-15369- イチゴミルク(5)
空は完全に夜の色を着けていた。霞んだ電子音を伝え、エレベーターが最上階のフロアで停止した。事務所入り口を飾る花は、縁起をかつぐためなのか、いつも同じ色を着けている。呪わしい匂いをくぐり抜け通路を折れる。すれ違うスタッフと挨拶を交わし、規則正しく並んだ扉の一枚を開けると、ユガとシズクが揃っていた。
シックなデザインのソファーに挟まれて、ガラステーブルがある。テレビはいつものようにバラエティ番組が流れ、手前のソファーに足を放り投げて座るシズクが、声をあげて笑っている。俺に気付き、手を挙げて挨拶を交わす。奥のソファーには、丸まって膝を抱えたユガが、無表情に画面を見つめている。俺は、部屋中央の長テーブルに腰掛けた。
シズクが愛用のタバコをくわえた。ポケットを探るが、ライターが見つからないようだ。無意味にペットボトルを手に取って、また置いている。半分ほど残った炭酸の気泡が弾け、消えていく。俺は自分のジッポをシズクに放り、やるよ、と添えた。シンプルだが、サイドに模様が彫られた復刻モデルで、以前シズクが欲しがったものだ。「いいのか?」シズクは、目元を細めて嬉しそうに笑い、早速タバコに火を灯した。瞳に炎が揺らぐ。
「ありがとう」
ちゃんと言葉を伝えられるシズクを羨ましく思う。シズクとの思い出といえば、まっさきに浮かぶのが笑顔だ。シズクの愛らしく屈託のない笑顔が好きだった。また明日も、その 表情を見たいと思う。
煙を吐き出して、シズクは言った。
「話ってなんだよ」
いつもなら、悠々と座るシズクを押しやって、ソファーに割り込み、一緒にテレビを見て笑い合い、音楽の話をしたり、打ち合わせをしたりする。三人で飯を食ったり、ときには飲みに行ったりして、気が付くと朝になっていることも多い。顔を合わせない日はなかった。
飽きるほど見飽きた顔に、俺は裏切りの言葉を塗った。
「どうしたの、アリザ」
鼻で笑い、タバコを吸うシズク。
「本気だ」
少しの間のあと、
「冗談やめろ」
と、シズクが笑う。
俺は、語句を強めて、もう一度、言葉を繰り返した。
「マスタアドをやめる」
シズクが黙った。無言という嫌な重圧に押し潰されそうになる。指先に挟まれたタバコは、ゆっくりと唇に運ばれ、溜息と煙が吐き出されたあと、灰皿に押し付けられた。先端が折れ、割れた紙の隙間から 刻がはみ出した。俺は、シズクの無言を見つめる。なにを考えてなにをするのか手に取るようにわかる。そうやってすぐキレる。後先考えず手や足が出る。それだけ真っ直ぐなんだよな。
「なにふざけてんだよ」
俺の胸元を掴むシズクから、落胆の声が漏れた。最近は多少大人になって、我慢を覚えた。簡単に手足が出ることはなくなった。音色さんを怒らせると怖いというのを学習したからだ。さきほどまでの笑顔は消え失せ、大きな瞳には、裏切り者の姿が写っている。今にも殴られそうな気配だ。それでもいい。全部受け入れる。その覚悟でここにきた。
ユガはテレビを見ている。なにを考えている? 仲間を守るためならなんでもする男だ。喧嘩が強く、敵の攻撃を一度もくらわず一撃で落とす、という噂が広がっているが、嘘ではない。それを知っている者は決して手を出してこない。ユガが落ち着いたのは、ユガに喧嘩を売るやつがいなくなったからだと推測する。
だが、ユガは、身勝手な性格の弟に何度殴られても、殴り返したことはなかった。さすがに顔はよけるらしく、そのせいで、シズクは蹴りという技を覚えた。これがタチ悪い。周りが見えなくなってしまうシズクを止めるのは至難の業だった。止めようした俺も何度か蹴りを受けた。腹に入ると、吐き気がこみ上げて、すがるようにユガに助けを求めるのだが、ユガはただの傍観者となり、片唇をあげて俺を見るだけ。興味のない喧嘩には、手も口も出さないという一貫ぶりだ。
