-15369- イチゴミルク(3)
俺もあくまと取り引きをした。
俺が食べた契約の実は甘酸っぱかった。
種を出そうとしたら
飲み込めと言われて、
飲み込むと、
よし、と言ってあくまは───
拾い者の製造番号110015のレゴがここに来て、二週間が経つ。首の痣なんてすっかり消えている。他人との生活など考えもつかなかったが、静穏な湖に浸されているような錯覚が俺の調子を狂わせる。湖面には小さな波が揺らいでいた。
ギターを弾いていると、いつもは黙っているレゴが言った。
「アリザの夢ってなに?」
俺の夢?
「マスタアドの……」
それきり言葉が出てこなかった。
俺の夢か……
気付くと手元の走り書きのノートを見ていた。書き溜めてきた曲が記されている。何のために曲を作り続けてきたのだろうか。マスタアドとは異なる音を。いろんな音源を探っていくうちに、自分の求める方向性がわかってきた気がする。
「おまえの夢は?」
俺はノートを閉じ、レゴに聞いた。
「ないよ」
即答か。
「なんで、イジメられているんだ?」
「俺が無駄に頭がいいのと、父親の無駄な正義感」
「おまえの父親の仕事は?」
レゴは一瞬ためらい、
「医者」
と答えた。
「めんどくせえな」
「俺を拾ったこと? 父親が医者ってこと?」
「俺の……有益な試みのこと」
レゴは穏やかに笑った。俺もだ。もうレゴがいることは面倒なことではなくなっている。だが、レゴは高校生だ。このままではいけない。レゴもわかりきっているだろう。
毎日を惜しむかのように、いろんな話をした。俺はユガにもこんなに饒舌になったことはなかった。レゴがいなくなったら、寂しいのだろうか。
……寂しい? 俺がか?
元の生活に戻るだけだ。
メンバー全員の休日を確保して、ユガはシズクを連れて現れた。レゴと俺は、半拉致気味にタクシーの中に押し込められ、わけのわからないまま車は発進した。平日の朝のせいか都内の道はそれほど混雑してはいない。目的地であろう場所で降りると、テーマパークが待ちかねていた。
三人そろってこんなところにくるなんて、小学校の遠足以来だ。遊ぶこともせず、なによりもバンドを優先してきた。それだけ音楽に真剣に向き合ってきた。後悔なんてない。これからも俺はそうやって生きていくのだと思う。ユガの背中を追い、ユガのセカイの中で。
しかしながら、この“恐怖の館”という世界は、どうも生きた心地がしない。「のっけからここかよ」と余裕ぶって、平然とした顔で入ったのだが、内心は泣きたいぐらいに怯えていた。数えきれないほどの血塗れの幽霊を、シズクがデスボイスで成仏させている。特に女の幽霊には厳しい成敗っぷりだ。
闇の階段を降りると、薄暗く不気味な地下庭園が広がっていた。鉄製の門と、黒いマントを羽織った案内人が行く手を阻んでいる。フードを深く被り、見える口元には生気がない。
ギギギ……扉は開かれた。俺たちは新入生のようにひとかたまりとなって門をくぐる。再び金属音がなり、扉が閉まる。もう後戻りはできない。
ガチャリと大げさな音がして、振り返ると、黒マントが鍵をかけ、
「出口の扉を出たら必ず鍵を閉めてください……死者が蘇り、徘徊するかもしれませんので……」
と震える声で見放した。
一直線の長い路地。壊れかけの薄暗い街灯。頭上には、生い茂る木、両側には背丈ほどの柵が立ち、その手前には、十字架の墓石が並んでいる。静けさが響くなかに、ときおり葉の重なる音が浸透する。今にも死者が蘇りそうだ。いや、蘇る演出を待つ状態といったところか。そうだ、すべてはツクリモノだと、自分に言い聞かせた。俺の余裕はもう消耗している。ユガはなぜかラブソングを歌っているし、レゴはシズクに追い掛け回され、げらげら笑っている。俺はひたすらユガのそばを歩いた。
