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B病棟の待ち合わせ

作者: 雉里ほろろ

 深夜、皆が寝静まった頃を見計らって小さな影がゆっくりとベッドから体を起こした。白くて細い足先をスリッパの中に滑り込ませる。

 この病室は個室なので少年の他には誰もいないのだが、それでも彼は誰にも気付かれないように息を殺していた。

 少年は立ち上がり髪が跳ねていないかを手櫛で確かめると、患者服の前をしっかり合わせなおして静かに病室を抜け出した。

 病院の廊下は耳が痛くなりそうなほど静まりかえっていた。明かりを絞られた夜間灯が足下をぼんやりと照らしているだけなので薄暗く、遠くで対照的に明るい緑の非常灯が不気味に目立っている。

 しかし廊下を歩く少年の表情に不安や恐怖はない。こっそりと病室のベッドを抜け出している背徳的な緊張こそあれ、彼の表情は明るいものだ。

 なぜなら、これから大事な待ち合わせがあるから。彼はそれが楽しみで仕方がないのだ。

 少年は自分の病室がある階から階段を下り、四階から二階まで一気に降りてくる。そして二階廊下の奥へと迷いなく進んでゆく。廊下の角を曲がると、そこには休憩スペースがあった。

 壁には静音式の掛け時計が一つ。小さなベンチソファがいくつか並び、そしてその隣に観葉植物があるだけの小さなスペース。階段の位置からはちょうど見えないここが少年の目的地だ。

 待ち合わせの相手はいつも大抵、少年よりも後からやってくる。彼はベンチソファに座り、相手を待つことにした。

 壁側に背を向け、ぼんやりと廊下を眺めて待つ。視線の先は薄ぼんやりと灯りで照らされているだけ。

 静かな深夜ということもあり、少年は徐々に微睡み始める。それでも眠るわけにはいかないと何度か頭をこっくりこっくり、船をこいでいると。

「ごめん、お待たせ」

 すぐ側から声がして、少年は頭をあげた。

 いつの間にか、すぐ隣に少女が座っていた。患者服を着ている彼女は薄く微笑んでいる。

「随分待った? 眠たそうだったけれど」

「ううん、そんなことないよ」

 少年もまた嬉しそうに笑い返す。そして、

「こんばんは、アキちゃん」

「こんばんは、ハルくん」

 二人の少年少女は互いをそう呼び合った。




 ハルがアキと名乗る少女と初めて出会ったのは、今から一ヶ月ほど前のことだ。

 その日、ハルは夜中にトイレへ行きたくなり、自分の病室を出た。そして何事もなく用を足し、自分の病室に戻ろうとしたのだが、そこで何故かふと、このまま病室に戻るのが勿体ないような気がしたのだ。

 夜中に病室を抜け出して出歩くのは決して褒められた行為ではない。入院中の病人であるハルは、むやみに歩き回ることも禁止されている。それでも何故か、小さな冒険心のようなものが突然ハルの中に芽生えてしまった。

 そして「少しだけだから」と誰に聞かせるわけでもない言い訳をして、ハルは足の向くままに別の階を覗いてみることにした。ひとまずの目的地を一階に定め、階段へ向かう。

 夜の病院は不安になるほど静かで、階段は全てを飲み込む大きな口のように暗く下へと続いている。一歩一歩、ゆっくりとした足取りでハルは階段を下った。

 そして三階を過ぎて二階へとやってきた時、ハルの耳が微かな音を捉えた。

 それは誰かがすすり泣くような、そんな音だった。

 気のせいかもしれない。引き返すのなら今しかない。だがそれでもハルは恐る恐る音がした方向へ、二階廊下の奥へと進みだす。

 近づくにつれ、音は徐々にはっきりとし始める。泣いているのは少女だろうか?

