06
デボラが愛らしい瞳をさまよわせながら、不思議そうに小首を傾げる。
「おかしいですわ殿下。玄関ホールの絵のお父様はむっつりされていて、いらしていただいたお客様の印象も悪いから取り替えてみてはどうかと、私からいつもお父様にもお母様にもお伝えしていますの」
「え?」
「く、口元は? 口は開けていたのではなかったかしら」
「まあエルジェ、あなたまで何か勘違いされてるの? 真一文字に口を閉じてあんなに不機嫌そうなお父様の絵ですのに」
「ふ、ふむ。デボラくんの言うとおりだ。エルジェくんは、何か勘違いしているようだね」
瞬時に立ち直ったオーギュスト王子が同意する。
――ちょっと王子、あなたどちらの味方なのよ!
でもまあ、紛失した絵の男爵の表情については、屋敷の者に確認すればすぐにでもわかることだ。そんなすぐバレそうなことで嘘をつく必要もないだろう。
消えた絵の歯並びのことで攻めれば何かつかめるかもしれないと思ったのだが、まるで的外れだったらしい。
ポンコツな自分に降りてきた天啓など、その程度のものだった。
「そ、そうかもしれないわね。勘違いしていたのかも」
エルジェは赤面しつつ、フランス窓の外に見える犬小屋に視線をそらす。
たしか犬に腕を噛まれた後、クレメントが気絶したデボラを抱えて、メイドに引き渡したのだったわね。
そのとき、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼いたします。紅茶のおかわりをお持ちしました」
そう言って部屋付きのメイドが入室してきた。
ふと思いついてエルジェはメイドに尋ねる。
「あなた、昨晩のことを覚えていますか?」
「え? あ、失礼しました。はい。昨晩のことでしたら覚えております」
この公爵令嬢は何を言いたいのだろう? 記憶喪失ではないので、一般的な人間が数時間前のことを覚えているのは当然だろう。とでも言いたげに、メイドが不審そうにこちらを見つめてくる。
――そういう意味で言ったわけではないけれど、これは好都合ね。
「それでは、夜会が終わっ……」
「ふむ。では夜会が終わったあたりから話してくれたまえ」
「はい。殿下」
瞬時に悟ったオーギュスト王子に被せられ、エルジェは押し黙らざるを得ない。
まったくもって腹立たしいことこの上ないが、無粋に遮るより、ここは引き下がって傾聴した方が得策だろう。
デボラの部屋付きのメイドが、王子殿下の中途半端な美形にほほを染めながら、昨晩のことを話し始める。
ほんの少しだけ、ベッドの上のデボラが身動ぎした気がした。
「夜会が終わりましてから、旦那様とお嬢様が玄関ホールを抜け、お二人でお屋敷の外にまで、お帰りになるお客様をお見送りになりました」
「ふむ」
――ええ。そこまでは知っているわ。
エルジェとオーギュスト王子はそろって頷き、続きを促した。
「私はほかの使用人と同様に、会場の片付けをいたしました。それから――」
「もういいわ。ありがとう。それよりナディア、せっかくの紅茶が冷めてしまうわ」
「あ、大変失礼しました」
デボラの一言で、メイドのナディアは我に返り、本来この部屋に入ってきた目的を思い出したらしい。
慌ててそれぞれのティーカップに、追加の紅茶をサーブする。
無言の時間が数刻続き、紅茶の香りとともに、何とも言えない空気が部屋に満ちる。
「ふむ。とてもいい香りだね。ところでナディアくん、先ほどの続きを聞かせてくれないか」
オーギュスト王子がまるで意に介さず、強引に話題を戻した。
――こういうところはさすがね。
エルジェは空気を読まないマイペースな王子の振る舞いに感心する。
「あ、はい。殿下。私はほかの使用人と一緒に夜会の会場の片付けをしました」
ナディアがいったん言葉を切る。そして、この先も話してよいでしょうか。まるでそう問いかけるように、一瞬だけデボラに視線を向けた。
