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そう、かくかたりき



 ――果たして、先ほどまで気炎を吐いていたイオ・クザミは一体どうしたのか。黎二が困惑し、一方彼女も目覚めたら目覚めたで鉄火場ゆえに困惑し、水明もやはり呆然とした様子で、



「瑞樹お前なんてタイミングで戻るんだよ……ちょっ、もしかしてさっきのお返しってこれかよ! 性質悪すぎだろあの謎精霊!」



 水明は叫ぶが、無論その声は消えたイオ・クザミ(なぞせいれい)には届かない。しかし、水明と黎二の戸惑いは、瑞樹にはちゃんと聞こえていて、



「ねぇ、二人ともさっきからなんなの!? 戻るとかどういうこと!? というか一体どうして水明くんがいるの!? しかもスーツって……あ、なんかそのコートみたいな感じの黒スーツちょっとかっこいいかも……」



 やはり黒スーツとコートには、中二心がくすぐられるか。ちょっとほんわかした瑞樹の視線が、ふと近くの巨大なものへと向いた。

 巨大なもの。無論それは、ゴーレムに他ならないわけで。



「ほ? ほえ……?」



 響く、間抜けな声。目の前の巨大な存在に理解が追い付かず、彼女は一時硬直するも、すぐに何かわかったらしく。



「え? こ、これ、これって、ゴーレムぅ? どういうこと? え? 何!? なんなのこれ!? 水明くん説明してよ!?」


「話はあとだ! いまは黙って大人しくしてろ! んで邪魔になんないとこに下がれ!」


「さ、下がれっていったって……」


「ああもう!」



 突然の復帰のせいで、血の巡りが悪くなっているらしい。遅々として動かず、右往左往する瑞樹に対し苛立ちの声を上げた水明は、魔術を用いふわりとした動作で彼女の下へ赴き、その身体を抱え上げる。



「わ、水明くんって結構パワフルだったんだね――」


「口閉じてろ。舌噛むぞ」



 そう言って、後ろ跳びの要領で大きく後方へ飛び上がり――そのまま、魔術行使。



「黎二、下がれ!」



 まだゴーレムの周りで動き回る黎二に警告を発し、そして得意の魔術の詠唱にかかる。



「――Fiamma est lego.Vis wizard.Hex agon aestua sursum.Impedimentum mors」

(――炎よ集え。魔術師の叫ぶ怨嗟の如く。その断末魔は形となりて斯く燃え上がり、そして我が前を阻む者に恐るべき死の運命を)



 呪文の終わりに折よく、黎二が大きく飛びのいた。追ってゴーレムの周囲に浮かぶ火色の魔法陣。ハドリアス邸の庭は瞬く間に、魔力光の明かりで真昼のように明るくなる。

 そして、



 ――Fiamma o Ashurbanipal!

 ――ならば輝け! アッシュールバニパルの眩き石よ!



 水明が鍵言を放った直後、ゴーレムに呪いの炎が殺到する。着弾すると、まるで火口内で噴き上がるマグマのように跳ねまわる炎。ゴーレムは瞬く間に紅蓮に包まれ、その巨体ゆえ夜空を赤く脅かすが――ゴーレムは炎が消えても何事もなかったかのように健在していた。



 いくらアッシュールバニパルの焔が、生物に対しての魔術だと言っても、



「くっそ! まったく効かねぇってことは本物かよ! そんなの出すとか汚ねえぞ――」


「うわっ! すごいすごい! 水明くんがいますごい魔法使った! 水明くんいつの間にそんなことできるようになったの!? ねぇ! ねぇ!! 私にも教えて――」


「あぁあああああああもううるせぇええええええええええ! いますげぇ忙しいんだからちょっと大人しくしてろってのマジで!!」


「だってだってでもでもでも!!」


「だってもでももないわ!!」



 腕の中で尋常ではないはしゃぎようを見せる瑞樹を怒鳴りつけるが、もちろん彼女が大人しくなる様子はない。むしろそんなことなど関係ないと言わんばかりに、今度は思わせぶりな笑みを口元に湛え始める。



