大魔術
ムーラがおどみを解き放ち、その力によって周囲を取り囲んだあと。
滅紫色に縁どられた真っ黒な力の波が失せたあとには――何も残らなかった。
何もない。そう、そこには何もなかった。
「スイメイ、殿……?」
「そんな……」
水明の力によって巻き添えから辛くも逃れたフェルメニアとレフィールは、驚愕に目を見開く。
水明は、確かにこの場で巻き込まれたはずだ。ならばそこに彼がいるはずだが、影も形もない。
遅れてどこかに避難したのか。しかしそれならばそもそもの話、フェルメニアやレフィールと共に離脱をするはずである。
つまりは――
「……ふん。所詮は人間ということか。この程度の輩のことを危惧するなど、奴もその程度ということだな」
吐き捨てるようなムーラの言葉に、フェルメニアが声を震わせる。
「一体何を言って……」
「何を、だと? あの黒衣の男のことだ。貴様らを庇って消し飛んだ『あの』な」
ムーラがそう言うと、レフィールが反論を口にする。
「スイメイ君が消し飛ぶなど……そんなことはない!」
「そうです! そんなはずはない! あのスイメイ殿がこんなにもあっけなく倒されるなど……」
「ほう? 敢えて否定するか。だが、あれを見てもまだそんなことが言えるか?」
ムーラはそう言うと、とあるものを指し示す。
それは、残骸に引っ掛かった黒い布の一部だ。
水明が着ていた礼服の切れ端に他ならない。
「なっ……!?」
「そんなバカな……」
戸惑いの声を上げたあと、絶句する二人。
だが、信じられず他の痕跡を探すように辺りに視線を向けるが、それらしいものはどこにもない。
そんな中、どこからともなく、地面を駆ける足音と呼びかけの声が聞こえてくる。
「フェルメニアさん! レフィールさん!」
聞こえてきたのは、初美の声だ。
二人が視線を向けると、初美がハイデマリーと共に向かってきているのが見えた。
彼女たちの後ろには、エリオットたちについて行ったリリアナの姿もある。
「ほう? 援軍か。だが、一足遅かったな」
ムーラがそれを一瞥する中、フェルメニアたちに合流した初美が二人に訊ねる。
「いまの大きな力は?」
「あ、あの魔族の将軍の攻撃です」
「あれが魔族の将軍? あんな大きな力を扱えるなんて……」
やがて二人の様子がおかしいことに気付いた初美が「どうしたの?」と声をかける。
すると、それにはフェルメニアが応えた。
「スイメイ殿が……」
「水明がどうしたの? そう言えば、水明はどこに……」
「……あれを」
フェルメニアは先ほど見たスーツの切れ端を指し示す。
初美はそれを見て、何事か察したのか。
「うそ……」
その面貌に、驚愕を張り付ける。
彼女には、思いも寄らぬことだっただろう。
それはリリアナも同じであり、露出した片目を大きく見開いている。
「うそ、です……」
初美もリリアナも否定の言葉を口にするものの、周囲を見回しても、呼びかけても、彼の姿はどこにもない。
そんな中、フェルメニアたちとは違う反応を見せている者が一人いた。
それは、黙って周囲を窺っていたハイデマリーだ。
「マリーちゃん!」
「…………」
初美の訊ねるような呼びかけに、しかしハイデマリーは答えない。
しばしの思案のあと、やがて口を開いた。
「……ボクも信じがたいね。いくら強力な力を受けたからって、あの水明君がこんなに呆気なく倒されるなんて思えない」
「だが、事実だ。それに、もし生きていたとして、気配まで消して隠れる必要があるか?」
「そうだね。確かにそうだ」
それは事実だ。水明が気配を消してまで隠れる必要はないし、むしろ健在をアピールしてこそ、動揺を与える余地ができる。ムーラの言う通りであるし、そもそも周辺には水明が貯蔵していた莫大な魔力が広い範囲を埋め尽くしているのだ。
魔術の弟子であるハイデマリーにも、否定する要素が思い浮かばない。
水明は確かに消し飛んだ。それは、違えようのない事実だった。
「生物の死とは、存外あっけないものだ。それは誰と選ばん。どんな者にも等しく訪れる機会がある」
「そうだね。確かにそうだ」
「わかっているではないか。つまりは、あの男もそうだったということだ」
「そうか。君はそう思うのかもしれない。でもね――」