デボラが諦めにも似たかすかなため息を一つ吐き出す。
「続けたまえ」
オーギュスト王子が鷹揚に頷いた。
「はい、殿下。片付けが終わるころ、お嬢様がお戻りになり、余ったビスケットを二つほど手に取られました。たしか守衛のクレメントとマーチンにもお与えになるためと仰っていました」
「ふむ」
オーギュスト王子が相づちを打つ。
エルジェはデボラの表情をそっと窺った。
それ以上はもう話さなくていい。デボラはまるでそう言いたげに、ナディアの顔をまっすぐ見つめていた。
「お嬢様が出ていかれた後、私は執事のハリルとともにこちらのお嬢様のお部屋の前室に戻ってまいりました。なぜならお嬢様は守衛のクレメントとマーチンにビスケットをお渡しにいかれたため、しばらくはこちらにお戻りにならないと考えたからです。それから、あの……」
ナディアがデボラの顔を見返しながら、その先を言いよどむ。
主従の無言のやりとりを見つめながらオーギュスト王子は紅茶を一口すすると、有無を言わさぬ口調で言いはなった。
「どうしたナディアくん、続けたまえ」
「は、はい。殿下。私と執事のハリルは、このお部屋の前室に入り、ほっと一息つきました。昨晩のお客様がたが発する空気は、なぜか緊張感を纏っていた気がしたからです。疲れしまっていた私をハリルは優しく抱きしめると、耳元でこう囁きました。大丈夫かいナディア。私はハリルのたくましい胸に顔を埋めて、彼の背中に手を回しました」
「え? あ、……ふむ」
「ハリルの気遣いをうれしく感じるとともに、なんだか気恥ずかしくなってしまった私が黙ったままでいると、彼の長い指が私の頤にかかり、強引に上を向かせられました。ハリルはいつもそうして私を上向かせるのです。ほんの少しだけハリルと見つめ合った私は、そのまま目を閉じました。ハリルの唇が私の唇と重なります。はじめはついばむように。そして数度繰り返した後、彼の舌が私の唇をノックしてきました。私が唇を薄く開くと、彼の舌が私の舌を絡め取り情熱的な口づけを交わしました。エプロンドレスのひもをほどきながら、彼のシャツのボタンを外し、私たちは生まれたままの姿で――」
「わ、わかった! わかった。うん。もういい」
とんでもない方向に転がり始めたナディアの話を、オーギュスト王子が遮る。
どうしてこうなった。そう言いたげにこちらを見つめるオーギュスト王子を無視して、エルジェは赤面しつつ尋ねた。
「お、お二人が仲むつまじい恋人同士だということはわかりましたので、その後のことを教えていただけるかしら」
「はい、エルジェ様。一度目が終わると、すぐさまハリルは二度目を求めてきて、私は――」
「ち、ちがうの、ちがうの。そういうのが終わった後からで構わないわ」
「はい、エルジェ様。私とハリルが愛を確かめ合っていますと、お嬢様のお部屋からなにやらばたばたとした気配が伝わってきました。お部屋には誰もいないはずですので、おかしいと感じた私とハリルが慌ててお嬢様のお部屋に入りますと、意識のないお嬢様がベッドに横になっておいででした」
「それでどうされたの?」
「はい。私は手に消毒用アルコールなどを持っているクレメントに、何があったのかを尋ねました。すると、お嬢様がマーチンに腕を噛まれて気を失われたので、フランス窓を開けて部屋までお運びして、腕を消毒してから包帯を巻き終えたところだと説明されました。見ると、お嬢様の腕には真新しい包帯が巻かれており、フランス窓も開け放たれたままでした」
「そう。あなたが部屋に入ってきたときは、すでにクレメントによって応急処置がされた後だったのね」
「はい、エルジェ様」
――ならば、このメイドも執事のハリルも、デボラの腕の傷は見ていないということになる。
守衛のクレメントは、デボラが犬のマーチンに噛まれたところを見ていない。
しかし包帯を巻いたと言うことは、少なくとも腕に残った傷跡は見ているだろう。
