四聖八達
本日一話目
木剣の打ち合いに、激しさはない。
それは、軽く示し合わせたような、約束組み手でもしているかのような動きだった。
正面から振り下ろせば、寝かせた木剣で受け止められる。
横薙ぎに払えば、後ろに下がってかわされる。
突きを繰り出せば、受け流される。
当たらない以前に、押し込みが足りない。
水明の目から見ても、戦いぶりがレフィールらしくなかった。
剛剣を繰り出し、相手を圧倒する剣筋のレフィールにしては、どうにも大人しすぎるのだ。普段は剣撃の際に気合を発するにもかかわらず、逆に打ち込むたびに苦慮の声が漏れ出ている有り様。
否、そうさせられているのだ。鏡四郎に。どれだけ武威を剣に込めても、気合を発して圧力をかけようと思っても、鏡四郎が剣を振ると、それに合わせるように動いてしまう。
そうさせられてしまうのだ。
そうでもしないと、鏡四郎の剣を受けられないから。レフィールも、理屈抜きの直感で、それを感じ取っているからだ。
片や両手持ちで、片や片手持ち。レフィールが全力を込めて押し込んでも、鏡四郎に剣が届くことはないし、逆に鏡四郎が押し込みにかかると、レフィールが両手で剣を支えても、押し込まれるという状態である。
当然、ここに男と女の筋力の違いは勘案されるものではない。レフィールの膂力には常に超常の力が加味されるし、鏡四郎も見た目通りの優男ではない。
レフィールの相手が初美であったなら、技の一つ二つも繰り出すことだろう。だが、鏡四郎が技に訴えることはない。ただ、木刀を振るうだけ。受けるだけ。にもかかわらず、この有り様だ。
それが、覚者の域。武術を覚えれば立ち振る舞いが整うように、『至れ』ば、取るに足らない動きにも理外が宿る。
目に見えておかしい。道理が立たない。釣り合わない。そのはずなのに、むしろ天秤は鏡四郎の方に傾いているという始末。
一方で、周囲からは驚きの声が上がっている。「あれほど食い下がっていられるのか」「打ち込んでいるぞ」など、みなレフィールの腕前を称賛するものばかりである。それだけ、鏡四郎の腕前が、とてつもないものと認知されているということでもあるが。
やがて、立ち合いも一段落ついたのか、二人間合いを取り始める。立ち合い前と同じく涼しい顔の鏡四郎に対し、一方のレフィールは気息奄々。汗だくになって、肩で息をしていた。
そのうえまさか、その場で膝を突いてしまった。
「……スイメイくん、どれくらい経った?」
「五分程度ってところだ。わからなかったか?」
「……ああ、時間がごちゃごちゃになるよ」
それだけ、集中力が高まっていたということだろう。周りが見えないというのは致命的だが、彼女ほどの腕前があっても、そうしなければ鏡四郎に食い下がっていられなかったのだ。
「グランドマスター。もう一本、お願いしても」
「いや、少し休め」
「しかし、私はまだ……」
「余力があるって? そんな顔するな。焦ったところで、強くはなれないぜ?」
一旦落ち着けと、レフィールを諭す鏡四郎。一方彼女も、試合で熱してはいるが、上位者の言葉にはきちんと耳を傾ける冷静さも保たれていたようで。
「わかります。ですが、私は一刻も早く強くなりたいのです」
「だから、一回でも多く剣を交えたいと?」
「はい」
「ま、わかるぜ、その気持ちはよ。だがな、強くなるための近道はないし、焦ったところで道を早く進むこともできない」
「…………」
納得していないか。不満そうにはしないものの、彼女の瞳には納得していないというような色が見て取れた。
鏡四郎も、それを察したか、ふと息をこぼす。
そして、
「――じゃあ、誰でも使える最強の剣を見せてやるよ」
鏡四郎は突然そんなことを言うと、上段に構えた。
そう、上段だ。ありふれた、なんの変哲もない構えである。
しかしてそこには、それ以外に何もない。いくら注視しても、鏡四郎が奇怪な技や妙手を忍ばせるようには見えなかった。
「……グランドマスター。まさか、上から下に振り下ろすだけ、と?」
「ご名答。そのまさかだ」
「そんな単純な剣が、最強というのは」
レフィールも腑に落ちないらしい。馬鹿にされているのかとも思っているのか、目には疑いの色が含まれている。
