-15369- イチゴミルク(4)
レゴがいなくなって、俺の悪夢がひどくなった。毎晩必ずあくまが現れて、なにかを言っている。日に日に鮮明に近づいている。山羊のような頭、人間と同じ形をした手。ヘルメスの杖。黒い羽。まるでバフォメットのようだ。
おまえがあくま?
俺はそいつを睨み、なんで舌にピアスなんか付けてんの、と、くだらない疑問を抱く。
「自分自身を解き放て」
「俺自身?」
「そう。俺はおまえだ。そして、おまえの欲望」
俺の欲望?
俺は欲なんか無い。無でいたいんだ。
感情も性欲も俺には……。
俺には、憎むべきものだ。
携帯電話の着信音で目が覚めた。すぐに切れる。公衆電話……レゴか?
ベッドから起き上がり時計を見る。九時を過ぎていた。ユガは来ていないようだ。いつ寝ているんだ? と疑問に思うほど、ユガの朝は早い。この部屋の合鍵を持っているので、勝手に入り、ソファーに寝そべって新聞や雑誌を読みふけっている。俺が朝食を済ませるのを待って、一緒にフルーツを食べる。ユガがフルーツを潰して、砂糖やはちみつをかけて食べるのは、甘い物が苦手な俺には気持ちの悪いことだが、ユガのいない朝はどこか物足りなさを感じる。
朝食にありついていると、といっても、もう昼近いが、玄関のドアが開き、ユガの声がした。
「アリ、なんかいる」
「なにがいるの?」
俺は飯をもぐもぐさせながら呑気に返事した。
「壊れたレゴ」
嫌な感じがする。
暗闇が俺を取り囲む。
あくまが俺を見下ろして、長い舌をだらりと垂らした。
ピアスの光るその舌に、箸を突き刺した。
闇が粉々に散り、俺は佇んでいた。
どうだ? 痛みは従順なのか?
腹を押さえ、うずくまるレゴがいた。制服が汚れている。名前を呼んでも反応がない。レゴの体を揺さぶろうと手を伸ばした。動転した俺の手をユガが掴んだ。
「救急車呼んだから」
ユガの指先の冷たさに、俺は理性を纏えることができた。
「ユガちゃん、レゴを頼む」
ユガは、俺の心の核を探っているかのような目で俺を見つめたあと、
「わかった」
と答えた。
レゴの通う学校に向かった。今の時間から察すると、昼休みあたりだろう。門から校舎までの通路を広葉樹が導いている。校庭からは掛け声がし、体育館の開け放した扉の向こうから、弾むボールの音が聞こえる。ベンチに座る女子たちが雑誌を広げて話題を共有している。どれにも笑い声が付着した人の群れだ。この中で孤独を所有しているやつもいるのだろう。群れにも入れずに、孤独を味わっていたレゴ。その無機質な空間がどんな感触なのか、俺の記憶は覚えている。
誰でもいい、レゴの情報が欲しい。片っ端から聞いていく。
「一年の 惟冬令吾、知ってるか?」
どういうわけか、誰もが首を振る。
やっとレゴとクラスが同じという二人組に出くわす。
「やったやつを探している。どんなことでもいい、教えてくれ」
ふたりが顔を見合わせた。アリザだよな……と囁き合っている。
「あの……惟冬君とどういう……」
「友達だ」
俺は答えていた。
「おまえら同じクラスなんだろ。人が苦しんでるの、助けないの?」
ふたりがうつむく。
「レゴは意識がないほどの傷を負って、病院に運ばれた。おまえらまた犠牲者を出すつもりか?」
ひとりは、手を強く握りしめる。もうひとりは下唇をぎゅっと噛み、落としていた目線を俺に向けた。
「……生徒会長です」
ほかの生徒たちが立ち止まり、こちらの様子を窺っている。あまり目立ちすぎるのもまずい。
「どこにいる?」
ふたりも周りの目を気にしたのか、
「生徒会室にいると思います。目立たないように裏のほうから行くので、少し遠回りになるけれどいいですか?」
と聞いてきた。俺が頷くと、黙っているひとりに向かって、おまえどうする? と同行の意思を確かめた。俺も行く、とそいつは答えた。
「アリザさん、ついてきてください」
体育館の横を通り抜け、校舎裏に回る。入り口で、ふたりは、自分の足元が上履きであることを気にする。さすが、こんなときでも真面目なんだな。俺はブーツのまま、校舎に入る。ひんやりとした気配が俺の欠陥した一部を撫でていく。続いて、健全な生徒たちの外履きが通路を 汚し、清い階段を踏みしめた。