俺はレゴの件で、人を殴ったのは初めてだった。シズクとちょっとした言い争いはあるが、ふたりと喧嘩になったことはない。俺とユガは、言いたいことを口にしない性格だからだ。ユガが挑戦的な態度をとることはあっても、真意ではない。俺をからかって、俺がキレるように仕向けている。その手には乗らない。
「ふざけてない」
「ふざけてんだろうが」
「だからふざけてねえって」
埒が明かない。
「理由を言え」
ようやくユガが口を開いた。テレビを見ている視線はそのままだ。こんなときぐらい、その視界の中に俺を入れてほしかった。
「自分の行きたい方向がわかった。それは、ロックでもなければ、マスタでもなかった。……もうマスタアドの音楽に興味がわかない。自分の思う音楽を追求したい」
言いながら、好きだったバンドのボーカルが脱退時に発表した言葉と変わらないことに気付く。あのときの喪失感を、俺もファンに与えてしまうのだろうか。仕方がないんだよ、心の中で言い訳をした。仕方がないんだ。ユガたちを裏切る行為かもしれない。だけど、マスタアドを裏切るわけじゃない。マスタアドは永遠になる。マスタアドは裏切らない。ユガは裏切らない。散々言い訳を並べながら、わかった。なぜ、ユガはファンを突き放すような態度をとるのか……。そこには初めから裏切りがないからだ。
重々しい空気が流れている。テレビから聞こえてくる笑い声があてもなく響く。
「三人でやっていこうって決めたじゃねえか」
我慢を学習したシズクが、努めて冷静に言葉を選んでいる。
「いつまでもガキみたいなこと言うなよ。夢は叶っただろ」
こんな言い方するつもりじゃなかった。俺はシズクを突き放した。こんな態度をとるつもりもなかったんだ。シズクは俺に殴り掛かろうとしたが、俺を殴ったのは、ユガだった。俺は長テーブルごと吹き飛んでいた。壁際に積み重なっていた書類や雑品がめちゃくちゃになっていた。俺の思考回路もだ。
俺は立ち上がって、ユガを殴った。俺のパンチなんて当たるはずがないのに、よけずに受け止めているのだと思った。
「叶ったら、それで終わりなのか?」
ユガが声を荒げ、俺を殴る。ユガが仲間を殴るのも、声を荒げるのも、今までにないことだ。俺は、仲間じゃなくなった気がした。
「ずっという通りにやってきただろ。ユガの思い描くものを忠実に弾いてきた。俺じゃなくても、誰が弾いても同じだよ。おまえのいうことをちゃんと聞くやつがいればな」
自分でも驚くほど、言いたいことも言いたくないことも、全部吐き出していた。何度殴られ何度殴り返しただろう。あのシズクが、顔を青ざめさせて止めに入っている。スタッフたちが入ってきて、俺らは引き離された。
社長が入ってきた。今帰ってきたところなのか、高価そうなバッグを身に着けている。竜巻が通り過ぎたような室内を見回して、
「そのソファ、色が気に入らなかったから、処分できてちょうどいいわ。あ、本人たちにやらせるから、いいわよ」
と告げた。片づけをしていたスタッフの手が止まる。
ユガは口元を拭い、白シャツの袖口には血が滲んだ。
「全部捨てちまえ。ついでにそこの独り善がりも」
吐き捨てるように言って部屋を出ていった。シズクは、悲しそうな目をこちらに投げかけたあと、タバコの箱を拾った。出ていく間際、「俺は……嫌だからな」と呟くのと同時にジッポの開閉音がした。
俺は立ち上がろうとしたが、動けなかった。
スタッフに支えられながら、壊れかけたソファーに体を預けた。本当にこれごと捨てられてしまうんじゃないかと弱気になる。不用品行きではなく、病院行きを思案されたが、断った。
救急箱が開くと、清潔な匂いが漂った。テレビは相変わらずバラエティを押し売りしていたが、全然笑えなかった。それどころか、消毒の痛みに顔が引きつる。音色さんは、笑いながら手当をする。親子揃ってサディストなんじゃないかと疑う。
