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セピア2 友達じゃない恋人じゃない

作者: 山本哲也

 ピンポーン

 亮太の部屋のチャイムが鳴った。

 「へいへい」

 めんどくさそうにそう呟きながら、テレビゲームにポーズをかけ、玄関まで行ってドアを開ける。

 「おじゃましまーす…」

 思った通り、幼なじみの典子だった。典子は時々こうして亮太の部屋にご飯を作りに来ているのだ。

 「亮太、ちょっと付き合って」

 入ってくるなり、典子は言う。ぴったりとした細身の白いズボンの上にニットアンサンブルという姿の典子の手には色々書き込まれたメモがあり、亮太にはその意図がすぐに分かった。

 「嫌だ。どうせ買い物だろ」

 亮太は素っ気なくそう言うと奥に入ってゲームの続きをやろうとする。

 「あっそ。じゃ、もうゴハン作ってあげない」

 亮太はぴたりと立ち止まった。振り返ると、典子が得意げな笑顔で立っている。

 「…」

 がっくりと肩を落とす亮太。亮太に拒否権はなかった。


 もうすぐ始まる連休が待ち遠しい、四月の午後のこと。亮太は大きな紙袋いっぱいの食料を抱えている。

 「重いなぁ。何でいつもこんなにたくさん買い込むんだよ」

 「亮太が食べるんでしょ」

 典子はそう言いながらレシートを見ていた。時折何かぶつぶつと呟いている。

 「…ニンジンが三本で百九十八円…」

 「まるで主婦だな」

 亮太が嫌味を言うと、典子は顔も上げずに亮太を小突く。

 「いてっ」

 これは毎週のように二人の間で交わされている会話だ。二人は大抵、土曜日に次の週の分の食料をまとめて買い出しに行っているのだ。

 「あれぇ、亮太君じゃない?」

 抱えている大きな紙袋の向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえた。

 「加奈ちゃん? どしたのこんな所で」

 亮太がそう言うと、紙袋の向こう側からセミロングの髪の女の子がひょいっと顔を出した。フレアミニのスカートにボーダーのTシャツ、その上からはパーカーを羽織っていて、いかにも活発そうな女の子だ。

 彼女は、亮太のバイト仲間の安西加奈あんざいかな

 典子よりは少し小柄だろうか、向かって左側の前から横にかけての髪をボンボン―円いプラスチックの玉飾りが二つ付いた髪をまとめるためのゴムの事―でまとめているのがちょっと幼い印象すら与えている。

 「どしたの、じゃないでしょ。バイトの帰りよ。今日ね、すっごく混んで、もー大変だったんだから…」

 加奈がオーバーな身振りで話すと、それにあわせてボンボンでまとめた髪が揺れる。

「…でね、そのお客さんが怒っちゃって… って、あ…」

 加奈は急に真面目な顔になったかと思うと、亮太と側にいる典子の顔をかわるがわる見比べる。

 「へーえ、亮太君、なかなか隅におけないなあ。このこのっ」

 加奈はニヤニヤ笑いながらジト目になって肘で亮太をつつく真似をした。

 「な、何だよ、その顔は」

 何の事だか解らずに亮太は尋ねる。

 「いーえ、何でもありません。ごめんね、邪魔しちゃって。じゃ」

 亮太に向かってそう言い、典子に軽く会釈をした加奈はなにやら意味ありげな笑顔を残して行ってしまった。後に残された亮太はポカンと口を開けたまま、典子の方を見て尋ねる。

 「…何だ、あれ?」

 「知らない」

 典子はやれやれという風に溜め息をついて肩をすくめた。もちろん、典子には加奈の笑顔の意味はわかっている。だが、それをいちいちこの鈍感の上に「超」がつくほどの男に説明してやる気力はない。

 (ホントウニソウダッタライイノニ…)

 典子の心の中の何かが、そう呟く。

 不意に、典子は胸が締め付けられているような感じがした。

 (ただの幼なじみ…)

 その何かを押さえ込むように、そして自分自身に言い聞かせるように、そっと心の中で呟く。その言葉は、いつしか典子にとって自分の心の中の何かを鎮めるための呪文のようになっていた。

 加奈は亮太と同じ、亮太の叔父が経営しているファミレス、「ジョックス」でバイトをしているフリーターの女の子だ。亮太とは同い年のせいか、それとも持ち前の明るさのせいか、結構仲がいい。何でも、一度高校に入学したらしいが、物足りなさを感じてわずか3ヶ月足らずでやめ、その後、実家を離れてこっちで一人暮らしをしているのだという。実家は結構遠い所にあるらしいが、加奈はあまり自分の事は話そうとはしなかった。

 「さ、亮太、ぼさっと突っ立ってないで行こ」

 「お、おう」

 あきれたような顔の典子にうながされ、亮太はきょとんとした表情のまま歩き始めた。


 あと一週間とちょっとで中間テストが始まる。

 いっそのこと連休の前にテストが終わってしまえば思いっきり遊べるのにと思う。もっとも、どちらにしろ亮太に勉強する気はないのではあるが…。

 「ふぁ…」

 連日遅くまで勉強しているのだろうか、今日の典子は何だかとても眠そうだ。時々あくびをかみ殺している。包丁を持つ手もいつになく危なっかしく、見ていられなくなって亮太は言う。

 「お前の指入りの料理なんてのはごめんだぜ」

 「黙ってなさい」

 それから暫く、二人はそれぞれのしていた事を黙々と続けた。トントンと野菜を切る音と、控えめなゲームの音が部屋に響く。あまりうるさくしていると典子に怒られるからだ。やがて、典子が

 「痛っ」

 と小さな悲鳴を上げ、左手の人差し指をくわえた。

 「…ほら見ろ、ぼーっとしてっからだよ…いいから。そこで座ってろ」

 ちょっと偉そうにそう言って、典子をローテーブルの脇に座らせると、亮太はゲームをやめ、あちこちの戸棚や引き出しを引っかき回す。だが、お目当てのものは見付からない。

 「…えーっと、絆創膏ってどこだっけ?」

 やがてぽりぽりと頭をかきながらとぼけた様子で典子に尋ねる。

 「テレビの隣の小物入れの上から二番目」

 その様子を見ていた典子が、「やっぱり」というような調子で言う。すっかり呆れているようだ。

 「お、あったあった。典子、手、出せよ」

 そんな典子を無視して、亮太は引き出しから絆創膏の箱を取り出し、ローテーブルの側にあぐらをかいて典子を呼び寄せる。

 「い、いいわよ。そのくらい、自分でやるから。貸して」

 典子が頬をほんのりと染めてちょっと照れた様子で断ろうとするが亮太は気づかない。

 「やってやるよ。片手じゃやりにくいだろ」

 そう言いながら亮太は典子の手を取って自分の方に引き寄せた。

 典子は黙ってされるに任せた。顔を上げ、亮太の方をそっと伺うと、亮太は典子の指の傷を消毒して絆創膏を貼るのに夢中になっている。

 (亮太…)