「僕たちは令吾の友達でした。幼稚園のときから一緒なんです。あの一件があってから、令吾がいじめられていても、誰も知らないふりをするようになりました。怖くて、僕も無視しました」
「でした、なんて過去形にするなよ。友達だろ。レゴだって、その死んだ友達を無視した。あいつだって同じだよ。後悔もしていた」
レゴが今逃げずに立ち向かったこと、それがいいのか悪いのかなんて俺にはわからない。ただ、俺だけはレゴを褒めてやりたいんだ。
「あとで病院に行きます」
「喜ぶよあいつ」
「あの……なにをするつもりですか?」
「話し合いってやつ」俺のやりかたの。
「なにか変わるでしょうか」
「変える」
「余談ですけれど、生徒会長、シズクさんの粒です」
粒というのは、マスタのファンの呼び名だ。もっとかっこいい名前にすればいいのに、ファンネームを求められたユガは、雑に粒と答え、定着した。
「本当に余談すぎる」
あの男のファンは気が荒いやつが多い。
「アリザさんの粒もたくさんいますよ」
「フォローありがとな」
「あの扉です。呼び鈴っていうのかな……慎重に開けると、それが鳴らないはずです。ドアに当たって鳴るので。その奥にもう一つドアがあります」
「わかった。おまえらはここから離れろ。もしなにかあったら、俺に脅されて案内したってことにしろ」
「はい……なんて頷きませんよ。令吾のためです。やばくなったら対処します。なので、アリザさんは思い切り、話し合いというやつをしてきてください」
ずっと黙っていたひとりが口を開いて、「今日から俺、アリ粒ですから」と応援した。俺は初めて自ら握手を求め、初めて笑顔で対応した。
言われた通りに忍び込み、二枚目のドアに近づくと、話し声が聞こえてきた。
「……噛みつかれた跡、くっきり残ってる」
「俺も蹴られた」
「妙に立てついてくるなとは思ったけれど、まさかこんなもんで録音してたとはな」
「一度学校にこなくなってから、なんか変わったよな」
レゴのことだと確信する。
「腹痛めつけただけじゃ、おさまりつかねーな」
「金でも取るか」
「でも俺ら金に困ってないし」
笑い声が聞こえる。
ユガは上っ面だけの優等生だった。だけどこんな卑怯な真似をしたことはない。あいつは完璧な支配者だった。
俺はドアを開け、
「クソだな」
と吐いた。
俺はいつだって冷静なはずだ。自分を見失うなんてあるわけがない。
……怖かったんだ。自分の感情を汚すことが。憎んだふりをして、押さえつけていただけだ。あくまを宿して、俺自身を制圧していただけなんだ。
そうでないと、俺は。
「おまえを殺しちまう」
俺は取り押さえられるまで、クソを殴り続けた。
『与える痛みに、覚悟を持っているか』
聞こえてきたのは、遠い声だ。
神の囁きのようでもあり、あくまの慰めのようでもあった。
覚悟、したよ。ユガ。
気付いたとき、目の前にいたのはシズクだった。
「どんな気分? 初めての檻は」
くすっとシズクが笑った。
「レゴは?」
「大丈夫だよ。意識も戻った」
「そうか。ユガちゃんは?」
「マスコミの対応に追われてる」
「……悪い」
「こんなこと慣れてる。だろ?」
俺は首を振った。
俺は殺人者の血を引く。そんなところにユガは興味を持ったのかもしれない。俺は、施設や学校でいじめられていた。レゴと同じように、体中に傷や痣があった。
ユガが来るまでは。
ユガの目つきは異常だった。先生の前ではいい子ぶる姿勢と、俺たちに向ける威圧力はまったく別物だった。
俺が上級生に取り囲まれていると、ユガが近づいてきて言った。
「おまえ、クソだな」
上級生は、ユガの襟元を掴み凄んで見せた。ユガは顔色ひとつ変えず、言葉を発した。
「与える痛みに覚悟を持っているか?」
「は? なに言ってんの? 意味わかんねえ」
「ないのなら、俺が与える」
唇の片方が上がったと同時に、そいつの指はたやすく折れた。泣きわめく声を聞きつけて、生徒や先生たちが集まってくる。騒然とする中、シズクは笑顔で、「もう大丈夫だ、サク」と俺のそばに寄り添った。
