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ギセイミライ  作者: _
# 3 屈折ノ味
7/21

-柘榴- 種(3)

 木陰を選んで歩く。道に敷き詰められたレンガは、所々が欠けていた。割れ目から茎が伸び、その先端で小さな白い花びらが揺れている。緩いカーブを抜けると、この田舎町には不釣り合いの近代的な建物が迫った。図書館と美術館が併設した施設は、地上に墜落したクジラのように横たわり、夜空を乞う。再び悠然と空を舞うには星が足りないのだ。クジラに飲み込まれると、俺から音が欠如していくのを感じた。空白の五線譜が漂い、無音の調べに俺は、自分自身を生贄として捧げるのだった。

 受け付けカウンターにちょうどなな子がいて、バッグの中を確認していた。

「取りに行ってきます」

 そう告げた際に、俺は忘れ物の本を提出した。

 なな子のあとについて、館内を歩いた。なな子は、本をパラリと捲っただけで借りる本を決めている。腕の中には、もう四冊の本が重ねられていた。俺はなな子を観察していた。パラリ。棚に戻す。パラリ。借りる。パラリ。パラリ。借りるに決定。パラリと捲る隙間に、決め手となるなにが隠されているのか、さっぱりわからなかったが、見ていて頼もしいほどの潔さを感じる。ふと、こちらを見つめる視線を感じた。

「なな子ちゃん」

 ここで友達になったという女の子なのだろう。笑顔で手を振っていた。なな子も手を振ろうと、向きを変えたそのとき、そばにいた女性とぶつかった。床には二人分の本が散りばった。

「すみません、よそ見してしまって」

 なな子は謝りながら本を拾う。

「おばさんこそ、ぼうっとしてて。ごめんなさいね」

「なな子、友達待ってるぞ。俺がやるから行け」

「ありがと、ユガにい」

 なな子は立ち上がり会釈して離れた。残された本を拾う。観葉植物に関する本ばかりだ。図書カードを本の上に重ねる。持ち主の手は止まったままだ。俺が感じた視線は、この人のまなざしに違いなかった。まだ、なな子に向けられている目に向かって告げた。

「あの、これ」

 三十代ぐらいだろうか。おばさんは、はっとして、本を受け取り、

「あ、ありがとう。ごめんなさいね。本当に」

 と、穏やかな笑顔を見せた。スカートの裾を払うと、空気の一片に花の匂いがした。淡い生成り色の揺れは、レンガの割れ目からポツリと咲く花を思わせた。

 俺は、手ぶらになった両手をポケットに突っ込み、聞いた。

「なな子のことを知っているんですか?」

 おばさんは驚いた様子を見せながらも、ぎこちなく否定した。

「い、いえ。知っていた子にとてもよく似ていたから」

 おばさんの視線がまた、なな子の存在を追いかけた。だが、ガラス張りの自動ドアの向こうにはもう、なな子の姿はなかった。

「俺、なな子の前の名字、知っています。おばさんと同じ」

 ようやく、おばさんの上の空の瞳に俺が映る。

「……君は、あの子のお兄さんなの?」

「はい。西脇悠我です。西脇がツカイモノにならないから、俺が親代わりしている」

「使い者にならない?」

 おばさんは、困ったような顔をして、わずかに笑みを浮かべた。

「私は、あの子のお母さんの妹なの。姉の子供のころと、とっても似ている子がいてびっくりしてしまって。もしかしたらと思ったけれど、でも、本当にそうなのね。なな子なのね」

 今にもあふれそうな涙をこらえている。

 俺は、なな子のことが知りたかった。一度だけ母親のことを聞いたことがある。なな子は、「私を捨てて、飛び降りて死んだんだ」という言葉以外発しなかった。

 俺とおばさんは、図書館の外のベンチに腰掛けた。手入れが行き届いた芝生が広がっていて、あちこちに理解不能のオブジェが置いてある。陽射しは、午前中だというのにやたら暑く、眩しい。それでも周囲の木々に遮らえれ、幾らかは軽減しているようだ。前庭の人工池の水面がキラキラと揺らいでいる。俺とおばさんの間を、風がすっと撫でていった。造られた自然の中、俺は、おばさんの話に耳を傾けた。

 なな子の母親は、親父の経営する会社で、受付のアルバイトをしていた。社長である西脇と付き合い出して、おばさんはかなり反対したという。

「子供ができて、産むって言い張った姉を、父は勘当したの。西脇は姉にマンションを用意してくれた。姉は、ひとりでなな子を産んだの。本当にお人よしで、優しすぎる人だった」

