-I scream-(3)
どれくらいの時間が経ったのだろう。
僕は暗闇の中で覚醒した。頭が破れているんじゃないかと思うほど痛い。顔の左半分の感覚がおかしい、そう気付いたらどくどくと痛みが走った。そうだ。目をぶつけたんだ。触れようとしたが、両手を後ろで縛られているようだった。足も縛られている。そういや呼吸もしづらい。口はテープで塞がれているみたいだ。冷静になればなるほど、恐怖が増していった。ここはどこだろう。押入れ? 見回すと、一筋の光が入り込んでいるのが見えた。
ガラガラと戸の開く音がして、ピシャリとそれは閉められた。乱暴に鍵を閉める音が苛立ちを伝える。
あの男が帰ってきた。
「まったく、俺が出かけた隙にどうやって逃げ出したんだ」
荒げた男の声がして、どん! となにかが叩きつけられる音がした。僕は芋虫みたいに必死に体を蠕動させて、光の入り口へ顔を近づけ、部屋の様子をそうっと覗った。
僕は驚いて声を漏らしそうになった。
そこにいたのはソルだった。僕と同じ格好をした同じ顔の……。
僕を探しに家を出て、公園をたどり、基地まで様子を見にきたのだろう。出かけた男は、偶然に弟を見つけ、僕が逃げたと思い込んで、ソルを掴まえたに違いない。
男は近くにあった棒を持ち、ソルの頭を何度も叩いた。
ソルは、痛い! 痛い! どうしてこんなことするの! と悲鳴を上げた。男はタオルをソルの首に巻き絞めつけた。悲鳴はうめき声に変わる。みるみるうちに顔が血で染まっていった。
助けなきゃ…………
怖い……。
体が動かなかった。襖の裏に粘着しながら、どうすることもできない自分がいた。うめき声が途絶え、ソルは白目を向いた。体が、ビクンビクンと痙攣している。
僕は目を逸らし、うずくまった。
やけに静かだった。ソルは死んでしまったのだろうか。体の震えが止まらない。男に見つかってしまうんじゃないだろうかと思うほどの酷い震えを、必死に押さえつけた。
タバコの臭いがする。
「どうしてこんなことするのだって? 聞きたいかい? おじさんには子供が生まれたんだよ。待ちに待った、やっと出来た子供でねえ。男の子だったよ。おじさんの名前から一字取って、 有咲って名前を付けたよ。病院の庭に花がたくさん咲いていたんだ。綺麗だったな。
嫁に似て可愛くてねえ。だけどねえ、有咲の血液型を知って俺は愕然としたね。俺の血液型からは産まれないはずの血液型なんだ。俺は嫁を問い詰めた。嫁も驚いていた。俺は有咲に包丁を突きつけて、こいつの父親は誰なんだ? って聞いた。相手は俺の弟だったよ。嫁は、誰にも言わないで、私たちの子として育てたい、って言うんだ。
そのつもりだったよ。でも同じ屋根の下に弟は住んでいるんだ。弟は自分の子だと知らず、有咲を抱っこしている。有咲もなにも知らず、にこにこして。それを嫁が微笑ましそうに見ている。
……俺はなんだ? あの家に居る俺はなんなんだ?
