初陣3
緑の絨毯が敷き詰められた草原、所々に岩と高い木をぽつんと残す他は、遠く地平までそれが広がる。吹き抜ける風は砂の混じったようにざらつき、未だ昇りきらないの太陽は濁り錆び付いた赤。
風に揺られた貴族の連合軍の紋章旗だけが、風の中を勢いよく泳ぐ。
大地の上には、戦馬を縦横陣に並べた貴族連合軍。
煌びやかな戦装束に身を包み、己の手勢を指揮するのに余念がない。その後ろに控えるのは長弓を構えた従者が侍り、雲が走る空を目がけて狙いを定める。
その陣の中カルは、沈黙のうちに自分とヘェルキオスの位置を確認する。扱いは名誉ある戦死ということになるだろう、多少不満ではあるが、仕方ない。問題は、目の前に広がる自由都市群だった。
既にこちらが着陣し終えたというのに、予想以上に彼らは着陣に手間取っている。こちらから攻めてくることなど、予想だにしていなかったに違いない。これではカルが予想をしたほどの乱戦にはならないかもしれない。
響き渡る出陣の銅鑼の合図がカルの鼓膜を振るわせる。青い空を切り裂く火矢がヘェルキオスの場所から放たれる。
──刻は来たのだ。
横一列に広がった戦馬の群れが一斉に駆け出す。最初は緩やかに、そして徐々に速度を増して、最後には怒濤の如き瀑布となって敵陣になだれ込む。空を駆けるのは矢の群れ。騎馬の後方に控えた長弓兵によって射られる死を伴う雨が、自由都市群の将兵に降り注ぐ。
シュセはカルが率いて来た私兵の全てを預かって、戦場の中にいた。カルは乱戦に紛れてヘェルキオスの首を取りに行くと言った。危険だと、押し止めようとした彼女をカルが撥ねつけたのだ。感情に流されるわけでもなく、冷静に獲れると判断したカルの表情に、結局は押し切られてしまった。
「カル様、御武運を」
一人呟いて、戦馬の手綱を握り直す。片手には鞘から抜きはなった無骨な大剣。それをまっすぐ正面に向けて私兵達に叱咤の声をかける。
「続けぇ!」
凛とした声音に、奮い立つカルの私兵。風切る火矢が放たれるのを視界の隅に納め、白亜の騎士は喚声と悲鳴の入り交じる戦場へ分け入っていった。
どこだ、心の中で反芻しながらカルは血走った視線で兜の奥から戦場を見渡す。乱戦にはならないかもしれないと予想はしていたが、それは大きく裏切られることになる。やはり数の差は大きい。当初圧倒的優勢で推移していた状況は、数の圧で持ち直し今や伯仲していると言っていい。
敵も味方も血飛沫を浴び、頭上に翻る旗さえなければ誰が誰なのかも判別できそうにない。狂ったような声を上げた雑兵の槍を難なくかわし、三叉の槍で突き伏せる。正面から横から、また後ろから四方から襲いかかる敵は思いの外厄介だった。技量的には大したことはない、ただその数が、ヘェルキオスの位置を見失わせていた。
馬上から引きずり倒される騎士、手を切り落とされ蹲っている所を騎馬に踏みつけられ絶命するどこかの侍従。弾む息と、悲鳴、ぶつかる鉄の音だけが耳に聞こえる。
どこだ、ヘェルキオスの旗は? 更に正面から剣を振るって来た騎士を二人、横になぎ倒す。更に一人、盾を持った騎士を葬った所でそれは見えた。
見間違うはずもない憎むべき敵。
ヘェルキオスの元から、こちらに向かって走ってくる一騎が目に入る。気づかれたかと、握った槍に力を込める。
「カル殿、撤退だ! ヘェルキオス様が指示を出された!」
まず声が届き、そして伝令の一騎はカルの横を通り過ぎていった。
伝令の声が聞こえたのか、先程まで見られなかった動揺が周囲に広がる。自由都市郡の本陣付近で喚声が上がるのと同時に、どっと崩れたつ味方。
「いけ!」
それを視界の隅に収めながら馬に声をかけ、一気にその旗へ迫る。周囲は乱戦、脂肪に膨らんだ身体に華美な装飾を持った鎧を纏い、手には戦斧を振り回す。血にその華美な装飾は元の輝きを全くなくしてしまっている。ヘェルキオスの側に控えるのは、旗持ちの侍従が一人とその身体を守るべく戦っている騎士が二人だ。
思わず口の端がつり上がる。
──やれる。お前の敵を獲れるぞ、ルク!
