-15369- イチゴミルク(2)
俺が偽善者なら
ユガは偽悪者だ
あいつは悪者を演じているだけに過ぎない。
ほんとうの悪者は俺なのに。
ほんとうの姿を隠している。
遮断を守り、目を塞ぐ。
聞こえてくるのは真実だけ。
あくまの、声だけだ。
小さいころ、テレビからなにげなく流れてきた音は、俺を鷲掴んだ。それまで俺には興味の対象がなにひとつ無かった。笑うことも知らず、ただ時を刻んでいただけの「人」という名の亡骸にすぎない。音源は、心から生まれることを知った。そして、俺の心にも宿っていることを知る。それを表現できるものがギターだった。
施設の奥の食堂室で、ただひたすらにギターを弾いた。
食堂室とは名ばかりで、実態は倉庫室兼休憩所といったところだ。俺が小学二年になるまでは食堂室として機能していた。子供たちの人数が増えたため、食堂室は『ひなたひろば』という新名称とともに、名前どおりの新たな場所が設けられた。男子棟と女子棟のあいだに『ひなたひろば』が割り込み、そこから廊下が伸びて、職員室、つきあたりに旧食堂室があった。扉には『食堂室』の文字がでかでかと書いてある。ふりがなは消えかかり、補助の役目をとっくに終えている。もう食堂室ではなくなったが、呼び名はそのまま浸透し続けた。
部屋の中央に年代物のテーブルがふたつ並んで、それぞれ木製の長いすに挟まれている。大きめの窓を、厚地のカーテンが覆っている。壁と同系の水色は、積日の思い出が染み、本来の色は褪せつつあった。手前には予備の丸いすが所在無げに重なっている。窓と向き合う形で本棚があり、漫画や文庫本が、くたびれた背表紙を見せているが、『ひなたひろば』に新しいものが用意されてからは、誰も手に取ることはなくなった。その横には、天井に届きそうなほどのスチール棚があり、消耗品や備品、なにが入っているのかわからない箱や、発表会でしか活躍の場がない楽器たちが所狭しと整理されている。貴重品があることや、職員室前を通らなければならないこともあいまって、子供たちは、そうやすやすとは立ち入りできない場所となっていた。俺にとっては、ギターの練習場所として、最高の環境といえた。
かといって、俺は特別扱いをされているわけではない。可愛げのない子供だったと想像する。泣きもせず笑いもせず無表情で、最低限の会話と食事、生きているだけ。先生たちはなんとかしようと、おもちゃを並べ、アニメを見せ、本を読み、あらゆる手段で俺を喜ばせようとしたが、俺は一切を遮断し、なににも興味を示さなかった。
物心がついてからの俺は、息をしていればそれでいいと思っていた。雲は勝手に流れていくし、雨が降ったら傘をさせばいいこと、雪が降ったら服を着ればいいことを知った。なにをしていても時間は過ぎていくのだから、なにをしなくても時間をやり過ごせばいい。ただ、俺の目に、色のない雲や雨が映り込んでいただけだ。
小学校に入学すると、勉強という面倒なのが増えた。掲示板に「あいうえお表」が貼られ、張り切って声に出して読むのは苦手だったが、強いられる数々の行事も、抗うことせず、空気になることが一番面倒にならないということを学習した。
新入生は、きちんと列を組んで登下校しなければならない決まりがあった。施設に同学年の男子はいなく、女子は三人。帰り際、「離れてよ」との指示に、後ずさりして距離を保った。施設の門が近くなると、女子は振り向き、「早く走ってよ」と苛立つ。走って女子に追いつき、ひとかたまりとなって門をくぐり、帰りを待つ先生に「ただいま」とあいさつする。初日に、どうして一緒に帰ってこなかったの? と聞かれ、女子たちは、俺のせいにしたからだ。無抵抗を装うのが面倒にならない。特に、口うるさい女子の機嫌を損ねると、のちのち大変なのも知っている。
午後は、女子たちは部屋に戻るし、高学年の生徒たちもいないので、食堂室をゆうゆうと占拠できた。一番過ごしやすい時間ともいえる。先生がテレビをつけた。俺はいつものように漫画の続きを読もうと、本棚の前に立つ。
そのときだった。テレビから大きい手が飛び出してきて、俺の全身を掴まえた気がした。体のどこかがえぐられたみたいに痛んだ。俺は、俺を奪ったものを探した。響く重低音、絡みつくような歌声、狂おしいほどのメロディ……それらがスピードを持って、俺を、殺した。今まで聞いたどの歌とも違う。音、詩、ファッション、声……ぜんぶひっくるめてひとつの 音楽性を表現していた。そこに触れたとき、俺に見えるすべてのものが鮮やかに色づいて、動き出した。
「サク?」