演出は、カラスの鳴き声の効果音で始まった。墓石の蓋が一斉にずれて、ツクリモノの……
「手が、出てます……ユガさん」
そう報告すると、ユガは「走れ」と言って、ダッシュした。わけもわからず俺は、ひたすらユガの背中を追いかけた。庭園出口の門を通り過ぎ、ユガは鍵を閉めて歩き出した。
「中にまだシズクとレゴがいるよ?」
「そうみたい」
他人事のようにユガは答えた。いちいち出てくる幽霊に、ユガは動じない。この暗闇だ、ユガには、俺がいちいちビクついていたことなんて見えてないだろう。ユガの背中に黒い羽を探す。こいつは、あくまなんじゃないだろうか。
現実世界でシズクとレゴを待っていると、ふたりは笑いながら転げ出てきた。ゾンビたちにもみくちゃにされたらしい。想像は、できない。
「ふざけんなよ、おまえ、きたことあるんだろ、ここ。慣れてる」
シズクに詰め寄られて、ユガは「まあな」と答えた。俺が閉じ込められていた確率もあるわけか……想像は、しない。
「まさか、あずを閉じ込めたとかねえよな」
まさか、自分の彼女をあんなところに閉じ込める男がいるわけない。
「そうみたい」
ユガは容赦なく答えた。質問したシズクとそのとなりに立つレゴが引いている。
「だけどあいつ、一緒に写真撮ってたぜ。ゾンビに囲まれて、ピースで」
今度は、俺が引いた。確かに、あずは変に肝が据わっている。そのくらいでないと、ユガの彼女はつとまらないのかもしれない。
「そういえばここ、ポイントで撮影していて、プリントアウトしてくれるんだっけ」
レゴがなにかの冗談を言いだした。俺は内心穏やかではない。ポイントってどこだ。前半は、となりにレゴがいたから、まだこらえられていた。後半、ユガとふたりきりで、ユガの後ろを歩いている俺は、挙動不審炸裂で、胸前拳固常備で、脅かされるたびに縮こまっていた。
渡された写真には、いつものクールを気取った顔の俺がいた。安心する俺に、ユガはあくまの微笑みを浮かべながら囁いた。
「よかったな、怖がってるの、ばれなくて」
俺は、ユガの背に黒い羽があるのを確信した。
その日は、日が暮れるまで思う存分に遊んだ。レゴ以上にはしゃいでいたのはシズクだ。またレゴの腕を引いてアトラクションに乗り込んだ。ユガと俺は、保護者の気分で柵にもたれる。頭の中が空っぽになっていた。音楽より遊びが勝る方程式が、自分の中に成り立つことに驚く。
「なんだよ、このべたな思い出作り」
ユガの横顔に告げる。
「ごほうび。俺を今の位置に連れてきてくれた」
「逆だろ」
「アリ、おまえがいなければ……」
「気持ち悪いこと言い出すなよ」
「……ギターの弦を張り替えられない」
「……」
女性に声をかけられ、ユガは振り向いて手を出し握手をした。相変わらず、笑顔のひとつもできないやつだ。ついでに俺も握手を求められる。俺も人のことを言えなかった。なにも変わってないな、俺ら。だけど、この手は、子供のころ思い描いた夢を掴んだ。ふと、テレビから手が伸び、俺を掴まえた記憶がよみがえる。今の位置か……。俺は今、どこにいて、どこへ向かうのだろう。
「今のユガにとって、目標ってなんだ?」
「変わること」
即答でユガは答えた。
「じゃあ、マスタアドの目標は?」
「変わらないこと」
もっと具体的な答えが欲しかった。「手に入れたいものは?」と聞き直す。
「炭酸」
戻ってきたシズクの手に、ちょうど望むものがあって、手を伸ばして、ユガはそいつを奪った。いつでもユガはなにかを奪っていく。ひとの心も、そうやっていとも簡単に。俺が誰かの心を掴むことはあるのだろうか。ユガの紡ぐ音を弾いているだけの存在。それが俺の今の位置だ。
