-mustard- (2)
普通の女の子だったあたしが家を飛び出して、行くあてもなく街の中を歩いていた。あんな男に体を奪われたことなんかどうだってよかった。白い花柄のシーツは、一輪だけ赤い花が咲いていた。摘み取ることができたなら、あたしは泣いていたのかもしれない。一秒でも。
気付くと、ライブハウスの前にいた。黒づくめの洋服に身を包んだ女の子たちや、アクセサリーをじゃらじゃらと着けた男の人たち、派手な髪色、数えきれないほどのピアスをした耳、タバコをはさむ指先に彫られたタトゥー……ロックとかバンドとか、今までのあたしには、どこか遠い世界のものだった。流行りの歌謡曲は聞いていたけれど、学校の友達に合わせて聴いていただけのような気もする。知らない世界がすぐ目の前にあった。なんて場違いなところにきてしまったのだろう。少し怖くなって、立ち去ろうとしたとき、ざわめきが起こった。その人たちの視線の先に、まだ名前も知らない「ユガ」がいた。
不思議な光景だった。入り口付近であふれかえっていた人たちが一斉に整列して通り道をつくった。そこをユガが歩いていく。みんな口々にユガの名を呼んでいるから、ファンなのはわかったけれど、誰もユガに近づこうとはしないし、ユガもまた、にこりともせずライブハウスに入っていった。ほかの人たちも次々と扉の向こうに吸収されていく。
その場に取り残されたのは、あたしと、もうひとり、いた。ジャージ姿の女の子だ。手にはチケットを持っている。髪の毛をふたつに束ねるその姿に親近感を抱いて、「あの人は誰ですか?」なんて聞いていた。
女の子はニコッと笑った。ものすごく可愛い子だった。学校ジャージがかすむぐらいの。
「マスタアドというバンドのボーカルのユガですよ」
そう言って女の子は、ライブハウスの扉の向こうに消えた。
あたしは、知らない世界を覗いてみようと思った。なにかが変わるような気がした。変わりたかったんだ。ジャージ姿の子に出会わなければ、入る勇気は持てなかった。あの男に抵抗したときに、服が破れたから着替えたけれど、あたしの持っている服なんて、プチプライスで冴えないのばかりだから。……ふとあの男を思い出した自分がイヤになる。
あたしは、変わる。
ぎゅっと手を握りしめて、踏み出した。
扉の中の世界は薄暗くて、本当に闇に入り込んでしまったような気がした。見よう見まねでチケットを買い、握りしめた。
人の流れに沿って進み、適当な場所に立った。辺りを見まわす。外にいた人たち全員が収容されるには狭いような気もした。ジャージの子を探したけれど、あふれかえる人波と、この照明の暗さでは見つかるわけがなかった。それにどんどん身動きが取れなくなってきた。人と人に挟まれてサンドウィッチの具材のようだった。息苦しいはずなのにドキドキしていた。誰もがステージを見つめていた。誰もが同じ期待でここにいるのだと感じた。食べられる直前の、マヨネーズがべったりついたレタスの気分すらシンクロした。
場内が暗くなる。会場がしん、とした。ステージの中央にかすかなライトが当てられ、現れたのはユガだった。暗闇の中で、白い服を着たユガが神のようにそこにいた。こちらを睨みつけて、なにか暗号のような言葉を発した。なにを言っているのかは、よく聞き取れなかった。
「……コウソク……スル……」
拘束?
