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The Kingdom  作者: 春野隠者
ゴード暦528年 魔女の系譜6章
100/103

復讐するは我にあり7


 あなた……。

 さようなら、私の愛した人……。

 待ってくれと無様に叫ぶ自身の手の中を、愛するものは去っていった。

 それこそ手の中から滑り落ちる一握の砂のごとく。

 追いかけるべき自身の足は、鎖につながれ、鉄の格子が彼と彼女の間をさえぎっていた。

 血を吐くような叫びに答える者は何もいない。

 誰も彼も、目を背け、亡き者として扱った。

 もう、記憶とも呼べぬ感情の欠片。




▼△▼




 ロクサーヌの夜を巡る支配権は、今やオウカの手元にあった。

 円状に広がるロクサーヌの北側、半円を描く貴族区と呼ばれる地区から、南の地区平民区と呼ばれる地区まで。ほぼその耳目は網羅しているといってよい。

 密告者(ジュタール)、あるいは黒鳥の眼(フシュルノーア)と呼ばれる彼らは、普段はロクサーヌに住む一般の民間人となんら変わることはない。

 ただ、ひとたびオウカの指令があるたびにそれに関する情報を、オウカに挙げているのだ。膨大なその玉石混合の情報を総括できるからこそ、ジェルノ家は大貴族として他の追随を許さず、今日まで存在しえた。

 南のジェノヴァの支持を得られるのも、ジェノヴァ商人達にとって死活問題である、国中の情報を握っているからだ。

 天候の良し悪しは作物の出来を占い、交易品の流行物から、鉱山の産出量まで、およそジェルノ家に集まらない情報はない。

 それが例えば、ロクサーヌに巣食う賊徒の目撃情報であったとしても、だ。

「殺せ。一人も生かすな」

 サギリにトウカと呼ばれたその男は、別邸の一室に引きこもって彼の抱える暗殺団に指示を出す。

「御意のままに」

 傅く暗殺者に向けて憎憎しげに、舌打ちすると己が顔をなでる。

「やはり……魔女の血肉でなくば」

 皺が刻まれた顔は未だに老人のまま。

「やつの手下を殺せ。そうしてあの小娘を! この街から燻り出せ!」

 双頭の蛇に向かって凶手が伸びていた。

「しかし、まさかベイシュ・ライラック。今更になって、なぜ」

 王の剣“戦鬼”ベイシュ。

 かつての兇王に仕えた、最強の武人。

 すでに世を捨てたはずの男が、また世に出てこようとしているのか。

「君臣の情などと、ふざけたことは言うまい」

 ゆえに、オウカは問わねばならない。

 なぜ、あの娘にこだわるのか。

 サギリを目の前にしながら、あっさりと引き下がらなければならなかったのは、ひとえにあの男のためだ。

「一戦も辞さぬ、ということか」

 ぎり、と奥歯がなる。

「ならば、徹底的にやろうではないか」

 ベイシュが個人の戦いで、オウカはベイシュはおろか、双頭の蛇一人にすら劣るであろう。だが、彼らを殺すことはオウカには容易いことだった。

「地獄を与えてやろう」

 口元に漂う笑みは、獲物を追い詰める肉食獣のものだった。



▽▲▽




「サギリさんの居場所がわからないのに、こちらから討ってなど出れませんよ」

「けどな!」

 相手に地の利を取られたまま真正面からぶつかるなどルカンドは考えなかった。相手が地の利をもっているなら、それを覆すか、まったく別のこちらに地の利がある場所まで誘い出せばいい。

