とある寝ぼすけの一幕
「……うーん」
起き抜けの遮那黎二を脅かしたのは、寝不足から来る気怠さだった。
借り物のベッドの上で、目覚まし代わりというように、靄を振り払うかのように頭を振る。だが、霞がかってぼやけた思考は一向にクリアにならず、ただただ鈍重さをもたらすばかりという有様だ。
まどろみから抜けきっていないような、曖昧な境。
いまだ夢の中にいるかのような、自分の身体が自分のものでない感覚。
さながら空へ向かって落ちている最中のような、あべこべな天地。
――これを晴らすには、もう一度眠りに落ちるべきか。
布団から出たくないと思うなど、いつぶりだろう。
こうしていつまでもぬくもりに包まっていたいという念に駆られて仕方がない。
だが、こんな風に怠惰から逃れられないのはなにゆえか。睡眠時間が減るほど夜更かしなどはしていない。にもかかわらず、このひどい眠気だ。
こちらの世界では、向こうの世界のようにテレビやゲーム、勉強、電話など夜更かしをしたくなるような理由がないため、基本的に早く床につく傾向にある。
むしろ早朝は素振りや魔法の訓練に充てていたため、早寝早起きという現代人が忘れがちな生活リズムで動いているほどだ。
ならば、この寝不足をもたらす原因はなんなのか。
ただ単に調子が良くないだけなのか。
それとも気になっていることから来るストレスが関係しているのか。
だが調子を崩すほどの疲労もないし、気にしているようなこともない。
直近での最も大きな問題は、水明たちの帰還が叶ったかどうかが挙げられる。
しかし、それに関してはそれほど心配していない。
帰還の魔法陣はあの慎重な水明がきちんと体裁を整えたものだし、まず失敗するヴィジョンがまったく思い浮かばないのだ。
魔術が失敗してどこか別の場所へ飛ばされる、もしくはあの場で消滅する。
それらは確かに考えられることだが、しかしその想像に危機感が付随しない。
むしろ水明が失敗するときというのは、彼のうっかりが発動して、しょうもないエピソードが増える程度と相場が決まっている。彼が笑われる話が増えるだけで、ここぞというとき大事なときは、まるで奇跡か魔法が働いたように綺麗に着地するのがいつものことだ。
水明自身魔術師なのだから、そんな不思議がまかり通るのは当然と言えば当然なのだが。
「……そろそろ起きよう」
窓から差す陽の光は、かなり高い位置から入り込んでいた。
塵や埃に反射し、それらをキラキラと輝かせている。
ふと見た机の上は、ひどく雑然としていた。何に使うのかよくわからない器具や、メモに意味不明な走り書きが認められ、魔法陣の書き損じがそこら中に散らばっている。
いま黎二がいるのは、ネルフェリア帝国にある八鍵邸だ。
水明たちが現代世界へと一時帰還してから、すでに数日経つ。
帰還する際、八鍵邸を逗留場所として借り受けており、その代わりに管理を頼まれているという状況にあった。
部屋は複数あり、広々としている。逗留している者がそれぞれ一部屋使用できるという充実ぶりだ。しかも、アステルや自治州ではなかった風呂まで設置されているという至れり尽くせりぶり。
日本の手狭な物件事情がテレビで散々取り上げられる昨今、費用がどれだけ掛かったのかは気になるところであった。
驚きだったのは、そんな様子を見たグラツィエラが、
――お前たちを監視しなければならないからな。
そんなことを言って、八鍵邸の一室を占領。
帝国に戻ってきたばかりのときは、そのまま城に戻って寝泊りしていたにもかかわらず、何故か手狭な八鍵邸を使い始めた。
どんな考えが働き、彼女をそうさせたのかはわからないが、いつでも気軽に会えるようになったため、情報の伝達がかなり良くなった。
一方でティータニアは、何故か不満げな様子であったが。
重い頭でそんなことを考えながら、廊下を歩く。
歩いているときも、あくびが出て仕方がない。
やはり寝直そうか。そんな油断し切った思考のまま部屋のドアを無造作に開けてしまった。
そう、ここがリビングだと勘違いしたまま。
ここが、ティータニアの部屋だと思い出せないまま。
結果そのツケを払うことになったのは、黎二ではなくこの部屋の主だ。
「……え?」
「は……」
黎二がドアを開けると、部屋の中にはティータニアが立っていた。
薄青い髪を肩口で切り揃え、髪と同色の瞳は磨き抜かれた宝石のように輝き、顔立ちはまだあどけない少女といったもの。いまはちょうど着替えの最中だったのか、いつもまとっているような仕立ての良い服は着ていなかった。
……黎二の目に飛び込んできたのは、しなやかで均整の取れた身体だ。
一言で言い表せば小柄に尽きるだろうが、それでも貧相さとは無縁であり、胸は控えめだが決して小さいわけではなく、尻も小ぶりながら抜群に形がいい。腕や足はほっそりとしており、それでよくあの長剣二つを自在に操れるのかと物理法則というものを今一度確認したくなるほど、ちぐはぐさがある。
黎二がドアを開けたのは、ティータニアが下着まで脱ぎ去ったタイミングだった。彼女は一糸まとわぬ姿であり、重要な部分まですべてさらけ出している。
ティータニアが一気に顔を紅潮させる。耳たぶまで真っ赤だ。
彼女はすぐに、くるりと背を向ける。
「れ、れ、れ、レイジ様! そ、その……!」
彼女の恥じらいを目の当たりにしたせいかおかげか、黎二のぼうっとした頭がみるみる覚醒していく。
「ごっ――ごめん! これはわざとじゃなくてその!」
「は、はい……レイジ様がわざとこのようなことをするとは考えられません。何か事故が起こったと言うことはわかっています」
「う、うん……」
「あ、あの、その、そのままでは……」
「そうだよね! ごめん! すぐ閉めるから!」
黎二はそう言って、ドアを閉める。
部屋の内側に、ティータニアだけでなく自分まで取り残したまま。
「…………あの」
「――はっ!? そうじゃない! そうじゃない!」
「いえ、レイジ様がそういうおつもりなのでしたら私も覚悟を決めます! どうぞ」
「あ……」
ティータニアはベッドに身を預けると、恥じらいながらも迎え入れる体勢を取る。腕で胸を隠し、両膝を合わせて、真っ赤な顔で目線を逸らす姿がひどくいじらしい。
誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、ついふらふらと引き込まれそうになるが。
ではなく。
「ち、違うんだ! そうじゃなくて! いま頭がぼうっとして物をうまく考えられなくてそれでこんなことになって!」
「その、私も初めてですのでどうか優しくお願いします」
「違うんだ違うんだ! ほんとそうじゃないんだぁああああああああああああ!!」
黎二の絶叫が帝都にある八鍵邸を震わせ、直後、ドアが強く閉められる音が響く。
彼が奏でるけたたましい逃走音は当然のように階下へも響くのであった。