突然、まぶしいほどの光が交錯しステージを照らした。ユガが一瞬見えなくなる。ギターの音が激しくうなり、ライブが始まった。ここにいる誰もが心の叫びをぶつけるように腕をあげ体を揺らした。
……あたしもだ。
気付いたら、あたしもなりふり構わず叫んでいた。
ユガは受け止めてくれる。マスタアドは、あたしの絶望を受け止めてくれるんだ。ここには探し求めた「自由」がある。
ユガは、あたしの自由を容赦なく拘束した。
あたしは知った。神はたやすく笑わない。威圧感で囚人を罵るんだ。
その日、家に帰ってママに会っても、ママの彼氏に会っても、なにごともなく振る舞えた。もっとも、その男も、なにもなかったような顔をしてソファーに座っていた。そこはパパの席だ。……どうでもいいか。どうでもいい。今までのデキゴトすべてがどうでもいいちっぽけなことに思えた。
「いったい何時だと思っているの?」
クレイジーマミーがくどくど言う。
「遅すぎよ。まだ高校生なんだから。ごはんは食べたの?」
あたしは冷蔵庫を開けて、コップに水を注いで飲み干した。途切れない不味な小言が喉元を通り過ぎていく。
「うるさいっ」
そう言い放ちながら、テーブルの上にコップをドン! と置いた。ママが黙った。こんな口の利きかたをするのは初めてだったから、びっくりしているのかもしれない。
「あたしを拘束しないで」
視線からママを除外して男を見た。男は目をそらし、「もう少し自由にしてあげても」なんて、ニヤニヤしながらママをなだめている。
ふたりを横目に自分の部屋に入った。そんなことより、ユガの歌を聴くことのほうが重要だった。買ったばかりのマスタアドの曲を流した。
あたしの自由はユガに預けてある。あなたたちには解放できない。
マスタアドと出会ってから、毎日が楽しかった。髪を短く切り、色を抜いた。ロック系の服もいっぱい買った。ライブハウスに通ううちに友達もできて、ミナとも知り合えた。思う存分自分を生きている感じがした。
あたしは高校を卒業後、家を出て、バイトをしながら友達の家を転々とした。
あれからもう、家には帰っていない。
今、目の前にユガがいる。あたしを厳重に拘束したユガが。不要なものを排除したこの部屋で、ユガはなにを見つめるのだろう。その行方を知りたかった。その先に行ってみたいと思った。
「ねえ、ユガ」
ユガは指先を止めることなくあたしを見た。ユガの目が好き。人を威圧するような鋭い目つき。近くで見ると、その理由がわかる気がした。ユガの瞳は色が無いように感じる。例える色が見つからない、冷酷色なんだ。
「ピアス、触ってもいい?」
いいよ、ユガは優しく返事をして、タトゥーを彫り続けている。手を伸ばして唇に触れた。
……もっと不協和音なものなのかと思っていた。
痛く、ないの?
「ないよ」
ユガがあたしを見る。あたしは怯えていたかもしれない。ユガはあたしを睨んだ。そう見えるのはユガの癖なのかもしれない。ユガが舌を出した。誘導されるように、舌ピアスにそっと人差し指を伸ばすと、齧られた。ユガはくすっと笑い、キスをしてきた。
溺れる、
そんなふうに蕩けていると、腕に痛みが走った。ユガはあたしの腕に有刺鉄線を巻きつけていた。そのまま体にも巻きつけられて、激痛に耐え切れず、あたしは叫んでいた。
ユガはあたしを痛みに浸しながら、歌を口ずさんでいた。英語の歌のようだった。店にいるときもなにかを口ずさんでいる。店長は、とりわけ機嫌がいいときだと言っていた。
有刺鉄線に巻かれたまま部屋に取り残される。少しでも動くと棘の先端が刺さる。もう抵抗するのをやめた。コンクリート剥き出しの壁があたしを見張っている。不透明な窓の向こうは暗い。雪は止んだのだろうか。あの猫はちゃんと家に帰ったのだろうか。そういえばタイルと直接触れているのに冷たくはない。換気扇の音だろうか。ブーンという低い音が鼓膜を振動する。棘が刺さる痛みより、この部屋にひとりということが怖くなる。呼吸を小さくしてユガを待った。この放置は、服従へと向かわせるために与えられた時間なのだろうか。
戻ってきたユガの手にはマスタードがあった。ユガはライブのとき、テンションが上がるとマスタードを口に含んで歌う。よだれみたいに黄色いマスタードを垂らして歌う異様さは、ファンをより熱狂的にさせた。
マスタードは彫ったばかりのタトゥーに擦り込まれ、染みるような痛さに声を張り上げた。ユガは楽しんでいる。興奮は見えず、かえってその冷静さが怖くなる。
キリキリ……
響きわたる音に支配されたかのように、あたしは制御させられる。カッターナイフの刃は、心にまだ残る“抵抗”を完全に切り裂いた。
あたしはもう、ユガには逆らえない。
ユガの唇が片方上がる。ユガに抱かれながら、あたしは涙が流れていたけれど、怖くて泣いているわけではないような気がした。
マスタードの容器の先端が口の中に押し込まれ、ゆっくりと絞られていく。それは喉の奥にとろりと流れて、むせると、ユガの舌に口の中を掻き回された。
軽薄な味がする。
なんだろう。ユガの舌の感覚は。舌にいくつも埋め込まれたピアスのせい?
有刺鉄線の先端が皮膚をえぐる。濃厚な痛みが襲う。
ケータイが鳴き出した。この着信音はミナだ。気付けば窓の外は明るくなっていた。ユガがシャツを脱いだ。胸にはタトゥーが彫られていた。かなりデザインされているが、文字のようだ。
S……H?