「ふふふふふ……水明くん! 黎二くん! ゴーレムの弱点、私が教えてあげよっか!!」



 その言葉にいち早く反応したのは、黎二。



「瑞樹はあれの弱点を知ってるの!?」


「当たり前だよ! ゴーレムの弱点なんて魔術の知識の中じゃ初歩の初歩なんだよ?」



 ちっ、ちっ、ちっ、と。瑞樹は助手の医者に解説する探偵ばりに指を振って、



「いい? ゴーレムの額には、真理を表す『emeth』、イーエムイーティーエイチって文字が書かれた護符が貼り付けられてるの! それの頭文字の『e(イー)』の字を取っちゃえば、書かれた言葉が『真理』から『死』に変わって、ゴーレムはその存在を保っていられなくなるんだよ! 額に見えるでしょ? あれにも護符が張り付けられてる」



 ズビシッ! というような擬音が聞こえそうなほど力強く指差す瑞樹。確かにゴーレムの額には、彼女の言う通り札のようなものが張り付いていた。すぐに黎二も、そのことに気付いたらしく。



「そうか……ならあの額の護符を上手く斬れば……」


「いいや、無理だ。よく見ろ、あれを」


「え?」



 すかさず入れられた水明の否定に、戸惑いの声を上げる黎二。

 一方で瑞樹は水明の言葉を聞いて、ゴーレムの額に再度目を向ける。



「無理って、ええっと……」


「あれ? 瑞樹の言ったことと違う? 字が……」


「そうだ。記述された文字が『אל מת』(エル・メス)になっている。あれはもともと真理を表す一端として作られたものじゃないんだ」


「え? え? だって、ゴーレムって……」


「……なんつーかいろいろと勘違いしているみたいだが、お前が言っているのは、英語表記の『emeth』のことだ。確かにヘブライ語表記でも『אמת』(エメス)から『מת』(メス)に変えれば、あれはその力を失うが――そんな化石みたいなゴーレムの使い方するヤツがこの世の中にいるモンかよ」



 ゴーレムを作り出し、それを動かす術。魔術の中では奥義に分類され、自在に行使するには高度な技術を要するものだ。その反面、瑞樹でも知っているほど、よく知られており、広く市井に出回っているという側面も持つ。



 だがそれゆえ、魔術師たちはゴーレム、オートマン、人形(ドール)を作るときはそれぞれ工夫を施して、容易に止まらぬよう手を尽くすのだ。

 自立行動(スタンドアロン)は基本的に術者のように柔軟性がない。ゆえに、その大半は命令(コマンド)によって決められた行動しか取れず、対魔術師に使うには心もとない。そのため、攻撃にはあらゆる防壁が施されるのが一般的だ。



 そして、このゴーレムには、



「じゃ、じゃあ水明くん! あれにはなんて書いてるの!?」


「あれにはさっきも言った通り『אל מת』(エル・メス)……『אמת』(エメス)の間に一字増やされて、『神』と『死んだ』という二つの言葉を繋ぎ、おそらくだが『神は死んだ』としている。もともと真理として名付けられてない以上、たとえ前頭の文字を減らして死んだことにしても、意味はない」



 一応、彼女にも言ったことは通じたか。瑞樹は自分の知識と違うことをされたせいで、水明の腕の中で憤慨しだす。



「ちょっと、そ、そんなのアリなの!? ずっこい! ずっこいよそんなの!」


「うるさい! いちいちいちいち喚くなっての! 魔術にずるいとかずるくないとかねぇんだよ!」



 そんな中、黎二が深刻そうな表情で言う。



「じゃあ水明。瑞樹の言う通りにしてもあれは倒せないんだね? ならどうすれば……」


「そんなことよりも、あ、あれ、こっちに向かってきてるよ!」



 瑞樹の向いた方に視線を動かすと、ゴーレムは動きは遅いが、確実な足取りで水明たちのもとに近づいてきていた。黎二は再びゴーレムを翻弄するためその周りに張り付くが、やはり剣撃を与えても効果はない。



「くそ、随分とめんどくさいモン出しやがって……つーか『神は死んだ』だって? なんなんだよ? ツァラトゥストラか? ニーチェかよ? やめろよってことはあれは超人なのかよ?」



 水明は愚痴のように考えたことを口から漏らし、黎二とゴーレムを見据えたまま、思考する。



(この前はアルス・コンビナトリアで、今度は超人を模したゴーレム? おいおいおいおい……話が全くかみ合ってないぜどういうことだ?)



