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遥か遠く、彼方より



 ――ふと、近づいてくる気配に気付く。

 それが足音なのか、衣擦れなのか、息遣いがあるのかさえも定かではない。

 それもそのはずだろう。

 ここには、場の実体もなく、確固たる形さえない場所なのだ。

 さながら深海の奥底のように暗い澱みの中であって、白い光のただ中でもある。

 捉え方は、この場を観測した者次第だろう。その者がここを真っ暗だと思えば真っ暗だし、真っ白な光の中だと思えば真っ白だ。形が玉座だろうと、宇宙だろうと構わない。



 ――そうここは、あらゆるすべてを内包した場所でもあるのだから。



 神の座。外殻世界。狭間。呼び名は数あれど、神格という存在がその存在を維持できるのがこの場所である。

 しかしていまここに座するのは、女神アルシュナ。水明たちが召喚された異世界を支配し、手を加え、現在の形にした神格の一つ。



 ならば、ここがどんな場所になるのかは、彼女の胸三寸だと言えるだろう。

 彼女がここを荘厳な神殿の中だと思えば、場はたちどころに変化する。

 曖昧で定かではなかった周囲は、水面を手でかき回したようにぐにゃぐにゃと歪み、やがて場面が切り替わったかの如く、女神の夢想が現実化する。



 背の高い天井の下、巨大な白い石柱が立ち並び、祭壇のような場が現れる。横に並ぶ窓にはステンドグラスがはめ込まれ、透過させた光を様々な色へと変化させた。

 常ならば最奥に据えられるはずの女神像はなく、椅子と、そこに腰をかける一人の女性の姿。白いワンピースをまとい、まどろみに揺蕩っているかのように、頬杖をついて目を閉じている。脇には王笏ならぬ神笏か。人の作りたるものならば権威の象徴だが、それを超越した神格という存在のものであるならば、一体それはなにを現すというのか。



 夢見るままに待ちいたり。



 場の具現、女神の顕在化に合わせ、近付く気配もまた、木の床を踏む音や衣擦れ、息遣いへと変化した。



「――よく参られました。我が眷属たる下僕(しもべ)よ」



 ゆっくり、薄らと目を開ける女神アルシュナは、到来した精霊を丁寧な口調で出迎える。

 黒い長髪。東洋人の黄身がかった肌。女子生徒用のブレザーに身を包み、首には赤いマフラー、手には指ぬきグローブがはめられている。



 出で立ちはまったく安濃瑞樹だが――無論、この場に現れたのは彼女ではない。その姿であって彼女でないのならば、誰かは言わずもがなであろう。



 安濃瑞樹――その姿をした精霊は、アルシュナの前で恭しく跪く。



「我らが母にして、大いなるお方よ。そのまどろみを妨げた無礼をお許しください」


「起こされた程度で怒るほど、私は狭量ではありませんよ?」


「いえ、どこぞの神格は、眠りから覚めると世界を砕いてしまうといういわれも持ちますゆえ」



 アルシュナは、精霊がもとは持っていなかったその知識の出どころを察したか。静謐な表情のまま口にする。



「それはあなたが身体を借りていた少女の知識ですか」


「は。左様にて」


「その姿も、その少女のものでしたね」


「は。我にはイシャクトニーの子のように姿形を持ちませぬゆえ、この姿となったのでしょう」


「口調も、それに即していますね」


「は。この姿であれば、この口調が適当かと」



 精霊はそううそぶくと、ニッと、口角を持ち上げる。笑いと共に口にした言葉は、瑞樹が聞けば顔を真っ赤にさせて怒り出しそうなもの。お堅く古めかしい口調は、彼女がとうに卒業した黒歴史である。