 おばさんの目が潤む。

「西脇はよくしてくれるけれど、結婚ができるわけでもなかった。もちろんそんなの初めからわかっていたことだけれど。西脇と別れて、と言ってきた女がいたの。本妻でもなく、派手な女……もうひとりの愛人だった」

 シズクの母親の事だろう。

「ごめんなさい。こんな大人の話、君に話しても……」

「続けてください。俺は、なな子のことが知りたいんです」

 おばさんは頷いた。

「その女から執拗な嫌がらせが続いて、姉の精神状態はボロボロになっていた。そんなとき、西脇が刺されて重傷だって連絡がきたの。連絡をくれたのは奥さん。ちょうど私は姉の家にいたの。奥さんは、西脇にはもう興味がないみたいでね。見舞いにきてもいいという言葉に甘えて、姉と病院に行こうと外に出たら、女がいたの。手にはナイフを持っていた。あなたのせいよ、あなたが別れないからって、女は喚いて……ナイフを振り回したの。私は、どうしていいのかわからず、立ち竦んでしまった」

 ベビーカーを押した若い母親が通り過ぎる。おばさんは話を止め、赤ちゃんを見送った。遅れて男児が後を追っていくが、オブジェを撫でたり芝生の草を摘んだりしている。母親が名前を呼んでも、従う気配はない。あの親子が入り口にたどり着くにはまだ時間がかかりそうだ。

 話が再開する。

「姉は、なな子をぎゅっと抱きしめて、後ずさりして、壁に追い詰められた。そして、その場から飛び降りてしまった。あっという間だった。騒ぎを聞きつけた人たちが女を取り押さえて、私は急いでマンションを降りたの。だけど、五階よ、絶望的だった」

「なな子も一緒に……?」

 おばさんは頷き、話を続けた。

「駆けつけると、なな子の泣き声が聞こえてね。なな子は無傷で助かったの。姉は最期まで、なな子を守ったんだと思うの。私は、なな子を引き取ろうと思ったわ。でもね、西脇がきて、姉の分まで可愛がりたいっていうの。西脇は認知していて親権は西脇にあったし、私の両親もそれが一番いいって言って……。どうすることも出来なかった。幸せでいてくれればいいって、ずっとそれだけ考えてきたわ。でも、君のようなお兄さんがいてくれるなら、本当によかったって思える」

「なな子は、自分を置き去りにして母親が飛び降りたと思っている。母親に捨てられたと」

「そんな……」

「なな子は、愛されてたんですね」

 おばさんは、頷きながら、真っ白なガーゼのハンカチで、そっと涙を拭いた。微風が俺の視線を運ぶ。男児が母親の元へ駆けていった。広げた小さな手にはクローバーが咲いていた。

 俺は、おばさんに会ったことを、なな子に話はしなかった。いつかきっと真実に辿り着くだろう。





 夏休みも終わりに近づいていた。

「あいつ、どこ行ったの?」

 俺が聞くと、

「飲みに行ったんじゃない?」

 と、まだ残りの宿題をやっているシズクが答えた。

「金なんてないだろ」

 俺が言う。

「女でもできたか」 

 と、シズクに勉強を教えているなな子が言ったが、「……ねえな」とすぐに打ち消した。寝る時間になっても西脇は帰ってこなかった。安心したのか、シズクは死んだように眠っていた。

「あのクソ、帰ってこなければいーのに」

 なな子の放った言葉が夜の中に消えていった。

 朝目覚めたら、なな子のささやかな願いが叶えられていた。誰も西脇の話など一滴もこぼさなかった。

 三人で外に遊びに行き、昼飯を食べるために帰ると、クソが寝ていた。そばには酒が飽きるほどに置いてあり、空の瓶が一本、転がっていた。なな子が「臭っせーな」と窓を開ける。

 テーブルの上には、レシート、女の名前が書いてある名刺が数枚、シワれた千円札二枚と小銭が放り投げてある。レシートを拾い、代金を確かめた。

「どこからこんな金」

 呟きながら、不安が襲ってきた。レシートを投げ捨て、慌てて外に出た。なな子が俺の名を呼んだのを意識の外で聞いたが、とにかく俺は走った。全速力で。こんなに本気で走ったことなどあっただろうか?こんなに焦ったことなどあっただろうか? 駅前までの距離がやけに遠く感じた。

 看板に手書きで無料と書いてあるコインロッカーのスペースは、奥まったところにあり、昼の利用者は少ない。出入り口に “夜”の自動販売機が並んでいるせいかもしれない。隣の風俗店からサティスファクション顔の男が出て行く。到着すると俺は、一呼吸の間も惜しみ、ゼイゼイいいながら込み上げた唾を飲みながら右足のシューズを脱いでケンケンしながら中敷を取り出しシューズを振り、隠してある鍵を掴んだ。ポケットから取り出した百円玉を投入し、ギッと鍵を回す。扉を開けると、クタリとしたビニール袋が俺の迎えを待っていた。中に入っている通帳を出す。

