賊都4
その小さい舌打ちは、隣に並ぶ大切な人に聞こえないように。
だが、心に巣食った不愉快な気分はどうすることもできなかった。
「ルカンドさん」
街の雑音の中でもはっきりと聞こえる高く、軽やかな声。呼びかけられる声に、隣のルカンドが顔を綻ばせる。鮮やかな赤い髪、ふっくらとした頬は上品に微笑む。肉付きの良い体は不自由とは無縁そうで……。
サイシャは自分とはあまりにも違うその姿を帽子で視界から追い出した。
「サイシャさんも、今日はどちらまで?」
「……城」
ささくれる気持ちを表に出さないように、慎重に口を開いた。ルカンドの視線を感じたが、サイシャは努めて無視を決めた。
「そう、ですか」
「ルクさんは?」
ルカンドの柔らかい声に、心のささくれが大きくなったような気がした。
「私はケイフゥの、差し入れです」
手に持ったバスケットを見せるルクの表情は明るい。
「一人で大丈夫?」
気遣うルカンドの声に、サイシャは視線を上げた。
「そんなこと、してる暇あるのか? 領主に呼ばれたんだろ」
極力ルクに視線を合わせないように、ルカンドを見る。
「僕、あの人苦手なんだよね」
苦笑して、ため息をつくルカンドを少しだけ睨む。
「少し時間もあるし、ケイフゥの所に寄って行くぐらいは大丈夫でしょ?」
小さくサイシャに耳打ちしたルカンド。盗み見るようにルクをちらりと見てから、サイシャは今度こそ舌打ちした。無邪気に疑問の表情を浮かべるルクの脇を、通り過ぎ。
「……先に行く」
「それじゃ、ケイフゥの顔を見に行こうかルクさん」
並んで歩く二人に背を向けて、サイシャは城へ向かった。
強い陽の光を、忌々しく思いながらサイシャは城へと至る長い坂を上りきった。
黒い帽子に黒く長い服を引きずるように歩いていたサイシャが、吹き抜ける風に空を見上げると汗ばむ肌に、風が心地良い。
「……雨か」
青い空の片隅を侵食するように、黒い雷雲は東の空にあった。
見下ろす街並みのどこかに、ルカンドとルクが二人きりでいると思うと焼け付くような焦燥を感じる。舌打ちしたくなるのを堪えて、湿り気を帯びてきた風を露出の少ない肌と、風にたなびく服で感じた。
惨めな嫉妬など、この強い風に吹かれて消えてしまえば良いのに、と心の中で思って薄く眼を見開く。
自分の手を見れば、切り傷や薬の染みで汚れている。筋張った手。肌の色は健康的とは程遠く、顔の作りに関しては言うまでもない。
「……貴族様か」
奴隷になどならず、ここにも来なければ……そこまで考えてサイシャはため息を吐いた。
「馬鹿」
自分を罵倒して、緩く頭を振った。あるかないかの僅かな記憶など、頼るに値しない。今の自分には、力がある。頼るべきは毒蛇と忌み嫌われる自分の力。
ルカンドを、ケイフゥを、昔救ってくれた恩人を助けていける力だ。
息を吐いて、城の前にいくつもあるゴツゴツとした岩に腰をかけた。瞼を閉じて、周囲に気を配る。風を感じつつ、時間が経つのに任せていたがサイシャは不意に瞼を上げた。
「……遅いな」
ルカンドの笑顔を脳裏に描くと同時に、ルクの無邪気な笑顔も浮かび上がってくる。
忌々しい想像に舌打ちをして、サイシャは眼下に見下ろせる街を見た。
サイシャの新緑の瞳にそれが映ったのは、彼女が街を見下ろしてからすぐのことだった。陽射しを受けて立ち上る陽炎を蹴散らすように、砂煙を上げて疾駆する馬車。
何かに追われるように御者は馬を責め、ひたすら城へ向かってくる。御者は城門の脇で佇むサイシャには目もくれず、一気に城門をくぐり抜けた。
すれ違いざま見えた紋章は、角を振りかざす牡鹿。
領主ヘルベルのものだった。
ガドリアでは馬車は、商人か金持ちしか使わない代物だ。領主が持っているのは不思議ではないとして、何故あんなに急ぐ必要があるのか。
通り過ぎた馬車の影を目で追いながら、サイシャは不吉な予感に眉間にしわを寄せた。
「それにしても……」
通り過ぎた馬車の事を一旦脇に置き、サイシャは再び眼下の街を見た。随分ゆっくりと歩いてきた筈なのに、ルカンドは姿すら見せない。
ルカンドがルクに甘いとは思うが、領主との会見を放り出すような事はしないはずだ。
「迎えに、行くか」
自分に言い聞かせるように呟いて、サイシャは登ってきた坂道を引き返した。
取り敢えずケイフゥの所だろうか、と街に戻ってきたサイシャが目指したのは、色町に程近い酒場だった。
迫り来る人並みを縫うようにして、酒場へ向かう。中天にあった太陽は西へ傾きはじめ、東にあった雷雲は薄い手を伸ばし始めていた。
剥き出しの地面がたてれば砂ぼこりを避けるように、サイシャは目的の店に体を滑り込ませた。
「いらっしゃい」
石と木で出来たカウンターの向こう側から、不景気な声で出迎える店の主。中年に差し掛かったその男に声を掛ける。
「ケイフゥは?」
「さっき、赤毛の子が迎えに来てたよ」