しかし、鏡四郎は至って平然とした様子で。
「その単純な剣を極めるのが、この世で最も難しいんだよ。俺も、まだ至っちゃあいない。これをいまわかって使えるヤツは、世に三人いるかいないかくらいだ。そら――」
掛け声……いや、それが掛け声であったのかも、道場にいた全員は判じ得なかった。熱風が吹きつけて来たような錯覚に肌を焼かれたあと、それが鏡四郎の恐るべき武威だったことに気付き――木刀の切っ先が道場の床に振り落とされていた。
魔術師の目でさえ捉えられない剣閃は、まさに稲妻の一刀に他ならない。
目の前にいたレフィールでさえ、反応できなかったのだろう。
いつ振り下ろされるか。否、そうではない。この剣は、構えた瞬間に【すでに振り下ろされていた】という事実がセットになっているのだ。
上から下に振り下ろす剣は最強だ。それを信じに信じ抜いているからこそ使える剣。最強の剣であるからかわせない。この剣を破るには、その最強の信心を確かに打ち破ることにあるのだから。
ゆえに最強なのだ。容易にはというレベルではなく、すでに不可能の域にまで至っている。
「…………」
レフィールは青天の霹靂を目撃したかのように、呆然としている。鏡四郎の手を見るのか、それとも振り落ちた木刀を見るのか。
「……強ぇヤツは、誰だってこれを使う。下に引っ張る力に逆らえば逆らうほど。剣はその勢いを削がれるからだ。たとえどんな手段を講じても、それをゼロにすることはできない」
鏡四郎は詠うようにそう言って、いまだ呆然自失の最中にいるレフィールに訊ねかける。
「なあレフィール。お前はいまのを見て、自分もこれを使っている姿を思い浮かべることができるか? できねえだろ? それは、そのヴィジョンが見れるほどの下地が、お前に付いていないからだ」
「それ、は」
「極端な話な、お前はやるべきことをきちんとやろうとしないで、いまの状態から一足飛びでこれを覚えようとしているようなもんなんだ。そりゃあそんな無茶苦茶してたら、剣の道も見失うってもんだな」
「――ッ、ですが、私は強くならないといけないのです。その答えを求めるのは、いけないことなのでしょうか?」
「そこだな。お前くらいの腕になると、もう安易にどんな鍛錬をすればいいかとか、何を目標にすればいいのかとかっていうレベルじゃないんだよ。だから――」
鏡四郎はそこで一度区切って、核心を突きつける。
「どうすればいいとか、なにをすればいいとか、安易に答えを探そうとするな。そこに答えがあると設定して追いかけても、それはお前の作った幻だ。そんなもの、結局どこにもありゃしない。それでも何かを求めるなら、心構えを変えた方がいい」
「心構え、ですか?」
「これは、お前の剣のもう一つの問題だな。お前は、負けられないという意思が強すぎる。そうだろう?」
「それは……はい」
鏡四郎の言葉を、レフィールは肯定する。その通り、レフィールには負けられない戦いが待っている。ならば、その意思が強く出るのは当然だ。
「剣士は、剣に死することこそが本望だ。年がら年じゅう剣のことばっかり考えて、立ち合いで死んでこそ人生だと思わなければ剣士として大成はしない。いつでも剣に死んでいいという思いがなければ、決して強くはなれないもんだ。だから剣士は楽天に身を浸し、風流を楽しむ。いつ死んでも、後悔を残さないためにな。お前は、そういったヤツを見たことはないか?」
「――――」
鏡四郎の問いかけに、レフィールは今度こそ絶句する。それは無論のこと、思い当たる節があったからだ。ルメイア・テイル。いまのレフィールにとって最も身近な剣士であり、確かに楽天や風流を楽しんでいる者のことだ。
鏡四郎はレフィールの態度で察したか、不敵な笑みを見せる。
「いるじゃないか。なら、お前も俺の言っていることがわかるはずだ」
鏡四郎はそう口にしたあと、木刀を横倒しに持って、問わず語りに口にする。
「立ち合いを前にした剣士の心構えってのは、一本の剣になることだ。そこに勝敗が挟まる余地はない。敵を前にしたとき、自分のすべて捨て去れ。怯えがあると、それだけで踏みとどまる理由になる。踏みとどまれば自然、相手の懐まで進むことはできなくなる。進めなければ、どうしたって切っ先は届かない。そのせいで、闇雲だったことが多くなった。違うか?」