 そんな精霊に、アルシュナが訊ねの声をかける。



「あなたには、あの者への助力と監視を命じたはずですが?」


「それが、余計な邪魔が入り、こうして『狭間』へと戻されてしまった次第。責務の途上で舞い戻ったこと、まことに面目ありませぬ」


「あなたを祓い追いやることが出来る者、ということは」


「母たる者の想いを理解できぬ、あの愚かしき者たちの手によるものにございます」


「異界呼びのよすがによって呼ばれた者のことですね。確かに、あの世界にいる者たちには、私の想いは届かないでしょう」



 アルシュナはその静謐な表情に、呆れと諦めのような色を滲ませる。



「あの世界のものたちは、みな『想念(おもい)』や『精神(こころ)』強くあります。ですがそれゆえ、持ち得る渇望もその身に余る」


「理想から見出した輝きを希望の標と勘違いすることは、愚かしいことでしょう」


「それゆえのよすがですが……難しいものです」


「まことおっしゃる通りに」



 精霊はアルシュナの言葉に同意を捧げ、深々と頭を下げる。

 すると女神アルシュナは、精霊に透き通るような視線を向ける。



「いま、あの者については?」



 あの者。ただそれだけの言葉で、精霊は誰を差してのことか察したか。



「あの者は徐々に母たる者のお力に馴染み始めております。ただ――」


「なにか懸念でも?」


「力が馴染むのが早すぎるのです」


「ふむ……あの者がここに来てから、星の巡りは半分ほどですか……。それで、いまはどの段階に?」


「は。現在は第二段階目、意識の統一化が始まる頃。本来は力が徐々に馴染んだあとに起こるため、あと星二巡りは必要なはずですが……そのせいか要らぬ言葉に惑わされやすくなっているようなのです」


「あなたの見立てでは外部の言葉に揺れている節がある、と?」


「愚かしき者共があの者に接触を試みた折に口にした言葉が、どうにも頭を離れぬようでして」


「……馴染むのが早すぎるせいで、困惑が表面化しているのですね。原因に心あたりはありますか?」


「あの者の『想念(おもい)』が殊の外に強すぎることと……おそらくは異界から持ち込まれた武具の影響ではないかと」



 アルシュナは断片を汲み取って繋ぎ合わせた推察を聞き、わずかな思索を匂わせるかの如く目を細めた。



「現事象兵装(サクラメント)。迫りくる終わりを否定するために作り出されたという武具ですか。あれが、あの者を導いていると?」


「現状断言はできませんが、強い影響を受けているということは間違いないと思われます。このまま意識の統一化が始まれば、板挟みとなる恐れが」


「それは……困りますね」


「まこと」


 板挟みとは、彼の感情とアルシュナが刷り込む使命とのせめぎ合いだ。そうなると、彼の動きが思惑からズレてしまう恐れがある。いや、そればかりか、このままでは押しつけと突き上げに堪えられずに、もっと別の、危険な選択を取る可能性も否めないのだ。



 板挟みの両側はどちらも、この世界を思うものに変わらない。それに堪えらえなくなったときに選ぶのは、果たしてこの世を思うものになるや否や。もっと別の何かに感化されてしまうことさえ、考えられる。



「……あなたは今一度、あの者のもとへ戻りなさい。あの者が要らぬ言葉に惑わされぬよう、導くのです」


「では、またあの少女の身体を借りるのですか? あまり憑依をやり過ぎるのは、見過ごせぬ負荷となりましょう」


「身体には素質があると記憶していますが?」


「精神がです。心身ともに成熟しきっていない年の者ゆえ、繊細なのです」



 精霊は、憑依への懸念を訴える。確かにあの身体はアルシュナの見立て通り、健康であって神秘に対する適応力も存外によい。しかし、憑依の間はどうしても、その間の記憶が抜け落ちてしまうことになるため、それが余計な心労になってしまうのだ。



 一度追い出されたせいで、彼女の意識がもとに戻り、記憶の抜けを自覚してしまった。

 そのあとにもう一度、またもう一度と回を重ねれば、きっと恐ろしくなってしまうだろう。

 それはあの歳の者でなくても受け入れがたいことのはず。疑似的に記憶がなくなるという不安に押しつぶされ、精神をすり減らした果てにあるのは――廃人という末路だろう。



 それは精霊も、あまりに不憫に思う。あの少女は、優しい子だ。そんな人間にそんな未来を与えるのは、導き手にあるまじきこと。



 だが、女神の方はそうは思っていないらしく――



「構いません。すべてはこの世界をあらゆる脅威から守るため。犠牲は出さなければいけないのです」


「…………」



 肯定するか。犠牲を。やむ無しと言わず、出さねばいけないとあらかじめ割り切るのか。



「あなたの気持ちはわかります。ですが、この世が終わってしまえば、元も子もない。そうではありませんか?」


「……まことその通りに」


「返事が遅れましたね」


「も、申し訳ありませぬ……」



 アルシュナの指摘の声が、精霊にはひどく冷たいものに感じられた。

 容赦がないのは、当たり前だ。精霊はアルシュナに生み出されたものその意にそぐわなければ、たちまち母たる者の中へと還されるのが道理だろう。



 精霊は不興を買ってしまったことを悟り、身を固くさせる。だが、次いでかけられた声は、思いのほか柔らかいものだった。



「いまのは、不問にしましょう。あなたはこれから再び、あの者のもとへ舞い戻りなさい。そのあとのことは、あなたの裁量に任せます」


「母たる者の仰せのままに」



 精霊がそう告げ、座をあとにしようとしたとき、ふいにアルシュナが、



「……それと、私からもう一つだけ」


「なんでありましょうか」


「あの者の友人には、よく目を配っておくように」


「あの者の友人とは……我がライバ――失礼。あの異界の術師ですか」


「そうです。彼の者があの者に近付いたときは、特に気を付けなさい」



 アルシュナの言葉に、精霊は考える。あの者とは、言葉を幾度か交わしたが、それほどまでに警戒が必要な人間だとは思えなかった。実力も、そして思想においても、障害になるようなものではなかったはずだ、と。



