賊都2
──随分遠くまで来てしまった。
ガドリアという名前聞いたとき、ルクが抱いたのはそんな感想だった。ロクサーヌからほとんど出たことのない彼女にとって、不毛の荒地を越えた先にあるガドリアなど話に聞く自由都市郡と同じ位に遠いという感覚しかない。
ぽすん、と固いベッドに倒れこむ。
「お父様……ウィンベルさん、私は生きています」
窓から差し込むのは、白々とした月光の明かり。
無邪気に眠るケイフゥに身を寄り添わせ、ルクは目を閉じた。
周囲に夕闇が迫る頃、ガドリアの町に火が灯る場所がある。篝火を軒先に並べ、店に並ぶ商品を艶やかに、美しく見せようと夜の闇を照らす。
飾り立てた指先、結い上げられた美しい髪が白い肌に掛かる。はだけた服の合間から覗くのは、豊かに膨らんだ胸の谷間。
金と交換で一夜の夢を売る場所。そこにルクはいた。
「あのさ、ケイフゥ」
「うん?」
にへら、と気の抜けたような笑みを浮かべて振り返る彼は至っていつも通りだ。ただその彼に手を引かれているルクは、先ほどから恥ずかしさのあまり左右を見ることさえできない。
「確かにその、外に出たいって言ったんだけど……その」
ちらりと周囲を見て、俯いてしまう。周囲には、露骨に寄り添う男女の姿。男の手はいやらしく、女の体を撫で回し服の中にまで入っていってしまっている。女のほうは、微笑すら浮かべてそれを受け入れている。
「お仕事〜お仕事」
にっこりと、微笑んでルクの手を引いて歩き出してしまう。
「うぅ……」
なるべく地面だけを見るようにして、ルクはケイフゥについて行く。
「あんなこと、カルにもさせたことないのに……」
誰にも聞こえないように呟いて歩いていくと、急に前を歩くケイフゥが立ち止まった。何事だろうと、恐る恐る視線を上げてみれば、ケイフゥの前に柄の悪い男の人が一人。男の背後には立派な門構えの店がある。赤い柱に緑の螺旋図、二階建ての建物は滲み出るいかがわしい雰囲気を誇るかのように、そこに在った。
「おい、何店の前で立ち止まってんだ? 邪魔だから失せろ」
柄の悪い言葉が、ルクを萎縮させるがケイフゥは全く意に介さない。
「ケイフゥ、お仕事に来たの」
「仕事ぉ?」
そこで、初めて男はルクの方を凝視する。
「ははぁ〜ん、なるほどなぁ」
品定めするように上から下までルクを見回し、ケイフゥに向かって、にやけた笑みを向ける。
「なかなかの上玉じゃねぇか」
ルクを振り返り、ケイフゥは無邪気に笑う。
「ルク、上玉〜褒められたよぉ」
「え、そうなの?」
頷くケイフゥに、彼女は目付きの悪い男とケイフゥを交互に見た。その様子に、柄の悪い男は笑い出す。
「良い娘じゃねえか」
だがな、と言い置いてケイフゥを睨む。
「生憎とここじゃ、紹介状のねえ奴は駄目なんだ。さっさと帰えんな」
「駄目だよ、ケイフゥお仕事だもん!」
頬を膨らませて、食い下がるケイフゥに、柄の悪い男は一つ舌打ちする。
「駄目だって言ってんだろうが!」
凄む男を前にしても、ケイフゥは全く怯まない。二人が騒いでいる間に店の奥が騒がしくなる。しかし二人はそれに構わず、言い合いを続けていた。
立派な門が、がらりと音を立てて開く。
「まずいっ!」
ケイフゥと言い合いをしていた男は、そう言うとすぐさま腰を曲げて頭を下げる。
「お疲れ様でした!」
声を張り上げる男に、軽く頷いて出てきたのは恰幅のよい客と、その客に寄り添う妖艶な銀色の髪の女だった。しなを作って、客の耳元に女が唇を寄せる。吐息がかかるほどの距離で囁かれ、客は満足げに笑って帰っていった。
