ムーラとリシャバーム
そこは、魔王の城の一角だ。
薄暗い部屋。出入り口のない石窟。
そこに、リシャバームが佇んでいる。
彼以外は、他に誰もいない。
足元に敷かれた魔法陣の淡い輝きが、室内を妖しく照らしている。
リシャバームの視線の先にあるのは、とある映像だ。黒い石壁に、まるでスクリーンに投影したかのように、人の軍勢と魔族の軍勢の衝突が映し出されている。
「……始まりましたか」
衝突後は両軍が押し合っていたものの、やがてリシャバームが生み出した魔族の一体が投入され、人間たちを一方的に蹂躙していった。
それはまさにゾウに立ち向かうアリの構図だ。兵士たちの抵抗は、異形の魔族になんの痛手も与えられず、ただひたすらに踏みつぶされていくのみ。
そこに、黎二が飛び込んでくる。
彼は異形の魔族に対し、イシャールクラスタを振るい応戦するものの、劣勢は否めない。
サクラメントの尋常ならざる力を以てしても、異形の魔族と五分の闘いすらできていないのだ。
それは、サクラメントの力が異形の魔族に及ばないのか。
それとも、黎二がいまだその力を十全に引き出し切れていないのか。
無論リシャバームは後者だと考えているが、果たして。
「ふむ……ある程度の実力を持つ者ならば、力に依らない戦いもできるのでしょうが……」
黎二は異形の魔族の強大な力に翻弄される一方だ。一向に戦いの主導権を握れない。
その点は、やはり黎二がもともと素人だったということが大きいだろう。
いくら才能に富んでいても、経験を覆すためには相応の努力が必要だということだ。
……異形の魔族も、確かに持っている力は強力だ。しかし、リシャバームから言わせれば出来の拙い欠陥品。いや、ゴミにも等しい。確かに彼が作った存在ではあるが、彼の考える『強さ』が、それには一切反映されていないのだ。
それも、そのはず。
「――力だ。わかりやすい力にせよ。お前の趣味ではなかろうがな」
この魔族を作るにあたって、ナクシャトラがリシャバームに「厳守せよ」という言葉と共に付けた注文だ。
人間に、目に見えた純粋な恐怖を与えろ、と。
だが、単純に力で乗り越えられるものでなければいけない、と。
そんな、神が人に課すような試練めいた思惑のあるものにしなければならない、と。
(まあ、そういうことなのでしょうね)
リシャバームはナクシャトラの、ひいてはその後ろにいる邪神の考えを察し、一人納得する。
彼女や邪神が何を考えているのかを、彼は明確に見通していた。
これも布石だ。邪神が今後の女神との一つの世界を賭けた争いを優位に進めるための、回りくどい事前策。
だがそれは、いまだ邪神が人間というものの可能性を甘く見ているという証左でもある。
おそらく今後も、様々なイレギュラーに呻くことになるだろう。
それは女神の方にも言えることではあるのだが。
リシャバームが辟易とした息を吐く中、彼の耳元に小さな魔法陣が発現する。
それは、この世界の特有の魔法陣だ。邪神を信奉する者にのみ扱える、伝声の術だった。
リシャバームが小さな魔法陣に指を当てると、どことなく苛立ちの交じった女の声が聞こえてくる。
「リシャバーム」
「これは……ムーラ殿ですか。戦の最中に伝声とは、何か問題でも?」
「そうではない。貴様に聞きたいことがある」
「なんでしょうか?」
「なぜ今回の戦、このような攻め方をさせるのだ?」
「このような、とは?」
「とぼけるな! この中途半端な攻め方のことを言っているのだ!」
伝声の魔法陣の向こうから、ムーラの怒声が伝わってくる。
「一国を攻め落とすためと言っておきながら、こんな戦いをするなど甚だ矛盾している!」
確かに、彼女の言う通りだろう。
人間の国の一つを攻め落とすために大軍を動かし、それを首都に転移させるという大規模な手段にも出た。にもかかわらず、蓋を開けてみれば包囲すらも行わない漫然とした攻めだ。ともすれば、やっていることがちぐはぐであり、矛盾だらけに感じられる。
本気で攻め落としたければ、防備を整える間もなく、速度を重視し一気に攻勢をかけるのが最善手と言える。ムーラにもそれがわかっているゆえに、怒りをリシャバームにぶつけているのだ。
しかし、彼女から文句が飛び出すのも、リシャバームにとっては想定内のこと。
「それも、ナクシャトラ様のご命令だからです」
「……なに?」
「聞こえませんでしたか? ナクシャトラ様のご命令だからです」
魔法陣から、伝わらないはずの疑念と静かな怒りが届く。
「……貴様、ナクシャトラ様の名を騙って偽りを言っているのではないだろうな?」