頭上に振り上げた槍を、護衛の騎士の一人に振るう。鎧の隙間首にめり込む感触を確かめると、返す刀でもう一人の騎士を掬い上げるように肘から先を刎ねる。戦馬を素早く移動させて、侍従を後ろから刺し貫く。ぐらりと倒れるヘェルキオスの旗。
一つ呼吸を置いて戦斧を振るうヘェルキオスに声をかけた。
「ヘェルキオス、その首もらい受ける!」
振り返ったヘェルキオスの表情に、恐怖は無かった。あるのはただ、憎しみと……。戦馬の腹を蹴り、一直線に敵へ向かう。右手に宿る刻印から、力が溢れる。放たれた三叉の黒槍は、豊かなヘェルキオスの身体を易々と貫いた。
周囲の喚声はまだ高く、戦況は一進一退。敵の壁をなかなか抜けられずに、内心苛立ちを覚えながら、シュセは手にした大剣で次々に敵を葬る。元々屈強な男の兵士ほどの腕力がないシュセは剣の重心を利用して、巧く扱う。
無駄な力を使わないシュセの大剣は吹き寄せる暴力という風を、捌く。加えて右手に宿った刻印。要所で使うそれは、幾人もの敵を弾き飛ばす。
まるで見えない手に守られているかのように、シュセは敵陣を深く抉り取って行く。そして彼女に付き従った私兵達と、敵として向き合った兵士達には同じことを考える。まるで古に聞いた女神のようだ、と。敵には畏怖を、味方には鼓舞を同時に与える白亜の騎士は何度目かの槍襖を突破して、主の姿を見つけた。
「シュセ、引き上げるぞ」
怒声轟く戦場で、シュセが聞いた声は怖ろしい程に冷たかった。
「はい」
見上げれば錆びを落とした太陽は中天に輝き、風はすっかり止んでいる。
「他の者共には既に撤退を呼びかけた。殿は私が務める。お前は早く兵をまとめて橋を渡れ!」
呼び止める間もなく、二人の敵を貫くカルの様子に、シュセは私兵達に撤退を命じる。
「橋に向かって走れ!」
シュセ自身は、私兵の中に遅れた者が出ないよう最後尾で、追ってくる敵を迎え撃つ。その遙か後ろ、追撃してくる敵の猛追を一身に受けてカルは槍を振るっていた。追撃してくる敵の数は、渡り終えた味方の分も併せて、何十倍もの圧力を伴ってカルとシュセに襲いかかる。
急げと声を枯らして、私兵達を急き立てるが彼らも体力の限界。それは分かっている。だが、早くしなければカルが……。遅々として進まないように思えた私兵達の渡河作業も完了し、振り返ったその先でカルが、敵の濁流に呑み込まれた。
「! っ……カル様!!」
右腕が焼け爛れるような熱を持つ。握った血と油に汚れた大剣を翳すと、熱は腕からゆらりと移動を始める。鋭い衝撃が左の肩を襲う。鎧の隙間に突き立つ矢。
こんなものに、心の中で呟くとシュセは視線を元に戻す。
「どけえぇ!!」
剣先に溜まった力を一気に解放すると、視覚化出来るほどの幻想の盾が押し寄せる濁流を、割った。
その中を突っ切る戦馬、背に乗せるのは無惨に砕けた鎧を申し訳程度につけたカルだった。馬の背に身体を縮め、必死で橋へ向かう。カルの戦馬がシュセの側を駆け抜けるその一瞬。主の無事をシュセは確認し、敵に背を向けた。
橋に響き渡る蹄の音。二頭並んで駆け抜けるその後を、狭い橋を押し合いながら敵が迫りくる。後少しで橋を、渡り終えるその時になって、嘶《いなな》くシュセの戦馬。見ればその尻には矢が突き刺さっている。
いけない、と思ったときにはシュセの身体は橋の上に投げ出されていた。息が出来ない苦しさと共に、鼓膜を揺らす敵の声。かろうじて手放さなかった大剣を両手で構えようとして、左手が挙がらないことに今更気が付いた。
立ち止まるか、走るか。自分とカル、秤にかけるまでもなかった。シュセは立ち止まり迫りくる敵に向けて大剣を構えた。
「カル様、お許しを。どうかご無事で!」
小さく呟いた。覚悟を決めた彼女の身体が、後ろからの強い力で宙を浮く。
「うおぉぉ!」
驚愕に振り返れば、片腕だけで彼女を自分の戦馬に乗せようとしているカルの姿が映る。カルのこれほど必死な声を聞いたことはない。全力を出している彼の顔には朱が走り、酷い苦痛を押し殺す奥歯は噛みしめられている。
「乗れ! シュセ!」
先ほど決めたはずの覚悟が、一瞬にして崩れ去る。迷う暇など無かった。シュセは剣を捨て動く右腕で、カルの戦馬に飛び乗った。橋はもうすぐ対岸につく。だというのに敵は追撃をあきらめない。二人を乗せた戦馬は徐々にその速度を落として行く。
このままでは、とシュセが降りようと考えたときカルは背後のシュセに向かって、荒い呼吸の中から言葉を与える。
「私より、先に、死ぬのは、許さぬ。そう申したはずだ……!」
振り返ったカルの顔には、微笑が浮かぶ。必ず助かると信じ切っている自信に溢れたその表情に、シュセは黙って頷く。
前を見れば、私兵達が弓を構えているのが見える。助かったのだ。カルの腰に回した手に力を込め、カルの背に額を付けてシュセは小さく呟いた。
「……はい」