名前を呼ばれていることに気付く。当時の俺の呼び名だ。
「あれはなんていうの?」
指先をテレビに向けて聞いた。発表会で鈴木先生が弾くギターとは違う。鈴木先生のより、もっと薄くて、音がキンキンとしている。「あの人たちはなんていうの? あの音楽はなんていうの? 俺にもできる?」知りたいことがどんどん言葉となって溢れた。
先生は慌てながら、「ちょっと待っててね」と消えた。再び食堂室に戻ってくると、先生が増殖していて、俺が人間らしくなったことを歓喜し合った。中にはハンカチで目頭を押さえる先生までいた。人間に成り立ての俺は、多少困惑して視線を落とした。なにより早く答えが欲しかった。テレビからはもう、曲は流れていなかったのに、まだ痛みが残っていた。
慌てて駆け付けた鈴木先生は、答えをぜんぶ持っていた。それに、先生はロックバンドのベーシストだ、という欄外の解説付きだった。
次の日、鈴木先生はギターを持って現れた。
「もう使ってないやつだから貸してあげる。本当はプレゼントしてあげたいけれど、ほかの子たちに悪いからね。でも、これはサク君のものと思っていいよ」
空色のそれは、行儀よく座った俺の膝の上に乗せられた。はりがねみたいなのを人差し指で数えると、六本あった。ピカピカと光って、綺麗だった。古いし安物のギターだよと言われたけれど、俺には宝物だった。窓の外に塗られた青よりも、愛おしい青だった。
鈴木先生は、ギターのレッスンはもちろん、音楽についていろんなことを教えてくれた。俺は、部屋にいるより、食堂室にいることのほうが多くなった。夕飯のあとも、勉強そっちのけで、ずっとひとりでギターを弾いていた。
先生に楽しそうだと言われたけれど、先生も楽しそうだった。鈴木先生は、こっそり、俺の好きなバンドのCDを買ってきてくれた。何度も何度も聴いた。すべて弾けるようになると、また先生がプレゼントしてくれた。毎月、音楽雑誌も買ってきてくれた。それらはすべて、表向きは先生の所有物ということにしているので、ひとつひとつ、鈴木というラベルが丁寧に貼られていて、食堂室から持ち出すことはなかった。
俺は小学五年生になっていた。一度耳にした曲は、その場で弾けるようになるくらいには上達した。それだけで満足だった。好きなCDを流して、それに合わせて曲が弾ければそれだけで満足だった。
いつものように食堂室でギターを弾いていると、ガチャリとドアが開く音がした。俺の結界を無遠慮に侵入してくるやつがいた。転校生のユガだ。学校では同じクラスになった。俺にも、流れている音楽にも興味はなさそうだった。本棚に向かい、ざっと目を通したあと、漫画を抜き取った。俺のいるテーブルではない、もうひとつのテーブルに向かったところをみると、その視界に俺は存在し、無遠慮でもなさそうだった。長いすに寝そべり、漫画を読み始めた。食堂室にはユガと俺だけ。流れる曲と俺の弾くギター音だけ。俺は戸惑っていた。ここでほかのやつらと同じ空間を共有したことはない。特に会話が発生することもなかったし、俺は、こっそりと転校生を監視した。背は高く、痩せ型。長い前髪で表情は見えない。学校では勉強も運動も成績優秀で欠点が見当たらない。気分屋で嫌われている担任を簡単に手なずけた。この施設でも同じだ。おとなを騙すのがうまいのかもしれない。クラスの連中ともここでも必要以上の会話もないし、群れる気もなさそうだった。得体の知れない転校生を、クラスのやつらは、一線置いて様子を見ているようだ。ふと、ユガがなにかのメロディを口ずさむ。聞いたことのない旋律だ。長い指先が、漫画をめくった。
次の日も、またその次の日も、ユガは現れた。漫画の続きは、まだある。明日もくるのだろう。
ユガを監視して、一週間ほどたった。同じ空間を一度も会話をすることなく過ごした。ユガについて収穫したことは、絶えずなにかの歌を口ずさんでいるってことだけだ。日本語の曲を聞いたことはない。知れば知るほどユガはなにものなのか、興味が募った。歌が好きなのかもしれない。ほとんどは英語のロック調なのだが、一曲だけ、明らかに違う音質の曲が混じっている。英語でもなく、何語なのかはわからない。その曲を口ずさむことが圧倒的に多い。俺は思い切って、ユガの口ずさむメロディをギターで弾いてみた。静かな水面にそうっと釣り針を垂らすように。意外にも、ユガは漫画から顔をあげて、食いついた。俺のほうがびっくりした。
「その曲……なんていうんだ?」
弾くのをやめて、ゆっくりとユガの顔を見た。きつい目が、睨んでいるようにも見えて、怒っているのかなとも思う。
