-柘榴- 種(1)
闇雲に狂気を求めていた。
痛みの奥に忠実に潜む『カイラク』を剥ぎ、黒い穴を埋める為に。黒い穴は無数にある。闇は絶えず俺を罵り、ツイラクした俺を啄ばむ。
偽のセカイで、完全なるニクタイを手にするまで。俺は。
「断る」
芸能プロダクションの社長、横峯に向けて言った。俺の口の中のガムがクチャクチャと騒ぎ立てる。俺のバンド『マスタアド』を嗅ぎ回っていたのは知っていた。
「マスタアドは誰にも渡さねえ。特にあんたにはな」
高級な皮張りの椅子に背を預けた女社長は、料理をしたことのなさそうなすらりとした指で、長い黒髪を掻きあげた。シーリングライトに照らされて、爪に施したラインストーンが反射する。指先を動かすたびにいちいち反応するそれは、俺の機嫌をいちいち損なわせた。
「うちを断ったら、よそでもデビュー出来ないわよ」
「俺にかかわるな」
床にガムを吐き捨て部屋を出る。
黒い穴が疼ク
携帯を出し、番号だけの登録を探し電話をかけて、知り合ったばかりの女を呼んだ。ホテルに連れ込みすぐに 犯る。初めは抵抗のフリをみせていたが次第に身をよじる。
“チガウ”
コトを終えたあと、女は、ねえ、また会える? と囀った。
「ライブにくりゃ会えるだろ」
余韻に浸る女を残しフロントに向かう。フロントのバイトは呆れ顔で、
「お前そのうち刺されるぞ」
と戒めた。
「探しているんだ」
俺の告解に、奴はカウンターの小さな窓から俺を覗いた。
「欲情の蓋」
黒い穴を塞ぐ蓋を。
「ふう~ん蓋ね」
小窓が呟いた。
「なあ。アリはメジャーになりたいか?」
「そりゃあな。だけどマスタアドでないと、ユガでないと意味は持たないな」
「すいぶんな過大評価だな」
トレイに金を置き、そいつを掴む指先を見た。マスタアドのギタリスト・ 蟻砂の指は、しなやかに俺を評価する。蟻砂の指先の奏でる音律に、いつだって俺は自分の精神を高めることができた。それが身に余る旋律だとしても。
ホテルを出て、歩きながら携帯の名無しメモリーを消去する。
“チガウ”
“黒イ穴ハ埋マラナイ”
シズクに呼ばれていたから寄ったってのに。奴は寝ていた。ベッドの端に座る。シズクは俺の弟でありながら、俺を崇め俺を愛した。
俺はどうだろう。俺は奴を愛したか?
あいつに嫉妬していたわけじゃない。あいつのオモチャを横取りしたいだけだった。助けたかったわけでもない。あいつが憎かった。俺を創造したあいつが。
だけど、手に入れたオモチャは、俺の与える刺激には、あの男に見せた苦悶の表情を見せないのだ。物足りねえ俺は、シズクの皮膚に墨を刺し、痛みに耐える顔を見てクロイアナという空腹を満たした。だが、それは一時的でしかなかった。
今ではもう隙間がないほど墨に埋まった肌には、興味が疼かない。
シズクが目を覚ます。怪訝な顔に向けて言う。
「マスタアドやめねえか」
「なにを言っているの?」
「歌いたくねえんだよ」
あの女に盗られるくらいなら。
シズクは起き上がり、タバコをくわえた。俺はライターを拾い、先端を焦がしてやり、息づいたそれを奪った。俺は普段タバコを吸わない。ボーカルとして喉のためにでもない。相変わらず、うまいとも感じないタバコの煙を吐いた。
「まったく、ガキのころから変わらねえな。その突拍子もない自己中」
シズクの言葉はいつだって俺を苛つかせる。お前に言われたくはない。少なくとも今のお前にはな。
昔のシズクはもっと自分を抑えつけていた。と言っても、俺がシズクを知ったのは小学五年になったときで、それ以前を知っているわけではない。
梅雨の切れ間のジメジメした蒸し暑い日だった。
見たこともない住宅街を抜けて狭い道を走るタクシーの中で、騙されたことにようやく気付いた俺は、不機嫌にガムを噛んでいた。
「病院へ見舞いに行く」という上澄みを飲まされ、このザマだ。朽ちかけた長屋の玄関で、朽ちかけの男と嘘つきババアが挨拶を済ませたところだ。
「なにか必要なものがあれば送るわよ」
返事をしない俺を横目に、嘘つきババアは小さなバッグから分厚い封筒を取り出し、朽ちかけ男に手渡した。男は、笑みを隠しきれない表情で封筒を受け取った。
玄関から出て行った母親を追いかける。
「俺を売ったのか?」
「西脇はあなたの父親。これからの生活費を渡しただけよ」
「俺の……父親?」
「そうよ」
開け放しの門から出て行こうとする、母親の露出された背中が俺を制御した。
「あの男と一緒になるのか?」
母親は足を止め、視線を伏せたまま、こちらに少しだけ顔を傾けた。表情ひとつ変えず、真っ赤な口紅から舌を覗かせ言葉を紡いだ。
「いいわね、これからは西脇悠我として生きなさい」
そう言い切ると、振り向くことなく歩いていく。爪楊枝のようなヒールが、カツカツカツとアスファルトを削り、散れた石屑に一滴の雨粒が降りた。見上げると、灰色の雲が重そうな体をぐずつかせてひしめき合っていた。生まれる落雨は、母親の痕跡を確実に消失させていった。
雨液とともに、与えられた名前を噛む。無垢の舌触りは絶対者の味がする。
家に入ると、俺の「父親」という男は酒を飲んでいた。男は封筒から三万円を出し、これで学校へ行くのに必要なもん買ってこい、と言った。俺は必要なものがわからないと答えた。学校に行ったことがないからだ。
「俺、学校に通えるのか?」
「ああ。そろそろシズクとなな子が帰ってくるから、一緒に買い物に行くといい」
シズクとなな子?