「まさか。そもそも私にそんなことをする理由はありません。私からすれば、このやり方は回りくどい上に手ぬるいですからね。私が同じ結果を得たいならば、もっと他の手立てを講じますよ」
「…………」
多少冷静になったのだろう。ムーラは静かになる。だが、疑いは晴れていない。わずかに聞こえてくる押し殺したような息遣いが、それを如実に教えてくれる。
まるで、息をひそめて獲物を窺う肉食獣のようだ。
「それほどまでにお疑いになるのでしたら、ナクシャトラ様に直接お繋げ致しますが?」
「む……」
さすがにそうまで言われれば、ムーラとて信じざるを得ないだろう。
口の中に残った苦さを我慢するように、言葉を口内までに止めている。
だが、攻め方の矛盾に対する疑問は止められなかったらしい。
「それについては承知した。だが、ナクシャトラ様はなぜそのような命令を?」
「あの方は、『女神の力の偏重のため』とおっしゃいました。それに関しては私も概ね同意です」
「女神の力の偏重だと?」
「そうです。女神が力を注ぐ対象が、一人の勇者に偏るようにする。それがここで言う偏重です」
ムーラもそれが意味するところに思い至ったのだろう。
女神の力は現在、四人の勇者に分散している。
それが一人の勇者に偏るということは、だ。
「バカな! それでは勇者の力が増すだけではないか!」
「その通りです」
「ならば何故! 敢えてこちらが不利になるようなことをするなど……やはり貴様がよからぬたくらみをしているのでは――」
ムーラはリシャバームに対する不信をさらに強める。だが、その『偏重』がどんな結果をもたらすのか、ムーラは複数あるうちの一つの答えしか想像ができていないのだ。
「お待ちください」
「この期に及んで待てだと?」
「よく考えてごらんなさい。答えがそれ一つだけしかないというのはただの決めつけですよ」
「それは……貴様がそう言ったからで」
「いいえ。安直な答えに寄ろうとするのは、思考の放棄。つまり怠惰です。別の側面も考えることがなければ、熟慮したとは言えませんよ?」
「私には考えが足りないと、貴様はそう言いたいのか」
「そこまでは申しませんが、さらに考えも巡らすのも重要だということです」
「同じことだ」
業腹だというムーラの態度に対し、リシャバームはヒントを口にする。
「……おそらくですが、我らが神は今回のことで決着をつけるつもりなのでしょう。犠牲はやむを得ない。これはそれを踏まえたうえでのことかと」
「今回? この戦いでか?」
「いいえ。ここで言う今回は、ムーラ殿が関わっている戦ではなく『当代の争い』のことです」
「今回の戦いも、そのときのための布石だとでもいうのか?」
「邪神にとってはこれまでのことなどすべて布石でしょう。私やあなただけではありません。もちろんナクシャトラ様もそうです」
「…………」
「駒のように使われるのは、あなたとしても納得のいかないものかと存じますが」
「……そんなことはない」
考えと言葉が反しているのは、すぐに読み取れた。
リシャバームは、だが、とも思う。
ムーラは他の魔族とはかなり違う、と。
上位者に対するやたらと強い忠誠心を持つが、反面、感情的な部分がかなり強い。
それこそ目的と手段が逆になってしまわないか危惧を抱いてしまうほどに。
無論他にも感情的になる魔族はいるが、それこそ彼女のそれは人間に近いとさえ言える。
となれば、これもまた邪神の仕掛けたたくらみなのだろう。
ではその矛先が誰に向かうのかというのは、いまだリシャバームにも読めないが。
(やはり、彼女もまた救済してあげなければならい者の一人なのでしょうね)
リシャバームはムーラに対し独りよがりな憐みを抱く中、ふと思い立つ。
「ムーラ殿。いま、戦場にいるのですね?」
「ああ。言った通りだ。いまは軍団の指揮、監督に従事している」
「ではちょうどいい。一つ、ムーラ殿にお訊ねしたいことが」
「なんだ?」
「そこに、黒い髪と黒い服を持った人間の少年の姿はありませんか?」
「黒髪の? いや、そのようなものはいないし、見た覚えもない」
「ふむ……こちらの魔法とは違うものを扱うので、見れば忘れないでしょう。ということは、そこに星落としはいないということですか……」
あの男のことならば、一度見れば見忘れるはずもないだろう。それだけこちらの世界の戦力と比較すれば強力であり、よほどの力がない限り暴れ出せば止められない。
そもそも、アレは砲台のようなものだ。あの男がいれば、最初の衝突前に、魔族の軍勢は半分ないし、その四分の一は壊滅していただろう。
たとえ最大の力が発揮できなくても、だ。