 ゴーレムを出した術者、おそらくは連合で現れた蜃気楼の男だろうが、それに対して水明はもともと『とある人物』に当たりを付けていた。だが、あれが超人を表しているのならば、それとはまた違う人物の仕業という可能性も出てくる。



 だがやはりルルスの大いなる術(アルス・マグナ・ライムンディ)の流れを汲むアルス・コンビナトリアが使われた以上は、あの名前しか挙がらないはず――



「いや、そうか。ニーチェに影響を与えたなら、考え方も未来の人物に寄せられるのか……だから、取り入れて使ってるってのか?」



 水明が独り言を口にする中、瑞樹はいまの改善されない状況を危惧したか、声を上げる。



「す、水明くん水明くん! 黎二くんにその、援護とかは!?」


「いや、いま援護してもどうにもならん――おい黎二! 一度そいつから離れろ!」



 いまだゴーレムの対処に苦慮する黎二に向かって、大声で叫ぶと、彼もすぐにゴーレムの間合いから離脱する。輝けるオレイカルコスの剣による攻撃が効かないことで、これ以上攻撃を加えても対策を講じないと無意味だということに、彼も考えが至ったのだろう。



 こちらも瑞樹を抱えたままゴーレムから距離を取り、物陰へと身体を引っ込めると、やがてそこに、離脱してきた黎二も飛び込んできた。



 物陰で身を縮めて寄り合って、内緒話。



「ハドリアス公爵、なんてものを出してくるんだ……」


「いや、やったのはヤツじゃねぇ。たぶんどこかに別の術者がいて、そいつがやったんだ」


「別の? ってことは……」


「ああ、やっぱあの野郎、普遍の使徒(ウニベルシタス)と繋がってやがるぞ。しかもアレはこの世界の術で作ったものとは違うヤツだ」



 いま口にした通り、ゴーレムはこの世界にもあるが、いま庭先で動いているゴーレムはそれとはまったくの別物であり、完全に自分たちの世界のものだ。ヘブライ語が記述された護符の存在がその証拠であり、そしてゴーレムが現出した折、ここにいる者たちが持つものとはまた別の魔力の気配がかすかに感じられた。おそらくはもともと近くで黎二とハドリアスの動向を窺っており、ハドリアスが劣勢に回ったのを見て、ゴーレムを繰り出したのだろうと思われる。



「水明。あれは瑞樹が叫んだ通り、ゴーレムなんだよね?」


「そうだ」


「あったりまえだよ! あれって見た目完全にゴーレムだもん! ゴーレムしか考えられないよ!」



 自分の予想通りということで、瑞樹はえっへんと胸を張っている。そういった幼気な態度はちょっと可愛らしいとは思うが、彼女のことはひとまず置いておき――



「そう、あれは正真正銘のゴーレムだ。旧約聖書に出てくる、導師(ラビ)が生み出した無敵の巨人」


「無敵の?」


「巨人?」



 問い返すような二人の言葉に、頷いて見せる。その一方でゴーレムへと視線を向けるが、ゴーレムが動くような気配はない。自分たちが場にいないため、様子見でもしているのか。向こうがこちらに積極的に手を出すつもりがないのは、ハドリアスが言った通り手合わせ――つまり力量を試しているからなのだと思われる。業腹なことだが、悪態づいてもしかたない。



 そんな中、瑞樹が黎二に訊ねる。



「黎二くん、剣で斬ったときはどうだったの?」


「あ、ああ。剣を力いっぱい打ち付けても手ごたえがないんだ。なんか硬い物を打った感じもしないし……」


「だろうな」


「え?」


「俺がいま言っただろうが、あれは、無敵だって。手ごたえ――つまり反作用があれば、衝撃が発生しているってことになるからな。効かないってのは、つまりはそういうことだ。あいつの一センチなり一ミリなり手前で、停止させられてるか空振りしてるようなモンなんだろ」