ただ、デボラの腕に何かに噛まれた歯形が付いていたとして、あの慌てた状況で犬以外の者が噛んだなどと疑うだろうか。
それがたとえ人間の歯形だったとしても。
「それから?」
「はい。深夜を回っておりましたので、お医者様をお呼びするのは明日になるだろうということになり、ハリルが家令のバウアーさんを呼んできました。お嬢様が静かに規則的に息をしておられましたので、命に別状はないとバウアーさんが判断されました。それからクレメントはフランス窓から守衛詰め所に戻り、私とハリル、バウアーさんも部屋を出て、先ほどまで前室の椅子で仮眠をとっておりました」
「ありがとうナディア。とてもよくわかったわ」
「恐れ入ります、エルジェ様」
――問題は、どうやってデボラの腕の傷を確認するかよね。
決定的な証拠が目の前にあるというのに、それを確認することができない。
空気を読まないオーギュスト王子も、さすがに怪我をしている男爵令嬢に向かって、傷を見せてくれとは言えないようだ。
エルジェはいったん考えを整理する。
デボラはバスケットケースを携え、ビスケットを守衛のクレメントに渡すため、玄関から外に出てきた。
クレメントにビスケットを渡し、犬のマーチンにも渡そうと犬小屋へと歩く。
そこでマーチンに腕を噛まれる。
慌てて駆けつけたクレメントがとっさにマーチンを処分し、気絶したデボラを、犬小屋から最短距離で部屋まで運んでくる。
そのまま部屋でばたばたと応急処置をしていると、前室にいた部屋付きメイドのナディアと執事のハリルが部屋に入ってくる。
ハリルは家令のバウアーを呼びに行き、バウアーがおそらく大丈夫と判断した。
これまでの関係者の行動は、どこにも矛盾したところがない。
男爵令嬢が犬に噛まれて気絶した。その後の一連の流れに、不審な点は見あたらない。使用人の誰もが合理的な行動をとっている。
ということは一連の流れのまえ、つまり最初のデボラが玄関から外に出てくるまえに、男爵は殺害されていたということになる。
デボラの腕の包帯の下には、ルクスヴィー男爵を殺害する際に噛まれた男爵の歯形が間違いなく付いているはずだ。
――でもどうやって腕の傷を確認すれば……。
しかしエルジェの悩みは、意外なほどあっさりと解決する。
「あ、お嬢様、お医者様が来るまでもう少しかかるそうですので、包帯をお取り替えいたします」
「いいえ、大丈夫よナディア。お医者様を待ちますわ」
デボラが即座に否定した。
「失礼しました、お嬢様。それでは私はこれで――」
「ふむ。待ちたまえ、ナディアくん。放っておくと僕の友人が破傷風にでもなりかねない。デボラくんの包帯を替えて差し上げてはいかがだろう。ナディアくんができないのなら、僕の連れてきた医者にやらせてもよい」
「殿下……」
デボラが困惑したようにオーギュスト王子を見つめる。
――この空気を読まない王子からはきっと逃げられないわよ、デボラ。
エルジェもナディアに視線で促す。
とうとうデボラは観念したように、包帯の巻かれた腕をメイドに差し出した。
「それでは、お嬢様。失礼します」
ナディアがデボラの腕の包帯を、ゆっくりと巻き取っていく。
「ねえナディア、マーチンはどうなったのかしら?」
「はい、お嬢様。残念ながらマーチンはクレメントが処分したそうです」
「そう……」
すべてを諦めたような表情で、デボラは瞳を伏せる。
エルジェとオーギュスト王子が見守る中、メイドのナディアによってデボラの腕から包帯が巻き取られていく。
そしてあらわになったデボラの腕には、やはり痛々しい噛み跡が残っていた。
エルジェとオーギュスト王子は思わず目を見開いた。
なぜならそれは、誰がどう見ても人間のものとは見間違えようのないほどくっきりとした、小型犬の歯形だったからである。
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