誰もがユガに逆らうことはなくなり、俺はいじめから解放された。俺はユガに守られてきた。ユガに守られ、名前を変えて生きてきても、俺は殺人犯の息子である事実は消せないんだ。
「サク」
シズクが俺の名を呼んだ。
バンドを本格的に始めることになったとき、蟻砂という通称を、ユガがつけてくれた。それまではずっとサクと呼ばれていた。懐かしくて、くすぐったいような気持ちが、心の一片を緩す。
「大丈夫だ」
笑顔で頷くシズクの前で、俺は、泣いた。
長年住んだマンションを出た。記者に追われ、ほかの住民に迷惑をかけたくなかったからだ。今は事務所が用意してくれたホテルでおとなしくしている。こんなにマスタアドから離れたのは初めてのことだった。社長である音色さんには、プロとして自覚を持ちなさいと叱られた。厳しいひとだが、とことん面倒見がいい。
メールがくる。見慣れないアドレスの一部にlegoのスペルがある。十六歳の誕生日に携帯電話を買ってもらったらしい。遊びに行ってもいいかという内容だった。ホテルはレゴの通う学校からそう遠くない。学校近くの駅でレゴと待ち合わせをした。
「あいつらは退学処分になった。権力に物を言わせて幅を利かせていたやつらだから、学校側にもメリットあったんじゃない?」
と無邪気に笑う。ゲームセンターでは、格闘技ゲームやレースゲームをしたがぼろ負けした。楽器屋では、レゴがギターをめちゃくちゃに弾いて、俺はずっと笑っていた。店先に貼られたユガのポスターをふたりで見つめた。暗いステージをバックに、白い服を着たユガが歌っている。見慣れた姿なのに、手の届かないロックスターのようだった。
レゴへのプレゼントを買うためにおもちゃ屋に入った。悩んだ挙句、名前にちなんでブロックを掴むレゴがいた。レゴが食べたいと言い出してクレープの列に並んだ。まるでデートのようだった。
「予行練習だよ、アリザに彼女ができたときの」
「できるかよ」
「できるよ。学校ではアリザの人気爆発中なんだから」
「校長やら教育委員会とやら出てきて散々怒られたけどな。おまえの親にも」
「表向きだろ。お父さんには最後にこっそりと褒められてたじゃない」
「こっそりとな」
「俺は堂々と褒めてやるよ。よくやった」
「偉そうだな」
「偉くなるよ、俺。やりたいことみつかったから」
レゴは大人びた顔で言った。
「家を継ぐの」
「なれるよ、おまえの無駄にいい頭と……優しさなら」
「今、褒めた?」
俺は笑ってごまかす。
将来医者になる少年は、イチゴのクレープを頬張りながら、俺の横を歩いている。もうすぐ夜が降ってくる。暗闇に佇む白がやけに恋しくなる。ユガの背を見てギターを弾いてきた。その尊さの意味をようやく俺は知った。
ふと流れてきた音楽に足が止まった。飲食店から聞こえてくる。
「流行ってるみたいだよ、その店。外観は昭和だし、いつも古い曲が流れてる。そのわりに名前は洒落てんだよ」
hourglassの文字が眩しく点滅を繰り返す。ネオンの仰々しさはどこか青臭くて、甘酸っぱく、懐かしい。
「気になるの? 入ろうよ。俺まだ時間平気だよ」
「いや、いいんだ。ユガたちと会う約束をしている」
俺たちは再び歩き出した。
昔、ユガとシズクと俺、三人で、境内の隅でアリジゴクを見ていた。正確には、アリジゴクに落ちた蟻を見ていた。肩をくっつけ合って誰もが無言だった。やがて蟻が見えなくなり、蟻の砂が残った。世界が終わったような気がした。砂時計みたいだとシズクが言った。「ちっぽけなんだな」俺が呟くと、ユガが「俺達だ」と言って、砂をすくった。
「またマスタアドと遊べるかな」
レゴは最後のイチゴを口にした。
「そうだな。いつか……」
手のひらから砂が零れていく。俺たちは砂時計の限られた時間の中にいる。砂時計をひっくり返して、やり直すことはできない。ユガと過ごした俺の位置と時間はちっぽけで、尊い。だけど、マスタアドが永遠のものになれば、ずっとその音は続いていく。色褪せることなく。
「いつか、未来で」