「…… 0円ゼロ

 読み上げた残高は、俺に冷静を与えるには充分過ぎた。印鑑はダンボールの中に置いていた。そうか、あの男は印鑑を探していたのか。コインロッカーから戻ってきた百円をポケットにしまい、もはや意味のない隠し場所を捨て、家に帰った。

 西脇は高いびきで寝てやがる。だらしなく伸びた足を思いきり蹴り上げた。起きる気配がなく、もう一度蹴る。西脇はうーんと唸り、

「なんだ?」

 と俺を見た。カラの通帳を西脇のツラに掲げると、頭を掻きながら起き上がった。

「俺をつけていたのか?」

「まあな」

 悪びれもせず西脇は答える。

「返せよ」

「世話になっているんだから、金もらうのは当然だろ?」

「溜めていた家賃も光熱費も、充分支払ったぜ」

「だからおかしいと思ったんだよ。いつもなら電気が止められるなんてざらだし、大家も取立てに来ていたのに、おまえがきてからそういうのがなくなった。やっぱ子供だな。甘いんだよ」

 俺は西脇の首元をつかみ、

「殺す」

 と囁いた。

「やれるもんならやってみろ」

 臭え息が降りかかる。いきなり腹に衝撃が走る。俺は、腐れた胃液を吐き出しながらその場に倒れた。視界を杖が遮った。西脇はよれよれと立ち上がり、容赦なく俺を叩いた。西脇の興奮が冷めるまで、体を丸くして耐えた。この男をやり返すのは容易なことだろう。だが俺はしなかった。叩けばいい。気が済むまで。憎悪は最大にまで引き出した方が面白味が増す。俺の中の憎悪は歌う。なな子が部屋の隅で耳を塞ぎじっとしているのが見えた。




  欲しいものなんかなかった。

  何を願ったっけ。

  ……俺が存在しなかった世界を創造することだ。

  そういう力が欲しい。

  だが俺は産まれてきてしまった。

  痛みを感じている。

  血の味がする。

  今ナラ何ヲ願ウ?




 あり過ぎるほどある酒を前に、西脇は留まることなく飲んだ。毎日毎日泥酔し、シズクを抱いた。しかめていたあの顔が無表情になっていた。西脇は性欲を満たしているのではないような気がした。シズクを抱くことで、寂しさを紛らわしているのかもしれない。

 そして、シズクから笑顔が失せた。

 寂しさ?

 そんな廃棄物は、俺たち兄弟はとっくに処分している。空腹感でさえも、少しずつ確実に、俺らの神経を壊していくんだ。

 ことを終えたあと、西脇は寝てしまったようだ。高いびきが聞こえる。

「シズク、来い」

 シズクは俺の声に立ち上がり、ズボンを履いた。点け放しのテレビの画面がザザーッと砂を噛み、色を失くした。

「シズク。なな子。必要なもの、手にしろ」

 シズクは首を振った。なな子はランドセルを開けていた。

 テーブルの上の煙草を一本取り、口にくわえた。瓶に残っている酒を、寝転がる物体の上に振り撒いた。泥酔している西脇はびくりともしない。煙草に火をかざし、西脇がしてるみたいに奥深く吸い、煙を吐いた。

 うめぇか? こんなもん。

 薄暗い部屋の中で、煙草の先がやけに明るく感じた。




  闇ヲ照ラス光リ

  俺ノ

  俺ラノ

  コレカラノ

  ……



  俺は煙草を放り投げた。


  俺は創造する。あんたのいない世界を。








 俺は、なな子のおばさんの家の前に立っていた。囲いのない庭は、たくさんの草花で満たされていた。ナチュラルな素材のドアが開き、おばさんの笑顔に迎えられた。開放的な空間の部屋に、ハーブの香りが広がっている。

「大変だったでしょう。これからどうするつもりなの?」

「俺と弟は、施設に入ります。なな子は……」

 引き取ってもらえないかと相談した。なな子にはまともに育ってほしかったからだ。粗悪物の俺といたらダメになる、そんな気がしてならなかった。

「そのつもりよ。もしも、ユガ君が現れなかったとしても、そのつもりでいたの」

 おばさんお手製のクッキーとハーブティーがテーブルに並んだ。なな子が羨ましい気分にもなった。幼少時のなな子の写真を見たり、なな子の母親の写真を見たりした。

「なな子のことを、よろしくお願いします」

 このクッキーとハーブティーを、きっとなな子も気に入る。

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