 典子は右手をそっと握った。

 「ほい。できたぞ」

 そんな典子の様子など全く気づいた様子のない亮太が誇らしげな声で言う。典子はその声ではっと我に返った。顔が火照っているようで、俯いたまま顔を上げられない。

 「あ、ありがと。でもさ、手当してもらっといてこう言うのは何だけど、ここは亮太の部屋でしょ。そのくらいの場所、覚えてないの?」

 わざと馬鹿にするような声で、典子は言う。

 「うるさいなあ、いちいちそんなこと覚えてられっかよ」

 「…もう。しょうがないなぁ。いーい? あたしだっていつまでもこうして来られるってわけじゃないんですからね。亮太より先に結婚しちゃったらどうするの?」

 「へへーんだ。お前が俺より先に結婚できんのかよ」

 「言ってくれるじゃない? 亮太おぼっちゃま。美雪と手ぐらいは握れるようになったのかしら?」

 馬鹿にした声で典子が言う。

 「そ、そんなのもーバリバリだぜっ!」

 亮太が精一杯の虚勢をはる。

 「ほほーう。どうバリバリなのか説明してもらおうじゃない?」

 悪戯っぽく微笑んだ典子が全く信じていない様子で尋ねる。

 「う…」

 亮太が返答に困っていると、台所の方でしゅうしゅうという音が聞こえてきた。つけっぱなしだった味噌汁の鍋が吹きこぼれているらしい。

 「あーっ!」

 典子があわてて火を止めに行く。今日の料理は典子にしては散々な出来だった。


 「…ゴメン」

 さっきまでの低レベルな会話は何処へやら、神妙な声で典子が言う。こと料理の事となると、典子は要求が厳しい。

 「ふぁにがぁ?(何が?)」

 亮太は口いっぱいにご飯を頬ばっている。

 「この料理。こんなにひどいなんて」

 典子が自分の作った料理を見ながら言う。確かに、ちょっとぐちゃっとしていたり、焦げたりしているが、そうひどいとも思われない。気にせず亮太は食べ続けた。

 ピンポーン

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 「はい?」

 亮太がドアを開けると、外に立っていたのは見知らぬ小柄な中年の男だった。

 「あ、どうも。毎朝新聞の者ですが、今、新聞はどちらかお取りでしょうか?」

 銀縁眼鏡の奥の細い目が一目でそれと分かる愛想笑いを浮かべている。

 「あ、いえ…」

 もう間に合ってますと言ってしまえばいいのに、何故かいつも正直に答えてしまう。

 「だったらどうでしょう、今ならビール券六枚に、アースガルドのチケットをお付けしますから」

 「いや、どうせ読まないですし、結構です」

 「そうおっしゃらずに。三ヶ月だけでもいいですから」

 「い、いや…」

 「まだやってるの?」

 亮太の様子を見かねてか、典子が出てくる。

 「あ、ども…」

 「新聞なんて読みっこないですから、要りません」

 新聞屋が挨拶しようとするのを制して、典子が言う。

 「いや、でも…」

 「結構です」

 口を開きかけた新聞屋に、典子がぴしゃりと言った。新聞屋はついにあきらめたのか、口の端でぼそぼそと呟くように「またよろしく」と言って帰っていった。

 「サンキュ」

 ほっとして亮太は典子に礼を言う。典子がいなかったら一体どのくらいかかっていたことだろう。いつも、亮太はこの新聞の勧誘に悩まされているのだ。

 「取る気がないんだったらきっぱりと断らなきゃだめっていつも言ってるでしょ。どっちつかずの態度は、結局お互いのためにならないんだから」

 典子がたしなめる。

 「わ、わかってるよ」

 亮太はそれ以上何も言えない。

 「でもさ、『アースガルド』って結構面白い所らしいじゃない? 一度行ってみたいな」

 再びテーブルについてから、典子が言った。

 「へえ、『アースガルド』ってテーマパークかなんかなの?」

 「…知らなかったの?」

 「…マイナーなバンドかと思った」

 「…」

 典子の話によると、『アースガルド』というのは最近オープンしたばかりのテーマパークらしい。大手のゲーム会社が経営しているだけあって、ゲーム性の高い参加型のアトラクションが多く、その中でも特に迷宮探検ものの『竜のダンジョン』は人気があるそうだ。

 「『竜のダンジョン』って言やあ、ロープレじゃん。うちにもあったろ」

 亮太はテレビの側に置きっぱなしになっているゲーム機を見ながら言った。

 「デートスポットにもいいんですって。亮太、美雪を誘ってあげたら?」

 さもおかしそうに、典子が言う。亮太をからかっているのだ。

 「うるへー」

 憮然ぶぜんとした表情で亮太は答える。

 (でも…誘ってあげたら、綾瀬さん、喜ぶかな…)


 薄暗い地下迷宮。手に持ったランタン型の懐中電灯の頼りなげな灯りが揺れ、それにつれて壁に映った亮太達の影も不気味に揺れていた。

 「武内君、怖い…」

 ぴったりと寄り添った美雪の身体がかすかにふるえているのが伝わってくる。シャンプーの香りだろうか、甘い香りが亮太の鼻孔をくすぐった。服越しに美雪の身体の温もりを感じる。

 「大丈夫、俺がついてる」

 励ますように、亮太は言う。

 「武内君…」

 ふと気が付くと、美雪の縋るような目が亮太を見つめていた。

 「あ、綾瀬さん…」

 二人の唇の距離が近づいていく。


 「亮太ぁ? なーににやけてんの?」

 呆れた様子の典子が茶々を入れた。

 「な、何言ってんだよ」

 はっと気が付いた亮太は、あわてて答える。

 「変な想像してると、美雪に言っちゃうぞ」

 典子がニヤニヤしながら悪戯いたずらっぽく微笑み、亮太の頬を指でつついた。

 「し、してねーって」

 その手を払いのけながら亮太は心の中で美雪に謝っていた。

 (ゴメン、綾瀬さん…)

 「あっそ。ま、そういうことにしときましょ」

 全く信じていないようではあるが、幸いにも典子はあまり深く追求してこなかった。


 ルルル…ルルル…

 (…どこか遠くで電話が鳴ってる…)

 重く沈み込んだ意識の中で亮太はぼんやりと思う。

 (あれ? 変だな…どっかで聞いたことのあるような…)

 頭の中で何かがしつこく警報を出しているようだったが、なかなかそれが形となってこない。もやもやとした不安感のようなものが次第に膨れ上がっていき…。

 亮太はがばっと跳ね起きて受話器を取った。

 「は、はい、もしもし。武内ですが」

 我ながら眠そうな声だ。

 「あ、亮太君? 加藤ですけど。うちの典子、まだそっちにいるのかしら?」

 聞き慣れた声が聞こえる。典子のお母さんだ。

 食事を終えた後、二人は勉強を始めたのだが(ただでさえ勉強などするはずのない亮太に典子が半ば強制的にやらせたのではあるが)、どうやらその途中で眠ってしまったらしく、時計を見るともう十一時を回っていた。ざっと数えてみても三時間は経っている。

 「あ、今…」

 亮太は典子がいた辺りに目をやる。案の定、典子もローテーブルにうつぶせになっていて、すやすやと安らかな寝息をたてている。

 「寝てます。ちょっと待ってください」

 電話を左肩と頭で挟んで亮太が典子を起こそうとすると、おばさんが止めた。

 「寝てるの? だったら悪いんだけど、もう遅いから今晩は泊まらせてやってくれない? どうせ明日は休みでしょ?」

 「はあ、構いませんよ。…はい、それじゃ」

 話を終え、受話器を置くと、再び典子に目を向けた。典子は相変わらず静かな寝息をたてており、どうやら完全に寝入ってしまっているらしい。

 瞬間、典子の寝顔がとても愛おしく見え、亮太はドキリとした。

 (…な、何だろ…一体…)

 突然の感情に自分自身で戸惑う。

 (と、とにかく、こんな所で寝てたら風邪ひいちゃうよな…)

 亮太は何故か触ってはいけないような気がしてちょっと躊躇ったが、意を決するとそっと典子の肩に手をやり軽く揺り起こす。

 「起きろよ。そんなとこで寝てたら風邪ひくだろ。俺のベット貸してやるから、そっちへ行けよ」

 「んー」

 意味不明の声を発しながら典子は眠そうにむくりと起きあがる。目はほとんど閉じられたままで、まだ寝ぼけているようだ。

 「ほら、ベットに行けって。ったく、世話のかかる…」

 亮太は半ば眠っている典子の手を取って、ベットまで行かせた。典子はベットの端にちょこんと腰掛けたまま、ぼんやりとしている。

 「ぼけっとしてないでさっさと寝ろよ。眠いんだろ?」

 典子の隣に腰掛け、亮太は促す。

 「…亮太ぁ…」

 相変わらず眠そうな声で典子が言い、亮太の方に寄りかかってきた。ふわりと甘い髪の香りが漂い、間近に見えた白いうなじに亮太は驚き、目を逸らす。

 「な、何だよっ!?」

 声がうわずってしまっている。

 「幼稚園のお泊まり会の時さぁ、亮太ってば家に帰りたいって泣き出して…」

 全く、何を言い出すかと思えば。亮太は少し落ち着きを取り戻した。

 「どうしてそんなつまんない事覚えてるんだよ」

 「へへ…あたし、亮太の事だったらなーんでも覚えてるもん…」

 そう言った典子の声が何だか悲しげに聞こえ、亮太はぎょっとして典子の方を見た。

 「典子?」

 亮太の位置からでは俯いた典子の表情は伺えない。

 「典子…」

 言いかけて、亮太は口をつぐんだ。

 典子は眠っていたのだ。

 (ばーか。つまんない事ばっか覚えてやがって…)