ハイデマリーはそう言葉を区切って、いつかのことを思い出す。
以前、とある戦いに出る彼に、「キミ、もし死んだらどうするの?」と訊ねたことがある。そのときははぐらかされたが。あまりに絶望的な戦いなのにもかかわらず、水明は死をそれほど恐れていないというような妙な楽観を持ち合わせていた。
そんな魔術師が、本当に簡単に倒されてしまうのか。
そもそも、水明は現代日本から荷物を一式持ってきている。備えに不備はないはずだ。たとえそれが最低限であったとしても、要塞一つ以上の防御力を備えるはず。最悪の状況を考えないはずはないし、最悪な状況になったときのことも考えているはずだ。
魔術師であるなら、当たり前だが自分が死んだときのことも考えないはずがないのだ。
「ボクには、これで終わりとは思えない」
「そうか、ならばいつまでも幻想に縋っているがいい。そして絶望のまま死んでゆけ」
ムーラはハイデマリーに吐き捨てるように言葉を返すと、動く予兆を見せる。この衝撃に打ち据えられた機会を見逃さず、全員倒してしまおうというのだろう。
だが、レフィールたちの動きが目に見えて鈍くなる。信頼していた者の喪失が、彼女たちに悪影響を与えないはずがなかった。
フェルメニアは視線を辺りにさまよわせ、レフィールはその場で歯噛みしている。
ムーラはそれを睥睨して、知ったような口を利いた。
「ふん。あの男は貴様らの要だったようだな」
「あんた……」
初美は怒りで身を震わせるものの、怒気よりも喪失感が勝っているのか、力を感じられない。
リリアナは、いまにも泣き出しそうな顔でムーラを睨みつけている。
「……揃いも揃ってそれか。つまらんの後始末になりそうだ」
しかして事態が変わったのは、ムーラがそう吐き捨てたそのときだった。
『――あー、あー、テス、テス、ただいまマイクのテスト中。これマイクじゃなくて旧式のカセットレコーダーなんだけど。あー、どーぞどーぞ』
突然、どこからともなくそんな間の抜けた音声が聞こえてくる。
だがその声は紛れもなく、八鍵水明のものだった。
「え?」
「う?」
「は?」
フェルメニア、レフィール、初美の三人が、間の抜けた声を上げる。
それもそのはず、唐突に水明の声がしたのだ。もちろん録音されたものだということはわかるだろうが、それでもこのタイミングで出てくるというのには疑問しかない。
どうしてこんな声が出てくるのか。
どこからこんな声が聞こえてくるのか。
声の聞こえた方に視線をさまよわせると、スーツの切れ端が引っ掛かった下に、小型のカセットレコーダーがあることに気付いた。
そんな中も、カセットレコーダーは水明の声を吐き出し続ける。
『えー、このボロくて古くさいレコーダーが再生されているということは、俺こと八鍵水明はまことに残念無念なことにお亡くなりになっていることでしょう。だっせーなぁ俺。お前マジバカじゃねぇのって言ってやってください。あ、死体とか残ってる? もしかして粉々の散り散りとか? うっわーそれは最悪だわ』
水明の一人語りにフェルメニアとレフィールが困惑の声を上げる。
「な、なんでしょうか、これは……」
「いや、なんだと言われても」
わからない。当然だ。突然、声だけが出てきても、何なのか予測すら立てられない。
ふとハイデマリーが、レコーダーに魔力が込められていることに気付く。
それで、彼女は何もかもを察した。
あれが、水明の生命線を繋ぐ命綱であると。
「みんな! あれを守るんだ! あと下手に触っちゃダメだよ!」
「え?」
「それは、どう、いう……」
「ボクの世界の魔術師の中にはね、とっても死ににくい連中がいるんだ。いわゆるリッチって呼ばれる者たちがそうでさ、彼らは死から解き放たれた者たちなんて言われてる」
「リッチ?」
「そう言えばそのようなことを以前スイメイ殿が言っていたような……」
「死ににくい。つまり死ぬような要因を回避する術のことだ。これは、ボクの知る限りではあるけど大別して四つある」
ハイデマリーはそんな前置きを口にしたあと、次々にその手法を列挙していく。
「――命のストック。いわゆる、残機制にするっていうのがこれだ。生命に代替できる分のエネルギーをあらかじめ貯蔵しておくことによって命数を決定し、死を回避する術」