(そのためのあの三体なのですが……ふむ。これでは少し戦力が過剰になりすぎますね)
今回の目的の一つは、偏重だ。女神の力を一人の勇者へ注がれるように仕向けるもの。程よい危険。程よい刺激。それらによって意図的に勇者を覚醒させ、その進化を促し、ひいては女神の誤算を誘う。もちろん、人間の数を減らすことで、信仰のパワーバランスを崩すという目的もあるが、それはどうしても二の次だ。
だが、それが過剰すぎれば、その計画も頓挫してしまう。勇者が倒されてしまえば、その分の分け与えた力は失われてしまう。女神による力の移動が介在しなければ、偏重させることはできないのだ。
「で? その人間の小僧がどうしたというのだ?」
「いえ、もしそこにいるのであれば、十分にお気を付けをとご忠告いたしたく思いましてね」
「貴様……まさか私が勇者でもないただの人間に負けるなどと言うのではないだろうな?」
「そう言った可能性も考慮しておいた方がいいかと」
「その小僧が、それほど強いというのか?」
「ええ。ですが、あなたほど力があれば……」
リシャバームはそう言い掛けつつも、考える。ムーラの持つ力は絶大なものだ。単純な力だけなら、魔王ナクシャトラに勝るとも劣らない。ならば、打倒することも難しい話ではないのではないか、と。
「それは、貴様が私の力を見くびっているということか?」
「そうではありません。油断すれば足を掬われるということを念頭に置いていただきたいのですよ。相手はそういうのが得意な男ですので」
「そんなものは単に小細工が巧いだけと相場が決まっている。気にするまでもない」
「そうですか……」
やはりムーラは、魔法陣の向こう側で怒気を募らせているらしい。
大層な自信だが、しかし実際にムーラほど力があるのならば、彼を倒してしまうということも考えられた。もちろん、八鍵水明がこちらの世界で完全に力を振るえるようになればまた話は変わるだろうが。ムーラの持つ奥の手も侮れないものがある。
……リシャバームはムーラとの通信を終えたあと、再び映像に目を向ける。
彼が飛ばした『目』からの映像には、目的の人物は映っていない。
「八鍵水明。お前はいまどこにいる?」
リシャバームは淡々と映し出される映像に向かって、そう言葉を放つ。
リシャバームは八鍵水明のことを格下だと思って舐めてはいない。
むしろ位置づけは最初から脅威の分類だ。
現代でも最高格に位置する魔術師、八鍵風光が作り出した『純粋な魔術師』。その力は、文明に対する明確な滅びを消滅させてしまうほどの力を持つ。終末事象啓示録第二大禍を退けたのは伊達ではない。ある意味人類が自然や真理に対して持ちうる最大の兵器の一つでもあるのだ。
畏れるべきは、それをたったの十五年で実現した八鍵風光の手腕だろう。
――水爆に善良な脳みそを取り付けたら、あんな感じになるんじゃないかな?
それは、あの男のファンを称する魔術師の言葉だ。
あの男が持っている力が強すぎることへの皮肉が混ざった称賛である。
リシャバームは映し出された戦場の映像を見据えながら、八鍵水明の姿を探したのだった。
●
開戦から二日。すでにアステル王都メテールでの籠城戦は始まっていた。
最初のひと当てを行ったあと、遅滞戦闘を行い、住民の避難や防衛設備の設営などを強化。王都を守る高い城壁の後ろに下がり、いまは城壁の上から、城壁に張り付いてくる魔族や飛んでくる魔族を迎撃してその侵入を阻止している。
だが、いかんせん数が多い。
黎二たちは部隊の隊長や指揮官と共に仮設の指揮所に入って、状況を確認し合っていた。
「いまのところ魔族の進攻は散発的ですが、攻めに関してはかなり激しく、予断を許さない状況です」
「だが、これでは最初の壁が破られるのも時間の問題だな……」
指揮官や隊長の言葉を聞いたグラツィエラが、苦々しげに口にする。
その一方で、黎二がティータニアに訊ねた。
「他に、街に残った人たちは?」
「そちらはすでに第二の壁の内側に避難させています。当面の間は心配しなくても大丈夫でしょう」
「メテールの造りが旧来の設計思想で助かったな。でなければ、これで終わりだった」
「歴史ある国も、バカにできないでしょう?」
「改築の遅れにたまたま助けられたというだけだろう? 偶然の幸運を図に当たったというように吹聴するのは」
「あら? 運も実力です」
ティータニアもグラツィエラも、お互い皮肉を言い合う余裕はあるらしい。
……王都メテールは帝都フィラス・フィリア同様、都市内にも城壁を構築している。
そのため、最初の壁を破られても、第二、第三の壁が敵軍をせき止める役割を果たしてくれるのだ。