 いくらそう説明されてもターディが納得できる話ではなかった。

 やられるのは専ら彼らロクサーヌの賊徒達。双頭の蛇をはじめ、東都から来た賊徒達は襲われているという話すらない。

「わかっています。だから心配はしないでください。近日中に、支度は整えます」

「支度って……」

 思わず声を潜めるターディに、ルカンドは口元に僅かに笑みを乗せた。

「ロクサーヌの賊徒は、奴隷にまぎれてガドリアへ脱出してもらいます」

 その言葉に、ターディはルカンドに掴み掛かっていた。

 ルカンドが口元に浮かべた笑みの意味を悟ったのだ。

 嘲笑。

「小僧っ!」

 一回りも年下の子供に、馬鹿にされた。その事実が、序列も何もかもを忘れさせた。

 ルカンドの首筋に短剣を突きつけると、彼本来の凶暴な個性が顔を出す。

「舐めてんじゃねえぞ! 馬鹿にしやがって」

「命惜しさに、逃げ出すことを僕は責めません。僕の判断だといえば、サギリさんも納得してくれるでしょう」

 ルカンドの首元を締め上げる力の嵩があがる。

「命を懸けてロクサーヌにしがみ付く理由はなんです? 家族もなく、友人もいない。それなのに」

 だがルカンドは口を止めようとはしない。言葉はターディを切り刻むように、鋭利だった。

「俺はなァ──」

「……勝手に手を出さないでください」

 ルカンドを締め上げたターディの背後に向かってかけられた声。

 わずかに振り返ったターディが見たのは、黒衣の装束をまとった少年少女ら。仲間内(ロクサーヌ)からでも薄気味悪いと、避けられる彼ら。

 その存在に気がつかないほど気が立っていたのだろうか。振り返った先で湾曲した短剣を構える少女の姿に、その姿から立ち上る殺気に、ターディの背筋を冷たいものが落ちる。

 ルカンドの義足がカタリとなった。

 背後の殺気に釘付けになっていた視線をルカンドに戻せば、彼の手から抜け出したルカンドの姿。

「異存はありますか?」

「くっ……ねえよ!」

 ルカンドから背を向けたターディは、道を開ける双頭の蛇達の間を抜けて、部屋を出る。

 扉を出たところですれ違うクルドバーツを殴るようにどかすと、ターディは逃げるように去っていった。

「……ロクサーヌ側の賊徒も荒地へ向かわせるので?」

 部屋の外で聞き耳を立てていたのだろう。クルドバーツの言葉に、ルカンドは苦笑した。

「僕らは戦力を必要としています。即物的な意味ではなく、将来戦力になる得るものでもいい。情報、物資、人……なんでも、戦力だったものは必要じゃないでしょう?」

「切り捨てる、と?」

 一枚の便箋をルカンドは、クルドバーツに差し出した。

「これはっ!?」

 半信半疑で受け取ったクルドバーツの視線が凍る。

「今朝、ガドリアから届きました」

「ですが、これは、誇張などではなく……?」

 首を横に振るルカンドに冗談の色はない。

「飢饉がやってきます……おそらくガドリアは今年、一粒の麦も取れない」

 冷や汗がクルドバーツの額を流れる。

「まさか……やられた!」

 普段の柔和な笑顔からは想像もつかない絶望を顔に張り付かせて、クルドバーツは頭をかきむしる。

「ジェノヴァの人でなしども(クライビッグ)め!」

 普段の彼ならば絶対に口にしないであろう罵詈雑言。

「今朝から、ジェノヴァ商人達が一気に穀物を買占めに走っています! それ原因で穀物は急騰」

 そのクルドバーツの言葉に、ルカンドは目を見開く。

「先手を打たれた!」

「クルドバーツさん、こちらも穀物の買いを」

「言われずとも」

 走り去るクルドバーツを見送って、ルカンドは一人思案にくれる。

「本気になったということか……オウカ・ジェルノ」

 ロアヌキア開闢以来の名門。この地に深く根を張る大貴族という敵の大きさに、ルカンドは自身の無力を思わずにはいられなかった。



 △▼△



 目覚めたジンを待っていたのは、沈み込むようなふかふかのベッドと、小鳥のさえずりだった。

「ん……あぁ、ジンさん目が覚めました?」

 自身はサイドテーブルに突っ伏して眠ったのだろう。頬に、寝起きの跡をつけながらシュセは声をかけた。

「俺は……どのくらい寝ていた?」

 起き上がりながら、体を動かす。

「二日になります。それより何か食べます?」

 強烈な空腹感。既に苦痛になりつつあるそれを、感じながらジンは問いかけた。

「なんでも、いい」

「ちょっとまっていてくださいね」

 寝起きとは思えない軽やかな足取りで部屋を後にすると、シュセは台所に向かう。

「シュセ様、何もお手ずからそのようなことなさらずとも」

 慌てる侍従達を抑えると、厚焼きのパンと焼豚のハムを彼女自ら手にとって、台所に向かう。

「良いのです。わたくしがしたいと思っているのですから、あなたがたの手落ちはありません。それが原因で叱責をうけるようなら、わたくし自ら釈明しましょう」

 柔らかく微笑まれると、年若い召使いの少女などは頬を染めてうつむくいてしまう。

 台所からシュセが去ったのを契機として、厨房を預かる侍従たちの間では噂話しの花が咲く。

 あのシュセ様が部屋に伴った者はなにものなのだろう?

 恋人?生き別れの兄弟?

