第95話 逃避行
閉じ籠ってから何日か経った。お母さんはたぶん疲れたらしく、もう何も言わなくなった。僕が「ごめんなさい。」としか言わなかったからだと思う。お母さんは毎日朝ご飯を作ってくれていた。僕はお母さんが家を出てから部屋を出て、朝ご飯を食べた。机の上には新聞と一緒に『卑怯者』と書かれた紙が置かれている。毎日入ってるのだろう。それを見て悲しむお母さんを思うと涙が出る。でも僕にはどうすることもできなかった。ただ、その日は机に新聞と紙の他に別の手紙が置いてあった。それは遠くで暮らすおばあちゃんからの手紙だった。
「おばあちゃん。元気かな…。」
手紙を読むと最後の文は『モトムちゃん、いつでも遊びに来てね。』と書かれていた。僕はそれを読みながら思った。
おばあちゃんなら僕を…。おばあちゃんの家に行けば…。おばあちゃんなら…。
僕はおばあちゃんに電話をかけた。三回くらいなったあとおばあちゃんは出た。
「おばあちゃん。遊びにいきたいんだけど…。」
「もちろん。いつでも遊びにおいで。空港まで迎えに行ってあげるから。」
「僕一人でもいい…?」
「もちろんいいよ。」
「何日いてもいい?」
「いいよ。何かあったの?」
「明日でもいい?」
「いいよ。電話くれたら空港までいくよ。」
「ありがとう。おばあちゃん。」
僕は部屋に戻り、ありったけの着替えと手品や推理小説などの本を用意した。お父さんが海外に行くときに使ったトランクを引っ張り出してそれを全部しまった。いつも使うリュックにはボロボロになった勉強道具を入れた。そしてお母さんに預けていたお年玉が入ったカバンからお金を出した。片道分のお金を調べてその金額を財布に入れて、カバンに『○○円出しました。』と書いた紙を入れた。インターホンが鳴っていた気がした。電話が鳴っていた気もした。でも集中しすぎて何も聞こえなかった。
次の日の朝、お母さんが起きるよりも早く部屋から出て慎重にトランクを外に運ぶ。リュックを背負い、昨日のうちに書いた『おばあちゃんの家に行きます。ごめんなさい。』というお母さんへの手紙を机にそっと置いた。そして僕は家を出た。朝4時30分。今なら誰にも会わずに駅に行けるはず。僕はトランクを静かに動かしながら駅を目指した。車とすれ違う度に心臓が早くなった。信号待ちの時間はもっと…。とにかく早く、とにかく無事に駅に着きたかった。空港に着きたかった。
誰にも会わない…。絶対に会わない…。会うはずがない…。
呪文のようにそんな言葉を唱え続けて気づくと駅に着いていた。僕は空港への切符を買うと足早に駅に入った。歩きながらキョロキョロと見回す。当たり前だけど誰もいない。階段を上って駅のホームに立った。静かなホームにスズメみたいな鳥の鳴き声だけが響く。
あと少し。どうか誰にも会いませんように…。
僕は祈りながら電車を待った。心臓がまた早くなる。ここで誰かに見つかったらという不安が頭をよぎった。その度に僕は「大丈夫。大丈夫。」と自分に言い聞かせた。やがて電車がホームに入ってきた。空港へ向かう電車なだけあってけっこう人が乗っている。僕は電車に乗り込んで、また見回す。誰も知り合いはいない。電車は発車した。
あと少し。空港に着けば…。飛行機にさえ乗れれば…。
電車が空港に着いた。僕は「大丈夫。」と繰り返しながら急いだ。航空券を買って、手荷物を預けて…。そして急いで搭乗口を目指した。出発までまだ一時間以上ある。僕はイスに座ってようやく息を大きく吐いた。
ここまで来れば大丈夫…。クラスの誰かがここから飛び立つ可能性はほとんどないはず…。誰かにもし会ったとしても、向こうはきっと家族連れのはず…。大丈夫…。
僕は昔何かでもらったテレホンカードでおばあちゃんに電話し、飛行機の到着時間を伝えた。おばあちゃんの声が安心をくれた。電話を終えると僕は時計を見ながらただひたすら時間が過ぎるのを待った。時計の針がこんなにゆっくり動いて見えたのはこのときが初めてだった。
あと30分…。あと20分…。
やがてそのときが来た。僕は飛行機に乗り込んで自分の座席についた。
やった…。逃げ切った…。逃げ切れたんだ…。
僕は心の中で叫んだ。僕を乗せた飛行機は一時間かけて僕をおばあちゃんの待つ空港へ運んでいく。久しぶりのはずの飛行機だった。でめ僕は解放感と疲労感で死んだように眠り、起きたときには飛行機は着陸しようとしていた。
「モトムちゃん。こっちだよ。」
到着ロビーを出るとおばあちゃんが手を振っていた。僕はほっとしておばあちゃんに駆け寄った。トランクを車に積んで空港をあとにした。
「すごい緑だよね…。」
「そうだね。農業が盛んだからね。」
「同じ国とは思えないよ。」
「そうだね。でも不便なこともあるから。」
そんな話をしていると、おばあちゃんが僕が言わなきゃいけないことを聞いてくれた。
「いつまでいる?」
僕は下を向いて答えた。
「いつまでいていい?」
おばあちゃんは笑った。
「いつまででもいていいよ。」
それを聞いて僕の目から涙がこぼれた。
「ずっとこっちにいたい。もう帰りたくない…。もう帰れない…。」
おばあちゃんは運転しながら優しい声で僕に言った。
「お母さんには言ってあげるから。好きなだけいなさい。いつまででもいなさい。」
僕は涙をぬぐいながらうなずいた。
それから僕はおばあちゃんの家で暮らし始めた。朝の仕事を教わり、手伝えることはできるだけ手伝った。何かに怯える生活からは抜け出せた。でも心の中でもう一人の自分に聞かれる。
「いつまでここにいるつもり?ここにいても変わらない。友達もできないし、何も得られない。」
そんな不安にかられながらも、僕は毎日を過ごしていた。
そんなある日の夏祭りで、僕は出会った。袖をつかんで僕を引き留めてノートを見せた女の子、優しそうな明るい声でその場の空気も変えられる女の子、見たままの熱血スポーツ少女、頭が良くて負けず嫌いな男の子。そしてオーラを感じさせるような強く優しい男の子。僕はみんなに連れられて謎の館を冒険した。みんなが僕を必要としてくれた。僕もみんなのために頑張れた。仲間に、友達に、ライバルにしてくれた。こんな僕を好きだと言ってくれた。
だからこそ話せた。だからこそみんなに聞ける。僕が知りたかった答え。
『僕は今、これからどうすればいいのかな?』




