第六話
九里絵からの電話で、俺は都内の救急病院へ駆けつけた。教えられた病室の前の廊下には、いかつい顔をした背の高い男が座っている。俺と目が合うとその男は立ちあがって近づいてきた。
「真瀬君か?」
俺は用心深くうなずく。
「彼女は中だ。入っていいよ」
刑事だろうか。目を合わせたまま無言で頭を下げると、俺はドアをノックした。
部屋は個室だった。九里絵の家が裕福なのか、他に何か事情があったのだろうか。窓際に置かれたベッドに、九里絵は向こうを向いたまま横になっていた。淡いピンク色のパジャマを着て、髪は初めて見る三つ編みになっていた。
俺は静かにドアを閉めた。気配に気づいた彼女がゆっくりと振り向く。九里絵の瞳が俺を見た。
今、意識を集中すれば、彼女の目を通して自分がどれほど情けない顔をしているか見えるだろうか。
かける言葉が見つからず、黙ってベッドの端に腰をおろすと、細い腕がいきなり俺の背中に絡みついてきた。こんな事態は想像していなかったが、俺の心は平静だった。九里絵が震えているのが背中に伝わる。恐い思いをしたのだろう。恐怖がまだ彼女の心を支配しているのかもしれない。
しばらくそのままの姿勢で石のように固まっていると、体の震えの周期が長くなった。落ち着いてきたようだ。
当たりさわりのない言葉を投げかける。
「大丈夫か」
背中で彼女がゆっくりとうなずく気配を感じた。しばらくして彼女は体を離し、口を開いた。
「来てくれないかと思った。よかった…」
「九里絵が来いって言ったんだろうが」
「…そうだね」
彼女の声に明るさが戻ったような気がして、俺は振り返った。九里絵は目の周りを真っ赤に腫らせた顔で、わずかに微笑んでいた。
「外にいるのは刑事?」
言葉を見つけられず、俺はどうでもいいことを聞く。
「明日には退院して帰れるんだけど、それまで警護してくれるみたい」
今夜は入院するのか。
「無事でよかった。昨日の夜、ナイフで滅多刺しにされる女の夢を見たんだ」
自然にひそひそ声になる。
「てっきり九里絵が殺されたんだと思って、それから眠れなかった」
それを聞いた彼女の目が急に見開かれた。
「リカが…」
しばらくしてから九里絵がぽつりと言った。
「え?」
ふたたび会話に間が空く。
「犯人に刺されたの」
九里絵の声は淡々としていた。
「まさかそんな」
そう言って絶句した俺の言葉も無表情で淡々と響いたのだろう。俺の心はそれをすでに知っていたかのように平静だった。
九里絵は何かを観測しようとするように、俺の目を覗きこんでいた。そして再び俺にしがみつくと、胸に顔を押し当て、大声で泣いた。彼女の息の熱がシャツの生地を通して俺の胸に伝わる。九里絵の泣き声は外の廊下にまで聞こえたはずだが、病室のドアを開ける者はいなかった。
俺と九里絵との間に起こった不思議な現象は、同じクラスにいながらも接点の無かった二人を急激に近づけた。それがあまりにも速く、あまりにも接近しすぎたため、ごく普通の恋愛感情を飛び越えてしまい、例えば双子の、それも本来ならありえない男女の一卵性双生児のような関係になっていた。お互いが自分の体の延長線上に存在し、もはや他人として認識するのは困難だった。
だから俺は、九里絵が事件に巻き込まれ、二人のリアルな距離を肌で認識したこのときに、初めて彼女を愛おしいと感じた。
俺たちの関係は、以前よりもっと親密になった。あの事件以来、二人の間の特別な能力は薄れてしまい、冬の学期末テストで俺は散々な結果を携えて年の瀬を迎えることになった。九里絵も美大受験を諦めざるをえないかもしれない。それでも俺は構わなかった。受験も将来も、もはやどうでもいい。九里絵が無事でいてくれればそれで良かったのだ。
二人の間に流れる時間は、大河の流れのようにとてもゆっくりとしていた。お互いの気持ちを言葉にして伝える。その行為がもどかしくも新鮮で、まるで初めて習った言語を使うようにたどたどしい会話が交わされた。
楽しかった。使い古された表現だけど本当にこのままの時間が永遠に続けばよいと思った。きっと九里絵もそう思っているだろう。
「そっか。夢で見たのか。きっとわたしの見たままを果陸も見たんだ」
視覚情報のシェアリング。俺は事故で横転したバスの中での出来事を思い出していた。
両手を頭上で縛られた少女が、ナイフでめちゃくちゃに切り裂かれる、そんな夢だった。あの被害者はリカだった。九里絵の目を通して、犯人にナイフで刺されたリカを俺は見たのだ。それは叫びだしたくなるような恐ろしい光景だった。
俺は事件後、しばらく毎晩のようにこの夢を見た。いつも、全身に冷たい汗をかいて目が覚める。そして言いようのない嫌悪感に苛まれる。だが、この光景をすぐ隣で見ていた九里絵の方が、もっと恐ろしかったに違いない。
後日、ニュースで事件の詳細を知った。
衝動的にリカをナイフで切り刻んだ犯人は、九里絵を無視してバスルームに行き、座った姿勢でシャワーホースで首を吊ったらしい。首吊りと言えば、高い場所に吊ったロープで首をくくるのが伝統的だが、ロックスターの自殺で有名になった、座った姿勢の方が苦しまずに死ねるのだそうだ。
事件は、二人が拉致された翌朝発覚した。バスルームの排水溝が濡れた衣類で詰まり、出しっ放しであふれたシャワーの湯が玄関からマンションの廊下に漏れだした。朝方、廊下を通りかかった同じ階の住人から通報を受けた管理人が、呼びかけても返事のないドアを解錠して惨状を発見した。
マンションの部屋にいたのは三人だった。唯一生き残った九里絵は、殺されたリカと同様、両手を頭上で拘束されてリビングの壁際に座り込んだまま発見された。現場の状況を見る限り、二人を拘束した拉致犯が衝動的にリカを刺し殺し、自殺したというのが真相だろう。唯一の生存者であり、拘束されて動けなかった九里絵も、これを裏付ける証言をしたようだ。
リカの死は広江を狂わせた。事件の翌日から彼は学校に来なくなり、携帯電話にも出ず、メールの返事も返って来なかった。
俺にとっても、決して短くはない付き合いのリカの死は、とてつもなく辛い。しかし、恋人を失った広江の心情を、理解することなどできないだろう。まして、九里絵は生きて帰ってきた。恋人を殺された男と、殺されなかった男。この格差が俺と広江との間に深い溝を作った。広江が九里絵の死を望んだわけじゃない。それでもこの圧倒的な結果の違いを受け入れるのは難しいだろう。
それから、俺は二度と広江に会っていない。