 決して大きな声ではないのだが、静かすぎる病院ではその小さな声がよく聞こえた。

 音は廊下の奥にある休憩スペースから聞こえてきている。ハルはその手前の角で一度立ち止まり、深呼吸をした。

 緊張で震える足を動かし、休憩スペースを角からのぞき込む。

 暗い休憩スペースの片隅にあるベンチソファに、一人の少女が座っていた。俯いた顔はよく見えないが、肩が小さく震えているのが分かる。

 ハルは思わず近づいて、泣いている少女に声をかけた。

「……どうしたの?」

 誰かがいるとは思わなかったのだろう。少女の肩がびくりと跳ねた。驚きで見開かれた瞳と視線がぶつかった。

 大きく開いた瞼が涙を支えきれなくなり、ぽろりとこぼれ落ちた。

 彼女は涙を見られたくないのか、ぐしぐしと手で涙を拭った。

「び、びっくりした……」

「ご、ごめん。声が聞こえたから」

 ハルはこんなときにどうしたら良いのかが分からず、その場でおろおろと立ちすくんでしまう。

「……ねぇ、ちょっとお喋りしない?」

 少女はそんなハルの様子に呆れたような笑みを作って、隣のベンチを指さした。




「私の名前はアキ。あなたは?」

 少し時間をおいて気持ちが落ち着いたのか、アキと名乗った少女は先ほどまでの涙を感じさせない声で名乗った。

「僕はハルだよ」

「わ、凄い偶然ね。二人合わせて春と秋じゃない」

 二人合わせて春と秋。アキの言葉を繰り返して、確かにとハルは頷く。

「同い年くらいの子が同じ病院にいたなんて知らなかったわ」

「僕もだよ。かなり長い間この病院にいるんだけど」

「そうなの? なら私と一緒ね。私も入院が長引いているの。ハルくんの病室はどこ?」

「B427号室だよ。アキちゃんは?」

「あら、ちょうど真上の階なんだ。私はB227号室なの」

 話すうちに互いの共通点らしきところがどんどんと見つかり、二人は暗がりの中で顔を見合わせて静かに笑いあった。

 アキとは仲良くなれそう。そんな根拠のない確信がハルの中にはあった。

 そうしてしばらく二人が自己紹介とも言うべき会話を交わした後、ハルは気になっていたことを尋ねた。

「ねぇ、どうして泣いていたのか聞いてもいい?」

「……もう、女の子に涙のワケを聞くのはマナー違反なのよ? この前ドラマで言ってたわ」

 直球なハルの質問に対してアキは恥ずかしそうに頬を膨らませ、それから目を伏せて寂しそうに笑う。

 ハルはやはりマズいことを聞いてしまったかと慌てる。その慌て振りをみてアキは小さく噴き出した。そして困ったように眉を下げた。

「大した事じゃないのよ。お父さんもお母さんも、お仕事が忙しくて全然お見舞いに来てくれないの。それが……ちょっと不安になっちゃっただけ」

 家族が来てくれない不安というのは、ハルにも少し分かる気がした。大した事じゃないと口では強がっているが、アキはきっと不安で仕方がないのだ。

 だからこんなところで一人で涙を流していたのだろう。

「ずっと一人で……話し相手もいないし」

「そ、それなら僕が話し相手になるよ!」

 ハルはそれが凄く悲しいことだと思った。それにハルも、似たような寂しさを感じていなかったと言えば嘘になる。ハルも話し相手が欲しかった。だから思わず立ち上がり、アキにそんな提案をした。

 アキは驚いて数度瞬きをし、それから不安そうに瞳を揺らし、

「本当にいいの……?」

「勿論! お昼は難しいかもしれないけど。でも夜ならこうして二人でお喋り出来るよ」

 アキは嬉しそうに小さく頷いた。

 こうして二人の間で夜の待ち合わせが約束された。




 夜の待ち合わせには、約束が三つあった。

 一つ目の約束は、待ち合わせは三日に一度。毎日でも話したい気持ちはハルにもアキにもあったが、毎晩の夜更かしは体に悪いという判断のもと交わされた約束だ。

 二つ目の約束は、待ち合わせのことを誰にも話さないこと。病室を抜け出しての待ち合わせなのだから、誰かに見つかったら大目玉を食らうに違いない。だから誰にも知らせることなく、この待ち合わせのことは二人だけの秘密にしようと。

 そして三つ目の約束は、三十分経ったらバラバラに病室へ戻ること。三十分以上はお喋りしないし、病室に戻るときは二人ともタイミングをわざとずらして帰る。

 それが二人の間で交わされた、待ち合わせの約束だった。




 そして今夜も待ち合わせをした二人。アキはその手に折り紙を持っていた。どうやら今夜の遊び道具らしい。

「折り紙?」

「うん。一緒にどう?」

 アキは袋から赤色の折り紙を一枚取りだした。ハルはそれを受け取り、ひらひらと数度なびかせてみる。原色の赤が暗闇で動く様が妙に毒々しく、何故か血を連想してしまった。折り紙の代わりに首をふるふると振って妙な想像を振り払う。その様子を不思議そうな顔でアキが見ていた。

