-15369- イチゴミルク(1)
孤独の中枢は蜜の味がした。
紫色の長い舌をだらしなく出して蜜を舐めるあくまがいた。
舌には無数のピアス。
ときおり、ぎんいろに光るピアスを見つめては、うっとりとする俺がいた。
「従順の味だ」
舌なめずりしながらあくまはいう。
冴えた感情を見せつけ、甘味を要求している。
充分過ぎる環境に浸されて、ただ泳いでいた、ユガの波に乗っかった、そんなところだろう。
ユガに出会わなければ、今の自分はない。
ホテルのフロントのバイトのまま、小窓にキーを置き、様々な指がそれを掴むのを見届けていただろう。時間が来たらコールをして。仕事の合間にギターを膝に乗せ、行きどころのないメロディーを奏でたりして。そんな生活をたんたんと繰り返していただろう。
薄暗くて古めかしい、だいぶくたびれたラブホテルだった。社長はほかに飲食店を経営していて、このホテルで儲けようとしているわけではなさそうだった。
「新しいのがいいってことでもないんだよ。昭和のさ、ほら、青臭くて甘酸っぱくて懐かしい感じ。わかる? いつかそういう店をやってみたいんだよね。それよりさ、あれ、弾いてよ。あれ」
そう言って社長は、古めかしい歌謡曲やフォークソングをリクエストするのだった。おかげで、青臭くて甘酸っぱい曲を、数えきれないほど覚えた。それらの曲は、俺にとってどこか新しい感じがした。
中学の三年間、新聞配達の仕事をしていた。毎朝、社長の自宅に新聞を届けていた。社長はいつも庭先にいて、郵便受けに新聞を入れるより早く、俺の前に立ちはだかった。雨の日でも雪の日でも。必ず、「おはよう」「ありがとう」の言葉を添えて。少しずつ言葉を重ねていき、なにが気に入られたのかわからないが、卒業したらうちにこいと言われ、働かせてもらえることになった。
俺は、生まれてすぐ児童養護施設に預けられた。そこで、ユガとシズクに出合った。いつもひとりだった俺に、音楽を通じて仲間ができた。楽しかった。夢中だった。そうして、俺たちに目標ができた。バンドでプロになることだった。
卒業してから初めのうちは、三人で借りたアパートから通っていたけれど、バイト先にギターや私物を少しずつ持ち込むようになり、そのうち帰ることがなくなった。
昭和の部屋の片隅で曲を作った。だけど誰にも、ユガにも披露することはなかった。マスタアドはユガによって運営されていたし、事実、プロにもなってこうしてやってこれた。これ以上、何を望む必要があるんだ?
俺は、シズクほどユガを崇めてはいないが、ユガはやはり他の人とは違うナニカを感じる。ナニカ得体の知れないモノ……そうだ、俺の夢の中に棲むあくまだ。ユガは、舌につけたピアスと唇につけたピアスをカチャカチャ擦り合わせて、舌なめずりをする。
「痛みはねえ、俺を押さえつけるんだよ。痛みに俺は従順だ」
俺は「Mか?」と言って笑うと、ユガは「アリザの下ではね」と言って片方の唇を上げた。
シズクは恋人ができて安定しているし、ユガも問題を起こさず、マスタアドは順調で、それでいいのだろう。あくまの、「これでいいのか?」という嘆きには傾かず。
俺は寧ろ恐かったんだ。順調な波が壊れることが。
それを破壊するのが俺自身だとは、思いもよらなかったんだ。
寝る前に、マンションの屋上で夜景を眺めるのが日課になっている。マンションといっても、築四十年以上は経っていて、所々コンクリートが割れ、中の素材が剥き出しになっている。至る所に「節電!!節水!!」「こまめにスイッチを切る!!」などという大家手書きの紙があちらこちらに貼ってある。夜八時以降には、必要以上の電灯が消され、住民たちもそれに従っている。気のいい人たちの集まりに、俺は、引っ越すタイミングをすっかり失っていた。
屋上でいつものように夜景を見ていると、階段を上がってくる足音がした。こんな夜更けにここにくるのはユガぐらいなものだ。驚かしてやろうと、暗がりに身を屈め、息を潜めた。子どものころ、こんなふうに、ユガにいたずらを仕掛けていたのを思い出した。ユガの驚く顔、思いきり笑った顔、本気で怒る顔を見たことがなかった。表情がないわけではなかったが、どこか規制しているような感じがした。笑顔が見てみたかった。いつの日からか、無駄なことだと諦めた。片唇が上がるクセのある笑いかたが、ユガの笑顔なのだと結論付けたのは、俺が面倒になったからだった。
ギッと、軋みを立てて、扉が開く。
ん? 見たことないな……このマンションでは見掛けたことのない……中学生くらいだろうか。そいつは、ボロ雑巾のような佇まいの金網を潜り抜け、淵に立ち、下を覗き込んでいる。
自殺か?