「またのお越しを!」
門番の男が腰をかがめたまま、声を張り上げた。女は、恰幅のよい客が見えなくなると、ため息をついて店に戻ろうとする。と、そこで何かに気が付いたように、足を止めた。
「ジル姐さん、何か?」
怪訝な顔をした柄の悪い男に目もくれず、女はケイフゥを見ると顔に花が咲いた。
「あれ、ケイフゥ?」
男が驚くまもなく、ジルはケイフゥを抱きすくめてしまう。艶やかな服が土に付くのも構わずに、膝を折りケイフゥに頬擦りする。
「やだぁ〜久しぶり、元気だった?」
にっこりと笑って頷くケイフゥに、ジルは頬を染める。
「今日はケイフゥが来るって聞いて、皆で楽しみにしてたんだよ」
先ほどの男に見せたのとは別の、心からの笑顔がケイフゥに向けられる。
「……ところで」
そして視線を巡らせ、ケイフゥと手を繋いだままのルクに行き着く。
「この子は?」
「友達〜」
その言葉に、ジルのルクを見る視線が厳しくなった。
「友達、ねぇ」
先ほどの男とは異なり厭らしさはないが、品定めされるように頭の先から爪先までをじっくりと見られる。
「ま、いいわ。どうぞ中へ」
立ち上がり服に付いた埃を払うと、ジルはケイフゥを手招きしルクもそれに続いた。後には門番をしていた男だけが呆気に取られて立ち尽くしていた。
店の中は、外よりもなお過激だった。漂う紫の香、薄っすらと汗の浮いた白く滑らかな肌に、男の指が食い込む。漏れる嬌声。ルクは身を小さくし、さらにケイフゥの背中に寄り添うようにしてその中を歩いていく。
「おや、いらっしゃい」
店の奥から姿を見せたのは、中年の女だった。
ジルに手を引かれ、笑みを崩さないケイフゥ。その彼を無遠慮に上からしたまで嘗め回すように見ると、ぷいっと奥へ引っ込む。
「遊びに来てるわけじゃないんだ。ぐずぐずするんじゃないよ!」
奥から顔だけを向け、ケイフゥに向かえって怒鳴った。ケイフゥの耳元に、ジルとケイフゥは一言二言言葉を交わし、離れる。
「その娘は何なんだい?」
中年の女の問いに、ケイフゥはにへら、と屈託のない笑みを向ける。
「お仕事。ケイフゥとルク一緒!」
「その子がぁ?」
疑わしげにルクを見た中年の女だったが、何も言わず奥の部屋へ消えて行った。
奥の部屋に入れば、そこは娼館とは思えないほどに殺風景な場所だった。机が一つあり、それに椅子が一つあるだけ。部屋自体は大きくはないが、それにしても家具は少ない。
「給料は、一人分しか用意してないからね」
にこにこと頷くケイフゥに、一つ舌打ちをして中年の女は部屋から去った。
「ルク〜ここでお仕事」
残されたのは二人。椅子を勧められ、戸惑いながらも座る。
「ここで、何をするの?」
えへへ、と笑うケイフゥがルクの頬に口付けする。
「え?」
突然の事に戸惑うルク。
「贈り物」
軽い足取りで、扉の奥に消える。それを見送ってルクが触れてた頬は、心なしか熱かった。
しばらくぼんやりとしていた彼女が我に返ったのは、扉をたたく音。反射的に返事をしてしまい扉が開かれれば、入って来たのは食事だった。
ロクサーヌでは見られない食材を使った豪勢なものに、ルクの視線は釘付けられる。その食事が机に並べられ、最後に姿を見せたのは椅子を持ったケイフゥ。
「ルク食べて、贈り物」
持ってきた椅子に座り、灰色の瞳を輝かせてルクを見つめる。