「母たる者よ。正直なところ、我にはあの男に警戒が必要だとは思えませぬ。確かに持ち得る力は強いでしょうが、所詮は人の子。そのうちあの者にも力を抜かれましょう」


「警戒しなければならないのは力だけではありません」


「あの男も、あの者を惑わすと?」


「あの者とは距離が近い分、耳に聞こえる言葉は大きいでしょう。あの二人は、大きく影響し合っています」



 精霊は、水明と黎二のこれまでを思い出す。確かに、二人とも互いの意見を尊重し合っている。黎二は水明の現実的な考え頼りとし、水明もまた、黎二の正道な言葉に理解を示していた。ある意味、バランスだ。お互いがお互いのその時々の言葉を胸に留め置き、道を踏み外さないように、均衡を取っている。



 互いが持ちえないものを持っているため、それで補い合っているのだろう。



「力さえ馴染みきれば、片方の声は小さくなりましょう。力を得るということは、すなわちそう言うこと。術師の実力があの者よりも低くなれば、取るに足らぬことと耳を貸さなくなるはずです」



 しかし、アルシュナは首を横に振った。



「いえ、そう上手くはいかないでしょう」


「……確かに母たる者の授けたお力は、あの者を含め四つに分散してはおりますが、だからといって、たかが術師一人に敵わないとは到底思えませぬ」


「いいえ。私の授けられる力のすべてが集約されていたとしても、あの者が彼の者を上回ることはないのです」



 精霊は、初めて水明に対して確かな嫌悪感を示す。創造主たる存在の威光をもってしても、それを上回ると言うのは、人間にあってはならないことだった。



「あの者は、それほどのものであると?」


「その通りです。あの者はそれだけの器と、それに見合う宿命をその身に背負っているのです。それを課したのは、我らよりももっともっと真理の奥底にあるものでしょう」


「それは」


「だから気を付けなければならないのです。あの者は、あの術師を上回るために、追い付こうとするために、あの武具を頼るでしょう。そうなれば――」


「武具の導きの影響を強く受けてしまう」


「それだけならまだよいのです。あれは、人の欲に付け込む魔性を持っています」


「欲に付け込む?」


「あれはもともと『根源』へと繋がるもの。持ち主の強い想念(おもい)を贄にして力を与え、それを際限なく欲します。ゆえに、さらなる強い欲望(おもい)を求めて、囁くのです」


「…………」


「話が逸れてしまいましたね」



 女神は一呼吸置いて、精霊に達する。



「いま一度、覚えておきなさい。あの術師の少年は、神格を世界から追いやり、迫りくる終わりさえその力で消し去った。そして、光に手が届く者でもあるのです」


「光? 光とは?」


「私が力を授けた少女を、愚かしき者のしもべから助けるとき使った光。あれは、人の身には余る光です。その光に手を伸ばした者のどんな願いも叶える無限の光に他なりません」


「――ッ、そのようなものを人如きが使えるなど!!」


「それが必要となるときが訪れれば、きっとあの者は手を伸ばすでしょう。誰しもの願いのために。誰しもの思う最善を求めるために。そして決して遠くないいつか、それを掴むときが来るでしょう」


「なぜ、ただの人間に、そのようなことができるというのですか?」



 精霊に問いに、女神は熟慮するかのように視線を細める。そして、



「あの者は、許されたのかもしれません」


「何に許されるというのでしょう?」


「すべてに。そしてすべてたる一に。すべてのものが生まれる場所に。彼の宿命もまた、そこから生まれたものなのでしょう」



 精霊には、女神が口にした言葉の意味が理解しきれなかった。抽象的すぎて。そんな精霊の困惑を察したのか、女神が諭すように口にする。



「よいですか? あの異界の術師には気を付けなさい。近くにいればきっとあなたも、彼のことを眩しく思うようになるでしょう」



 アルシュナの言葉に、精霊は頭を垂れて応える。

 無論、反論はない。

 女神の言葉に、思い当たる節は、確かにあったのだから。





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