帰りのタクシーに揺られながら気付く。思い出なんて、寂しさが残るだけ。レゴがいなくなったら、きっと俺は孤独を思い知る。それを知りたくなかったから、俺は三人で住んでいたアパートを出たんだ。俺にはギターがあればそれでいい。そう言い聞かせる。
ユガがマスタアドの目標に述べた「変わらないこと」の意味がなんとなくわかるような気がした。変わらない場所で、変わらなく弾いていく。それがどんなに難しいことか。マスタアドはそんな場所であり続けてほしい。
俺の好きだったバンドは、変わってしまった。ボーカルは脱退し、過去の自分を否定した。ギターを持ち、ソロとして活動した。同じ歌声なのに、なんの魅力も感じなかった。残ったメンバーは新しいボーカルを迎え、バンドを続けた。その音は、虚しく俺を通り過ぎていった。
新しいものを求め、変わり続けてもいい、だけど、否定をしないでほしかった。
目紛るしく変わる東京の夜景が、窓の外を無情に流れていった。
レゴがCDラックを漁っていた。レゴが言い出して、部屋を分担して掃除していた。俺は寝室の清掃を終え、キッチンに戻り、目撃した光景は、山のように積まれたCDの真ん中に座り、歌詞カードを見ている少年。音楽鑑賞が趣味というだけあって、掘り出し物ばかりの山は、レゴにはたまらないものだろう。
「いやね、ちゃんと並べようと思ったんだ。本当だってば。ほらこのへんは、ちゃんと整理されてるでしょう」
俺は「休憩しよう」と、テーブルにグラスを並べ、ドリンクを注ぐ。
「ねえ、これなに? 鈴木ってラベル」
初めて好きになったバンドであることや、ギターを弾くきっかけになったことを話した。
「ボーカルが戻って、復活したよね」
「そうだな」
「ライブ、一緒に行こうよ」
レゴが言った。復活ライブは誘われたが、行くことはなかった。CDもずっと聞いてない。裏切られたような気持ちが残っていた。
炭酸が俺の中を落ちていく。不揃いの氷が歌う。グラスを包む水滴が、手のひらを濡らした。疑うことのない温度に触れるとき、俺は安心して音に浸ることができた。冷たい色は決して俺を失望させない。
「おまえも休憩すれば」
そのうちにどうでもいい話になって、笑い合った。
俺が女にも性にも興味がない、と言う話をしたとき、レゴは冷静に言った。
「アリザは、幼少期になにか、つらい経験をしているの?」
俺は焦った。見透かされた気分だった。
「精神科の先生かよ」
「父親、医者って言ったでしょう。イジメはさ、初めはクラスのひとりがイジメにあっていたんだ。そいつはうちの病院に来るようになった。うちに来ると、よく話してた。でも学校では口効かなかった。見て見ぬふりした。俺も同罪だよな。……そいつ、飛び降り自殺したんだ。
精神科医のくせにおまえの親父は救えなかったって、今度は俺が標的にされた。
俺、本気で死のうと思って屋上にいたんじゃない。そいつの気持ち、少しはわかるかなって。他人の気持ちなんて、わかりっこないのにさ」
「……見ようとしねえからじゃないのかな」
俺が。
俺は何も知りたくはない。
真実を受け入れるのが怖いだけなんだ。
レゴが泣いた。感情を露呈する人間を前にして、不思議と穏やかな気持ちでいた。本当につらいとき、誰かの前で泣くことも悪いことではないのかもしれない。俺の体内に「涙」というものがあればだが。
綺麗になったCDラックを見つめながら、レゴが言った。
「家に帰るよ」
手には、鈴木印のCDを持っていた。
あの曲が流れだす。再び、俺を掴んだ感覚が蘇って苦しくなる。
「レゴ」
振り向いたレゴに言った。
「ライブ、見に行こう」
約束する。ふたりで、あの歌に会いに行こう。