう。これからは二人で街を仕切って頂きたい」
「炎の運び手は良いとして、ほか一つはどこを潰すつもりだ」
冷笑を浮かべて、ヘルベルは口を開く。
「商人達の連盟、赤き道。彼らには消えてもらいたいと考えています」
その答えに、シロキアは眉を顰める。
「何故だ? クルドバーツはてめえにべったりだろうが」
ああ、と呟いてヘルベルは発作のような断続的な笑い声をだした。
「シロキア様は彼の目を見たことがありますか? あれはね、臆病者の目なんですよ」
「臆病だと?」
古傷を撫でながら考え込むシロキアに、ヘルベルは告げる。
「僕は、よぉく知ってますよ。あの類の目はね、人を裏切らずには居られない」
ふん、と鼻を鳴らすシロキア。
「ご高説傷み入るがな、艶花のハンナはどうなんだ?」
「彼女とは話がついていますよ、色街の全てを彼女の物に、と言う条件でね」
双頭の蛇が勢力を伸ばす過程で、最も被害が大きかったのが色街だった。ハンナならやりかねないか、とシロキアは思考を切り替える。
「それで、俺には何をくれるんだ? 領主様よ」
「モルト亡き後の炎の運び手」
シロキアの鋭い視線に、ヘルベルは暗く底冷えのする瞳を向けた。
「布告は、ハンナ様シロキア様の名前もお借りします」
「構わねえぜ」
口の端だけで笑ってシロキアは同意した。
「治まったようですね」
「……そうだな」
視線は互いに外さず、外の喧騒が治まったのを確認する。
「俺ぁ帰るが」
一呼吸置いて、シロキアは領主に問い掛けた。
「そんなに戦がしてえのかい?」
その問いに、嬉しげな笑いだけが返ってきた。
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