「――致命までの数値化。死を、臓器や肉体的損傷によるものではなく、魔力と魂の量数によって決定することを可能とする処置。いわゆるHP制だ」
「――SMOS。Swampman Operatinng Systemu。同じ記憶を持った別の肉体を新しく構成することによって、疑似的な復活を行う術」
「そして最も難易度が高いのが『Revive Ritual Behavior』だ。これは正当な術式によって、蘇りを果たす大儀式……」
しかしてその説明を聞いたムーラが声を上げた。
「蘇りだと……? そんなバカなことがあるはずが……」
「否定できる?」
「するとも。一度失われた命は、どうあっても蘇ることはない。たとえそれが神の力を使ってもだ」
「そうだね。だけど、その絶対に蘇らないという点の境界っていうのが、一体どこまでかってことだ。心臓が止まれば人は死ぬ? でも心臓マッサージをすれば蘇生するでしょ? 定義が変われば見方も変わる。君たちの死亡の定義と、ボクたちの死亡の定義は同様のものじゃない」
「条件は等価ではないと、そう言いたいのか?」
「そうだよ。条件だ。人が生きるためにも条件があるように、人が死ぬためにも条件がある。それが人から逸脱した存在である魔術師なら……条件はまるで違う」
やがて、カセットレコーダーの語りが、その存在の核心部分に入っていく。
『……どうでもいい与太はだいぶ挟みましたが、ではこれより、八鍵水明復活の大儀式を執り行いまーす。え? 大儀式とか大仰すぎるって? うっせーわい。行き場を失った精神殻を取り込んで安定させたうえで、記録した膨大な霊基体を読み込んでってなると、どうしてもそのくらいの規模になるんだよ』
カセットレコーダーはピー、ガーというノイズ音を吐き出し、やがて水明の声で呪文が次々と流れ出す。
さすがのムーラもそれで危機感を持ったのか動き出す。
「チィッ! ふざけた真似を!」
ムーラのおどみによる攻撃がカセットレコーダーに届くが、しかし本体には何らかの防護処理が施されているのか、まったくの無傷だった。
『……えーっと、ちなみになんですけど、いまこれを攻撃しても無意味ですよ。俺が与太を挟んでるときだったら微粒子レベルでワンチャンあったかもしれませんが、すでに防備は呪文詠唱のおかげで完全に整っちゃいましたー。俺がレコーダーの対策してないわけないだろ? それ見ろバーカバーカ! 俺を殺してウキウキウハウハしてた誰かさんは、あれ? なんだこれ? とか思って間抜け面晒してたんだろ? 愚図! ドジ! 間抜け! オタンコナスのアンポンタン! 死んだあとに突然レコーダーがぽろっと出てきて、勝手に再生されるわけないだろうが脳みそ煮え溶けて頭腐ってるんじゃねぇのか? わはははははははははははっ! バーカバーカ!』
……声だけの水明は小学生並みの罵詈雑言を並べ立てたうえ、仮想した対象を嘲笑。
一方でその仮想した対象に当てはまる人物になってしまった者と言えば、顔を真っ赤にして怒りに震え始める。
当然そんな中も、この妙な会話劇は続くわけで、
「このっ! バカにしおって!」
『だってバカだもーん! だってお前俺に勝ってドヤ顔してたんだろ? そうだよなぁ。そうじゃなきゃ怒らないよなぁ! あははははははははは! ひー、腹痛ぇー!』
「殺す殺す殺す殺す!」
『もう無理でーす! そういうのは俺が復活してからやり直して下さーい』
「いい加減その口を止めろ!」
『いまどんな気持ち? ねえどんな気持ち? ははは! 悔しいのう! 悔しいのう! うぷぷぷぷ!』
「うぁあああああああああああ!! 貴様ぁああああああああああ!!」
……事前に収録したものであるはずなのに、こうしてうまく会話になっているのは、一連の会話を想定し先に吹き込んだ水明の先見の明を称えるべきか、どうしょうもない性格の悪さをこき下ろすべきか。
「――よーく覚えておくことだな。魔術師は一回二回殺されたくらいじゃ死なねぇんだよ」
最後に、レコーダーからそんな言葉が響いたのだった。
……直後、レコーダーが置かれ場所を中心点にして、巨大な魔法陣が展開される。
