朝、目が覚めると
――この日の水明の目覚めは、いつになく心地よいものだった。
使い慣れた枕に頭を預け、身体は使い慣れたベッドに身を沈めている。家にいるという安心感と実家の寝具という魔力のおかげで、いつもより質のいい眠りにつけたらしい。
爽快で、身体も痛くない。しっかりと覚醒したが、この分では二度寝だって余裕だろう。
「もうちょっとダラダラしてもいいか……」
そんな怠けっぷりの利いた独り言を発しながら、部屋を見回す。
いまいるのは、間違いなく自分の部屋だ。机の上には書類に書きかけの魔術書、簡易に実験を行うための魔道具もいくつか置かれている。異世界の行く前の、自分の部屋そのままだ。
ベッドから身を起こしてその場で伸びをすると、腰元の違和感に気付いた。
「ぅん……すぅ……」
シーツの中から聞こえてくる、可愛らしい寝息。
めくると、ネコミミの付いた寝間着に身を包んだリリアナがいた。
いつの間に潜り込んできたのか。身体を丸めるようにしてしがみついており、本当に猫さながら。その体勢のせいか、シーツに曲線のシワができている。
水明も侵入者の存在に一瞬驚いたものの、まあリリアナが寝ぼけてももぐり込んでくるのは異世界でも時折あったことであったため、特段取り乱したりはしなかった。
「……っていうかあいつ、こんな寝間着どこから持ってきたんだよ?」
水明はパジャマのネコミミを指でつまみながら、首を傾げる。
昨日の晩、ハイデマリーに女性陣の寝間着の調達を頼んだのだが、フェルメニアとレフィールの分は普通のものを持ってきて、なぜかリリアナの分だけは着ぐるみパジャマを持ってきたのだ。
どうしたのかと聞いても、「ひみつだよ~」と言うだけで、教えてくれない。
出所は甚だ不思議だが、もちろんこれにリリアナが喜んだのは言うまでもない。貰って嬉しがると同時に持って帰ってもいいかとハイデマリーに訊ね、了承を得るとさらに弾けるように喜んだ。
ともかくと、しがみついたままのリリアナを優しく引き剥がし、ベッドから降りようとしたとき、
「スイメイくん、起きてるー?」
部屋の外から、ハイデマリーの呼ぶ声が聞こえてくる。
「ああ。起きてるぞ」
「じゃあ入るね~」
「いやおい…………まあいいか」
返事を待たないところは相変わらずマイペースというか、子供のような気兼ねなさである。男の部屋に入る抵抗感も、まだ理解してはいないのだ。
このままでは、こんな現場を見られることになるが……水明も特にやましいことはないので、まあいいかと堂々とした自分を作る。
やがてアンティークのドアがガチャリ。サムラッチタイプの取っ手が動き、ドアが開くと、紫檀の香りがふんわりと漂ってくる。
それが、リリアナの覚醒を促したらしい。
「ふわぁ……」
彼女はベッドに寝ころんだまま、目を擦って、反るように伸びをする。
「朝、ですか?」
ハイデマリーは、水明とリリアナが一緒に寝ていた現場を目の当たりにすることになった。もちろん彼女の表情は変わらないが、声に非難じみたものが混ざる。
「……水明君さぁ。いくらなんでもそれはどうなの?」
「別に変なことはしてないっての。リリアナはいろいろあってさびしんぼさんなんだ。な?」
「……昨日は、フェルメニアもレフィールも、すぐには休まないようでしたので」
「んで、仕方なく俺のところにもぐり込んできたと」
「――! べ、別に、仕方なくではありません!」
「ん? そうか」
水明は突然ムキになったリリアナを不思議に思いつつ、頭を撫でり撫でりしてやる。
すると、リリアナはどこか気持ちよさそうにして静かになった。
まだまだ眠気が残っていたのだろう。とろみを帯びた表情が猫のように変化する。