だが、ティータニアの表情はいささか硬い。やはり、自分の生まれ育った都市が、侵攻を受けているからだろう。街が蹂躙されるのはもう避けられない状況にある。であればその心中は、いかばかりか。
「避難できたのはどれくらいかな?」
「半数はいまだ壁の内側に残っています。仕方ありません。ですが、いまも避難は続けているので、被害は減らせるかと」
「え? この状況で避難って、一体どこから?」
「地下だ。魔法で坑道を掘って複数の避難路を作っている」
「そんなことしてたんだ……」
黎二は素直に感心する。
土を掘ってトンネルを作るのにはかなりの時間がかかるが、この世界には魔法がある。安全な場所まで掘り進めれば、逃げることも可能だということだ。
だが、それはやはり、魔族側の包囲の手が緩いせいということでもあるのだろう。
「あの女魔族に、異形の魔族か……問題は山積みだな」
「そうですね……グラツィエラさんも、あの女魔族のことはやはり?」
「ああして名乗りをあげるほどだ。それに、あの色濃い邪神の力……相当なものだろう」
「レイジ様も危険視されているのですね?」
「ムーラはあのとき『まずひと当て』と言っていた。おそらくはまだ力を隠しているんだと思うよ」
「だろうな。やれ頭の痛い話だ……」
「例の魔族はどうかな? 動いてる?」
黎二が各部隊の隊長に訊ねると、すでにそれぞれ確認し合っていたのか。
「まだ動いてはいないようです。各方面の部隊も、それらしい姿は見ていないとのこと」
「……あれが動き出したらことだ。城壁など簡単に破られるぞ」
「そうですね。いまはすぐに対応できるよう、注視しておくということしかできないでしょう……」
みなが異形の魔族を強く警戒する中、瑞樹が口を開く。
「なんていうか、すごく気持ち悪かった。あんなの魔族って言われても信じられない感じだよ……」
黎二も、瑞樹が語った印象と同意見だ。まるでファンタジーのモンスターの中に、SFのクリーチャーが紛れ込んだかのような違和感があった。
「レイジ、あちらに関しては、お前はどう思う?」
「ものすごい強さだった……正直、殺されないようにするのでやっとだったよ」
「お前もそう思うか……」
グラツィエラがティータニアの方を向く。
「ティータニア殿下。兵士たちの状態はどうだ?」
「あの強さですし、その……レイジ様が圧されている場面を見てしまいましたから、やはり動揺は抑えきれずで……」
「だろうな」
「…………」
黎二は自分の不甲斐なさに歯噛みする。
最初の衝突で多くの魔族を倒して奮戦したものの、異形の魔族に対しては劣勢を余儀なくされた。無論それは兵士たちの目の前であったため、多くの者に不安を与えてしまうことになった。
であれば、どうするか。
その不安を覆すには、やはり力だ。こちらの力で、あの異形の魔族を圧倒し返すしかない。
黎二は決意を口にする。
「あの魔族とは僕が戦うよ」
「れ、黎二くん……?」
「瑞樹。大丈夫、次はもっとうまく戦うから」
「本当に? 本当に大丈夫……なんだよね?」
「うん」
不安そうな瑞樹に、黎二は強く頷いて見せる。もちろんそれは根拠のない肯定であったが、彼女の不安を取り除き、そして自分はあの異形の魔族と戦うには、こうするしかなかった。
グラツィエラが指摘する。
「今回の戦の救いは普通の戦と違って、封鎖網が敷かれていないことだな。物流や人の流入が途切れないだけ、かなり余裕がある」
「魔族たちがそこに気付いていないのか、する必要がないと思っているのか……」
「この力任せの攻めだ。する必要がないと思っているのだろう」
ティータニアとグラツィエラの二人とも、やはり表情には怪訝さが浮かんでいる。
それだけ、彼女たちにはこの戦が懐疑的に映っているのだろう。
「おかしいの?」
「ええ。攻め方が散漫なのです。籠城する相手には戦力を即座に一気にぶつけるべきなのです」
「それをしないってことは、動かせない理由があるとかだけど……」
「それにしては向こうはあの異形の魔族共々余力ある段階で下げた。やはり動かし方がちぐはぐだ」
二人は理由を探って頭を悩ませるが、答えはいつになっても出てこない。
やはり、魔族という別種の相手の考えを探るというのは、それだけ難しいということなのだろう。
ふと黎二は指揮所の外に視線を向ける。
なんとなくだが、胸騒ぎが強くなったような気がした。
「……そろそろ出る。壁が破られるのを少しでも遅らせないと」
「承知し致しました。私も行きましょう」
ティータニアの言葉に、瑞樹やグラツィエラも頷く。
黎二たちは指揮所を出て、再び戦場へと戻っていった。