「怒らないの?」
「ただの兄弟喧嘩でしょう?」
「ただのじゃないけれど」
「なぁに? まさかやめるとか」
黙っていると、音色さんは、傷口をぐりぐりと強めに押して消毒した。あまりの痛さに、おい、ふざけんな! と悪態つくと、「私は社長です」と言いながら、消毒する手をさらに強めた。「それにこの部屋のありさま。高くつくわよ」
ごめんなさい。俺はすぐさま、子供のように謝った。音色さんは笑い、舌に埋め込まれたピアスが光った。キレた息子に無理矢理に舌ピアスをさせられるなんて、この親子ぐらいだろう。一度はユガを“捨てた”というが、真実は違うところにあるのではないかと勘ぐる。ユガがそうであるように、このひともまた、本心を隠す。偽悪者のような気がしてならない。誰かを守るためならなんだってする。音色さんがユガを見る目に、そんな思いが嗅ぎ取れる。
「……マスタをやめるって言ったんだ」
俺は、自分の気持ちを隠すことなく説明した。ガーゼが口端に当たって、話しづらい。
「ボーカルのあのひと、嬉しかったんじゃない?」
「なにが?」
「アリザ君が本音でぶつかったこと。今まで、あなた、どこか遠慮しているみたいだったから」
「そうだな。本音でぶつかって、受け止めてくれた。あいつが顔に傷を作るなんて初めて見た。ユガも本気……ではないだろうけれど答えてくれた」
「そりゃあ、だてに格闘技習わせてないもの。出せるところまでの本気を見せたんじゃないの」
「格闘技?」
強さの意味を納得する。
「あの子、特殊な血液型なのよ。それで自分を守るために、習わせたの。小さいころは弱いくせに喧嘩ばっかりしててね」
「おかげで、ユガにはたくさん守られたよ」
「逆かもね」
「逆? 俺がユガを?」
「はい、終わり。バンドのことは、みんなで話し合って一番いい答えを出しなさいね」
そう言って、救急箱の蓋を閉めた。俺は、そのまま、うとうとしてしまったようだ。
鼻歌が聴こえた。
あの歌だ。
出会ったころ、ユガがよく口ずさんでいたあの歌だ。
だけど、ユガのとは少し違うな…。
柔らかい感じがする。
明日はなにを思うのだろう。
なにも変わってないのかもしれない。
シズクの笑顔が見たい。
ユガの強さに触れていたい。
ただ、そこに俺がいないだけだ。
砂時計の中にいた。
もうすぐ時が終わろうとしていた。
砂をすくうと指の隙間から零れ落ちていった。
最後の砂を……俺は自分の意思で捨てた。
「久しぶりに施設行かねえ?」
ユガの声を聞いたのは、何日ぶりだろう。あんなに喧嘩をしたのに、なにもなかったかのような口ぶりだった。
電話の向こうで、あずがユガを呼んだ。優しく返事をするユガの声に、
「嫉妬する」
と捻くれてみた。
「なにがだよ」
キモチワル、とユガは笑っていた。
改札口を出るころには、日が傾きかけていた。踏切の警報音が時を打つ。駅舎も周辺も新しくなっていて、知らない場所に迷い込んだ錯覚に陥る。それでも施設までの道のりは、感覚に染みついていた。空や風、音、すべてが色付いた日から、俺はここで生きてきた。俺の帰る場所なのだと改めて思う。
施設跡地にもう昔の面影はない。女子と一緒にくぐった門も。ずっとギターを弾いていた食堂室も。孤独だった毎日の思い出も。
そこには、柘榴の木と……それを見上げるユガがいた。
初めてユガを見たとき、ユガはここに立って、柘榴の木を見上げていた。
片隅で小鳥たちが賑わしく囀っている。俺は近付いて、割れた柘榴をひとつ、手にした。赤黒い実がびっしりとつまっている。似ていた、ユガの舌に無数に開いたピアスと。
そっと柘榴を舐めてみた。このザラツキは、ユガが描いた支配力なのかもしれない。
俺は実に噛み付いた。
「種は出せよ」
ユガが笑いながら言った。
子どものころ──
「飲み込め」
言われたとおりに飲み込むと、ユガは笑顔で俺の頭をグリグリと撫で、