「折り紙かぁ……あんまり得意じゃないんだよね」

「そうなの? なら私が教えてあげるわ」

 ほら、見てて。そう言ってアキはもう一枚、赤の折り紙を取りだしてゆっくりと折っていく。慣れた手つきで綺麗な鶴が完成した。

「どう? 分かった?」

「うーん……」

 アキの手際が良いことは分かったが、一度見ただけで手順を覚えられるほどハルは要領が良くない。

「なら、今度は私と一緒に折ってみて」

 アキは二つ目の鶴を折り始めた。

 促されるままにハルはアキの手元をのぞき込み、見よう見まねで折り紙を折っていく。二人は仲良く肩を寄せ合い、囁きのような声で話した。

「そうそう。それから次は裏返して、ここを三角に折って」

「こ、こうかな?」

「ちょっと端がずれてる。それだと綺麗にならないわ」

 不器用な手つきのハルを見かねて折り方を直接教えようと、アキはハルの手に自分の手を添えた。

 それはきっと深く考えた行動ではなかったのだろう。

 怖いくらいにひやりとした感触だった。驚いたハルは思わず手を引いてしまう。折りかけの鶴が床にパサリと小さな音を立てて落ちてしまった。

「何よ、そんなに照れなくたって良いでしょ?」

「あ、ごめん……」

 クスクスとからかうようにアキは笑う。ハルも誤魔化すように笑った。だが、嫌に背筋が冷えた。

 落ちた鶴を拾い上げる。折りかけの赤い鶴は未だ体がぐちゃぐちゃで、それがひどく不気味に感じられた。

「……それで、次は?」

「後はここが出るように折って、頭を作ったら羽を広げて完成よ」

 ハルもすぐに自分の鶴を完成させた。アキが折った物と見比べると少し歪んでいて不格好だが、まぁまぁの出来だろう。

 アキはしばらくニコニコとハルが作った鶴を眺め、

「せっかくだから私のと交換しない?」

 そう言って自分が折った綺麗な鶴を差し出した。

「ねぇ、いいでしょ?」

「うん。良いよ」

 断る理由はない。ハルは素直に交換に応じた。アキの右手にはハルが折った不格好な鶴が、左手には始めにアキが折っていた一体目の綺麗な鶴がちょこんと乗っている。彼女はその二つを見比べると、何故か満足そうに笑った。

 ハルもまた、アキが作った二体目の鶴を手の平で大切に持った。

「じゃあ、そろそろ時間ね」

 アキはすっと静かに立ち上がった。壁に掛かった時計を見ると約束の三十分が経っていた。名残惜しいが時間だ。

 ここの壁掛け時計は針の音がしないので時間が経ったことに気がつきにくいと、ハルはそう思った。

「それじゃあ先に帰るわね」

「うん。気をつけてね、アキちゃん。また三日後に」

「うん。ハルくんもまた三日後にね」

 アキが静かに歩いて行く背中を見送る。そうして廊下の角を曲がったアキの姿が見えなくなった。

 彼女の病室はB227号室らしい。角を曲がればすぐそこの病室だ。だけど、一緒に帰ることはしない。不思議に思うかもしれないが、それが約束だから。

 だから彼女が本当にB227号室に帰っているのか、ハルには分からない。病室の前にあるプレートはいつも見ないようにしている。

 それだけではない。年が近いとは思うが、アキが本当は何歳なのか知らない。アキ、という名前がどういう字で書くのかも知らない。そもそもアキという名前が本当なのかも確かめていない。

 でもそれで良いのだ。同じようにアキもまたハルの病室も、年齢も、名前も分からないのだから。知られては、困るから。

 五分、ハルはそのまま静かに一人で過ごす。音がしない時計の針を睨みつけるようにして、微動だにせず。そして五分経ってから自分の病室に戻ることを決めていた。

 廊下の角を曲がる。廊下にも階段にも、人の気配はどこにもない。あるのは冷え切った夜の暗闇だけ。その中をかき分けるように進む。

 ハルは静かに階段を昇り、誰もいない四階にある自分の病室へと戻ってゆく。


 足音は、しなかった。




「あら? これはどうしたの?」

 アキのお見舞いに来た彼女の母は、娘の枕元に置いてある二羽の折り鶴に気がついた。

 片方は整っていて、もう片方は少し不格好。どちらか片方はアキ以外の人物が折った物だと分かる。

「あ、それはね。ハルくんが折ったの」

「ハルくん?」

「そう。新しく出来たお友達なの」

 仕事が忙しくどうしても見舞いにこれない日々が続いてしまって、娘には寂しい思いをさせていたのだと思っていたが、どうやら娘には同じ病院内で友達が出来たらしい。アキの母親は少し安堵した。

 君付けだから、男の子なのだろうか。ともあれ娘は嬉しそうで、それは喜ばしいことだった。

「へぇ、ハルくんね。どこで会ったの?」

「内緒よ」

 悪戯っぽく笑うアキ。「内緒ならしょうがないなー」と、母親が頭を撫でてやるとくすぐったそうに首をすくめた。

「じゃあハルくんはどこの子なの? 病室は?」

 アキは少しだけ考えるような素振りを見せたが、隠すことでもないと思ったのかすぐに母親に打ち明ける。

「B427号室って言っていたわ」

「えっ……?」

 瞬間、手が止まった。母親の顔から徐々に血の気が引く。

「B427号室なの? A棟じゃなくって?」

「うん。B棟って言ってたよ」

 いや、そんなはずはない。なぜなら、


「――B棟は、三階までしかないわよ?」


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― 新着の感想 ―
[一言]  こういうホラーって、恐怖より哀しさが先行するんですよね……。  共に生者ならと、そう思わずにはいられないのです。  彼女が彼を怖れなければいいのですが、それが難しいこともまた、事実なんで…
[良い点] 意外な結末にゾクリとしました。 怖かったです。
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