ハイデマリーの視線から、胡乱さはまだ抜けない。むしろなぜか増大したようにも思える。
「水明君、キミは本当にアレだね。そういうとこほんと恐れ入るよ」
「なにがだよ」
「キミがとびきりの女こましだってことさ」
「そこは、まったく同意、です。ふみぅ……」
「ひどい言われようじゃね?」
「事実、です」
そう言って、リリアナは抱き着いてくる。まだ眠気が去っていないのだろう。寄りかかってひとしきり頬ずりをすると、また愛らしい寝息を立てて眠ってしまった。
すると、ハイデマリーが仮面を付けたような表情で声をかけてくる。
「ねぇ水明君」
「なんだ?」
「また助けたの?」
「まあ、な。っていうか、よくわかったな」
「わかるよ。そんなに懐いてるんだもん。それしかないでしょ」
ハイデマリーは、弟子になってからそれなりの付き合いがある。そのため、水明が異世界でどんなことをしてきたかは、なんとなくでもわかるのだろう。
「要するにさ、キミは異世界でも平常運転だったわけだ」
「俺は俺だ。好きなことやってただけだよ」
水明はそんな風に適当な言葉を返すが、しかし予想に反して軽口がこない。思いもよらずハイデマリーが黙り込んだのを不審に思い、水明は眉をひそめた。
「どうした?」
「……別に。なんでもないよ」
「いや、なんでもないって、なんでもないような感じじゃないと思うが?」
「知らないよ」
ハイデマリーはそっぽを向いてしまった。どうしたのか。その様子は、なにか苛ついているようにも思える。背を向ける彼女を不思議に思いつつ、眠り込んだリリアナをベッドに横たえた。
そして、ハイデマリーを一時部屋から追い出して、普段着に着替えて部屋から出る。
すると、フェルメニアが廊下を駆けてきた。
「スイメイ殿スイメイ殿! この魔術書に関して詳しい解説をお願いしますー!」
魔術書を身体の前に積み上げて、それでも危なげなく駆けて来るのはさすがである。
「おはよう。まあ、その、なんだ。落ち着いてくれ」
「あ……はい。これは失礼を」
フェルメニアは恥入るように頬を染めて、俯く。
「それで、この魔術書ってどれだ?」
「これと、これと、あとこれも……あ、こっちの記述に関してもお伺いしたいですね……」
先ほどの言葉で『この』と限定したにもかかわらず、あっちもこっちも大量である。というか、抱えて持ってきた魔術書すべてだった。水明はよくもまあこんな量を読み込んだなあと思いつつ、改めて彼女の顔を見ると、
「……あんた、目の下にクマができてるぞ?」
「へ? あ、いえ、これは、その……ですね」
「……夜更かしはやめとけって言っただろ」
「……あはは」
フェルメニアはバツの悪そうにしながらも、笑って誤魔化しにかかる。夜更かしまでして読み続けていたためか、目はギラついているのに顔色は冴えず、だ。
見れば彼女自慢の銀髪も櫛が入れられておらず、まるで整っていない。
……昨夜、食事のあと、家の中を案内したときに、三人を父風光の書斎にも連れて行ったのだが、フェルメニアはそこで知識欲を刺激されたらしく、ずっと興奮しっぱなし。客間に連れて行くときや寝具を用意したときなども、書斎に行きたそうにして落ち着きがなく、挙動が目に見えておかしかった。
研究者魂が唸りを上げたのだろう。ともあれ、そのそわそわっぷりは、まったく微笑ましかったのだが。
「あのさ」
「お言葉ですが、あそこは宝の山です! 夜更かしの一つや二つ。スイメイ殿だって経験があるのではないのですか!?」
「ぐっ!?」
「ほら! やっぱりそうなのではないですか!」
フェルメニアは鬼の首を取ったように、迫って来る。
「わ、わかったわかった。訊きたいことを紙にまとめておいてくれ。あとでその分の時間を取るから」