ケータイが鳴き止む。一呼吸置いて、ユガのケータイが鳴る。
「シズクだ」
SHI……Z……シズク……店長? ユガの胸元で揺れる、アルファベット。
ユガの動きが激しくなり、「痛い」という言葉があたしの口から何度もあふれた。ユガの狂気があたしを襲う。ユガはあたしを壊す。絶望を破壊する。あたしは従う、ユガの与えてくれた痛みに。痛みと快楽は共存していることを知る。
ユガがあたしの名前を呼んだ。あたしを見つめる冷酷な色に、もう怖さはなかった。絡めた指先にユガの鼓動を感じた。体から有刺鉄線が外され、ユガに抱きしめられた。
「あず、俺は……」
言いかけた言葉の続きを聞くことはできなかった。ユガは急にあたしから離れ、脱いだ白シャツを掴み、あたしに放った。同時に玄関の鍵が開く音がして、入ってきたのは、店長と────ミナだった。店長は、見たこともない怖い顔でユガを殴りつけた。
「ごめんな」あたしに向けた店長の声が震えている。「なな子、あずを連れて帰れるか」
「ああ」ミナは返事をしながら着ているコートを脱ぎ、あたしにかけてくれた。ミナのコートにくるまる。ミナの匂い……香水の甘い香りに落ち着いた。表に出て、拾ったタクシーに乗り込んだ。
「店長、ミナのこと、なな子って呼んでた」
ミナの本当の名前だ。
「兄弟だ」
ミナは言った。
「えっ?」
「だらしない父親でさ。母親がみんな違う」
あたしは言葉を失い、ミナのガムを噛む音が響くのを聞いていた。
「だって……ユガと店長って……よくわかんないけどさ、なんかヘンていうか」
店長がユガのことを「好きらしい」という噂は、ファンの間では有名な話であって、所詮、噂に過ぎないと思っていたけれど、店で働くようになってからは、「らしい」はあたしの中では取り外し可能な助動詞となっていた。
ミナがあたしを見た。呆れたような顔で笑った。
「三人とも母親に捨てられた者同士なんだ。父親が死ぬまで一緒に育った。私だけが親戚の家に預けられた。それからずっと会ってなかったんだ。マスタのことを知ってライブに行った。ふたりに会って、とっさにミナって嘘ついちまったんだ。いるだろ? アイドルの。そいつのポスターがちょうど貼ってあってさ。
あんた、朝になっても帰ってこないし、連絡つかなくなるなんておかしいからさ、シズクんとこ行ったんだ。それで、私はなな子だよって言ったら、わかってたって。ユガがすぐ気付いたって。わかってて私をミナとして呼んでくれてたんだ」
ミナが自分のことを話すのは初めてだった。あたしは、ミナに少しだけ近づけた気がして、嬉しかった。
次の日、店長から電話があった。
「昨日は悪かった」
「あたしは大丈夫。ユガは……」
言い終わらないうちに店長は言った。
「近づかないでくれないか、ユガに」
店長の二度目の警告は、やりきれないような言いぐさだった。電話が切れる。
ミナが、「どうした?」と聞いた。
「バイト、クビ」
あたしの目から涙が落ちた。
「なに泣いてんだよ」
ベッドに横になっていたミナは、起きあがり、あぐらをかいた。
「わかんない。おかしいかな、あたし。あんなことされたのに、ユガのこと」
「鼻たれてんぞ」
ミナはティシュであたしの鼻を拭いた。それからぽんぽん、と頭を撫で、
「また会えるといいな」
とつぶやいた。あたしに言ったのか、自分に言い聞かせたのかはわからない。窓越しに雪が降ってくるのが見えた。
休日には、よく家族で出かけた。映画やショッピングにカラオケ……パパは、行き先の決定権をあたしに与えてくれた。パパとママに挟まれて三人で歩いた。休憩時には、カフェパークに寄った。クレープショップやラーメン店など、いろいろなお店が入っていて、家族連れも多い。オープンな店内は、できあがるまでの工程を目の前で見ることができる造りになっている。
あたしはいつもお母さんに頼まれて、デコパフェを注文した。可愛らしいデコレーションが恥ずかしいらしい。
「今日は、なににするの?」
パフェ担当の店員は、いつも笑顔でこう聞いた。
「うーんと、今日はね、メロン」
「こんな雪の日でも、パフェなんだ。あずちゃんは本当にパフェが好きなんだね」
あたしは、その店員がパフェをデコレーションするのを見るのが好きだった。細くてしなやかな指先は、まるで魔法をかけるみたいにパフェをきらびやかにした。できあがると、飛び切りの笑顔で渡してくれる。肘までめくったシャツの袖のその奥に、タトゥーが刻まれていることなんて、思いもしなかったことだ。あたしは、その店員の笑顔を受け取りたいだけだった。
