-ポケット-(キャンディ&ガム) 【℃anDie】(キャンディ)
世界が死んだ
蟲螻のようなビルを眺める
あの明かりも欲しいものではなかった
ホシイモノがなんだったのかさえうまくいえない
蟲螻の中には欲望が蔓延していることだろう
それらを奪い取り
蟲螻に寄生する人間どもの口の穴に詰め込んでやれば
欲望など塵屑程度の物だと思い知るだろう
思い知るがいい
この世界は死んでいる
桜の花びらが散りかけていた。
湊は、公園のブランコに座り、桜を眺めていた。住宅街の隅にある小さな公園だ。遊具の大半を侵食する錆を、暗闇がコーティングしている。朝が来れば、ここが寂れた公園というのは一目でわかるだろう。それはもうすぐ始まろうとしていた。
陽はそこまで来ている。
湊は、黒いブラウスの上にカーディガンを羽織っているだけだったが、寒くはなかった。時折、足元に舞い降りてくる花びらを、スニーカーの底で汚した。
皓は、公園の中に入った。小学校に上がったばかりの男の子だ。きょろきょろとあたりを見まわして、垣根の下に手を伸ばしたり、ゴミ箱を覗いたりしている。辺りはまだ暗い。それでも、懸命に探している。
ここにもないや。
皓の声は、湊にまで響いたが、湊は無表情にブランコを漕いだ。ブランコが、キィーという金属音を発し、皓の聴覚まで達するが、皓もまた、無表情に探すことを続けていた。
湊の体が、ふわっと浮いて風を切った。
私の大事なものってなんだったのだろう、湊は思考する。
揃えたスニーカーの先は泥で汚れていて、桜の花びらが一枚付いていた。湊に潰されずにすんだ生き残りだ。湊は片方の足で花びらを払い除ける。スニーカーのつま先がよけいに泥付いたことを桜のせいにした。
私は、なにを思考していたのだっけ。思考を忘れたことを泥のせいにする。ついでに、ブランコを漕ぐのをやめた。
皓はまだ探すことをやめてはいなかった。
湊は立ち上がり、
「手伝おうか」
と皓に向けて言うが、皓は首を振った。
「ここにはないみたいだし、ちがうところをさがしてみる」
「じゃあ、私と遊ぼうか」
湊がそう言うと、皓は笑顔になった。
ふたりで公園内のすべての遊具を制覇したころには、湊の黒いスニーカーの色は、泥色に染まっていた。なにのせいにしても良かった。シーソーでも、滑り台でも。
誰のせいにしてでも
私は汚れたかったのだから
キィーと音がしてブランコが揺れた。
風は無い。湊が振り向く。揺れているその下で、桜が泣いているのが見えた。湊は、「私のせいで汚れた桜」の結末を、蔑み憐れんだ。黒いカーディガンの裾が揺れた。風は無かった。
「私は……汚したものに帰らなくちゃ」
皓は頷いた。
「皓はどうするの?」
「ぼくも、みつけるよ、かならず。そして、かあさんに、あいにいくの」
「皓。眩しい名前だね。眩しくて、嫌い……だけど、暖かい」
皓は笑った。
「湊」
皓は、ジーンズのポケットからキャンディを出した。
「あそんでくれてありがとう」
受け取ったキャンディを、湊は握りしめる。
帰らなくてはならない
私の場所に
湊は途切れそうな意識を懸命に繋ぎ、走っていた。
なんてことの無い日常の中をひたすらに走った。
誰もが湊に振り向くことなく、新しい今日を迎えている。
騒がしい人の群れを掻いだ。
朝焼けと、咲き乱れる花の匂いを嗅いだ。
日常の色は嫌いだった。誰もが同じように陽光を受け、同じだけ影を作る。湊には影ばかりが増した。湊自身が作り出したものなのかもしれなかった。
湊は立ち止まり、目を細めた。新しい太陽の最後の光を受けた。振り向いて確認すると、影は無かった。
在るのは、闇だ。
太陽も花も人も色も嫌いな物が闇に堕ち、世の中が闇に堕ち、そうして目の前に扉が見えた。
帰らなくてはならない
この扉の向こうに
真っ暗な闇に
扉を押すと、重く、狂おしいほどの黒が漂っていた。光はひとつも入らない。湊だけの場所だった。暗闇だけれど、湊には、テーブルもソファーも、その上に並んだクッションもちゃんと見える。ベッドより、ソファーで眠ってしまうことのほうが多かった。ソファーに座るより、クッションを抱いて床に座るほうが心地良かった。
その場所に、黒いかたまりがあった。闇の中で、黒いかたまりは、黒く、固まっていた。
湊はその隣に座り、黒いかたまりの指先に、自分の指を絡めた。
とても
とても冷たい
汚れたとても冷たいかたまりの私
「どうして泣くの?」
黒くて冷たいかたまりの私が聞いた
「そうね。泣く必要はないわね
すべて終わったのだもの」
どうしてだろう、涙があふれた
とてもとても冷たい温度の涙だった
湊は皓にもらったキャンディを口に入れた。
「友達ができたんだよ。皓っていうの。私と同じ年なの、生きていればね。皓は、足が片方無いの。どこを探してもみつからないんだって。かわいそうにね、誰かに捨てられたんだよ。手とか指とか首も切られてさ。だけど、楽しそうに笑ってた。全部揃ったらお母さんに会いに行くんだって」
湊は、返事の無い、黒いかたまりの自分に、重なるように横になった。目を閉じると、かたまりとひとつになっていくのを感じた。
キャンディは味がしなかった。
湊は思い知る。冷たい温度の舌では溶かせないことを。
溶けないキャンディは、湊の口元を離れ、ころころと転がった。
湊はわずかに瞼を開ける。キャンディが闇の中でビー玉のようにきらきらと輝いた。それはとても暖かくて、湊は安心して目を閉じた。
蟲螻の中で、ちっぽけな欲望をそっと飲み込んだ。