-柘榴- 実(1)
児童養護施設で待ち受けていたのは、庭の真ん中に植えられた柘榴の木だった。通り一遍の挨拶を済ませたあと、俺は庭に行き、木を見上げた。葉と葉の重なり合う奥、ずっと奥まで覗き込んだが、そこにはなにもなかった。ただ、赤い実が不条理に俺を見下していただけだ。ぽってりとした実の、裂けた割れ目を覗く。赤い粒の整列が俺の中枢神経を不快にさせる。一粒を取り出して、指で潰した。滴る赤い汁は愉快を生んだ。俺は笑っていたかもしれない。くだらない幻想を放り投げた。
蟻砂とは、ここで知り合った。蟻砂は、あるロックバンドに入れ込み、いつもギターを弾いていた。その影響を濃く受けたのがシズクだ。俺はもっとコアなもの、脳が掻き毟られるような要素を含んだものにイカレていった。呪文みたいなフレーズやリズムは俺を黒闇に引き摺り、俺を破壊し再生する。俺が俺を保てる唯一の手段だ。
俺は俺自身を造り上げ、操ることが面白くなっていった。言葉や態度を巧みに操れば、誰をも操縦できる。腹の底から湧く醜灰に咽び笑いしていることは、仮面の内側だけが知っている。
俺は中学の時にバカみてえにパソコンに入れ込み、自分のホームページを作り、絵を描いて貼りつけまくっていたら、名のあるデザイナーに気に入られ、絵を描いただけで相当の金を得ていた。ただそいつはゲイだったから、その分も上乗せされていたのかもしれない。
独立ができる年齢になると、シズク、蟻砂と三人で暮らした。ふたりはバイトをして生活を支えていた。
俺はシズクを愛していた。だけどそれは、弟としてへの愛情なのか、もしかしたら本当に愛しているのか、わからないでいた。弟を壊し過ぎて、俺は興奮し、自分の胸にシズクの名を彫った。
シズクという奴はキレるとなにをしでかすかわからねえ。ふとしたことからデザイナーとの関係がバレた。奴は、彫ったばかりのタトゥーにマスタードを擦り込みやがった。ガキのころの溜め込んでいた怒の感情が破裂したのか、大人になってからのシズクは、喜怒哀楽を明瞭にぶちまけるようになった。普段は人当たりもいいが、これだからバンドのメンバーが頻繁に入れ替わっていた。未だにドラムだけが不在のままマスタアドは進行している。いつも、いろんなツテで、いろんな人にドラムを弾いてもらっている現状だ。
蟻砂は、昔からマセたガキというか大人で、喧嘩をふっかけても相手にしねえし、キレたシズクを宥めるのもうまかった。もちろん俺のことも。
感情なんてものは、狂だけでいいとさえ思う。俺は狂に飢え、狂を欲し、狂を支配したい。だが、蟻砂の笑みの妙味は、俺を素にさせ、なにも敵わない。もしかしたら、陰の操縦者は蟻砂なのかもしれない。
出会ったころの蟻砂には、感情すべてが備わっていなかった。笑顔すらもなく、「能面」と呼ばれ苛められていたが、俺にはどうでもよいことだった。
誰もいない食堂室で、能面はいつもギターを弾いていた。その音が心地良く、俺は漫画を片手に聴いていた。能面は誰とも口を利かなかったし、もちろん俺とも会話はなかった。そうして一週間ほど過ぎたころ、能面の奏でるメロディーに、俺はページを捲るのをやめ、振動する金属の六線を見つめた。
……懐かしいような旋律は、俺の心の端を、微かにだが確かに触った気がした。
「その曲……なんていうんだ?」
蟻砂が手の動きを止める。初めて能面の顔を見た気がする。か細いイメージしかなかったが、本当にか細くて、色白で、輝きを消失させた目を、ゆっくりと俺に向けた。
「……知らないの?」
「知らねえ」
「いつも口ずさんでいるのに?」
「誰が?」
「ユガちゃん」
「俺?」
「うん」
頷いた能面の口元は、笑みに満たない笑みを歪曲した。
「もう一回弾いてみて」
結局、なんの曲なのかは分からなかったが、俺と蟻砂を繋いだものは音楽だった。
蟻砂とシズクはバンドを組むと言い出し、俺も誘われたが即蹴りしたため、他に仲間を見つけたようだった。シズクの誰とも仲良くなれるという特技が、メンバーを引き寄せたといってもいいだろう。
バンド名には、シズクが好物の物から取って『マスタード』と安易な発想のもと決められた。他のメンバーも好きな食べ物を挙げていったが、リンゴやカラメル、蟻砂にいたっては馬刺し、ということで、一番無難なマスタードに決まった。という経過を、漫画を読みながら聞いていた。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、おかげで漫画の内容はちっとも頭に入ってこなかった。
食堂室は、マスタードのメンバーに占拠され、蟻砂との穏やかで慎ましいインストな空間がなくなってしまった。
