第七話
顔に冷たい風を感じる季節。その日も九里絵と俺は名ばかりの勉強会を済ませた後、繁華街をウィンドウショッピングしながら歩いて過ごしていた。暖房の効いた喫茶店はとても魅力的に映ったが、騒がしい店内は会話に向かない。
くだらない話で盛り上がっていると、いつの間にか商店街のはずれまで来ていた。この辺りまで来ると住宅が増えて店舗はまばらだ。しかし、そんな場所にこそ普段見つけられない面白いものが見つかるものだ。俺はうきうきとした気分で、足どりが重い九里絵の手を引いた。
しばらく歩くとふいによく知っている場所に出た。いや、俺はここを通ったことはない。だが、商店や企業の建物の雰囲気。街灯の形。どれを見ても既視感を覚えるのだ。
「ここ知ってる?」
俺の言葉に九里絵の表情が、呼吸が、歩みが一瞬停止する。
「知らない」
九里絵が初めて俺に嘘をつく。シェアリングは二人の間に嘘をつく必要も、可能性も許さなかった。嘘という概念さえ存在しなかったのだ。現在もその関係は変わらない。彼女の嘘を僕が見抜いたように、彼女にも嘘がばれた事がわかっただろう。
ひょっとしてこの辺りは、秋に起こった拉致事件の現場に近いのだろうか。そうだとしたら、九里絵には思い出したくもない場所なのかもしれない。
ふと目を向ける街灯、電柱や歩道橋、見上げた道路沿いのビルの側面に設置された看板に見覚えがある。街路樹は葉を落としてしまって様相は変わっているが、同じイチョウ並木だ。
そのまま俺は自然な足どりで角を曲がって路地に入り込んだ。やっぱり俺はここを知っている。しばらく歩き、目の前にそびえ立つ赤煉瓦に模した外壁の新築マンションを見上げて立ち止まった。うつむいた九里絵が俺の上着の袖を強くつかんでいる。彼女と共有していた脳が、街の景観から陰惨な場所の記憶を再生したのかも知れない。
「ここなのか?」
彼女は何も言わない。袖をつかむ指に力を込める。事件があった部屋は、もう片づけられているだろう。ここにはもう何もないハズなのだが、この場所が未だに彼女の心を傷つけるのか。あるいは、九里絵の精神を苦しめる何かが、まだここにあるのだろうか。
「ちょっと中をみてくる」
「何もないよ」
そんなことはわかっていた。何かが見つかると思ったわけじゃない。どうしても見に行かなければならない。そんな気がするのだ。俺の目を覗き込んだ九里絵の瞳が『行かないで』と揺れる。でも声にはならない。
苦しそうな顔の九里絵を振り切って、俺はマンションの入り口に立つ。エレベーターに乗り込むと自然に手が三階のボタンを押していた。その行動に違和感を感じない。エレベーターを降りて外廊下を左に曲がり、三○一と書かれたウォームグレイの金属のドアの前に立った。