円陣形成のために地面を走る輝きは緑光。暖みを帯びた光が、まるで蛍火のように舞い上がったあと、エネルギーが流路を伝って、中心へと集中していく。
これほどの規模の魔術がここまで稼働しては、もう誰にも止めることはできない。同等の大魔術を使って妨害する以外は、低位の魔術が高位の魔術に力負けしてその効力を失う『位格差消滅』によって、消し飛んでしまうからだ。
……やがて光が集ったあと。
八鍵水明の肉体が再構成され、やがて先ほどと同じように、黒のスーツをまとった水明が大魔法陣の中心に降り立った。
翻る黒スーツの裾。
こつんと地面を叩く革靴の音。
蘇りの影響か。水明は猛烈な頭痛と吐き気に頭を抱えた。
「うげぇ……つーか一体どうなった? ええっとあのデカい威力の力を直接食らったあとだったから……おっ? そうかレコーダーだな? いや準備しといてよかったぜ……」
その場にいた仲間たちが、水明のもとへと駆け寄ってくる。
「スイメイ殿!」
「スイメイ君!」
「まったく、心配させるな、です」
「ほんと……心臓に悪いのよまったく」
「いや、なんか悪い。まさか戻って早々こんなことになるなんて思わなくてな」
水明が面々に謝罪を口にする中、ハイデマリーが呆れたように言う。
「まったくもう。そういうの用意してるなら先に言っておきなよ」
「悪かったって。っていうか状況はどうだ?」
「あれ」
「あれ?」
水明はハイデマリーが指を差した方向に目を遣る。
見ればムーラは息を荒くさせ、何かに憤っている様子だった。
「貴っ様ぁああああああああ……」
「あっれー? なんかアイツすっげぇ怒ってね?」
もちろん水明はその怒りの原因がわからず、目を白黒させるばかり。
蘇りを果たしたのが彼女のプライドを傷つけたのか。それとも別の何かが逆鱗に触れたのか。
自分のしたことも覚えていない忘れん坊の水明に、ハイデマリーが言う。
「水明君水明君。君、レコーダーに何を言わせたか覚えていないの?」
「…………あっ! いやでもあれ、適当に予想して吹き込んたヤツだぞ?」
「ううん。会話もしっかり噛み合ってばっちりだったけど?」
「いやばっちりって……そんなレコーダーと会話できる単純なアホがどこにいるんだよ? ある意味特殊能力過ぎて天才だぞ?」
「その類の天才さんはあそこにいるけど?」
水明は再びその天才に目を向ける。顔は先ほどとは比べ物にならないほど真っ赤であり、もはや憤死という言葉すらよぎるほど。すでに血管がいくつか破裂しているのではないかという危惧さえ覚える。
「…………あ、ども」
「貴様」
「うん。なんかゴメン。いや、俺もそんなつもりじゃなかったんだよ。お遊びで適当に吹き込んで、ちょっと挑発できればいいかなって思っただけでさ。まさか本気で挑発に乗っちゃうような奇特なヤツがいるとは思わなくて」
「私を、単純と、貴様そう言いたいのか……!?」
「いえ、素直でピュアな心根の持ち主なんだなって褒めてるんですほんとですニホンジンウソツカナイ」
もはやフォローにもならないそんな言葉を口にして、水明は戦闘態勢を取る。
そのまま怒りのまま踏み込んでくるか。そう思った矢先、ムーラは大きく息を吐く。
このまま怒りに任せれば、相手の思うつぼだとでも思ったのだろう。
冷静さを取り戻し、剣を構える。
「一度殺して死なないのなら、死ぬまで何度も殺すだけだ」
「お? それ、すごい主人公っぽい言い回しだな。かっこいいぜ? 俺も一度言ってみたいなぁ」
「…………」
ムーラは答えない。代わりに、どんな生物でも射殺せそうなほど鋭い視線を向けている。
「水明君さあ。君はいちいち茶化さないと気が済まないの?」
「そんなことはないさ。いまのは正直な俺の気持ちだって。それに、俺はどうあっても主人公じゃねえの。そうだろ? 魔法使いは敵役の黒幕か味方の脇役で相場が決まってる。特に何度も復活する奴なんか主人公なんてどんな物語でも特殊な部類だろ?」
水明はそう言いながら笑って、ムーラを迎え撃つ態勢を取る。
与太は挟んだものの、ムーラが油断のできない相手だということには変わりない。そもそもその能力の一端もいまだ掴めていないのだ。
これで、仕切り直し。戦いの佳境は間違いなくここからだった。