第五話
そのまま朝まで眠る事ができなかった俺は、学校をサボって九里絵を探すつもりでいた。どうせ授業に集中などできるはずもないし、わざわざ勉強する必要もなかった。いい成績さえとっていれば、親も教師も文句を言わないものなのだ。
始発列車が動き出すまでの間、意識を集中させて、九里絵の思考の痕跡を見つけようと試みていた。その時、ベッドの上に投げ出してあった携帯電話が鳴った。
「果陸?」
九里絵はもしもしと言わない。
「どうしたんだ?急に行方不明になったんで心配したぜ」
そう言いながら、俺は安堵の感情を隠そうと試みる。
「ごめん。おかしな奴に監禁されてたの…」
そこまで言ってから九里絵は黙ってしまった。最初のごめんが気になった。被害者なのにどうして謝るのだろう。心配させたからといって謝るような女じゃない。
「何かされたのか?」
言った直後に、口にすべき言葉ではなかったと反省した。言いたくない事があったのかも知れない。しばらく九里絵は黙ったままだった。
「今、病院で検査を受けてるところ。そのあと警察で事情聴取」
彼女の声からは感情が読み取れなかった。
事件の概要は、九里絵が話してくれた。彼氏の親友であり、仲の良い男友達でもあった俺に、やっとできた彼女…リカにとって九里絵は、カップルで遊べる貴重な面子であり、好奇心をくすぐる興味の対象でもある。社交的で明るいリカは、友達付き合いなど時間の無駄だと言ってはばからない九里絵をあちこち引きずりまわして楽しんでいる。はじめは迷惑がっていた九里絵も、リカの裏表の無いの好意と、強引な誘いに渋面をつくりながらも付き合って遊ぶようになっていた。
事件のあった夜も、二人は予備校の同じクラスから帰宅する途中だった。ペットボトルを片手にしゃべりながら歩く二人に、路肩に停まっていた車から若い男が道を尋ねてきた。人のいいリカはまっすぐ車に近づいていく。人一倍慎重な九里絵も、男の地味な服装や、飾り気の無い車を見て警戒心を解くと、リカの後ろに立った。
「今朝、北海道から来たばかりなんだけどさぁ」
真面目で優しそうな顔で男は笑う。
「君たち地元の子?友達の家がこの辺りなんだけど、迷っちゃってさぁ」
「カーナビついてないんですかー?」
リカがクスクスと笑いながら訊ねる。
彼氏とは異なる年上の男性と、安全な立場で会話するシチュエーションに、リカは軽い興奮を覚えていた。無意識のうちに会話を長引かせる話し方になる。
「ああいう機械は好きじゃないんだよねぇ」
「えー!お兄さんお金ないんじゃないのー?」
「あるよー。飯おごってやろうか」
「えー?!」
その気もないのに、リカが嬉しそうな視線を向ける。
「五丁目ってどっちだかわかるかなぁ」
笑いながら、男は地図を差し出す。
リカが助手席側の窓に頭を突っ込み地図に手を伸ばしたとき、男はその腕を掴んで強引に引っ張った。小さい悲鳴があがる。
後ろで黙って見ていた九里絵は、あわててリカのもう片方の腕を掴んだ。男はリカの腕に小さな器具を押しあてる。全身を針で刺されるような痛みを感じると同時に、急速に体から力が抜ける。二人は糸の切れたマリオネットのように車の横に座り込んでしまった。何が起こったのかわからない。意識ははっきりしているし、目も見える。だが体をコントロールすることができない。放り出されたまま録画を続けるビデオカメラのように、あらぬ方向に固定された九里絵の視界には暗くなった空とビルと看板だけが写っていた。街灯がまぶしくて星は見えない。リカが近くにいるはずだが、どんな状態なのかわからない。声を出そうとしたが上手くいかない。まるで話せることを忘れてしまったような感じだ。
視界の端を何かが横切った。それが再び視界に入る。運転席にいた男のようだ。男は九里絵を抱き抱えると車のシートに寝かせる。すぐ横にリカが寝かされているようだ。彼女の服と髪が視界に入る。表情は見えない。相変わらず声も出なかった。
窓からわずかに見える景色がゆっくりと動き出した。やはり星は見えない。
夕飯時を回って、わずかに薄暗くなった時刻。彼女達にとっては不幸であり、犯人にとっては幸いなことに誘拐劇の一部始終を見ていた者はいなかった。