 亮太は典子をベットに寝かせると、そっと布団を掛けた。

 (…さて、俺も寝るか)

 クローゼットから毛布を取り出すと、電気を消し、絨毯じゅうたんの上にゴロリと横になる。

 (…いい匂いだったな…典子…綾瀬さんとはまた違った匂いだけど…)

 真っ暗闇の中で、亮太はぼんやりと以前嗅いだ美雪の髪の香りを思い出す。そして、先ほどの典子の香りを思い出し、またちょっとドキリとした。一緒に典子の白いうなじを思い出してしまったのだ。

 (でも何でだろ…典子にドキドキ…する…のって…)

 暫くの間はそんな事を考えていた亮太だったが、いつの間にか眠ってしまっていた。


 数日後。

 亮太は今、バイト中だ。だがそれももうすぐ終わる。亮太は首をコキコキと鳴らした。

 亮太のバイト先である、ファミレス、「ジョックス」はいつも賑わっている。そのせいなのか、それとも試験中暫く休んでいて二週間ぶりに仕事をしたせいなのかは分からないが、今日はいつもより余計に疲れたような気がしていた。

 「それじゃ、お先に失礼します」

 「お疲れさま」

 「お疲れ」

 勤務時間が過ぎ、亮太が挨拶すると、あちこちから返事が返ってくる。

 午後七時台のピークは過ぎたとはいえ、広い店内のあちこちで店員がまだ忙しそうに動き回っており、厨房の中も騒がしい。亮太がほっとした気分でネクタイを緩めながら更衣室に向かうと、女子更衣室からちょうど加奈が出てきた所だった。加奈もこれから帰るらしい。

 「あ、亮太君、今終わったの? ちょうどいいわ、話があるんだけど」

 加奈は何やら意味ありげな笑顔を浮かべている。

 「何?」

 「いーから着替えてきて。待ってるから」

 加奈に押されるようにして亮太は更衣室に入った。

 (…ったく、何だよ。妙な顔しやがって…)

 ネクタイを乱暴に外しながら思う。

 (…もしかして…デートしてくれ、とか言うんじゃ…)

 亮太の手が一瞬止まった。

 「…んなわけねーか。ばっかみてー」

 虚しさを覚えつつ、着替えを終えると亮太は廊下に出た。

 「話って何さ」

 「ここに、『アースガルド』のフリーパスがあるんだけど…」

 加奈は手に持ったトートバックからそっとチケットを二枚取り出す。

 (ま、まさか、ホントに…!?)

 焦った亮太は思わず後ずさりをしてしまう。もし誘われたらちゃんと断りきれるのだろうか…。

 亮太にはその自信がなかった。

 「実はこれ、買って欲しいのよ」

 「は?」

 どういう事なのか、突然の事態にパニックを起こしている亮太の頭ではすぐには理解できない。

 「今なら二枚で七千八百円の所を、六千円でいいわ。さあ、買った買った」

 にこやかな笑顔を浮かべた加奈は押しの一手で亮太に迫る。

 「って、どーして俺が? しかも二枚も。いらねーよ。第一俺、一緒に行ってくれる奴なんていないし」

 言いながら亮太は少しほっとしていた。

 (ばかばか、ちょーしにのるんじゃないぞ)

 そう自分を戒める。

 「またまたっ。この間仲良さそーにしてた娘がいるじゃない。ね、ね、たまにはこーいう所にでも連れて行ってあげればさ、彼女も喜ぶ事間違いなし!」

 「はぁ?」

 始めは何の事だかよくわからなかったが、どうやら加奈は典子の事を亮太の恋人だと思っているらしい。ひどい誤解だ。

 「あのな、あいつはただの幼なじみだぜ」

 「照れちゃって。どう見たって『ただの』って風じゃなかったじゃない。仲良く買い物なんかしちゃってさ。恋人って言うより、そうね、まるで、夫婦みたい」

 楽しそうに笑いながら加奈は亮太をつつく。

 「だから〜」

 「んーん、い・い・の・よぅ、わかってるって。ここのみんなには内緒にしといてあげるからぁ」

 亮太の言っていることを全く信じていないらしい。ぽんぽん、と亮太の肩を叩きながら訳知り顔の加奈は言う。亮太はこの間の加奈の笑顔の意味が今やっと理解できた。

 「ひょっとして、俺の言ってること全っ然信じてないだろ」

 「うん!」

 加奈は力いっぱいうなずいてみせる。亮太はどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。

 「もういい。でも、どうせ持ってるんだったら誰かと行きゃいいじゃん」

 「ばっかねぇ、こんな所は一人で行ったってつまんないでしょ。それにあたし、明後日はバイトが入ってるの。これ、明後日限りのチケットだから」

 「へえ、使える日が限られてるの?」

 「あたしもよく知らないんだけど、何でも定員が決まってるらしいわ」

 「そんなに混むの?」

 「チケットで入場制限してるから中はそうでもないみたい。ね、お願い、買ってよ亮太君」

 手を合わせ、すがるように加奈は言う。今度は泣き落としだ。

 「あたしの友達がね、もらったんだけど使い途無いからって言ってきて、それで、あたしも『まかせなさい』って言っちゃったもんだから、今更引っ込みつかないのよ」

 「い、いらないよ…俺は…」

 亮太はこういうのは苦手だ。こんな時は、自分が優柔不断だとつくづく感じてしまう。

 「そんな事言わずに。ね?」

 亮太のそういう性格を知ってか知らずか、加奈はしつこく頼みつづける。

 『美雪でも誘えば?』

 亮太の頭に、突如としてこの前典子が冗談めかして言った言葉が閃く。

 (…そういえば、デートにもいいって言ってたっけ…)

 「亮太君? …何だったら、分割払いでも良いけど?」

 黙り込んでしまった亮太に、加奈が不安そうに声をかけた。

 「…いくらだって?」

 結局、亮太はチケットを買う事にした。


 それから二日後、私立藤ヶ谷高校の女子更衣室では、部活を終えたばかりの綾瀬美雪がいた。普段は土曜日にはこんなに遅くまで部活はないのだが、大会が近いので特別に練習が長引いているのだ。

 「ふう…」

 長い、腰までとどく髪を邪魔にならないように束ねていたゴムを外し、軽く手ぐしで整え、ほっと一息ついた。美雪はテニス部内でレギュラーに選ばれているため、練習もなかなか厳しい。

 着替えを終え、荷物をまとめると、他の人たちに挨拶をして更衣室を出る。夕日を見ながら渡り廊下をゆっくりと歩いていると、挨拶をしながら後輩達が追い抜いていく。早めにバス停に行って、バスで座ろうというのだろう。

 「お先に失礼しまーす」

 「っつれいしまーす…あれ、綾瀬先輩、加藤先輩とご一緒じゃないんですか?」

 後輩の一人が立ち止まって尋ねた。

 「あ、典ちゃんは今日は用があるんだって。少し早く帰ったのよ」

 それから少しとりとめのない話をした後、「お先に失礼します」と言って走っていく後輩を見ながら、美雪は何とも言い様のない寂しさを感じた。典子は、おそらく亮太の所にご飯を作りに行ったのだろう。部活を早退した時の心ここにあらずといった典子の様子を見ればすぐにわかる。典子もレギュラー部員の一人なのでそうしょっちゅう部活を早退したりできる身分ではないのだが、それだけ亮太のために料理を作るというのが大切なのであろう。

 美雪の方はといえば、亮太とはこの前駅に送ってもらって以来、相変わらずロクに言葉も交わしていないような毎日だ。何だか避けられているような気さえしている。

 (…やっぱり、あの事を怒っているのかな…)

 もちろん、あの事というのは亮太の頭にテニスボールを当ててしまった一件だ。しかも、その後亮太に自転車で駅まで送ってもらったのだ。

 (…やっぱり、図々しかったよね…)

 今更ながらに亮太と一緒にいたいという誘惑に負けて送ってもらってしまった自分自身に嫌気がさしてくる。

 しかも、自分がいつも亮太と一緒にいる典子に嫉妬までしているのがわかった。

 (…バカ…そんなんじゃ、典ちゃんの親友の資格なんてないわ…)

 めいっぱい落ち込みながらとぼとぼと歩いていくと、下駄箱の所に誰かが座っているのが見えた。

 (…っ! た、武内君っ!?)

