-syrup- (1)
『こんなクソみてえな世の中に産まれ堕ちたことを、誰に感謝してやろうか』
ユガの底に潜んでいるもの。ただの悪戯に過ぎないと、甘く見落としていていた。ユガの狂気は、俺と同じ血のどこに巣くっているのか。ユガの母親か? 俺とユガは母親が違う。
初めて会ったとき、ユガは笑った。唇の片方が上がる笑い方で。今と変わらない。ユガはユガとして完成されていた。神のようにも見えたし、亡者のようにも見えた。
俺にはユガしかいなかった。ユガがいなければ俺は生きてこれなかっただろう。それほどに必要な存在だ。それは、愛情よりも超越したものだといっても過言ではない。
俺たちは拠点を変え、俺たちのバンド『マスタアド』を再始動させていた。ユガはイラストレーター、俺はユガのデザインした物を形にする仕事を手掛けている。いつか自分たちのプロダクションを立ち上げるための資金源だ。
マスタアドのユガは崇拝される位置にいて、教祖のように君臨しウタを歌う。メジャーのオファーがきてもすべて断っていた。ユガはとにかく拘束されることを嫌う。言い換えれば支配者でありたいのだ。一度だって弱みを見せたことなどない。いつも癖のある笑い方で君臨し続ける。
だが。
最近のユガは。
「シズク、マスタアドやめねえか?」
いきなり、だ。
「なにを言っているの?」
「歌いたくねえんだよ」
黙っていると歌いだした。
支離滅裂
順番通りに行儀良く破壊しろ
支離滅裂
なだめるように優しく犯せ
誰にも命令されやしない
俺の言葉をもって崇め
「っとに支離滅裂だよ」
それは、ユガが作った曲で、インディーズでは上位にランクインした。
「なあ聞いてんの?」
ユガの疑問に、俺は答えをアテガウ。
「聴いてるよ。ウタを」
「ウタ……か。俺のウタに意味はあるのか? 俺に意味はあるのか?」
あるよ。そう告げたらユガは黙った。それ以上を聞くのを止めたのか。時々、ユガとの間に空白がエンターされる。ユガのメモリはもう別なところにシフトされている。きっとそこに俺はいない。
ユガの意味?
俺はユガの言葉に戸惑いもした。
あの一件以来、ユガは変わった。ここにくる前、別な場所で店を構えていた。ひとりのアルバイトの女がいたが、ユガはその女に手を出した。初めてのことだ。それまでのユガは、俺にしか興味がなかったのだから。目覚め、なのかもしれない。異性への。
ユガは俺を壊すことをやめなかったが、それでも上の空のように思う。
“ユガはドコカで別ノ女を壊シテル”
ユガには、匂いを嗅ぎ分ける能力が備わっている。人に棲む狂気という匂いを。水飴みたいなカッタルイモノ、とユガは言う。俺にはもうユガを止めるすべがない。次第にユガが俺から剥がれていく。俺を壊し、俺は壊れかけのまま。
それとももう。
完全に壊れちまったのか。虚像の渦の中で俺は思う。ユガの作り上げた皮膚は憎しみの成果なのか? 難解な綴りを肌の奥まで埋め込みインクの染みを舐め、味を確かめることなく飲み込む。その喉仏は単なる通過点。ユガの舌の味覚はとうに役割を終えている。削いだ舌では、なにも感じることはできないだろう。インクの苦味と添う俺の心も。
薄べったい舌に絡みつきながら、ユガの喉仏に向けて俺は言った。
「終わりにするか」
ユガの目が俺を刺す。
「仮説的なことは言うなよ」ユガは俺を押し退け、「どっちをだ? マスタをか? 俺か?」と問う。
俺は手探りでテーブルの上のタバコを捕まえ、口端に押し込みながら答えを出した。
「マスタアドを消滅できても、俺はユガを失えない」
「わかった。ただ」
ユガはライターを点け、俺のくわえたタバコの先端を焦がしてから奪い取った。いつもはタバコを吸わないユガが、こんなふうにタバコを口にするのは、気分が安定していない証拠だろう。苛ついているのか? 俺に。ユガの指先がリモコンを掴むと同時に、エアコンが浅い音を響かせた。冷気を排出するのを確認して、用済みリモコンを俺の腹の上に葬る。
「ただ?」ユガの排出する煙に聞く。
「俺とおまえはなんだ」
俺は首を傾げ、「何が言いたいの?」と、再びユガ思考を請う。
「家族のそれ以上でもなく下でもなく」
家族かよ、俺は笑った。
「なにがおかしい」
ユガの視線が俺を蔑む。
家族がヤるかよ。やり切れなさを吐き捨てた俺を、視界から除外してユガはタバコを吸った。嫌な沈黙の上に煙が漂う。
ユガは言う。
「おまえの親父はヤっただろう。俺は餌食を横取りしたかっただけだ」
俺は問う。
「じゃあなんであいつを殺したんだ?」
ユガは再び俺を睨んだ。
「こんなクソみてえな檻の中に作為された俺は誰を憎めばいい!? あいつだ。あいつが俺を創ったんじゃねえか。誰が頼んだ? 俺は産まれてきたいと願ったか?」
「……なにがあった? らしくねえよ」
ユガは普段、感情を剥き出しにしたり、言葉を荒げたりすることをしない。
「俺もそう思う」
そう言うと、俺の口元にタバコを戻し、部屋を出て行った。
狂気の味か?
フィルターに残された湿り気に翻弄されている。ユガが完全に俺から剥離したような気がしてならなかった。腹の上に残されたリモコンのスイッチを押した。まだ梅雨もきてないってのに。不条理な天気と、ユガの纏う冷気に、タバコの先を押し付けたくなりながら幻滅する。吐いた煙がエアコンの余韻に浸り、ユガが開け放したドアの向こうへと流れていった。
タバコの火種が意識を攪拌させやがる。思い出すだけで心が軋む。
俺は親父の餌だった。泣き叫ぶ俺に連動して、初めのうちは妹のなな子も泣いていたけれど、俺もなな子も慣れというか、どうでもいいことに変わっていった。
しばらくしてユガがやってきた。ユガの母親に男がデキて、ユガの存在が邪魔だと置いていった。
親父と俺の行為を、ユガはまるで映画を鑑賞するように、お菓子とジュースを持って見ていた。時々その口端が薄ら笑うのを、俺は親父の腕の中から垣間見ていた。
ある日、ユガは、泥酔して寝ている親父の布団にタバコを放り投げた。火は瞬く間に燃え広がり、親父と家を包んだ。親父のタバコの不始末ということで、事は片付いた。俺とユガは同じ養護施設、なな子は親族に引き取られ、離れて暮らすことになった。
施設や学校でのユガは優等生だった。ただそれは真の姿ではなく、計算し尽された偽の世界であり、誰もがユガの支配下で成り立っていた。俺もユガの支配下のひとりに過ぎない。神を愛している。神の下に跪き、この 肉體さえも献上する。ユガの檻の中で俺は蹲り、ユガが扉を開けてくれるのを待っている。その手に、錆びた鍵を握り締めるのを。