 ロクサーヌの治安を預かる彼女の多忙な政務の合間を縫って、彼の看病をしている彼女はほとんど眠っていないのではないだろうか。それでも手を尽くす、などよほど親しい者に違いない。

 戦乙女、あるいは西方侯主の肩書きを持つ彼女に関するゴシップなどというものは、これまで一度も噂に登らなかっただけに、噂の大好きな雀たちはあれやこれやと噂話しに花を咲かせていた。


 一方そんなことは露と知らぬ彼女は、目の前で夢中になってパンを頬張るジンの様子を、楽しげに見守っていた。

「美味しいですか?」

 咀嚼したまま黙って頷くジンの様子に、自然と口元がほころぶ。

 右手に最後のパンを握り、左手にはハムを豪快にそのまま齧りながら食べていたジンが、その動きを止めた。

「お前、飯は食ったのか?」

「はい? いえ、まだですが……」

 聞かれた問いがあまりにも予想外だったので、シュセは何も考えずに答えてしまう。

 それを聞いたジンは名残惜しげに、自分の握ったパンを見下ろすと、顔を背けてシュセに差し出す。

「やる」

 やるもなにも、それは元々シュセが持ってきたものなのだ。

 シュセはそれを思うと同時に、ジンの心遣いに、笑いがこみ上げてくるのを耐え切れなかった。

「なんで笑ってんだ」

 戦い以外のことになると、目の前の青年はほんとうに年端もいかない少年のようだった。

 シュセは彼のそういうところが、いたく気に入っていたし、それに気づかないジンを大いに気に入っていた。

「いえ、わたくしは他のものがありますから、それは貴方のためにもらってきたものです。どうぞ遠慮なさらず」

 その返答を聞くや否や、一瞬のためらいの後ジンは再びパンにかじりついた。

「少しは落ち着きました?」

 全てを平らげて人心地ついたジンは、シュセの声に頷いた。

「では、支度をしてきます。行きましょうか」

「行くって、どこへ?」

「サギリさんのところへ。貴方の姉君を、助けに」

 くすりと、笑う彼女の笑顔は、ジンの胸に刃を打ち立てた。

「なん、で」

 呼吸すらままならないまま、呆然とシュセに問いかける。

「ロクサーヌを焼いた火事も大方の目処はつきました。犯人の方は未だ目星もついていませんが、こればかりは地道な捜査が必要になってくるでしょう。現状、わたくしが治安を維持するために必要なことはそれほど多くありません」

 それは、彼女の地位が言わせた理由。

「それに、わたくしはもう、わたくしの知りうる範囲で誰一人不幸になどなってほしくはない……それはもちろん貴方も含まれるのですよ。ジンさん」

 手近にあった銀の意匠を施された細剣を手に取ると、丈の短い外套を羽織る。

「さあ」

 差し出された手に、戸惑いながらジンは従っていた。





 △▼△



 これが現実なのか。

 求めた力の代償が──血塗られた螺旋の道の、ここが限界なのか。

 だとしてどうして、自分は生き延び、あの男は生きている?

 軋みをあげる体。特に、左肩から下は、動かそうとしても、ぴくりとも動かない。まるで左肩から先に重りを垂らしているだけの無様な姿に、サギリは自身の胸に絶望が覆うのを感じた。

 魔女と忌み嫌われたはずの、肌の下を這い回っていたはずの力さえも感じない。

 庭園の中、一人立ち尽くすサギリは右手に握った短剣を力なく取り落とした。

「ちくしょう……」

 見上げるのは、重々しい曇天の空。

 まもなく振り出すであろう雨の予感に、彼女は呆然と呟いた。

「あと、一人なんだ……あと一人。それさえ、叶わないのか……?」

 心を殺し、体を傷つけ、力を得るため幾多の命を奪ってきた。

 狂おしいほどの、喪失感。

 目の前に伸し掛る曇天は、絶望の色をしていた。

 ギィ、と庭園の古びた扉が開く音。

「……サギリ」

 どれだけそうしていたのだろうか、呼びかけられた声に反応して見た先には、ジンとそれに付き添うシュセの姿あった。自然と口元に、引きつったような笑みが浮かぶ。

「ああ、そうか……そういうことか」

 ジンまで離れていってしまう。

 力のない自身など、捨てられる塵芥だ。誰も気にかける存在ですらない。

 そう思えば自嘲の笑も湧いてくる。

「よぉ、ジンどうかしたか?」

 天へ向けていた視線を地に落とす。短剣を拾うと、動く右手で弄ぶ。


▽▲▽



「サギリ……俺は」

 “貴方はしっかりと彼女と向き合わねばならない”