 亮太は下駄箱の所のスノコに座り、手に持った何かを見つめてぶつぶつと言っている。美雪にはまだ気が付いていないようだ。美雪は何故か足音を忍ばせてしまう。

 (…何を持っているのかしら…)

 美雪は後ろからそっと見つめた。

 (今日も言えなかった…)

 亮太は落ち込んでいた。加奈からチケットを買ってから二日。何度となくチャレンジしてはみたのだが、そのたびに邪魔が入ったり、結局言えずに適当な挨拶でごまかしてしまったりしていた。

 (…どうして言えないんだろ…)

 他の女の子達とは普通に話もできる。だが、どうして美雪が相手となるとぎくしゃくとしてしまうのだろう。

 「…よしっ! 明日こそはっ!」

 立ち上がり、チケットをぐっと握りしめて亮太は心に誓った。

 「きゃっ!」

 すぐ後ろで、悲鳴が聞こえた。

 「はいっ!?」

 心臓が鼓動を一回飛ばした。振り返ると、そこに、美雪が立っている。

 (…ど、どーしてここに…あ、そ、そーか、部活があったんだもんな…)

 部活の後の疲労からか、わずかに倦怠感のようなものを漂わせる物憂げな美雪の表情についつい目がいってしまう。

 (チャンスだ! 他には誰もいない)

 亮太の中の誰かが、不意にそうささやいた。

 (ええっ!? で、でも…)

 (今を逃したら、きっともう機会はないぞ?)

 「それでもいいのか?」という意味を言外に漂わせ、それは言った。

 (…)

 (どうした? 言わないのか?)

 黙ったままの亮太に畳みかけるようにして尋ねる。

 (…今を逃したら…)

 亮太は、ごくりとつばを飲み込んだ。

 「あああのっ」

 「ご、ごめんなさいっ」

 二人の声が重なった。はっと気が付いて二人とも黙って俯いてしまう。

 「―あ、ど、どうぞ」

 亮太が言う。

 「あ、いえっ、べ、別にのぞくつもりはなくって…ご、ごめんなさいっ」

 美雪は真っ赤になりながら深々と頭を下げて謝る。

 何の事だろう。亮太は困惑した。だが―

 (チャンスだ! 今、言わなくっちゃ!)

 「あ、あのっ。綾瀬さんっ」

 亮太はなるべく自然に声をかけようとした。だが、そう意識すればするほどガチガチになってしまう。

 「は、はいっ!?」

 美雪も何か緊張しているようで、背筋を伸ばして身構えた。

 「え、えっと…こ、ここに『アースガルド』のフリーパスがあるんだけど…よ、良かったら明日、い、行かな…きませんか?」

 亮太はチケットを見せながら言う。チケットは握りしめたためかしわくちゃになっている。いきなりの事に、美雪は驚いたようだ。

 「あ、明日?」

 「う、うん。い、いやあ、実はバイト仲間に無理矢理買わされちゃって。売っぱらおうにも真吾の奴は女の子に呼ばれてどっか行っちゃうし、典子も…」

 聞かれてもいないのに亮太は照れ隠しにぺらぺらとしゃべる。

 (典子…)

 誘われて嬉しかったが、亮太がそう言うのを聞いて美雪は胸が痛んだ。それに、明日は別の用があるのだ。

 「…ご、ごめんなさい、武内君…来週じゃだめかしら?」

 残念そうに美雪が答える。

 「…こ、これ、明日の曜日限定って奴でさ、他の日はダメらしいんだ…」

 フリーパスを所在なげに見ながら亮太が言う。

 「…そ、そうなの…ごめんなさい、せっかく誘ってくれたのに…明日は約束があって…」

 美雪は悲しげに俯いてしまった。今にも泣き出してしまいそうに見えて、亮太は慌てる。

 「そ、そんなに気にしないでよ。こいつは真吾にでも売っ払えばいいんだし」

 どうしていいのか分からず、亮太は明るくそう言う事しかできなかった。そして、その場の雰囲気に耐えられなくなって、美雪に挨拶するとそそくさとその場を離れた。

 (…昔から…一緒なんだものね…)

 亮太と別れた後、バス停に向かいながら美雪はそう思った。

 (きっと、典ちゃんは私の知らない武内君のことをいっぱい知ってて…)

 (…典ちゃんは、やっぱり武内君の事を…?)

 訊いてみたいと美雪は思った。でも、何だか怖いような気がした。

 (そして…武内君…は?)

 「センパイ! まだそんな所にいらっしゃったんですかっ!? 早くしないと、バスなくなっちゃいますよっ!」

 「え? あ、ホントだ!!」

 後から駆けてきた後輩に促され、美雪も慌ててバス停に急いだ。


 家に帰ると、亮太は悪友の真吾に電話した。おそらく寝ていたのだろう、電話に出た真吾の声はひどく眠そうだ。さすがに、昼寝が趣味と堂々と言ってのけるだけの事はある。

 亮太がフリーパスのことを話すと、

 「明日ぁ? ダメダメ。明日は出掛けんだよ。それにな亮太」

 眠そうな声のまま真吾は続ける。

 「何だよ」

 「『アースガルド』って言やあ、今流行のデートスポットじゃねーか」

 「お前だったら行ってくれる相手ぐらいいくらでもいるだろ」

 亮太は多少のやっかみも込めて言った。

 「やなこった。そんな所に行ったら金がかかる。それに、そんな所、恋人同士で行く所だろ。相手に妙な誤解をされかねん」

 真吾はそのルックスのせいか女の子にやたらにもてるのだが、どうしてか本気で女の子と付き合ったりしようとはしない。もっとも、しょっちゅう色々な相手と会ったりしてはいるようではあるが。

 「ちっ。しょうがねぇ、典子でも誘ってみるとすっか」

 「…亮太?」

 急にまじめな声になって真吾が言う。

 「な、何だよ」

 「典子と綾瀬の二股かぁー? やるなー、色男」

 からかうような声で真吾が続けた。

 「なっ何言って…って、どうしてお前が綾瀬さんの事をっ!?」

 亮太は顔が赤くなるのを感じた。電話なのが幸いだ。

 「バレバレだよ、お前。何年一緒にいると思ってるんだ。それより…」

 「何だよ。今度変な事言ったら切るぞ」

 真吾と話していると、いきなり何を言われるか分からない。自然と、亮太は身構えてしまう。

 「典子だって、女の子なんだぜ」

 「はあ? あ、当ったり前だろ。何言ってんだよ、今更」

 いきなり当たり前のことを言い出すので、肩すかしを食らった気分になった。

 「んー、典子にいっつもいじめられてるんで、典子の事女の子って見てないんじゃないかと思った」

 「知らねぇぞ、そんな事言ってると」

 亮太はあきらめ、話を切り上げた。

 (あの野郎、訳わかんねー事言いやがって…)

 亮太が受話器を置くと、すぐにチャイムが鳴った。ドアを開けると、いい香りがふわっと漂う。見ると、細身の焦げ茶のズボンにゆったりとした茶色のボーダーのTシャツ姿の典子が立っていた。髪が少し濡れていて、どうやらシャワーを浴びてからこっちにきたらしい。頬がほんのりと赤く上気していた。

 (どうしていちいちシャワーなんか…)

