-syrup- (2)
朝になっても、扉は開かれなかった。
ようやく眠りかけたところに、携帯電話の軽快な着信音が割り込む。相手は警察で、ユガを檻に入れたと言いやがる。
「フホーシンニューにフジョボーコー」
俺は電話の穴ボコから蛆みたいに沸いてくるデカイ声を、夢現に反復した。
「探してた。欠片はどこにある。不確かな確信を確実にするための」
暗号めいた言葉を綴るユガがいた。それがマスタアドの言葉でもある。解読するたびにユガの中枢を疑う。言葉と意味とが繋がる配線を丁寧にたどらないといけない。だけど、ユガの言っている意味がまるでわからない。
警察官の説明によれば、夜遅く、二階の物音に不審を感じた父親が、バッドを片手に娘の部屋に行くと、娘は裸でベッドに横たわり、手足は紐で縛られ、タオルで猿轡という状態だった。武器を振り上げたが一向に当たらず、苦戦していたところに警察官が駆け付けたという。
ユガのことだ、おおよその想像はつく。言い訳もせず、逃げもせず、攻撃をかわしていたのだろう。むしろ、そうした状況すら楽しんでいたのかもしれない。放置された女の姿を想像すると滑稽でたまらない。母親が倒れ、女は真実を言いそびれたようだ。ようやく同意の上だったとユガの潔白を証明し、疑いが晴れた。
「バッドとバッドの戦いだったんだ」
「なるほどね」
ユガの扱いに慣れている警察官が、 下がかった冗談にも真面目に相槌を打つ。ここには幾度となく世話になっているが、ユガは俺とは違い、無思慮に人を傷つけたりはしない。喧嘩の仲裁だとか、頼まれて助けるとか、結果として誰かを守るためだったりする。争いが最小限に収まることは確かだ。警察側のユガへの評価は高く、寛容な気さえする。俺に対する扱いとはまるで違うんだから。
通路に女がいた。相手はこいつか。彼女気取りも甚だしい。ここのところ、ライブや打ち上げには必ずいた。だが俺の知る限り、ユガと接触はしていない。ユガは、ファンと慣れ合うことをしない。徹底してマスタアドのボーカリストとしてのユガを演じていると解釈している。
いつからだろう。表向きの姿勢は変わらないが、ユガにはいつも女の影が付き纏っていた。ユガが自分の部屋を借りたのは、俺と距離を置きたいだけではなさそうだった。遊びなら、まだいい。そう割り切らなければ、俺は平静を保ってはこれなかった。
ユガは、女の眼前を何事もなかったかのように通り過ぎた。ユガの目にはもう、この女の存在など映ってはいないのかもしれない。己の 性的嗜好をさらけ出してユガを救った女に、俺は敬意を表し、突き立てた親指を床へ向けた。
外に出ると、熱を孕んだ空気が太陽に支配されて、俺を攻撃した。目を細めた先に見える電光掲示板の降雨予告など、完全に疑う。
曇りのち、なな子がいた。
「バッカじゃねえの?」
口の悪いなな子の声を聞くと、妙に落ち着いた。
「なんでわかった?」
ユガが笑いながら聞く。
俺たちは、なな子から逃げていた。初めてユガが手を出した女が、なな子の友人であり同居人だった。なな子に迷惑をかけたくないとユガが言い、拠点を変えたのだ。
「おまえを追いかけ回してる記者が教えてくれたんだよ。ユガは悪くないからって裏で動いてくれてたけど、どーすんだよ。また面白おかしく雑誌に載せられたら」
「いいよ別に」
兄妹の再開場面としては感動要素のない会話を観る。ユガの嬉しそうな表情を俺は見逃さない。なな子のポーカーフェイスは相変わらずで安心する。
バンド内の俺とユガは、しょっちゅう問題を起こしているので、マスコミが面白がって記事にする。おかげで知名度も上がり、デビューもしていないのに新聞や雑誌にまで載る破目になる。話題作りだと叩かれることもあるが、関わってもいない事件までも俺らのせいになっていることもある。だがユガは、怒りもせず、自分の記事を見つけては、物語を楽しんでいるように読み耽る。
「ユガにい」
なな子がガキのころと同じ呼び方をした。
「強えやつなんていねえよ。弱さを認めたら墜落する。自分に負けたような気がして。だから私はひとりでもやってこれた。だけどなんでひとりにするの?」
「みんなで一緒に住めばいい」
思わず俺は言っていた。以前から思っていたことだ。だが、なな子を切り離そうとするユガのやり方に、口出しもできず。
「無理だ。俺といる意味はねえ。俺自身にも意味がねえ」
打ち消して歩き出したユガを、なな子が追いかける。
「家族だろ。意味なんてたいした役割を持たない。そうだろ?」
ユガに対して、臆することなく言葉をぶつけられるやつは、なな子だけだろう。離れて暮らしてきても、こうして繋がっている。俺はふたりのあとについて歩き出した。
「そうだな。なな子の言うとおりだ。だけど、無理だ。一緒には住めねえよ」
「なんでだよ」