「その、良いの? こんな豪勢な食事」
ケイフゥ達が普段食べている食事とは比べ物にならない、豪華な食事。それに目を見張りながら、食事とケイフゥを交互に見比べる。
「うん!」
満面の笑みを浮かべて頷くケイフゥに、ルクはそれじゃぁと言って口をつけた。
「美味しい」
「ほんと!?」
にこりと微笑むルクに、ケイフゥは嬉しそうに笑う。
「ケイフゥ!」
ドンドンと叩かれる扉の音。静かだが切迫した声が扉の反対側から聞こえる。
「あ、お仕事だ」
ぴょん、と椅子から軽やかに飛び降りたケイフゥは扉を開ける。
「二階の客、ちょっとお願いね」
呼んだのは、銀の髪を結い上げたジル。その柔らかい視線が、ルクに行き当たったとき途端に硬く厳しいものに変わる。
「うん、ルクちょっと待っててね!」
なんでもないことのように、言ってケイフゥは出て行った。
「良い身分だね。男に食わせてもらってさ」
ケイフゥを見送ったルクと、ジルの間に流れるのは寒々しい空気。扉を後ろ手に閉め、ルクとジルは向かい合った。食事の手を止め、ジルを見返すルク。
「私に、何か御用ですか?」
「……別に、ただ少し気に入らないってだけでね」
鼻にかかる声、ねっとりとした笑みがルクに向けられる。
「私の何が気に入らないと言うんですか?」
「あんたが、口にしている料理……いくらすると思う?」
押し黙るルクに、ジルは勝ち誇ったように言い放つ。
「ねえ、お嬢ちゃん……男娼ってのを知ってるかい?」
睨むルクの視線を鼻で哂い、ジルはルクを見下ろす。
「男相手に、男が酒の相手をするのさ……もちろん、その先もね。わかる?」
「それが、何なんですか?」
腕を組んだジルは、扉に背を預けている。ルクの脳裏に浮かぶ、嫌な想像を打ち払うかのようにジルを睨みつける。
「男娼ってのは、子供が務めるのが普通でね。想像できる? 汚らしい親父どもにさ、口を吸われ、痛がるのを無理やり組み敷かれるんだ」
「だから、それが何なんですか!」
「察しが悪いってのは、罪だね。普段じゃ食べれない豪勢な食事。可愛いケイフゥ……さて彼はどうやってお金を稼いでいるのでしょうか? しかもこんな場所で」
「まさか……」
にやりと、笑うジルに勝者の笑みが漂った。
「やめさせて!」
「別に、あたしが無理やりケイフゥに仕事をさせてるんじゃないさ。進んでやってるんだから、あたしらがどうこう言うことじゃないだろう?」
「やめさせて!」
絶叫に近いルクの声を聞いても、ジルは薄ら笑いを浮かべている。
──嫌だ。私の為に、誰かが死ぬのは。誰かが傷つくのは。
「嫌だね」
降りてきたのは、ルクの心の思いなど伝わるはずのない無情な声。
その一言を聞いたとき、ルクの心で何かが弾けた。椅子から立ち上がると、泣き出しそうになる心を叱咤してジルの前に迫る。
頭一つ分高いジルを睨んで、ルクは有らん限りの気迫を込めた。
「どいてください! ケイフゥと一緒に帰ります」
「ハン! 寝言は寝て言いな。お嬢ちゃん」
直後、ジルの頬に走る衝撃。
ぱん、という乾いた音にジルの視界はぶれた。
「どきなさいっ!」
「っく、このガキ!」
力任せに引っ張った衣装は乱れ、張られた頬は赤く腫れ上がる。上になり下になり、互いに髪を引っ張り合う。
「あの子が、どんな境遇で、どんなことをしてきたのか、あんたに分るのかい!」
ルクに馬乗りになったジルが、ルクの頬を張る。
「あんたみたいな、お嬢が! えぇ!?」
