とある城にて
蝋燭の灯る部屋の中で、一人の女が立っていた。
艶めかしいふくらみのある肢体を騎士装束のような衣服に包み込み、腰には剣を差している。髪は白く、鮮血を思わせる赤い瞳を持ち、肌は褐色。それだけなら、王国や帝国でも珍しくない女騎士や女戦士とも言えるだろうが、それらと決定的に違うのは、頭に小さな角を生やしているところと、その尖った耳だろう。
魔族の女だ。魔族の将軍格の中では、もっとも人型に近い造形を取っていると言っても過言ではないだろう。
――ここに来たのは、やはり間違いだったのかもしれない。
魔王の軍の将の一人である女剣士ムーラは、この場に訪れたことをひどく後悔していた。
こんな呼び出しになどに応じなければ良かった。
そのまま城を発って、戦のことだけに専念すれば良かった。
それができなかった生真面目な自分に呆れ、辟易とした吐息を漏らす。
このため息と憂慮の根源は、とある者に呼び出されたからだ。
ムーラを呼び出した者は、魔王の軍で参謀的な役割を果たす男、リシャバーム。金の髪から巻き角を生やした、痩身の男。どこから現れたのかも不明、考えもさることながら、力量もまったくの不明。同じ邪神の落とし子であるなら、ある程度は把握できるが、不明づくしの身の上だ。
先ごろ、魔王ナクシャトラより人間の国への侵攻を言い渡されたのも記憶に新しい。
頃合いを見計らってやっと侵攻の日取りが決まった折、ムーラはこの胡散極まる者に呼び出されたのだ。
「おや、先にお越しになられていましたか」
部屋の外から、そんなとぼけた声が響いてくる。
扉越しに敵意を向けるが、しかしリシャバームはどこ吹く風といった様子。
遅いお出ましに対する不満げな応対を気にした様子もない。
「ごきげんよう。ムーラ殿」
「……ふん」
「これはこれは、随分と嫌われていますね私も」
「当然だろう。お前の存在をよく思っているのは、あの方くらいのものだ」
「一体何が嫌われる要因なのか、まったく想像もできませんよ」
「よく言う。自分の胸に手を当てて考えてみるのだな」
ムーラはそう吐き捨てると、改めてリシャバームに問いかける。
「それで、私をこんなところに呼び出して今日は一体何用だ?」
「今度の戦は、あなたが指揮を執るのでしたね」
「そんなもの今更確認しなくともわかりきったことだろう? この策をナクシャトラ様に奏上したのは貴様だと来ているぞ」
「気分を害されたのであれば申し訳ありません。いえ、この度あなたに、新しい邪神の落とし子を連れて行っていただきたいと思いまして」
「この前貴様が披露したあれか」
「はい」
「ナクシャトラ様のご許可は?」
「いただいております」
「ならば構わん。それで、その新しい落とし子はどこにいるのだ?」
「すでにここに」
「なに?」
ムーラがリシャバームに聞き返すと、室内に目に見えた変化が現れる。
ふと、薄暗がりが支配していた一角から、暗闇のヴェールが取り払われた。
まるでそこに、あらかじめ暗幕でも仕込んでいたかのようなひどく演出じみた変化だ。
やがて、ムーラの目に明らかになったのは――
「…………」
それは、まったく異形の怪物だった。
造形は、左右非対称。知性を感じさせないほどのどう猛さと獰悪さを兼ね備えた、獣と虫を融合させたかのようなフォルム。
もし人間がこれを見れば、そのまま卒倒してしまうだろう不気味さと、おぞましさがそこにあった。
ムーラがこうしてこれを見るのは二度目だが、何度見ても慣れるものではないのだなと再確認する。邪神に産み落とされた魔族ですら、こうしてひどくおぞましく思うほど。あまりに醜悪なフォルムは、魔族であるムーラにさえ不可逆な破滅を感じさせるものだった。
しかし、内包している力は比べるべくもない。いままで配下として動かしてきた魔族たちが、まるで赤子のように思えるほどの強大な力が感じられた。
そう、目の前のものがあまりに強すぎるほどに。
「それと、此度の戦いに関して、いくつか変更があります」
「変更だと?」
「私の独断ではありませんよ? これはすべてあの方の御意志です」
そう言われれば、否と言うわけにもいかない。
「あなたには直接、人間の国へと出向いていただきます」
「直接だと? それどういう意味だ? 行軍は翼持ちでも一月はかかる――」
「いえ。私の魔術で空間をつなげてしまえばすぐにでも攻め入ることが可能です。それも、中枢である首都に直接です」