 シュセの言葉に励まされ、ジンはサギリと向かい合っていた。

「俺は──」

「ジン」

 言い出そうとするジンの言葉を遮ったのは、サギリの黒く燃えるような瞳だった。

「望みがあるなら、まずはこっちだろ? 抜け」

 憎悪すら混じった強い視線に、ジンはたじろいだ。

 そんなものを向けられたことはない。

 ジンの中でサギリは、常に導き手だった。

 焦がれてやまない存在、自身が唯一従うに足る存在。

 なのに──。

「サギリ──!?」

 目の前を銀の閃光が走り抜ける。右から左へ横一閃。目にもとまらぬ速さで駆け抜けた短剣が、鋭い軌道を描いて戻ってくる。

 戸惑いながらもそれを、染み付いた動作で避ける。

「ほしいものがあれば、奪ってみせろ!」

 それが掟だ。

 いつかのあの日のようなサギリの言葉に、ジンは二対の小太刀を抜き放つ。

「ジンさん!?」

「黙ってみてろ」

 シュセをその場に残して、サギリとの闘争の場に身を躍らせる。

 ほぼ直線、点にしか視認できない突きがジンに迫る。それを僅かに、体をずらして避けると、反撃の右の小太刀がサギリの体を襲う。

 間に差し込まれる短剣、微妙に軌道をそらすそれがジンの体勢を崩す。

「くっ……」

 もれた苦痛の声は、どちらがさきだったか。

 踏み込んでくるはずのサギリは、それ以上踏み込んで来ない。

 かわりに、間に合ってしまうジンの右の小太刀。

 振るわれる暴力に、再び短剣が差し込まれる。

 軌道をそらすことには成功するが、ジンの体勢を崩すにはいたらない。

「ああぁぁ!」

 苦痛を噛み殺し、声を荒らげて彼女は剣を振るう。

 だが、ジンにはもはや、それらは脅威を感じることはなかった。

 傷つき、剣を振るう彼女が痛ましい。

 降り出した雨が、二人を濡らす。

 にもかかわらず、サギリは剣を振るうのをやめようとはしなかったし、ジンは反撃に移れないでいた。

「……もう、いい」

 雨にぬれ、がむしゃらに剣を振るう彼女の姿を、ジンはそれ以上直視していることが辛かった。

 その宣言そのままに、彼女の手から短剣を弾き飛ばす。

 一緒に吹き飛んだサギリを見下ろして、ジンは大地に仰向けて倒れる彼女に歩み寄る。

「もう、良いんだ」

 荒い息を吐きながら、泣き出した空を見上げるサギリはジンの言葉を呆然と聞いていた。

「……好き、にしろ。もう、アタシにはお前を縛る力は、ない」

 その言葉に、ジンは勝利したにもかかわらず地面に両膝をついた。

 小太刀を地面に突き立て、彼女を抱き起こす。

「サギリ……俺が、守ってやる。だからもう──」



△▼△



 その言葉を聞いたとき、サギリの息は止まった。

「俺が、お前を守ってやる」

 雨に泣き濡れたジンの言葉に、悪夢が重なる。

 ──わたしが、あなたを守るから。

「やめろ……」

 自身の口から出たとは思えない怯えた声。それさえ今は気にしている余裕すらない。

 過去から伸びてきた姉の手が、彼女の首を絞めるのだ。

「やめろ、やめろ! 来るな!!」

 悪夢が、実態を伴って現実を侵食する。

 サギリの目に映るのは、ジンではなく顔のない姉の姿。

「あ、あ、あああ──!!」

 顔を覆い、自分を抱きとめるジンを押しのける。

 降り注ぐ雨の中を、サギリは逃げ惑って館の中へ入った。

 濡れたままベッドに潜り込む。

 これが悪夢でなくてなんなのだ。

 ついに、遂に恐れていた悪夢が這い出してきた。

 姉さんが、姉さんが──。

「ねえ、サギリ。私が貴方を守るから」

 その声は過去からの亡霊囁き。 

 だが彼女の耳には、現実としか聞こえなかった。

「違う。違う! わたしはそんな名前(・・・・・)じゃないっ!」

「サギリ」

 優しい声が、サギリを深い奈落の底へ突き落す。

「やめろぉぉ!!」

 悲鳴をあげて、そのまま、サギリは気を失った。


▽▲▽


 狂乱のまま去りゆくサギリの背を、ジンは雨に打たれながら見送った。

「サギリ……」

 呼びかけた声は、もう彼女に届かないと知りながら。

「ジンさん……」

 同じく雨に濡れてシュセはジンの側に寄り添う。

「……オウカ・ジェルノの居場所を教えてくれ」

 顔を上げた彼の言葉に、シュセは言葉に詰まった。