 亮太は思う。

 「亮太、買い物に行くわよ」

 最近の典子は何故かやたらと気合いが入っている。この頃毎日のように来て料理を作るのだ。どうやら、この前の失敗の雪辱を晴らすつもりらしいが、一体何回雪辱を晴らせば気が済むのであろう。

 「典子、明日、部活があるか?」

 亮太は尋ねる。美雪の用事が部活であったら当然典子も行けないからだ。

 「明日? 別にないけど。何で?」

 典子が聞き返す。

 (部活じゃないのか…)

 そう思った亮太の頭に、突如として柳井の顔が浮かんだ。柳井というのは美雪と仲のいい秀才で、亮太は嫌いだったがこいつも女の子の間では人気が高い。なお悪い事には美雪と柳井が付き合っているという噂もまことしやかに流れているという事だ。誰もその真偽を確認した者はまだいないようだったが、『○組の誰々が告白して綾瀬に断られた』という話が出る度にその事が囁かれ、みんな溜め息をついているのだ。

 (そういえば、美雪ちゃん、約束って言ってなかったっけ…まさか…)

 「亮太?」

 腕組みをして考え込んでいる様子の亮太に典子が不思議そうに尋ねる。

 「い、いや、何でもない。それより、『アースガルド』のフリーパスが二枚あるんだけどさ、明日、行かないか」

 まともに言うと何となく照れ臭いので亮太はわざと軽い調子で言う。だが、亮太は漠然とではあるが戸惑いを感じていた。照れ臭いなんて、今までは全く感じたことなどなかったのだ。

 「はぁ?」

 いきなりの事に、典子は驚いた様子だ。

 「…どうしちゃったわけ? 急に。何か悪いものでも食べた?」

 「何だよそりゃ、ひどい言い方だな」

 仏頂面で亮太は答える。

 「どうせ行くなら、あたしより美雪を誘えばいいじゃない。あ、何だったら、あたしから話してあげよっか?」

 典子が悪戯っぽく微笑みながら言った。

 「もう誘ったよ」

 からかわれてムッときた亮太はぶっきらぼうに答える。

 「へえ、そうなの?」

 ちょっと驚いたように典子が言う。亮太にはそんな事は出来っこないとでも思っていたのだろうか。

 「そうじゃなきゃお前なんか誘うかよ」

 仕返しとばかりに亮太は憎まれ口を叩いた。

 「悪うございました。他に相手がいないからあたしって訳ね。で、もちろん、亮太のおごりでしょ?」

 イジワルく微笑みながら典子が言う。

 「何言って…」

 そこまで言った時、ふと亮太の脳裏にこの前の疲れて眠ってしまった典子の姿が浮かんだ。

 「…どしたの? 亮太。別に、おごりじゃなくっていいけど」

 途中で口をつぐんでしまった亮太に、典子が尋ねる。

 「…いーよ。たまには。いつも飯作ったりしてもらってるからな」

 「ホントに? 熱でもあるんじゃない?」

 意外そうな顔をして典子が言い、亮太のおでこに手を当てる。

 「どーいう意味だよ」

 亮太は典子を睨んだ。

 「いーえ。何でもありません。じゃ、明日のお弁当の分も今日のうちに買っとかなきゃ。亮太、買い物に行くわよ!」

 張り切って腕まくりしながら典子が言った。


 翌日は幸いな事によく晴れていた。珍しく寝坊をせずに済んだ亮太は、待ち合わせの時間より少し早く典子の家に着くことが出来た。典子はまだ支度をしているらしい。亮太は外で待っているあいだ、ミルクとじゃれていた。ミルクというのは昔、典子と亮太が拾ってきた犬の子供で、スピッツか何かの雑種だ。家の中では時折バタバタという足音と、典子が何か大声で叫んでいる声が聞こえている。あわただしく支度をしているらしい。

 亮太はふっと顔を上げてひっそりと静まり返っている隣の家を見た。そこは元の亮太の家だが、今は叔父夫婦が住んでいる。

 (昔とちっとも変わってないや…)

 ここから窓が見える、その部屋に中学生の終わりまで亮太は住んでいた。

 「うわっ」

 物思いに沈んでいた亮太の頬をミルクがなめた。構ってくれという抗議のようだ。

 「っとにもう。典子ったら。ごめんなさいね、亮太君。待たせちゃって。あれでもあの子、朝の四時からお弁当作ったりしてたんだけど。何だか服が決まらないらしくって」

 典子のお母さんが出てきて言う。

 「いや、こっちもいつも待たせてばっかりですから」

 (へえ、服が決まらないなんて女の子みたい…)

 そこまで来て、亮太は気がついた。

 (あ。あいつ、女の子じゃねーか。なに考えてんだ、俺…)

 こんな事を本人の前で言ったら殺されかねない。

 「それにしても、亮太君、典子の事デートに誘うなんて、その気になってくれたのね。おばさん嬉しいわっ」

 亮太は顔がひきつるのを感じた。

 「…デ、デート…」

 典子のお母さんは亮太が典子をもらってやってくれたらいいのにと常々言っているのだ。

 (でも、普通はこれ、デートになるのかな…)

 亮太はふと思った。昔から、典子とは色々な所に遊びに行ったものだ。今まで、それをデートだと意識したことなどはなかった。

 「お母さんっ! またそういう事言ってっ!」

 典子が怒ったような声で言いながら玄関から出てきた。白地に青のギンガムチェックの入ったワンピースを着て、大きめのバスケットを手に持っている。

 「何だかすごいカッコだな」

 典子の服装を見て亮太が言う。いつも家に来る時は制服かズボン系のスタイルが多かったので、はっきり言って典子がこういう格好をしてくるとは想像だにしていなかった。

 「どういう意味?」

 馬鹿にされてると思ったのか、棘のある声で典子が聞き返す。

 「…いや、何というか…その…妙に女の子してるなって」

 何となく照れながら亮太はいい、ぽりぽりと鼻の頭をかく。

 「ば、馬鹿、柄にもない事言わないでよ」

 頬を赤らめながら典子が言った。

 「…馬子にも何たらって奴か?」

 そう続けると、亮太はバスケットで思いっきりひっぱたかれた。


 「それにしても随分混んでるな」

 まだひりひりする頬を押さえながら、仏頂面で亮太が言った。

 『アースガルド』に着いた亮太達の目にまず飛び込んできたのは、あちこちにいるアベックらしき若い男女連れの姿だった。みんな、仲が良さそうに寄り添って歩いている。入口の発券機の所には「本日分のチケットは完売しました」と書かれた札が下がっていた。

 どうやら、典子や真吾が言っていたように、ここはデートスポットとして相当人気があるようだ。

 「うわ…あっちもカップル、こっちもカップル…あたし達、やっぱ場違いなところに来ちゃったんじゃない?」

 典子が気圧されたような声で言う。

 「し、知るかよ。とにかく行くぞ」

 (これって、やっぱ、デートなのかな…)

 いつもの典子が、すごく女の子っぽく見えてしまう。亮太は何だかこそばゆいような気分になって、ぶっきらぼうな態度をとった。

 亮太は財布からフリーパスを取り出すと、黙って一枚を典子に渡す。そして、無言のままどんどん先に行った。

 「あ、待ってよ亮太、ひっぱたいたの、まだ怒ってるの?」

 済まなそうな声で言いながら典子があわてて後を追う。

 中に入ると、亮太達はまず正面にある『竜のダンジョン』の所に行った。『竜のダンジョン』というのは、この『アースガルド』を運営しているゲーム会社の最大のヒット作で、主人公が勇者となって地下深くに潜む古竜『ニーズホッグ』を倒し、世界に平和をもたらす、というRPGだ。

 入場制限が成果を上げているのか、そう長くは待たないうちにすぐに中に入れた。


 薄暗い迷宮。明かりといえば、手に持ったランタン型の懐中電灯の不規則に揺れる頼りなげな明かりと、所々にあるブラックライトの紫色の光。そして、場違いな非常口を示す緑色の誘導灯だけだ。それらの明かりが、鏡で出来ている壁に反射している。しかも、両側の壁が鏡であるために合わせ鏡となって、まるでその奥に無限の空間がつづいているかのように映っている。ブラックライトの側を通る度に二人の服が不気味に輝いた。