「バカな。そんなことなどできるわけがない。大言も大概にすることだ」
「これは、私の力を侮られては困りますね。まあ、すぐにそれは目の当たりにすることになるでしょうが」
「……本当なのか」
ムーラの問いかけに、リシャバームは「ええ」と言って頷く。
だが、その自信に満ちた言いようには、いまだ疑問が残る。
そんなことができるのなら、何故これまで使わなかったのか、と。
……いや、不要になった魔族どもに消耗を課して、減らしやすくしていたのだろう。
それはわかる。わかるのだが、やはり腑に落ちない部分もある。
やり方があまりにも回りくどいのだ。そんな力があるなら、そんなことをせずとも、もっと早く人間の国を攻め落とすことができたはずだ。
敢えてそれをしなかったことに、何かしらの思惑を感じずにはいられない。
「……リシャバーム、貴様の目的はなんだ」
「目的ですか。人間の国の一つを攻め落とすことですよ。それはナクシャトラ様も望むことだ。そうでしょう?」
「そうではない」
「それ以外に何があるというのですか? 私は、人間を滅ぼすために尽力しているつもりですが」
「…………」
確かにそうだ。我らが魔族の大望である『邪神の悲願を叶えるために、人間をこの世から一人残らず滅ぼし尽くす』というものだ。そのために、国という団結を崩しにかかるのは、当然の動きだと言えよう。
間違ってはいない。間違ってはいないのだが、何か別の思惑があるように思えて仕方がない。無論それは、自分たちに不利をもたらすようなものではないと理解しているが、それでもこの男の考えは、終局的な破滅を宿しているようでやけに気味が悪かった。
人間の破滅ではなく、まるですべての破滅を予期させるような、そんな気さえ起きてくる。
「そうやって敵意を向けられては困ります」
「ならばその胡散臭い演技をするのをいますぐやめろ。虫唾が走る」
「では仕方ありませんね。貴女の敵意は我慢しましょう」
ムーラはリシャバームの玩弄するような物言いに対し、さらに敵意を強める。
ほぼ殺意に等しくなったそれに、しかしリシャバームはどこ吹く風か。微笑ましいものでも見ているかのように笑みを穏やかに浮かべている。
「よくもそこまで余裕でいられる。あの魔族をけしかければよいとでも考えているのか?」
「いいえ。いまの貴女では、私を脅かすにはいささか足りないと思いまして」
「私に貴様が殺せないとでも?」
「ええ。私の場合ただ殺すのではなく、殺し切る必要がありますから」
リシャバームはそう言うと、何が面白かったのか不気味な忍び笑いを漏らす。
「殺し切る、だと?」
「ええ。その通り」
そして、やけに勿体付けた様子で、こう騙り始める。
「――魔術師は一度や二度殺された程度では、死ぬようなものではない、ということですよ」
その言葉の意味は、一体なんなのか。物言いではない。
「ではなにか? 貴様は死なぬとでもいうのか?」
「いえいえ、決して死なないというわけではありません。ですが、殺しにくいものであるということは間違いないでしょうね」
「…………」
「私の存在を許せぬと言うのなら、いまの言葉をよく覚えておくとよいでしょう」
……そう、この男の不気味さの根源はこれにある。得体の知れない万能感。こちらが及ばぬ独自の常識。共通しない共通言語。あまりに不鮮明で、底が見えない。大海に手を突っ込んで、浅い部分をまさぐって何があるのか調べているような、そんな無為や途方もなさを感じさせる。
ムーラはリシャバームから視線を魔族へと移す。
「……来い」
そう一言告げると、リシャバームの作った魔族は従順なのか、付いてくる素振りを見せる。
それを見たリシャバームが、笑顔を作った。
にこやかで、やけに胡散臭い笑み。裏に一つも二つも隠していると公言し、それを見た相手の反応を面白がっているような、そんな不遜さがそこにはあった。
「行ってらっしゃいませ。戦果を期待します」
「……貴様に言われずとも」
やがてムーラが室内を辞したあと、リシャバームの呟きが室内に響く。
「……新たな、迎えるためには、まだまだ枠を開けないといけません。新たな創造のため、古きに滅びを。生まれるための苦しみを。たとえそれが、すべての滅びに繋がるのだとしてもね」
リシャバームの口の端から漏れ出た忍び笑いが、部屋にわだかまった闇をさらに色濃くさせていった。