俺はタバコを口にくわえ、ライターを点けた。
そいつが驚き振り向く。
「とっ、止めるなよ」
と言いつつ、金網にしがみ付く指に力が込められている。
「なにがあったか知らないけれど……」
タバコを吸い、煙を吐いてから言った。
「俺に構わず飛べ」
「おいっ、大人だろっ。普通止めるだろ!?」
「じゃあさ……よそでやってくれない? このマンションに住んでいるやつの身にもなってくれよ。おまえのグロい死体見せられて誰かがおまえのぐちゃりとした死体を片付けて、ここの住人は一応おまえに花束ぐらい手向けて線香ぐらい供えて手を合わせるだろーよ。幽霊にでもなったおまえが出てきた日には後味悪いし」
そいつはため息をついて言った。
「もういいよ。止めるから」
あっそ、と俺は立ち上がり、その場を離れようとした。
「あっ、待ってよ」
そいつを見ると、困ったような顔をしている。
「もう、電車もないし……行くところもないし……」
めんどくせえ。俺は金網をくぐる。
「めんどくせーな」
そいつの襟首を掴み、一緒に地上を覗く。
「ほら、あのコンビニの通りの、今、車曲がったとこ。あそこが派出所だから。一晩くらい泊めてくれるよ」
たぶんだけど。
「いや……警察は……それに旅館じゃないんだから……」
俺が黙っていると、そいつはいきなり土下座した。
「お願いします! 朝になったら帰ります。それまで家にいさせてください」
「おまえねえ……」
「お願いします! お願いします!」
「今日だけだぞ」
屋上出入口に備えてあるバカでかい灰皿に、タバコを入れる。ジュッと、くすぶった音が余韻を与えず消える。壁には、「消えるの確認!!」という張り紙が二枚、貼られている。暗い階段を下りる。
そいつを部屋に入れ、後ろ手に鍵を締めながら言う。
「どうするの? 俺が同性愛者だとしたら」
「いや……あの」
たじろぐそいつを横目に、部屋の照明を点けた。同時にそいつは、息を飲んで後ずさりした。
「冗談だよ?」
「アッ、アッ、アリッ、マスッ、マスタ、のッ」
動揺しすぎて言葉になっていない。
「マスタアドのアリザね、よろしく。おまえは中学生?」
「こっ、高校生……」
そいつは、ジーンズのポケットから財布を取り出し、学生証を見せた。
「頭いいんだな」
学生にしては、服や財布は高価なブランド品だ。学生のころのユガを思い出させた。だがユガのような危険な匂いはしない。
「腹減ってるなら、キッチンにあるもの適当に食べな。シャワー浴びたきゃ使えばいいし、寝るときは奥のベッドで寝な。俺はそっちの部屋のソファーで寝るから」
そいつは頷き、ベッドに倒れ込んだ。すぐに眠りに落ちたようだ。めんどくさいのを拾ってしまった、とユガにメールを入れた。
また夢を見た。
夢の中で俺を見下ろすあくま
…ブン…シンヲ…ト…ナテ…
…ン…ヲ…トキ…
俺はそいつを振り払えない
得体の知れない力に抑制されている
重圧?