あたしのどうでもいい話を聞き終わって、ミナは言った。
「そのデコパフェとやら食べに行こうぜ。まだいるのか? その男」
ミナは酒好きだが、甘党だ。
「そんで、言ってやれ。甘いのなんかキライだってな」
さっそく、ふたりで出かけることにした。そう、あたしは甘いのはキライだ。甘いのは、キライ。なのに。
「イチゴパフェください」
なんて言っていた。いいもん。ミナにあげるもん。店員はあたしの顔を見て、驚いた顔をした。
「あずちゃん……?」
「イチゴパフェ、特盛でっ」
彼の長い指先が、イチゴを盛り付けるのを見つめた。
「ママは元気?」
そう聞くと、
「別れたよ」
と、彼は言った。
「連絡取ってあげなよ」
とも言った。
「はい、お待ちどうさま」
彼は、飛び切りの笑顔でパフェを差し出した。綺麗な笑顔だった。ロボットみたいな。ロボットは感情なさげに言語を発した。
「今はなにしてるの? 大丈夫なの?」
「友達と一緒に住んでるし、ちゃんと働いてる」
「ママにもそう言ってあげなよ。ずいぶん泣いてたよ」
あたしとママ、顔は似ているけれど、性格は真逆だ。あたしは消極的で、言いたいことがなにも言えない。ママが口うるさいから、よけいに言わなくなった。パパも、ママには本音で話すことを諦めたのかもしれない。ミナみたいにちゃんと伝えることができたら、少しは変わっていたかもしれない。あたしもパパも同罪だ。
「ママを支えてくれたことは、感謝してる。だけど、あたし、嫌だった。自分の家に知らない男がいるのもすごい嫌だった。それに……あんなことするのは最低だよ」
あたしは、彼の目を見て言った。ミナみたいにちゃんと。ミナは口癖のように、「言いたいことは、目ぇ見て、ちゃんと言えよ」って言う。まなざしは、いつも強い。ミナみたいに強くなりたいって思う。でも、ミナは強いわけじゃない。ただ一生懸命生きてる。あたしはそんなミナが大好きで、ミナがいるから気持ちを強く持てる。ミナもそうなのかもしれない。
彼は、あたりを見まわしてから小声で言った。
「本当のことを言うと、最初からあずちゃんのこと気になっていたんだ。だから……なんか……」
だから、なんなのだろう。彼はちっともあたしの目を見ない。あたしは視線をミナのほうへ向けた。ミナは、こういうお店にくるのが初めてらしい。パステルカラーに彩られたクレープコーナーのサンプルを見ているうしろ姿は、いつもよりテンション高めだ。黒系のロックファッションに身を包んでかっこいいけれど、本当は可愛いもの好きって知ってるんだから。
「ね、あずちゃん、俺と付き合わない?」
特盛のイチゴパフェが重い。頂上のイチゴがグラついた。こんな男を好きだった自分を呪ってやりたい。うつむいて深呼吸をし、彼の顔めがけてパフェを投げつけた。彼の足元に転がる罪無きイチゴに謝った。
「行くよ!」
手を引かれて慌ててその場をあとにした。
「待ってよ、なな子!」
走りながら、どうでもいいことを考えていた。イチゴと牛乳と、あたしの中途半端な感情を、全部ミキサーに入れて、グルグルして飲んでしまいたい。そうしたらママに会いに行こうかな。
息を切らせながら、ミナはゲラゲラ笑っていた。あたしもおかしくて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだ。ミナが涙を浮かべて顔をくしゃくしゃにして笑うなんて……笑うんだ。
「しかし、もったいねーな」
「あ、ごめん、食べたかった?」
ミナは、首を振り言った。
「ね、あず。私のこと、なな子って呼んでたよ」
あたしは一瞬考えて、あっ、と声をあげた。
「それでいいよ。そう呼ばれたほうが、いい」
そのときの、ミナ……なな子の笑顔は、飛び切りかわいくて、抱きしめたいくらいだった。
「おいしいの買って帰ろう、なな子」
『イチゴ!』
なな子と声が一致した。
歩きながら、手のひらで雪を受け止めた。雪は薄情に消えていった。手のひらの後味は、冷たく私を罵っている。まるでユガに触れているようだった。
あれから半年が経った。ユガのシャツはクローゼットにしまってある。ユガは徹底的にあたしを傷付けて、縛られた過去から解放してくれた。
手首に刻まれた有刺鉄線に触れる。今でもときどきマスタアドの刺激が欲しくなる。あたしの自由は、いまだユガに捧げたままだ。