まだ契約の半分だってのに、とボヤく店の主にサイシャの視線が鋭くなる。
「それ、いつ頃?」
「あ〜少し前さ」
邪魔した、と店を出るサイシャに店主から声がかかる。
「そう言えば、随分焦ってたみたいだが、痴話喧嘩なら程々にな」
下卑た笑いとその言葉を黙殺し、サイシャは店を出た。いやな予感だけがどんどん胸に広がる。
苛立つ心のままに、足元の小石を蹴飛ばした。
「……城へ行ってみるか」
もしかしたら全部自分の勘違いで、何事もなくルカンドは城にいるかもしれない。またあの坂道を上るのは憂鬱だが仕方ない、とサイシャは一つため息をついた。
遠くに見えたはずの雨雲は、既に頭上で厚さを増し空は暗くなっていた。
モルトの鍛冶屋の前、土砂降りの雨に濡れてサイシャが立っていた。結局、城では門前払いを食らいサイシャは心当たりの最後となるモルトの店にいた。
入れば静まり返った店の中、いつもある熱気が微塵も感じられない。
何かが起こったのだ、と思いながら雨に濡れた足を進めていく。
「誰か、いるか?」
慎重に声を出す。服の裏に仕込んだ小剣に手を伸ばしながら、奥を伺う。奥で息を潜めたような気配に、意識を研ぎ澄ます。
ガタリ、と音が聞こえた。
瞬間、サイシャは奥へ続く通路を駆け抜けた。潜んでいた者を壁に押し付け、首筋に小剣を突き付けて。
「……お前、何してる?」
目の前で、張り付けられているルクに問い掛けた。
「サ、サイシャさん……!?」
姿勢はそのままに、サイシャは目を細めた。
「ルカは、ケイフゥは?」
ルカとケイフゥの名前を聞いた途端、ルクの双眸からは大粒の涙が流れ落ちる。
「泣くな、ルカとケイフゥはどうした?」
荒れ狂う感情を押さえ込み、無表情を装ってサイシャは詰問する。
嗚咽混じりに答えるルクの返事に、サイシャは目の前が真っ暗になった。
「ルカが、さらわれた……?」
構えていた小剣が、床に落ちた。
「ごめん、なさい……」
その言葉に、サイシャの真っ暗な視界が、炎よりも赤い怒りに塗り替えられる。
「お前……お前のせいなのか!?」
ルクの白い首筋に肘を押し当て、苦しげに歪むその顔を睨み付ける。
「サ、イシャ、さん」
抵抗せず、次第に青白くなっていくルクの顔色を睨みながら、サイシャは荒い息を吐き出していた。
「ルク!」
その声と共に、彼女を押さえ込んでいたサイシャにケイフゥが飛び付いた。
「くっ!? どけ、ケイフゥ!」
腰にしがみついたケイフゥを振り解こうとしているうちに、ルクは体を折り曲げる。そして、喉を押さえて激しく咳き込みむせる。
「サイシャ! 落ち着いて」
ケイフゥはいつもの笑顔を消していた。雨に濡れたケイフゥはサイシャには涙を流しているように見えて、膨らんだ怒りが萎えて行くのを自覚しないわけにはいかなかった。
「……ケイフゥ、ルカは?」
何とか平静を取り繕いサイシャは答えを求めた。
うなだれ黙って首を振るケイフゥに、萎えたはずの怒りが頭をもたげる。
噛み締める歯ぎしりの音が聞こえそうなサイシャは、だがその怒りを抑え込み息を吐き出した。
「……で、やったのはどいつだ?」
横目で、ルクを伺いケイフゥは再び首を振った。
「……じゃあ何か、お前はルカがさらわれたのを目の前で見てながら、何もわからず自分可愛さに逃げ回ってただけなんだな!」
深緑の瞳が、ルクを捉え堪えきれない怒りに揺れる。
「サイシャ、ルクが可哀相だよ」
悲しげに呟いたケイフゥにサイシャは視線を向けた。
「可哀相だと? コイツとルカのどっちが大事なだケイフゥ!」
ルクを指差して、叫びケイフゥに詰め寄る。
「それは……」
俯くケイフゥに、サイシャは塗れた黒い帽子をくしゃりと握り締めて、叩き付ける。
「もう、良い! ルカは私が助けるっ!」
心の奥の何か大切なものに、ひびが入ったような悲しさが、サイシャに怒りを覚えさせる。手負いの獣のように荒い息を吐き出し視界に入る全てを睨み付ける。
「サイシャ!」
「サイシャさん!」
呼び止める声さえも、不快な雑音に感じつつサイシャはモルトの店を出た。
降りしきる雨の中、向かったのは自分たちがよく使うアジトのひとつ。
雨に濡れた衣服を構いもせず、サイシャは寝台の下から得物を取り出す。小瓶に詰められた毒薬と、何本もの小剣、小道具。それを黒いローブの裏側に仕込み必要ないものを片付ける。
「さて……」
見渡した部屋の中、そこはどこにでもルカとケイフゥの思い出があった。不意に、胸を締め付ける思いにサイシャの視界が曇る。
「ルカ……無事だよな?」
両手で持った小剣に縋るように、握り締める。
「どんなことをしても、お前を取り返してやる」
少しだけ、サイシャは泣いた。雨に濡れた頬に、熱い涙が伝う。
その涙を振り切って、サイシャはアジトを出た。
寝ぼけて投稿してしまい、後で見返したら所々おかしな部分があったので修正いたします。既に読まれた方には、まことに申し訳ありませんでした。