施設の発表会前日に、ボーカルのカラメルが風邪を引き、奴らの食堂室仲間になっているらしい俺が、仕方なく受け継いだ。仕方なくだ。練習の場で流行の曲を何度も聞かせられて、残念ながら完璧に覚えていた。残念ながら、だ。
だが予想外に自分が楽しんでいることに驚いた。いや、予想を遥かに上回り、俺は楽しんでいたといえる。
その後、カラメルが抜け、俺はバンドの一員になり、「マスタアド」として、オリジナル曲でライブをするようになる。
ライブハウスのステージは、施設の発表会とは全く違って、俺は新たな興奮を見つけた。
初めはナイフを使って自分を傷付けていた。血だらけになって歌っているうちに、興奮が増し、舌を削いでいた。滴る血に、スタッフが止めにきて中止になった。ナイフ禁止令が下り、変わりにバンド名にちなんでマスタードを持ち出した。口からマスタード&ヨダレをたらして歌った。
狂気を纏えるのなら、どんなことでも厭わない。世界はざらざらしている。黒と白が決して混じることなく漂流している。紙ヤスリみたいな舌触りで、なにを削ろうか。
歌いながら、なな子を見つけた。濃いアイメイクをしていたけれど、すぐになな子だとわかった。曲にノリもせず壁にもたれ、こちらを睨みつけて酒を煽っていた。
蟻砂を介して打ち上げに誘うと、なな子は顔を出した。シズクは、なな子に気付いていないみたいだった。しばらく会ってはいないからな。
名前を聞くと、なな子は低いトーンで、
「ミナ」
と答えた。なな子の目が一瞬、壁側に泳ぐ。そこには、ポスターが貼ってあった。俺でも名前を覚えたぐらい、最近やたらと目にするアイドルだ。
「音楽好きなのか?」
と聞くと、なな子は頷いた。長い黒髪、黒ずくめの服。いかにもという服装をしていた。聞きたいことはいっぱいあった。どんな生活をしてきたのか? 幸せだったか? 今は……
ヤキモチで、シズクに腕を引っ張られる。俺はいつもの場所、シズクと蟻砂の間に押し込められ、酒を飲み始めた。常にシズクに隔離されているようだ。それがだんだん重荷になってきている。
「ユガちゃんがファンの女と話すの珍しいな」
蟻砂が言う。
「あの女、なな子だ」
俺はシズクに言ったが、
「まさか」
と、シズクは信じない。
「って誰?」
問いかける蟻砂に向けて、俺は答える。
「妹だ」
「妹なんていたの?」
なな子の目付き。人をじっと窺うその一線上に、絡み付くような重圧を乗せる。変わってない。
なな子のことが気になってならなかった。俺はシズクの話にも上の空で、なな子のことばかり盗み見ていた。なな子は相席した女と仲良くなったようだ。
俺と離れたことは間違いじゃなかっただろうか?
選択は、ただの自己満足に過ぎなかったのではないだろうか?
……今は幸せか?
打ち上げが始まってからだいぶ時間が経ったが、なな子は顔色ひとつ変えずに酒を飲んでいる。相当強いようだ。一緒にいた女がテーブルに寄りかかり、なな子が女の肩に手をかけた。
「そろそろ終わるよー。二次会来る人、いるー?」
シズクの声が店内に響き渡る。俺はいつもこのタイミングで帰ることにしている。
なな子が女を支え、立ち上がろうとしていた。手を貸すと、なな子はちら、と俺を見た。
「どうも」
愛想は無いが、敵意も無いように感じた。
女は、酔っている焦点で俺を見て、首を些細に傾けた。周りの雑音が隔たれ遠越しに流れた。俺はその女に曖昧な可能性を見つけた。女の皮膚が白くてカンバスみたいだった。
俺の興味がパソコンに移行する前、相手はノートや広告の裏だった。学校では、何かクラブに入らないとならなくて、美術を専攻した。そこで初めてカンバスに出くわした。真っ白い面を眺めていると、俺の心はむず痒くなった。他の生徒は、テーブルに置かれた課題の果実を写生し、色を塗り始めていた。俺はどうしても艶々の色鮮やかな果物を描く気にはなれず、黒い絵の具をつかんだ。水入れの中に絞り出したが、痒さを抑えるための緩和色にするには足りない。他の奴らの黒い絵の具も奪って溶いて、出来上がった毒々しい液体を、カンバスにブッかけた。
さすがにみんな引いていた。先生に呼ばれた俺は、「果物がお供え物に見え、父が死んだことを思い出して、気が動転しました」などと適当な言い訳をあてがった。先生はひどく同情し、俺の肩を生温い手で包んだ。
なぜ俺は気が動転したのか、自分でも正当な理由を見つけることが出来ないでいた。白いカンバスは俺を罵っているような気がしてならなかった。黒くなったカンバスさえも。
違う、俺はもっとこう、繊細に……繊細に、高尚に、黒で愛でたかったのだ。
その女の白い肌は、傷を付けるのに有効なカンバスだった。