「……知らないの?」
そう答えると、
「知らねえ」
とユガは言う。俺は驚きながら、「いつも口ずさんでいるのに?」と聞いた。
「誰が?」
え、とぼけてるの? とも思ったけれど、本気のようだった。
「ユガちゃん」
「俺?」
「うん」
頷きながら俺は笑っていたと思う。
「もう一回弾いてみて」
ユガは食い入るように、俺の手元を見つめた。俺は正確に再現したつもりだけれど、ユガはぴん、ときていないようだった。
「わかんねえや」
そうしてユガはまた漫画を読みふけった。
いつものように、だが、いままでとは違った。バンドの曲に合わせてギターを弾いていたら、ユガが歌いだした。完璧に歌いこなせていた。この一週間の中で何度か聴いた曲は、覚えているようだった。試しにユガの知らない曲を弾いてみると、黙って、漫画をめくるのだった。覚えようとしているのではなく、自然と吸収して、無意識に歌っている。ユガが曲に合わせるというより、ユガの世界がもう確率していた。その世界に触れてギターを弾くことに、なんともいえない快感を見出す。
だが、それはすぐにかき消された。ユガの弟であるシズクが食堂室に顔を出したときからだ。なんの用事があったのかわからないが、音楽やギターに興味津々で、バンドを組みたいと言い出した。「サクがギターだから、俺ベースな」と初めて話すのにかかわらず、馴れ馴れしいやつだった。
バンド? いいかもしれない。考えたこともなかった。バンドを組む。それがユガとならどんなに楽しいだろう。
それからの食堂室は一変した。シズクとその友達で賑わった。予備の丸いすは大活躍だったし、鈴木先生は部活の顧問のようでもあり、「もう少し静かに騒げ」と言いながら、一番張り切っていた。ユガは、変わらず漫画を読んでいる。その手のひらの中では、新しい物語が始まっていた。
バンド計画が着々と進行する中、俺の一番望む言葉がシズクから発せられた。
「ユガもやろうぜ」
俺の期待は膨らんだ。ユガと俺は、同じ感覚で包まれている。俺がギターを弾いて、ユガが歌って。この食堂室で何日間か味わった感覚はふたり共有のものだ。
それなのに。
ユガは漫画から視線を外すことなく、
「興味ねえ」
と一蹴した。
結局、他のやつにボーカルが決まったが、続けていれば、いつかきっとチャンスはあると信じていた。
ユガは、ユガそのものに表現力が備わっていた。歌も声もその独自性も、すべてにおいて表現者だった。学校で優等生を装っているのもその一環だろう。ユガの絶対的な支配力は、ステージの上で、ユガ自身をも支配する、それは俺が描いた理想のバンドでもあった。何事にも無関心だった俺が、興味のあるものは、ギターとユガ、このふたつだけだった。
バンドと言っても、流行りの曲を発表会で披露しただけだったが、十分に盛り上がった。全体の演奏はまだ未熟だとしても、成功の要因はシズクの持つ力が大きい。やつはお調子者で最高のパフォーマーだ。
そしていつしか、ユガがボーカルに加わった。「マスタアド」でデビューすることが俺たちの夢になっていた。マスタアドは俺たちの夢であって、俺自身の夢とは違うのかもしれない。もちろん、俺の夢の第一歩であることに違いない。
一度だけ、俺たちはオーディションを受けたことがある。だが呼び出されたのはユガと俺だけで、シズクは要らない、と言われ、それからだった。それ以来、スカウトをされてもユガは断った。どんな大手プロダクションでも、悪くない条件だとしても、ユガは頑なに断った。事情を知らないシズクはどうしてチャンスを逃すんだ? といつもユガに食ってかかっていた。シズクには、ユガが誰にも拘束されたくないという自分勝手さで断っていると思えてならなかったらしい。たったふたりの兄弟というのもあるのだろうか、ユガはシズクに甘すぎる。だからあんなわがままぶりを発揮する。見かねて俺は、シズクに本当のことを告げた。あれからシズクは練習を重ねて、腕を上げた。今のマスタアドは、誰一人欠けても成立しないだろう。
ユガは表立った行動はせず、けれど、着実に自分の力を手に入れていくやつだ。出来ないことは言わない。先が見え、なにかを決断したのだろう。俺とシズクに言った。
「自分でレーベルを立ち上げて、やっていく、信じてついてこれるか? 三人一緒でないとありえねえ」
そのときのユガには何が見えていたのだろう。
子供のころ、夢中になったバンドの色づいた鮮やかなセカイ、そしてユガはそれを一瞬にして塗り替えた。冷たい色だ。こんなに心の奥まで締め付けるような色を、ほかに知らない。