「う、いますぐでは駄目なのですか!?」
「話し始めたら絶対昼までかかるぞ? 俺だけじゃなくて、ハイデマリーもリリアナだっているんだ」
「あ……」
おそらくだが、そんな話をしていれば、彼女たちも必ず加わって来るだろう。そうなれば、考察の上、談議や論議が繰り返され、絶対に収拾がつかなくなる。食事など後回し、門外漢であるレフィールは一人寂しく取り残されてソファの上で膝を抱え、気付いたら夜だったなんてことになりかねない。
それを考えれば、あらかじめしっかりと時間を作っておく必要があるだろう。
「……ところで、レフィは?」
「レフィールは……寝室の様子を見に行ったときは、いませんでしたね」
「……それ、いつだ?」
「あ、朝でしたかねー?」
目が自由形で水泳しているフェルメニア。記憶の方も、態度と同じで曖昧らしい。
ともかく、あっちもあっちで夜更かしのようだ。彼女も、別の世界に来て初日の夜は、落ち着かなかったのだろうか。
「レフィールさんなら起きてるよ」
「そうなのか」
「水明君を呼びに行く前にボクが紅茶を淹れてあげたからね」
「あ、私にもいただけないでしょうか。こちらの世界のお茶には興味があります」
「じゃあ行こうよ。淹れてあげるよ」
足取りも軽く、三人でリビングに行くと、レフィールはソファの上で優雅に朝のティータイム。フェルメニアと違って赤いポニーテールは美しく整っており、服も普段着に着替えている。背筋もピンと伸びていて、カップに口を付ける姿がとても絵になっていた。
そんな彼女に、まずは挨拶。
「おはよう」
「ああ、おはよう。スイメイくん。フェルメニア殿もおはよう」
「おはようございます」
「その様子だと、やはり徹夜だったか?」
「えっと……あはは」
レフィールの予想通りだというような薄笑いに対し、フェルメニアは先ほどのように誤魔化し笑いを返す。そしてそのまま、フェルメニアはレフィールの隣に座った。
ふと、レフィールがベランダに目を向ける。
そして、どこか残念な気持ちを漏らすように、
「ここは星が見えないな」
確かに彼女の言う通り、現代の夜空は異世界の夜空に比べれば、見える星の数は少ないのかもしれない。それだけ現代世界の大気の汚れ具合が途轍もないということだろう。
「レフィはずっと外にいたのか?」
「ああ。この世界がどんなものか、私なりに感じていたんだ」
「感想は?」
「なんというか。バランスが悪いとでもいえばいいかな。向こうではいつも感じるような力が、とても弱弱しく感じるよ」
いつも感じるような力……という風にニュアンスが曖昧になりがちなのは、それが言っては表しにくい『神秘』という力ゆえのものだろう。こちらの世界では科学技術で生み出されたものが蔓延っているため、自然的な力はほぼ追いやられている状況にある。それが神秘にも影響して、彼女が言うような感覚を生み出しているのだろう。
「ところで、ボクの紅茶はどうだったかな?」
「ああ、とてもおいしいよ。かなり上等なものじゃないのか?」
「当然。なんたって天才のボクが選んだ紅茶だからね」
ハイデマリーはそう言いながら、対面式のキッチンに立ち、フェルメニアの分の紅茶を淹れる。そんな彼女と同じように、水明もキッチンに立った。
使うのは、キッチンの端に置いてあるドリッパーだ。
「水明君はコーヒー? ボクがやろうか?」
「俺の分は俺が淹れるよ。俺の家のコーヒーは俺が番人だ」
「そう」
そうだ。水明が家のコーヒーを管理しているのは、ずっと前から。父にコーヒーを淹れさせられるのが、学校から帰った水明の日課だった。