 「どうしてダンジョンなのに壁が鏡で出来てるんだ?」

 「知らないわよ」

 二人はしばらく無言で歩いていたが、やがて、

 「きゃっ!」

 典子が悲鳴を上げる。

 「どうしたっ!」

 「り、亮太、あ、あれ!」

 典子は天井を見ないように下を向いて目をしっかりとつぶり、ふるえる手で天井を指さしながらへたりこんでしまった。

 「!?」

 天井にはホログラムで金色に輝くゴキブリの化け物のようなモンスターがいた。

 「クソ、当たんないぞ!」

 亮太は剣の形をした光線銃で天井のセンサーを攻撃するが、ホログラムのゴキブリと共に移動しているためなかなか当たらない。その間にも、何度も亮太はゴキブリからの攻撃を受けていた。

 「典子、なに座ってんだよ!!」

 「だって…」

 泣きそうな声で典子が答える。

 熱くなっていたので亮太は忘れていたが、典子はゴキブリが大の苦手だったのだ。

 「うーっ! 当たれーっ!!」

 亮太は躍起になって光線銃を撃ちまくった。

 突然、ホログラムのゴキブリが悲鳴とともに消えた。

 「もっとよく狙って。それから移動する範囲は一定だから、追っかけるより先読みしてセンサーをねらった方がいいよ」

 よく通る男の声が聞こえる。亮太が天井から通路のほうに目をやると、カップルが通路の奥からこっちにやってくるところだった。亮太達よりはもうちょっと年上だろうか。どうやら、この人達に助けられたらしい。

 「でも、合格ね。ちゃんと彼女をモンスターの攻撃からかばってあげたんだから」

 亮太が男の人からレクチャーを受けているあいだに、そちらの方をちらっと見てから女の人が典子に向かってささやくように言う。

 (え…亮太…?)

 典子の胸にじんと熱いものがこみ上げてくる。と同時に、顔が熱くなっていった。

 「じゃ、がんばって」

 そう言うとそのカップルは行ってしまう。

 「大丈夫かよ、典子」

 典子がいつまでもぼーっとしたままなので、心配になって亮太は声を掛けた。

 「…う、うん。でもどーしてゴキブリ型のモンスターなんか出てくるのよ」

 平静を装いながら、典子は答える。だが、実際は心臓がドキドキいっているのを感じ、焦っていた。

 「苦手な人が多いからだろ。さ、行こうぜ」

 何事もなかったように亮太が言い、歩き出す。もっとも、亮太には最初っからかばうつもりなどなく、たまたまそういう位置にいただけだったのだろうが…。

 (ありがと、亮太…)

 「典子?」

 立ち止まったままの典子に亮太が声を掛ける。

 「え? あ、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃって」

 あわてて典子が答える。

 「変な奴」

 「何か言った?」

 拳を握り、わざと見せるようにしながらにこやかな笑顔で典子が訊く。

 「い、いや。何でもない」

 亮太が答え、二人はまた歩き始めた。


 「クソ。やっぱりニーズホッグを倒せなかったな。得点順で見ても最下位に近いぜ」

 『竜のダンジョン』から出てから、亮太は悔しそうに言う。

 「亮太が下手だからでしょ」

 微笑みながら典子が憎まれ口を叩く。

 「言ったな。今度はあのゴキブリ、お前が倒せよな」

 仏頂面で亮太が切り返す。

 「やだーっ。それならあたし、外で待ってるもん」

 「ちぇっ。下手だの何だの言ってるくせに…で、次はどこ行く?」

 地図を広げながら亮太は言う。

 「…んーとね、今度は…」

 典子が地図をのぞき込んだ。

 「待った。腹が減った。飯にしようぜ」

 来てからまだ一つのアトラクションにしか行ってないが、時計を見るともう既に十二時を回っている。

 「…もう。わがままなんだから。でも、今回は亮太に賛成。あたしも、おなかぺこぺこよ」

 典子がしょうがないなあという表情で笑いながら答えた。

 「よっしゃ、決まりだな。じゃ、どっか飯食えるところっと…」

 亮太は地図をのぞき込んだ。

 アースガルドには一面に芝生が植えられた結構広い場所があり、そこでお弁当などが食べられるようになっている。そこは所々に広葉樹が涼しげな木陰を作っていて、あちこちでカップルが仲むつまじくお弁当を広げていた。

 「参ったな、ビニールシートか何か持ってくりゃよかった」

 亮太が言うと、典子が得意げに、

 「まっかせなさい。ちゃーんと、用意してあるんだから」

 と言いながらバスケットから小ちゃめのビニールシートを取り出した。

 「さっすが。ただ口やかましいだけじゃないんだな。見直したぜ」

 「口やかましいだけ余計でしょ」

 そう言いながら典子は亮太を小突く。

 適当なところに場所を決めると、亮太達は典子の作ってきたお弁当を食べ始めた。

 「ね、亮太、どう?」

 やっぱり典子は自分の料理の出来が気になるらしい。典子は亮太がお弁当のサンドイッチを頬ばるのをじっと見つめている。

 「ふん。ふまいひょ(うん。うまいよ)」

 亮太は右手で円を作って見せた。

 「そ。良かった」

 やっと典子も安心してサンドイッチを食べ始める。

 青い空、白い雲。

 もう日差しの中にはわずかではあるが夏の気配が感じられる。芝生の所々に生えているあまり背の高くない草を揺らしながら吹き渡る風が心地よい。アトラクションなどからの騒がしい歓声もここに来ると微かに届く程度になっており、さらに広場の周囲に配された広葉樹がアトラクションの建物を巧みに隠していた。

 (昔、亮太と初めて遠足に行った時もこんな感じだったわね…)

 ぼんやりと周りの景色を眺めていた典子は、ふと昔を思いだした。

 まだ、二人が幼稚園に通っていた頃。二人は家の近くの原っぱに、幼稚園の遠足をまねて二人だけで『遠足』に出かけたのだ。

 (…あの頃、あたし、まだ料理が下手で…)

 母親の真似をして『お弁当もどき』を作った典子だったが、結果は散々。それでも、亮太は

 「おいしいよ」

 と言って残さず食べ…翌日、お腹をこわして寝込んだのだった。

 「ごめん、ごめんね、亮太」

 布団に寝かされた亮太に、幼稚園の制服姿の典子がすがりついて泣きじゃくる。

 「…泣くなよ典子。典子は悪くないよ…」

 亮太が、苦しそうに、しかし慰めるように言い、手をさしのべる。

 「…だって、典子は一生懸命作ってくれたんだもの…」

 うなされながら、亮太が呟く。

 「亮太、死んじゃダメ! 亮太ぁ!! お嫁さんになってあげるからっ!」

 典子は差し出された亮太の手に縋りつく。

 「…? オヨメサンって、なに…?」

 「お母さんみたいに、いつも一緒にいてお料理とか作ってくれる人の事っ! ね、亮太、典子、もっともっとお料理上手になって、もうおなかが痛くならないようにするからっ!! 死んじゃダメだよっ! 亮太っ!!」