違う
むしろ心地がいいくらいの…
いや、俺は、無でありたいんだ
ダレモ愛サズ
ダレニモ浸入サセナイ
朝食を終えるころ、ユガが来た。俺の拾い者を面白がって「明日、見にいく」とメールの返事が入っていた。
「おまえか飛べない鳥は」
ユガはいきなり拾い者を羽交い絞めにした。じゃれるうちに、なにかに気付いたのか、いきなり真顔になったユガは、拾い者のTシャツをめくった。
体は切り傷だらけだった。明らかにイジメとわかるような言葉がいくつも刻まれている。
どうでもいい。
ユガには恰好の獲物でも、俺には薄味のおかずにもならない対象物だ。朝食の残りに箸を付けた。
「ふーん」
ユガは獲物を捕らえた目で傷を追う。拾い者は決まりが悪そうに視線を落とす。
「ここ、スペル間違ってる。それにもうちょっとデザイン性、なんとかならなかったのかな。この数字はなに? 110015」
「俺の製造番号だそうです」
ユガは製造番号をじっと見つめて、そいつの顔に言った。
「イトウ レイゴか」
拾い者は、ユガを見た。その目は一瞬にして、シズクが神を敬うのと同系の色を帯びた。ユガはソファーに寝そべった。
なにを思っている?
ユガの意図は大体わかる。俺は面倒なことはごめんだ。
「食べたら帰りな」
俺は食器を片付けながら言った。製造番号110015は黙っている。
「帰る気あんの?」
ユガの問いに、製造番号110015はまだ起動しないでいる。
「無視かよ」
ようやく製造番号110015が電源を入れたようだ。
「カエリタクナイデス」
「じゃあ、どうしたいんだ?」
「ワカラナイデス」
俺は食器を洗いながら、振り向かずに言葉を挟んだ。
「死ぬならよそでやって」
「死ぬしかないんだ……」
製造番号110015の消え入りそうな声がする。ユガのキレ加減のわかるため息が聞こえ、俺は振り向いた。
「いらつく」
言葉を吐き棄てたユガは、起き上がり、製造番号110015をソファーに叩き付け、首を絞めた。製造番号110015は、脅えてユガを見ている。
「生きてえと思わねえ奴を誰も助けてはくれねえ」
ユガの両腕に力が込められていく。製造番号110015は苦しがる。
俺はまた食器を洗うことに専念した。皿の擦れる心地イイ音が響く。
「うちで死人出さないでよ」
小声で呟く俺。
「このまま逝くか?」
神は、いつも横暴だ。そして優しい。そこに誰もがユガに従順な意味を見い出す。
───この俺もだ。
「抵抗できんじゃねえか。レゴ」
振り返らなくてもわかる。ユガはニコニコしながら『レゴ』の頭をグリグリと撫でているはずだ。
苺を洗い、テーブルの上に置いた。
甘い匂いを嗅ぎ付けてユガが座る。ユガの舌に味覚はないが、甘いものは好きらしい。ほとんどのフルーツを潰して食べる。その儀式のための音も決まっている。
ユガのコアな音楽性に興味はないが、俺のPCには、ユガの好きな曲がダウンロードされている。ユガが勝手にしていることだが、その曲をかけるのは俺の役目になっている。
曲が流れ、ユガは口ずさみながら苺を潰し始めた。ぼんやりとしていたレゴが、ぼんやりとバンド名を言った。
ユガがレゴを見た。つられて俺もだ。一般的にはあまり知られていないバンドだ。
「気に入った」
ユガは笑顔で、潰れ掛けの苺をフォークで刺し、レゴの口元に運ぶ。
「食え」
レゴは口を開け、ユガの苺を中に招く。
見届けた俺が言う。
「契約の実」
レゴが即座に俺を見る。
「それを食べると、ユガに服従しなくてはならない」
俺の発言が言い終わるのと同時に、レゴの喉をごくりと音を立てて通り過ぎてゆく、潰れた苺。
「なあ。この苺甘いの? グロいよなあ。この色」
そう言って、潰した苺に牛乳をかけて、グルグルとかき混ぜるユガ。
「考えな。この先どうするのか。それまでここにいな」
ユガの勝手な決断に、俺は無表情にユガを睨む。グルグルしたものを飲み干し、フォークの先を舐め終えたユガは、笑顔で俺を見て、同意を求めた。
「ね」
「可愛らしく、言うな」俺はテーブルに座り、苺の形の苺を口に入れて「いつまで」と聞いた。
「そうだな……こいつの首に俺の指の痣が出来るだろ。そいつが消えるまで。いいな」
「はい」
レゴが答えた。
「苺を潰す時のBGMは?」
「Redemption」
契約者は的確に曲名を捧げる。
「よし」
ユガが満足そうに頷く。
俺は笑っていた。