「お前の兄弟だ」
俺のキョウダイ?
茶褐色のゴツゴツとした指から金を受け取り、ポケットにしまう。母親は、俺が外に出るのを嫌がった。家には専任の教師がきて、俺の知能指数はそのへんのガキどもより、はるかに高く仕上がっていたし、週の半分はトレーナーが迎えにきて、格闘技スクールに連れて行かれた。未知を知り、頭脳に整理する作業や、技を体得することは、なにより楽しかった。
いまさら学校に行って勉強をしても退屈なだけかもしれないが、行ったことのない学校という場所は、そのときの俺には未知だったのだ。
「へえ。お兄ちゃんかあ。何年生?」
シズクは愛想よく俺に話しかけてきた。頭は弱そうだ。妹の方は、学校に提出する俺の書類を見ていた。
「五年か。げ、担任最悪だぜ。西脇……悠我か。ユガにい、よろしくな。私とシズクは四年なんだ」
荒い言葉遣いのなな子は、片方だけにできるえくぼの笑顔を向けた。二人とはすぐに打ち解けた。シズクもなな子も母親が違うらしい。
西脇は無口な人だった。いつも酒を飲んでいた。昔は会社を経営していて、今より肉付きも良く、貫禄があったという。酒癖と女癖が悪いせいで、女といさかいになり、足を刺されたという。会社の経営は嫁が主導権を取り、「父さんは捨てられたんだ。バカだろう。この家に住む奴らはみんな捨てられて集まった者同士なんだ」シズクは笑いながら言い、「その刺した女ってのは俺の母親なんだよね」と続けた。西脇の左太股には確かに傷跡が残っていて、杖に頼り足を引き摺って歩いていた。出かけることもなく真昼間から酒を飲んでいた。
買い物は俺たちが行き、食事も自分たちでこしらえていた。シズクとなな子は、生活費の中のわずかな金で飯を作っていた。俺は二人から飯の作り方を教わった。なな子は料理が苦手らしいが一生懸命だった。シズクは盛り付けもきれいで、色味にもこだわった。西脇がまともに飯を食っているのを見たことはない。酒があいつをかろうじて運営していた。
四人で暮らすには狭い部屋だった。四畳半と六畳の部屋には仕切りがなく、もともとはふすまがあったようだが、シズクが言うには「父さんが暴れて壊した」という。
「暴れる?」
「前は、よく暴れていたんだ。今はそんなことないけれど……」
シズクは、いつになく陰りを付着させて言った。
ある夜のことだった。
「嫌」
か細く、幾度となく繰り返されたシズクの声で目が覚めた。体を起こし、目を擦りながら見ると、隣にシズクの姿はなく、その向こうに、布団を頭からかぶり、四畳半の部屋をじっと見つめているなな子がいた。なな子の視線の先を追う。
部屋の電気は消えていたが、テレビの明かりが西脇を照らしていた。西脇は、シズクに馬乗りになり、シズクの衣服を脱がしていた。ギュッと目をつむり、への字にしたシズクの口に、口を重ねた。
ナンダアレハ?
俺は目の前で繰り広げられている未知の映像に胸が高鳴った。やがて西脇は腰を動かし、シズクは苦痛に満ちた顔をした。
俺は新たな未知を知る。苦痛に従うという未知だ。その顔は愛おしくも感じた。