「――ッツ」
鏡四郎の説明は、ひどく整然としていた。確かに、レフィールはこれまで勝利にこだわっていたし、闇雲だった。前に一歩踏み込まず、確実な勝利のために、あえて冒険はしなかった。
命など惜しくないと、言いつつも、だ。
「どうだ? 道理だろう? お前の焦りの根底は、自分の命を蔑ろにしたから生まれたんじゃなくて、自分の命の使い方を蔑ろにしたから生まれたんだ」
レフィールの腕が、だらりと下がる。
自分でも認知しえない図星を突かれたからだろう。
確かにレフィールには、命を捨てるような戦いが多かった。知らず知らずのうちに、それは剣士としての戦い方から外れ、勝利のために命を懸けるものとなっていた。
要は計画性の有無の違いだ。前者はただ捨て身になっているだけで、後者はその捨て身から焦りや怯えなど余計なものを弾き出して、どこでどう使うかを弁えたもの。
ああすれば負ける、こうすれば負ける。そんな考えが怯えとなって邪魔をして、剣士としてあるべき戦い方を制限していたのだ。
剣となって死ぬること。
それが剣士としての心構えであり、剣士として勝つための生きざまだ。
「……この心構えは、お前さんの生き方とは矛盾するかもしれない。だが、剣で勝ちたいなら、躊躇いを起こす要素はすべて削り切れ。ただ勝つのではなくて、剣で勝利するというただ一点のために、自分の命を使い潰せ。自分が死んだあとのことに怯えるのは、怯懦ではなく惰弱だ」
剣士の先達としてそう言い切った鏡四郎は、ふと体勢を自然体に戻す。
そして、
「――最後に、俺の本気ってのを見せてやるよ」
そう言うや否や、先ほどの熱風さながらの武威を遥かに超えるほどの圧力が、吹き付けてくる。豪風や津波、考え得るすべての『押し寄せて来るもの』が一つに凝縮されたかのような、なにか。神秘に身を浸し偉業者級の位階にいる水明ですら、目眩を起こしてしまいそうな、剣士の圧力であった。
直後、レフィールはその場にへたり込でしまった。
見れば、恐怖そのものを見てしまったように、震えている。
その恐れは、剣士としての高みを見たことによるものに違いない。
鏡四郎はふっと圧力を霧散させ、微笑みを見せる。
「三十数年剣を振ってやっとこれだ。俺の憧れだった人は、いまの水明くらいでこんな感じだったが、それは例外中の例外だな」
「……私も、グランドマスターのようになれますか?」
レフィールの訊ねに、鏡四郎は呆れたようなため息を吐いた。
「……まずな、前提がおかしいんだよ。それで、どうして強くなれないと思う? それだけのものを中にもってりゃあ、強くなることなんて難しいことじゃない。むしろ才能の怪しい俺より簡単だ。まあ正しく道を突き進み、諦めず求め続ければの話だが――」
そこで一度言葉を区切って、鏡四郎は何かに気付いたように水明の方を向く。
「おい水明。お前、それで俺のところに連れて来たのか」
「ええ。まあ」
そうだ。あまりに強すぎる人間に確実に強くなれると言われれば、希望も見えて来るだろう。邪道かもしれないが、レフィールのように戦いまでの猶予がない人間には、必要なことだろう。
それに気付いた鏡四郎は、ふと頭を掻いて、
「そうだなぁ。もう一つ、アドバイスをしとこうか」
鏡四郎の教えに、レフィールは居住まいを正して一言も聞き逃すまいと身構える。
そして、下された言葉は、
「観光してこい」
「え?」
「日本に来たのは初めてなんだろ?」
「は、はい」
「ただし、剣のことは一切考えるな。空っぽにして楽しめ。それも精神修養の一つだ」
「それは、どういう……」
「気持ちを、切り替えることさ。それを沢山やってけば、そのうち気持ちが慣れて来る。お前がいまやらなければならないことは、楽に身を浸すことだ。楽をすることに慣れていない自分を楽にならしていけば、やがて風流ってもんが身に付くはずだ」
「風流……」
それは、ルメイアも言っていた言葉だ。
勝利に対し過敏になり、ささくれだった心を落ち着けるため。そして、剣に風情を持たせ、独自の力を持たせるための、精神修養。
いまはそれが必要だと、鏡四郎はそう口にして、また上座へと戻って行った。