 きょとんとした表情のまま、それでもこっくりと亮太は頷く。

 「…でも、変なの。今だって、いつも一緒じゃん…」

 何だか納得がいかないような声で、亮太が言った。

 「お嫁さんは違うのっ! もっとずっと一緒にいて、とってもとっても大切な人の事なのっ!!」

 「…ふうん…」

 まだ納得がいかないような顔をしていたが、亮太は続けた。

 「…典子ならいいな。僕、典子の事好きだから…」


 風が、木々の間を吹き渡り、かすかに葉をならした。

 「…ね、亮太」

 昔の事を覚えているかと訊きたくなって、典子は尋ねる。

 「ん?」

 亮太が典子の方を向いた。

 『俺、典子の事好きだから…』

 こっちを向いた亮太の顔にその台詞が重なり、はっとした典子はあわてて目を逸らす。

 「…う、ううん、何でもないっ」

 「何だよ? 気になるじゃん」

 典子の顔をのぞき込むようにして亮太が尋ねる。

 「つ、次、どこにしよっかって、そ、それだけ」

 話を逸らすように典子が言った。

 「そうだな…何処にしようか?」

 考え込むように地図を見ながら亮太が呟く。

 「…そ、そうだ、この、『ノルンの神殿』っていうのはどう?」

 「『あなたの未来、お告げします』…お前、好きなの? こういうの」

 呆れたように亮太は言う。

 「わるい?」

 ちょっと首を傾げて、典子が挑みかかるような表情をする。

 「いーや。じゃ、ぼちぼち行くか」

 亮太は立ち上がって大きく伸びをしながら言った。


 「ようこそ。運命を司る女神、ノルンの神殿へ。お名前をどうぞ」

 「武内亮太」

 「…たけうち…りょうた、さんですね。生年月日を西暦でお願いします」

 ローマ時代の大理石で出来た神殿をイメージした白い建物の入口で登録を受け、丸い、水晶球を模したらしいプラスチックの玉を受け取る。そして、ひらひらの白い神官服のような衣装をまとった女の係員に促され、奥に入った。そこは少し広い空間になっていて、何人かの人たちが既に待っている。どうやら、ここは中についての説明をする所のようだ。

 亮太達が入って間もなく、係員が説明を始めた。

 「皆様、ノルンの神殿へようこそ。今から、この神殿内での注意などについてご説明いたします…」

 おなかいっぱい食べたせいだろうか、急に襲ってきた眠気と戦うのに必死で、この後続く説明を亮太はほとんど聞いていなかった。

 「ね、亮太、何を占う?」

 典子がはしゃいだ声で亮太に尋ねる。その声で夢の世界から現実へと引き戻された亮太は、

 「うーん…とりあえずここに置きゃいいのか?」

 と眠そうな声で呟くと目の前にある祭壇の、男性用と書かれた台に水晶球を置いた。係の人の説明によれば、確か奥にはこんな祭壇が三つあって、それぞれに水晶球(例の入口で受け取ったプラスチックの玉だが)を置いて質問に答えると後でどうにかなるとか言っていたようだが…。

 「あ、馬鹿、そっちってカップル用じゃない。あたしとの相性を占うことになっちゃうわよ!」

 あわてた声で典子が言うがもう間に合わない。祭壇に仕掛けられた楕円形に縁取られたモニターに女神(なのだろう、たぶん)があらわれて言う。

 「よろしい。汝らの相性、占ってしんぜよう。結果は祈りの間にて教えよう」

 言うだけ言うと、モニターから女神の姿は消えてしまい、後には「先へ進め」の文字だけが浮かんでいる。どうやら、やり直しはきかないらしい。

 「…もう。そそっかしいんだから」

 典子が呆れたように言い、ふくれてみせる。

 「あんなめんどくさい説明、いちいち覚えてられっかよ」

 モニターの指示通り、先へ進むしかなかった。


 「…最後の質問。親バカになると思う?」

 三つめの祭壇にて。モニターに映った白いゆったりとした服をまとった女神が亮太に問いかけた。

 「親バカ? …イエス、かな」

 亮太は祭壇にある「イエス」のボタンを押す。

 「はい、お疲れさま。結果は、祈りの間でね」

 モニターの中の女神、と言うには少し若すぎるような気さえする女の子が軽い調子でそう言うと、ぱっと画面が切り替わり「先へ進め」の文字だけが映っている。亮太は水晶球を取ると、一足先に質問を終えていた典子と共に祈りの間へ向かった。

 「きっと、『口やかましい女性です、最悪の相性でしょう』なんてのが出てくるぜ」

 結果が出てくるのを待つあいだに亮太は憎まれ口を叩く。

 「えーぇそうでしょうとも。あたしには、『だらしのない子供のような相手。さっさと別れた方がマシ』って書かれてると思うわ」

 典子も負けじと言い返してきた。

 「言ってろ」

 そうこうしているうちに『運命の書』というのが出てきた。結果はこれに書かれているらしい。明るい外に出た二人は、立ち止まってそれぞれの運命の書を読みふけった。

 『カトウノリコとの相性

 汝のことを優しく包み込んでくれる女性だ。心優しい彼女は、汝の良きパートナーとなって影に日向に、汝のことを支え、励ましてくれるであろう。そしてその優しさによって汝は満たされ、よりその力を発揮できるであろう。時に汝がわがままな態度をとってしまっても、いちいち腹を立てたりしないおおらかさを彼女は持っている。二人が長年連れ添う可能性は高い。』

 「はぁ!? 何だこりゃ!?」

 亮太は思わず運命の書を取り落としてしまいそうになった。一体、どうしたらこんな恥ずかしい結果が出てくるというのだろう。気になった亮太は典子の方も見てみたくなって、後ろからのぞこうとする。だが、それに気づいた典子はあわてて隠してしまった。

 「どーして隠すんだよ」

 「バ、バカね、亮太のことクソミソに書いてあるから落ち込まないようにしてあげてるんじゃない」

 慌てた様子の典子は真っ赤になってそう言う。

 「けっ。悪うござんしたよ。俺のはこんなコト書いてあんぜ」

 亮太は運命の書をひらひらさせた。

 「…読んでいいの?」

 おずおずと典子が尋ねる。

 「どーぞごかってに」

 典子は亮太から運命の書を受け取ると読みふけった。そして、そのまま運命の書を見つめている。何だか様子がおかしい。

 「おい、どーしたんだよ」

 返事がない。

 「典子?」

 「え? あ、あはははは、な、何でこう違うのかしらね。全く。当てにならないったら。つ、次行こ、次」

 (一体どうしたんだ? 典子は。何だかこっちを見るのを避けているような…。それに、顔も赤いし…まさか…)

 亮太はすいっと手を伸ばして典子の前髪をかき上げると、自分のおでこを典子のおでこにつける。

 「なな、何? 亮太」

 典子は今まで以上に顔を赤くしてばっと身を退いた。

 「お前、何だか顔が赤いぞ、熱でもあんじゃねーの?」

 怪訝そうな表情で亮太は言う。

 「バ、バッカねぇ、な、何でもないわよ。ほら、それより地図地図」

 「ちぇっ。人がせっかく心配してやってるのに、バカはねぇだろ。ったく」

 仏頂面でぶつぶつ言いながらも亮太は地図を取り出した。

 「つ、次はどこにしよっか?」

 「そだな、次は…」

 気が付くと、二人は肩が触れ合うぐらいの距離で並んで立っていた。ハッとした典子は、少し身体を離す。ちらりと亮太の方を見ると、亮太はそんな典子の様子にも気づかないまま、地図とにらめっこをしていた。

 (いつもは何でもなかったのに…)

 典子は、今は亮太にあまり近づいてはいけないような気がしていた。しかし、それ以上に強く、ずっと側にいたいと思っていた。

 (ダメ…亮太は美雪のことが…あたし達、ただの幼なじみ…)

 典子はいつもの呪文を繰り返す。だが、もう今はほとんど効き目がなかった。

 (どうして? こんな、占いの結果が嬉しいなんて。あんな、あんなわがままな亮太なんか…)

 『タケウチ リョウタとの相性

 かなりわがままで子供っぽく振る舞ってはいるが、本当の彼は内気で、傷つきやすい心の持ち主。そのため、子供っぽい意地を張ったり、時には空威張りをしたりする。だが汝は、汝自身のその優しく思いやりのある性格を発揮して、おおらかな気持ちで接する事ができるであろう。そしてそれに彼が気づいた時、彼も心を開き、本来の優しさを発揮して汝を守ってくれるであろう。汝はその優しさに満たされ、二人は以心伝心、言葉がなくても心が通じ合うことができ、長く寄り添っていけるであろう。』

 嬉しかった。嘘でもいいから、信じたかった。

 (亮太が、振り向いてくれたら…)

 それが美雪に対する背信行為になるとわかってはいても、もはや典子は流されていく自分の心をとどめる術を知らない。

 (…美雪は亮太の事、どう思ってるの…?)