「よし、助けてやる」
と言ったんだ。
「うめえ?」
無邪気な笑顔が俺を覗き見する。
「味、覚えてんだろ?」
「食ったことねえ。血の味、するのか?」
ユガがわりと真面目な顔で聞いてきたので、思わず俺は笑ってしまった。
「しないよ」
ユガは、そうなの? と安心したように言って、俺の手から柘榴を取り、口にした。そして、種を飲んだ。
「種は核心。俺はなんでもそうやって確信してきた。俺に忠実であるかどうかの見極め」
と言ったあと、
「嘘だよ」
と舌を出した。ピアスが笑うように光っている。
ユガが思い描いた世界は、今、現実のものとなっているのだろうか。
「シズクは?」
「まだ受け入れられないってさ。だけど、おまえの決めたことに従う。俺もシズクも」
柘榴の木を見上げているユガの名を呼んだ。ユガの視線がゆっくりと落ち、その視界の中に俺はいた。冷色の瞳に告げる。
「マスタアドを終わりにしよう」
少しの間のあと、ユガは話し出した。
「俺は初めてここにきて、この木の下に立ったとき、自分の犯した罪の赦しを請いた。なあ、蟻砂。俺は神でも悪魔でもねえんだよ」
ユガが俺を見る。
「俺らは、犠牲者だ」
犠牲者。この世に生まれてきたことの。
「マスタードも苺も、この柘榴も、俺の歪んだ舌には同じ。興味があるかねえかだ。今のアリにマスタはどんな味がする?」
「イチゴミルク」
ユガが笑い、
「うまいのに」
と言った。
俺も笑い、
「味わかんのかよ」
と聞く。ユガの味覚は幼少期に失っている。理由は知らない。週刊誌が勝手にナイフで削いだせいにして記事を書いた。そうしてマスタアドのユガが作られてきた。完全なユガを。
「子どものころの味がする」
「ん?」
「音色がさ、俺が熱出して寝込むと、潰して甘くして食べさせてくれたんだよ。あいつの唯一、母親らしい記憶」
「そうか」
「施設に入った日、ここにこうして立っていたら、聴こえてきた」
「なにが?」
「おまえの弾くギターの音。惹き込まれた。ずっと聴いていたいと思った」
「キモチワル」
ユガの言い方を真似ると、ユガは笑顔になった。あずに見せるような穏やかな笑みだった。
「サク。いつか、未来で夢を見よう。同じ夢を」
鳥が飛んでいった。ユガが、三羽の影を追う。俺も空を眺める。鳥たちは同じ方向には飛ばず、二方へ別れていった。俺は一羽、陽に向かう鳥を見つめた。ユガはどちらを見つめているのだろうか。あるいは、もう興味が薄れているのかもしれない。興味があるものだけをユガは飲み込むだけだ。
ユガが歌を口ずさんだ。出会ったころ、よく口ずさんでいたメロディだ。いろんな歌を聴きまくっていたけれど、たどり着くことが出来ず、半ば諦めかけていた。心の片隅にいつもそのメロディがあった。今までの俺の音楽は、ユガの口ずさんだ曲を探す旅だったのかもしれない。
失いかけていた終着駅は、意外なところにあった。音色さんの鼻歌だった。俺はすぐに音色さんに訊ねた。
「それ……なんて歌?」
「え? 私、歌なんて歌っていた?」
俺が鼻歌をまねると、音色さんは教えてくれた。
「子守唄よ。私が生まれ育った場所の。いい歌でしょう。あの子もそこで産まれたの。よく歌って聞かせたわ」
音色さんは、歌を続けた。それは日本の歌ではなく、意味はわからなかったけれど、純潔で清らかな光に満ちていた。神も悪魔もない、犠牲もない。生まれたての赤ん坊のような無垢の希望だ。
だけど俺は『あくま』の存在を知ってしまった。折れた光が突き刺さったまんまだ。それでも、悪くはない。その味を確かめてみたい。
「ねえ、ユガちゃん。俺にタトゥー彫って」
「なにを入れたいの?」
「十五番目の悪魔」
「バフォメットか」
「紫色の長い舌に十五個のピアスを」
あくまは、俺の中枢にどんな甘味を注いでくれるだろうか。
そして、瘡蓋が乾かないうちに飛び立とう。
――西へ。――西へ。