下になったルクは、ジルの長い銀髪をめちゃくちゃに掴み引っ張る。
「っく……」
軽くなった体の上のジルをルクが押しのけると、今度はルクが上になる。
「知らない! ケイフゥが、何をしても、何をしていようと、関係ない!」
一層力を込めた一撃がジルの頬を打った。
「私はケイフゥの友達なんだから!」
そういうや、否やルクは扉に向かって走る。ジルをその場に残し、乱れた服もそのままにルクは二階へ続く階段を駆け上がった。
目に付く扉を、片っ端から開け放つ。
「ケイフゥ!?」
男女の交わりを見ても、顔を赤くする余裕もない。開けては次の扉に向かい、後ろから聞こえてくる怒号も無視する。
突き当たりの一段広い部屋が目に付く。ついで目に入るのは人だかり。はやし立てるような声。娼館には相応しくない喧騒。
「どいて!」
その合間を抜けて、ルクが目にしたのは捜し求めていたケイフゥの姿。
「「え?」」
間の抜けた声が二つ重なった。
「ええっと、それじゃケイフゥは用心棒のお仕事で……」
うんうんと頷くケイフゥは笑顔だが、後ろに控える中年の女は文字通り鬼の形相をしている。
ルクは、最初に案内された殺風景な部屋に、連れ戻され石の床に正座をさせられていた。
「男娼とかじゃ……」
「だれがぁ?」
んん? と天井を見上げるケイフゥに、ルクの隣から忍び笑いが聞こえた。横目で睨みつければ、ルクと同じく酷い格好のジルがくつくつと笑いながら正座している。
「ジル……」
中年の女は、こめかみに浮かんだ青筋がいつ切れてもおかしくない。
「いやぁ……すいません。女将さん、ちょっとからかいたくなって」
「ちょっとぉ? 一体いくら店の損害が出たと思ってるんだい! この馬鹿娘が!」
女将さんと呼ばれた女の怒りは、ジルだけに留まらない。
「ケイフゥ! 責任は取ってもらうからね、今後一月用心棒代はなしだ!」
えぇ〜と嘆くケイフゥも、女将の視線の前には効果がない。
「ジル、今日は休んどきな! そんな顔じゃ売り物にもなりゃしない」
「はぁ〜い」
能天気な声に、怒りが爆発しそうになるのをようやく堪えた女将は、肩を怒らせて部屋を出て行った。
「いや、しかし傑作だったね」
くつくつと笑いながら、ジルは足を崩して頬杖をついた。
「どきなさい、ぱーん!」
ルクの声を真似てジルはおどけ、ケイフゥはそれを興味深く見ていた。
「なぁに拗ねてんのよ、ルクちゃん」
そっぽを向いていたルクの体に、ジルの腕が絡みつく。
「触らないでくださいっ!」
「触らないでください、だって可愛い〜」
猫撫で声で、ルクの体をまさぐる。
「ちょ、どこを……んっ!」
胸を触られ、言葉にならない叫びを上げるルクにジルは囁きかける。
「あたし、ルクちゃんのこと気に入っちゃった。ねぇお店に来ない? 大歓迎なんだけど」
「はわわ」
わたわたと、艶かしいジルといつもと様子の違うルクに、ケイフゥは目を隠してあたふたとしていた。
「い、やです!」
「あっそ、残念」
あっさりとルクを解放し、今度はケイフゥに絡みつく。
「ケイフゥ〜あの女に叩かれた所が痛いのぉ、舐めて慰めて〜」
「ジルさん!」
ルクの叫び声も意に関せず、ケイフゥを胸の中に誘う。
「ねえ、ケイフゥ、あんなお子様なんかより、あたしの方がずっと良いコト教えてあげられるわよ」
「ジルっ!」
容赦のなくなったルクの声に、ジルは人知れず笑みを漏らした。
「きゃー、怖い〜ケイフゥ助けて!」
三人の喧騒は、夜が白けるまで続いた。