俺は未だに疑っている。あの二人は今も俺のいない隙にってな。もちろん俺は誰にも言わない。これは復讐だ。長い年月をかけてな。有咲は殺人者の子として苦しむんだ」
男の笑い声が聞こえる。
扉が閉まる音がして、くぐもった異音とシャワーの音がした。
ずいぶん長い時間、お風呂に入っているんだな、と僕は考えていた。
やがて、おじさんは部屋に戻り、ごそごそと音を立てた。なにをしているのだろう。僕は気になって、覗き見した。
そこに見えたのは、半透明の袋に入った、バラバラになった弟だった。小さな指や、どの部分かもわからない肉の断片が見えた。丹念に洗ったのか、それらは人形の一部分にも見える不自然な綺麗さを纏っていた。だが人形ではない。切り刻まれた肉が、弟ということは疑いようのない事実だった。視線を感じ、見ると、袋詰めにされた顔の目が僕を見ていた。それは、僕の顔でもあった。
弟は僕の代わりに殺されたのだ。
吐き気がこみ上げて、そばにあったふとんに顔をうずめて嘔吐したが、塞がれた口の中に、わずかな胃液が逆流しただけだった。行き場の無い、気味の悪い苦味を、また飲み下すしかなかった。
それからどれくらい経っただろう。男が出かけても、寝息が聞こえたとしても、僕は、体を動かすことも、眠ることもできなかった。ただただ、暗い闇に吸収されないように、懸命に呼吸を繰り返した。
次に聞いたのは多人数の足音だった。どたばたと格闘する音がし、男が捕まったことが理解できた。僕にはもう、助けを求める声さえ出なかった。
僕は唯一の生き残りとなった。断末魔の映像を左眼の奥に隠し、義眼で封印した。忘れることでしか生きられなかったのだ。
ソルは、本当に死んだのか?
現実はいつだって僕を孤独にさせる
頭が痛い
破裂してんじゃねえかな
ゲロとか出てない?
昨日食ったサフランライスとか出てない?
僕は頭のてっぺんをさすった。
「復讐のための犠牲者か」
蟻砂がため息と同時に言葉にした。
「アリスナ」
「ん?」
「ソルは本当に死んだの?」
「……すまない」
「どうしておまえが謝るんだよ」
「俺の父親がしたことだ」
「あの男は本当の父親じゃないんだよ。僕が見たことを世間に言えば」
蟻砂は首を振った。
「犠牲を味わったことで今の俺がいる。だとしたら、そう不味くはないだろう」
ソルの命日に僕は実家に帰った。ソルと過ごした部屋の、僕たちの私物はほとんど処分されていて、やけに広く感じた。
あのころ、なにもかもがお揃いだったのに、鏡はひとつだけだった。部屋の真ん中の位置に、全身が映る大きな鏡が置いてあった。
クローゼットを開け、鏡を探した。
死に向かうソルを隠れて見ていたことが、自分への枷となっていた。鏡の前に立つと、ソルがそこにいるようで、ソルに「どうして助けてくれなかったの」って責められそうで、怖くて、鏡をしまってほしいと親に頼んだんだ。
「あった」
鏡を引っ張り出して、壁に立てかけた。
鏡の中のソルは言った。
見えることが全てじゃない
感じるものを考える
だってそうだろ?
そうだな、 宙流
僕は目ん玉が千切れても歌が歌える
なんのために?
歌うことが好きだから
僕を好きだという、ミラーたちが好きだから
ミラーたちのために
僕のために
僕が僕でいるために
これからは、仮面を脱いで、「祈流」として歌うよ
鏡の中から霧が溢れ、ソルと僕を包んだ。そこは暗闇ではなく、むしろ明るく白い闇だった。霧が触手のように伸びてソルを覆っていった。
子供のころのソルがいた。
触手の先が棘のようになり、鋭くなった矛先は、ソルの手足や体を噛んでいった。ソルが手をかざすと、千切れた眼球が、ポトリと落ちた。
『祈流。世界を見せてあげる』
ソルは指先の無い手のひらを差し出した。
触手が眼球を掴み、僕に近づいてきて、僕の視界を塞いだ。
目が熱くなるのを感じる。
そっと目を開けると、ソルの姿は見当たらなかった。霧の密度が少なくなっていく。漂う霧の一粒一粒が、はっきりと見える。僕は手の中になにかの感触があるのに気付いた。それがなんなのかを、見ずともわかっていた。
澄んだ空気の中、僕は立っていた。
マリアが僕の背中越しに映った。いつもの悲しげな表情で、だけどどこか穏やかに見えた。
「マリア」
声に出したつもりだが、唇が動いているだけなのかもしれない。いや、心が呟いているだけなのかもしれなかった。
『やっと思い出してくれたのね』
マリアの声が響いた。
振り向き、マリアを探すが、マリアはどこにもいなかった。
僕は手の中の赤い義眼を酷薄に噛み千切った。
そう不味くはない味がした。