「なぜ」

「教えてくれないのなら、それでいい」

 幽鬼のように立ち上がるジンの姿に、不吉なモノを感じずにはいられない。

「ジンさん!」

「世話になった」

 廃墟と思しき庭園から、ジンは立ち去る。

 サギリの向かった邸宅とは反対方向。

 背を向けた彼に、シュセは言葉もなく立ち尽くしていた。




▼△▲



 ベイシュは、ロクサーヌを一望出来る丘の上から、夜の街を見下ろしていた。

「華やかなりし、我らがロクサーヌ」

 一緒に戦った仲間も、仰ぐべき主君も今は既にない。

「老けたかね」

 今年はいやに冷える。

 誰にともなく問いかけて、彼は丘を降りるために立ち上がった。

「どうか、安らかに……なんて、柄にもねえか」

 郷愁を胸にしまい込むと、桜の大木を軽く叩いてその場を後にする。

 丘を降りて、貴族街をぶらぶらと歩いていく。火事騒ぎのあとで、どこもピリピリとした緊張感が伝わってくる。

 それが久しく嗅いでいなかった懐かしき戦場の空気と似ていたからだろうか。

 焼け跡に佇む、その男に気がついたのは。

 普段なら声もかけず通り過ぎるその男。

 ジン名乗った青年。

「よぉ、どうした。こんなところで」

「待っていた」

 天を仰ぐジン、孤高の狼が月を見上げる様に似て、中々絵になっていた。

「誰を?」

「お前、オウカの居場所知ってるだろう?」

 未だ話しかけているベイシュの方を見ようとせず、天を仰ぐその姿に苦笑する。

「知っているって言えばどうする?」

「教えてくれ」

 ふん、とその言葉を鼻で笑う。

「嫌だといったら?」

 無言で仰いでいた天から視線が落ちてくる。

 腰に回した手が、小太刀の柄を掴み、一度抜いて再び仕舞われる。

 澄んだ音が、闇の廃墟に鳴り響いた。

「力ずくか……嫌いじゃねえが」

 赤く燃えるような瞳が、ベイシュを睨む。

「知ってどうする?」

「オウカを殺す」

「お前じゃ無理だろう。あのお嬢だって無理だったんだ」

 虚空を見据えるようなジンの目が細まる。

「お前、何を知っている?」

「育ての親としちゃぁ、娘のことは心配でね。それなりに知っているさ」

「……親、か」

「剣を教えて、少しの間養っただけさ。あとはお嬢が勝手に生きていく道を決めた」

「オウカの居場所を教えろ」

 再びの要求は、怒りが含まれていた。

「おいおい、ただで教えるわけがねえだろう? せめてその気にさせてくれなくちゃぁな」

 腰に指した大刀をぽんと叩くベイシュが、不敵に笑う。

「殺すぞ、お前も」

 体を向けたジンは、低く姿勢をとった。

「その気に、させてくれよ。兄ちゃん」

 浮かぶのは猛獣の笑み。

 月下に二人の獣が牙を剥く。

 月明かりを反射して鈍く光るベイシュの大刀が、流れるように空気すらも切り裂く。

 髪を何本か巻き込まれながら、ジンはその下を潜る。直後突き上げるようにして、ジンの右の小太刀がベイシュの頭を襲う。

 刃とベイシュの顎との間には、髪の毛一本分の間しかない。振り抜いた大刀を手元に戻して下から来るジンを串刺しにしようと手元に引き寄せ。

 追い打ちをかけるジンの左の小太刀を払いのける。

 予想以上の力で払われた左に、体勢が崩れる。

 それを見逃すベイシュではない。ジンの左を払ったままの姿勢から、ジンの足を狙った刺突。

 寸分の隙もなく繰り出された一撃を、ジンは勘を頼りに飛び退く。

 掠るだけにとどめた傷を、一瞥する余裕もなく再び左右の小太刀を交差に合わせて、ベイシュに襲いかかる。

 右を受ければ左が、左を交わせば、右が襲いかかる。

 二段構えの突進にベイシュは地面に突き刺したままだった、大刀をそのまま振り抜く。地面から直接ジンを襲う刃は、土くれ諸共、ジンに襲いかかった。

 避ければ追い撃たれる。

 直感的に理解したジンは、その土くれを全身に浴びながら、ベイシュの刃を交差した両の小太刀で受け止めた。

 ぎりぎり、と刃と刃が交差する鍔迫り合い。

 凶相に牙を剥くジンと、猛獣の笑みを浮かべるベイシュが殺気を放ちながら交える刃は、相手の命を奪い合うのに一片の躊躇もない。

 

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