俺の問いに、ユガが立ち止まり、振り向くことなく言葉を漏らした。
「あいつは……あずはどうするんだよ」
俺は足が止まる。というより、すくんだ。ユガが女の名前を覚えるなんて今まであったか? あるはずがない。
「あずも一緒に住めばいいんじゃねえの?」
俺にしてはいい提案を口にした。いつものユガだったら一度ヤッた女と住むくらい、なんでもないことだろう。ユガにとっては狂気を愉しむゲームに過ぎないのだから。
「できねえっつってんだろ」
ユガは振り返り、俺を睨みながら言ったが、口調は穏やかだ。
「別に私は、一緒に住みたいとか、そんなんじゃなくて、私から逃げんなよって言いたいの。それに、あずはユガに会いたがっている。あれからずっと」
なな子の言葉に、ユガが一瞬ためらったような気がした。
「俺は怖いんだよ。俺が俺じゃなくなることが。あずのことを考えると、どうしてかワケわかんねえ」
「ユガにい、それってあずを好きってことなんじゃないのか?」
まさか。ユガが女を好きになるなんてあるわけがない。あるわけが。
気付いたら、俺は、ユガの胸元を掴んでいた。
「なんでだ? なんであずを壊した?」
ユガは黙っている。
「俺はどうなる? おまえに痛みを植え付けられた俺は」
俺は、視線をユガの胸元を掴んだ手 → 両腕に落とす。俺を壊すたびに、ユガは俺の腕にタトゥーを彫った。両腕に隙間なく埋められた墨は、ユガが俺を愛した証だと思っていた。
「やめろ。シズク。私たちは家族なんだよ」
なな子、おまえもユガと同じことを言うんだな。
こんな皮膚は要らない。俺を無闇に覆う偽証の飾り。ユガが恋愛に悩んでるって? 全く笑わせるぜ。俺はユガの腹に思い切り蹴りをブチ込み家に帰った。【支離滅裂】を、音量最大にして聴いた。脳ミソが掻きむしられる。マスタアドのユガのウタを、声を、心にシミのように響かせたかった。
いや、違う、俺がユガのウタに染み入りたいんだ。神に浸透したいんだ。マスタアドはユガがいなけりゃ成立しねえ。ユガのウタでなければユガの声でなければ成立しねえんだ。
この俺も。
支離滅裂
順番通りに行儀良く破壊しろ
支離滅裂
宥めるように優しく犯せ
誰にも命令されやしない
俺の言葉をもって崇め
俺の愛を傷にノコス
深きまで挿入する
お前の味を喉の奥で確かめる
甘さも苦さもわからねえこの舌で
唯一
お前の脈を感じ
軽薄に飲み込む
いいか
順番通りにデタラメに
破壊する
俺の言葉をもって崇め
俺の犠牲は、おまえの一部になったんじゃなかったのか?
昔はよかった。母さんがいて、父さんがいて。母さんはすぐに怒るけれど、父さんはいつもかばってくれて、優しかった。どうしてこんなふうになっちゃったんだろうな。
俺は引き出しを開け、奥にあるハガキを取り出した。病気を患った母さんから届いたものだ。寂しいとか、会いたいとか、東北はいいところだとか、ミミズの這ったような、おさまりのない字で書いてある。俺はバカだけど、字だけはうまかったからな。母さんには似なかった。だけど、顔だけは似てしまった。この顔のせいで……。父さんは俺を抱くとき、母さんの名前を呼ぶんだ。
母さん。俺はあなたを憎んでいる。父さんが変わったのは、あなたのせいだから。
俺はハガキに火を点け、灰皿に放り投げた。炎を見ながら父さんを弔った。中学に入り、新聞配達をするようになって、貯めた金でひざ掛けを買った。母さんに送ったけれど、そのひざ掛けを母さんが使うことはなかった。
ハガキは燃え尽きて、すぐに灰になった。人間もこんなふうに灰になれるのかな。最後に見た父さんもさらさらの粉になっていた。俺は父さんの粉を抱いてユガを見た。ユガは優等生のような顔付きで立っていたっけ。
腕にアルコールを浴びせ火を点けた。クソみてえな痛さはきっと、ユガという病から俺を導き出してくれるだろう。
「バカか?」
俺は水をブッ掛けられていた。
ユガが、バケツを持って劣等生の顔付きで立っていた。
「俺はどこにもいかねえよ」
マスタアドの 新曲が流れ出した。ウタを聴きながらヨウヤク理解。配線が繋がった。
「欠片はあずが持っているのか?」
「そうであって欲しい」
ユガの願い。
絶望・俺が男であることに。弟であることに。
「俺はマスタアドもユガも失うのか?」
「なあ、シズク。俺は神でもなんでもねえよ」
「俺は……俺はユガを失うのなら、マスタアドを失えないよ」
どうか、俺からユガを取り上げないでくれ。俺にとっては神なんだ。だって、親父から救ってくれたんだ。
「最後でいい。最後に俺を」
ユガは頷いた。ユガが俺を抱き締めて囁いた。
“シズクも欠片持ってんだぜ”
これは超越した愛だ。おまえは味のわからない舌で俺の一部を飲み込んだ。喉仏はたんなる通過点。その先に蓄積している俺の分身は、きっと甘い。