 亮太の美雪に対する想いを知って以来、典子は何度となく美雪にそう尋ねたいと思う事があった。美雪にその気がなければ…。という期待だ。そして、そう期待する自分に何度となく自己嫌悪を感じている。

 (…亮太の側にいる資格なんて、ないわよね…)

 暗く沈んだ心で、典子は自嘲気味に思う。

 典子はまだ地図とにらめっこをしている亮太をぼんやりと眺め、そして、思った。

 (亮太が好きになった人が、せめてもっと他の誰かだったら良かったのに…)

 と。

 「…でいい? 典子」

 「え? あ、う、うん」

 いきなりのことに典子は適当な返事をする。そんな典子の様子に亮太は不安を感じた。

 「お前、ほんっとに大丈夫か? 具合悪いなら、帰るぞ」

 「へ、平気だって。ちょっとぼーっとしてただけ。さ、亮太、行こ」

 典子はあわてて亮太を促す。

 「お、おう。じゃ、また『竜のダンジョン』な」

 「えーっまたゴキブリぃ?」

 「なーんだよ、お前、今いいって言ったじゃねーか」

 「そ、そだっけ。じ、じゃ行こっ」

 「…っとに大丈夫なんだろうな、お前…」

 典子に引っ張られるようにして、ぶつぶつ呟く亮太は竜のダンジョンへ向かった。


 結局、二人は午後十時三十分の閉園時間ぎりぎりまでめいっぱい楽しんだ。典子がやたらとはしゃいでいたのだ。

 帰りの電車は時間が時間だけにガラガラだ。亮太と典子は並んで座った。

 「疲れたー。どーしてニーズホッグが倒せないんだよ」

 どさっと乱暴に席に座りながら亮太が言う。

 「亮太が下手だからじゃない?」

 典子が憎まれ口を叩く。何だか少し眠そうだ。まあ、あれだけはしゃげば疲れるのも当たり前だろうが。

 「けっ」

 亮太はそれ以上、返す言葉がなかった。

 「ねえ、亮太」

 あらたまって典子が言う。

 「何だよ」

 「ホントに、今日はおごりでいいの?」

 「…いいって言ってんだろ。いつも飯作ってくれてるお礼だよ」

 少し格好をつけて、亮太は言った。

 「…ありがと」

 ややあって、小声でそう言った典子の声が妙にかわいらしく聞こえて亮太はあわてる。

 「な、何だよ、気持ち悪いな、自分でおごれって言ったんじゃんか」

 「そ、そだね」

 沈黙が流れた。ガタンゴトンという規則正しい電車の走る音だけが、車内に響く。

 「考えてみるとさ、久しぶりだよな、二人で遊びに行ったのって。この前が…いつだっけ?」

 沈黙を破るようにわざと明るい声で天井を見ながら亮太が言う。

 「さあ…忘れちゃった」

 ぼんやりと眠そうに典子が答える。その手からバスケットが落ちそうになった。亮太はあわててそれを受け止める。そうして、それをしげしげと眺めていたが、やがてぼそりと言った。

 「昔に比べりゃ、典子の料理も進歩したもんだよな。幼稚園の頃は、とんでもないもん食わされて腹痛起こして死ぬかと思ったぞ」

 「亮太!?」

 典子はハッとして思わずそう言っていた。亮太が怪訝そうな顔をする。

 「な、何だよ」

 「う、ううん、何でもない。そんな昔の事、よく覚えてるわね」

 そう言いながら、典子は、『あの時の約束、覚えているの…?』と訊きたくてしょうがない自分を感じていた。

 「お前の方がよっぽど昔の事覚えてるよ…」

 亮太は思わずそう呟く。

 「え?」

 「あ? い、いや、何でもない」

 典子に聞き返されてハッとした亮太は誤魔化した。例のうなじの件が頭をよぎり、後ろめたい気分になったのだ。

 「…?」

 今度は典子が怪訝けげんそうな顔をする。この前の事は典子は寝ぼけていて覚えていないのだろう。

 再び、沈黙が流れた。

 「亮太…」

 しばらくしてから、典子が寄りかかってきた。この前と同じ、甘い香りがした。再びこの前の事を思い出して亮太はちょっとドキドキしてしまう。

 「ななな、何だよ、いきなり」

 典子の方を見ると、典子はすやすやと眠っていた。亮太、と言ったのは寝言だったらしい。

 (…またか。ったく、こいつは…)

 亮太が呆れていると、典子が何か呟いた。亮太はよく聞こえるように耳を近づける。

 「ダメじゃない、人参もちゃんと食べなきゃ…」

 一体どういう夢を見ているのだろう。典子はそう呟きながらクスリと笑っていた。その笑顔が、何だかとてもかわいらしく見える。

 (そういえば、典子、好きな男とかいるのかな…)

 ふと、亮太はそんな事を思う。

 今まではそんな事を考えた事など全然なかった。ずっと一緒だったからだ。自分じゃない別の男の隣にいる典子なんて、今でもまるで想像できない。だが、いつかはそうなるのだろうか。

 不意に、亮太は典子のおばさんの言っている言葉が現実味を帯びてくるのを感じた。何だか少し切ない気持ちになって、どうしてそんな気持ちになるのか亮太自身戸惑う。

 (いつもはあんまり近くにいるから気が付かなかったけど、確かにかわいいよな、典子は。料理もうまいし…)

 クラスの男子達から、時々からかわれるのも今なら何となく納得がいく。

 『典子だって、女の子なんだぜ』

 ふと、真吾の言った台詞が思い出される。

 真吾がそう言ったのは、亮太がわかっているつもりでその事を忘れているのに気が付いていたからだろう。

 (そうだな…こいつ、女の子だったんだよな…)

 ドキドキした理由が、やっとわかったような気がした。

 (…昔からずっと、ずっと一緒だったんだもんな…)

 泣き虫だった亮太の側にいつもいて、慰めてくれた典子。

 亮太がいじめられそうになったときにかばってくれた典子。

 宿題を写させてくれた典子。

 引っ越しを手伝ってくれた典子。

 そして、料理を作ってくれる典子。

 亮太は、典子の事がとても大切に思えた。今まで余りにも当たり前すぎて、身近にありすぎて忘れていたのだ。

 (…幼なじみ、か…)

 いつもはその一言ですませてしまってはいるが、一体、それはどういう関係なのだろう。ただずっと一緒にいただけという、本当にそれだけの関係なのだろうか。亮太にはちょっと違うように思えた。そしてまた、それは単なる『友達』とも違う。もちろん、『恋人』ではないのも確かだが、ある意味では普通の恋人以上であるとも言えるような気がした。

 (…友達じゃない恋人じゃない、か…)

 その二つが同一線上にあるものだとしたら、『幼なじみ』は一体どの辺りに位置するのだろう。そして、もしそれが同一線上にはないとしたら、やはり『幼なじみ』はどこに位置しているのだろうか。

 (…何なんだろ…俺達の関係って…)

 電車はゴトゴトと規則正しい音を立てながら走り続けている。

 「…っかんねーや…」

 眠たげにそう呟き、亮太はもたれかかって眠っている典子を起こさないよう控えめに欠伸あくびをする。ちらりと典子の方に目をやると、典子は相変わらず安心しきった表情で亮太の肩にもたれかかり、すやすやと穏やかな寝息をたてている。

 (…まぁとにかく…。…ありがと…典子…)

 心の中でそう呟きながら亮太もいつの間にか眠りの中に落ちていった。窓に映る寄り添って眠る二人の姿は、まるで恋人達のようだ。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン…。

 「次は…」

 乗客もまばらな車内に、次の停車駅を告げるアナウンスが流れる。やがて電車は徐々にその速度を落とし、駅へと入っていく。

 空にはたくさんの星達が輝いていた。


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― 新着の感想 ―
[一言]  coachです。  「セピア」シリーズ第二作拝読。  典子ちゃんの可愛さを再確認いたしました。ただし、美雪ちゃんの純粋さも分かってしまって……いい子ですねえ、美雪ちゃん。一体どっちを選ぶの…
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