息子の淹れたコーヒーを飲むのが親の特権という、まったく意味のわからない言い分を聞かされ、一日一杯は必ず淹れさせられた。父が納得する味に淹れられるようになるまで、果たしてどれだけかかったことか。良い豆さえあれば、喫茶店のコーヒー並みの味にもできるだろう。
水明も以前は、ミルクや砂糖を入れなければ飲めなかったが、逆に魔術師として一人前となったいまはそれが飲めなくなった。気持ち悪くて吐き出してしまうのは、昔の自分と決別したゆえの、それはある種呪いだったのかもしれない。
ドリッパーに紙をセットし、魔術で保存しておいた新鮮な粉を入れる。八十度から九十度程度のお湯をまんべんなく粉にかけると、ほんのりと湯気が立った。縁に沿うように注いでしまうと、ドリッパーの縁にお湯が伝って中に落ちていってしまう。その分コーヒーは薄くなり、最初に考えていた味と狂いが生じてしまうため、そこには決してかけないように気を付ける。
半年ぶりのコーヒーの香りに、水明の目が段々と冴えてくる。
リビングの方にも、その芳しさが届いたか、フェルメニアが鼻をひくつかせた。
「随分といい香りですね」
「だろ? やっぱり朝イチはコーヒーだな」
「こーひー……ですか?」
「挽いた豆から出したお茶だよ」
「紅茶の親戚でしょうか……随分真っ黒なんですね」
「そうだな」
コーヒーも、昔の日本では豆茶と言われていたくらいだ。お茶の親戚という認識で十分だろう。細かく話すときりがない。
フェルメニアもレフィールも興味深そうに見ていると、
「水明君の淹れたのはやたら苦くて酸っぱいから飲まない方がいいよ。飲みたいんだったら、違う豆を使って、ミルクと砂糖をたっぷり入れないと」
「それはお前の趣味だろ?」
「逆に水明君は背伸びしすぎじゃない? それ、おじさんしか飲めないよきっと」
「じゃあ俺はおじさんだな」
「やーい中年」
「中年言うのはやめろマジで」
しばらく、ハイデマリーと不毛なことをやいのやいの言い合って、それが落ち着いた折。
「マリー、また頼みがあるんだが」
「今度はなあに?」
「昨日の寝間着に続いて悪いんだが、また三人に当たり障りのない服を用意してくれ」
「あー、そうだね。それは必要だね」
その話を聞いていたレフィールが、ふと眉をひそめる。
「この服で外を出歩くのはダメなのか?」
「ダメというわけじゃないがな」
「目立つ、というわけですね」
フェルメニアの言葉に、水明は頷く。
「ああ、そうだ。リリアナのは……まあ何とかなるんだが、フェルメニアとレフィのは外国のにしても異世界色が強いからな。ジーパンとかワンピースとか無難なのにしとけばいいかなとは思ってる。本腰入れておしゃれしたいんだったら、買い物の日を別に作るが」
リリアナの格好はゴスロリでなんとか通せるだろうが、レフィールの服装でボーダー、フェルメニアの格好はまさにコスプレになってしまいかねない。外に出るには、どうしてもこちらの服を要する必要があるのだ。
「いいよ。確かに目立つもんね」
「……お前も大概なんだがなぁ」
「ボクはきっちり誤魔化してるからね」
ハイデマリーも着替えないわけではないが、マジシャン然とした格好をやたらと好む。しかも平時からそれであるため、常日頃から誤魔化すための魔術の使用が欠かせないのだ。
本人には、いろいろとこだわりがあるらしい。
話が付いた折、今日のメーンイベントを切り出す。
「レフィ。一休みしたらお隣に行こうか」
「――!? ああ!」
水明が素振りをする素振りをすると、レフィールが弾んだ声を返す。
彼女もフェルメニアと同様、夜更かしをしたようだが、気力の方は十分らしい。星が見えなかったという残念さもどこへ行ってしまったかというほどに、目には炎が窺えた。




