第八話
表札には何も書かれていなかった。しかし、室内からかすかに音楽が聞こえている。ドアの上に設置されている電気メーターを見ると、速い速度で回っていた。誰かがいる証拠だ。
ドアの隣にある窓を見た。外廊下から部屋の中が見えないようになっている目隠しのガラス窓だ。暗い。廊下に面した部屋には誰もいないようだ。アルミサッシに手をかけて力を入れる。窓には鍵がかかっていなかった。
数センチほど開けて中を覗き込む。廊下の蛍光灯の明かりが室内を照らす。四畳半ほどの洋室に段ボール箱などが雑然と置かれている。
部屋を汚さないよう、靴を脱ぎ捨てて窓から上がり込む。
壁際に簡素な机とミニコンポ。玄関側の壁一面に大きな本棚があり、小さな書籍がたくさん詰め込まれていた。暗くてタイトルは読めない。
この隣はバスルームのようだ。シャワーの音がわずかに聞こえてくる。廊下にでて、音を立てないように慎重にドアを閉める。
廊下の横に奥まったスペースがあり、突き当たりは洗面所だった。左側が灯りの消えたトイレで、右側のガラス戸の向こうから水が流れる音が聞こえてくる。誰かがシャワーを使っているようだ。明るいスリガラスに映った人影は向こうを向いている。なにかシチュエーションに不釣り合いな鼻歌を歌っていた。モーツアルトだ。曲名はよく知らないが、テレビのコマーシャルにも使われる有名なバイオリン交響曲だった。L字型のドアノブにかけてあったタオルをとり、左手に巻き付けて端を右手で握りしめる。
俺は足音を忍ばせてドアに近づき、音が響かないようにゆっくりとノブを回した。そいつは向こうを向いたまま、泡を立てた頭髪からシャワーにあたっていた。
心臓が高鳴る。
汗で手が滑らないように指先に力を入れてタオルの摩擦を確かめる。
泡だらけの樹脂の床を視認する。
手が届く距離にまで接近し、タオルの端を両手で掴んでタイミングを測る。頭髪をかき回している邪魔な両腕は、なかなか下に降りない。
シャンプーを洗い流した湯に顔も服も濡らされたまま、ぴくりとも動かずに待つ。
一瞬の隙にタオルを無防備な首に掛け、両手をクロスさせて引き絞った。
男は自分が何をされているのかもわからず反射的に振り返ろうとする。バランスを崩してバスタブの底で足を滑らせると、壁に後頭部をしたたかに打ち付けて崩れ落ちると、そのまま動かなくなった。タオルを掻きむしって暴れたり、反撃されることを想定していたがあっけないものだった。
俺は奴の体をつり上げるように、タオルを掴んだ両手に力を込めた。まだ勢いよく湯を吐き出し続けているシャワーヘッドを、低い位置のステーに掛け替えた。床から一メートル程度の高さに固定されたシャワーヘッドに、タオルの端を結んで引っかけた。
意識を失ってすでに数分経っている。このままタオルが外れたりしないかぎり、再び立ち上がることはないだろう。
俺はそのままバスルームを出た。助け出さなくてはならない。廊下に出ると、突き当たりが広い居間になっていて、その手前に小さなキッチンがあった。シンク下の戸棚を開けると、ドイツ製の包丁セットがあった。その中からロープを切断するのに手頃なペティナイフを掴むと、ゆっくりとリビングのドア開いた。