「じゃ、じゃあ、水明!? あれには何しても効かないってことなの!?」


「いや、そこまでは言わねぇよ。だが、いまのまま攻撃しても、あれは何も受け付けないだろうな。どうにかしたいなら、あれの無敵に揺らぎを与えて、こっちの攻撃を受け付けるようにしないといけないはずだ」


「受け付けるように……」


「それだけ特殊だってことだ」



 そう、特殊なのだ。普通のゴーレムならば、まだ余裕はあった。だが、あれが本物に近いゴーレムであり、しかも超人を模しているのであれば、人間では決してかなわないということになる。「人間は超人のために没落せよ」とはニーチェによって謳われたが、それゆえ人間はあのゴーレムの前に屈さねばならなくなるのだ。



 終末事象によって永遠が否定されているため、この世に不死や永遠はない。いつかは何もかもが必ず滅びる運命にある。ゆえに、完璧な無敵はないにしても――



「無敵に近いってのは厄介だぞ……基本的にはいま言った通り、こっちのやることなすこと全部無効化してくるんだからな」



 すると、瑞樹が表情を不安げに曇らせる。



「ならどうやって揺らぎを与えるの? 私たちの攻撃を無効化されたらそれこそ……」


「いや、揺らぎを与えられるものなら、接触させることはできる。影響を与えられるものであるからこそ、無効化はされないんだ」


「そっか……ってことは、倒す手段がまるでないわけじゃないんだね……」



 危惧がわずかにでも減じたことに、瑞樹がほっと安堵の表情を浮かべる。

 そんな中、黎二が改まって視線を向けてくる。力強い、真っ直ぐな、誰の心も魅せることができるような、穏やかであって強い視線。彼がその視線を向けてきたわけは、無論一つ。



「水明。僕たちはどうすればいいかわからない。あれを倒す術を、教えて欲しい」


「ああ、わかってるさ」



 心配するなと薄く笑みを返すと、瑞樹がにこりと笑って、



「なんていうか、作戦立てるのは水明くんの仕事だしね」


「そうそう。なんかこれがいつもの三人っていうか」


「……つまりはそれだけ大変なことに巻き込まれてるってことなんだぞ俺たちは。少しは自重しろよ頼むから……」



 笑い合う二人に対し、一方の水明は呆れと疲労に満ちた表情を作る。

 ともあれ、考えるのは当然、こちらの役目だ。気を取り直して、ゴーレムにかかった技の解き明かしにかかる。



 手近な小枝を拾い上げ、指し棒のようにくるくると回しながら、



「――あのゴーレムの額にヘブライ語が記述された羊皮紙がある以上、あれが俺たちの世界のゴーレムであることはまずもって間違いない。そして、真理という名付けなしに動いているってことは、その大部分を息吹(ルーアハ)に頼っているってことだ」


「ルーアハ?」


「それ、聖霊! 聖霊のことだよね!?」



 黎二がわからず訊ね返してくる一方、聞き覚えのある単語を聞いた瑞樹が興奮気味に詰め寄って来る。

 だが、



「いや。違う。瑞樹、お前の言うそれは聖書で言うルーアハ・カドシュのことだ」


「え? うそ、違うの?」


「ここで言う息吹は(ルーアハ)は確かに旧約聖書にも出てくるが……これはヘブライ語の、原義の多いルーアハのことだ。ゴーレムとして模られた泥人形が、導師(ラビ)の叡智を持った息吹を鼻から吹き込まれることによって、呼吸という生命活動を与えられ、ああやって動いている」



 息吹、ルーアハ。それは魔術師の力のようなものだ。厳密に分類すると、術式やまじないを含んだ魔力によって、呼吸することを命じられているとされる。

 ゴーレムは真理と書かれた羊皮紙によって動いたとあるが、真理単体で動かすと、命令を受け付けない知性の低い人形と化すため、息吹を吹き込み、生命活動と一緒に知性を与えなければならないのだ。



「ねえねえ水明くん水明くん。すっごいいまさらなんだけど……」


「なんだ?」


「なんでそんなこと知ってるの?」



 本当に今更な質問に、水明はため息が止まらない。



「……その説明はあとだ」


「うん。その説明はあとだね」


「ふ、二人して、ひどい……」



 水明と黎二にすげなく拒否された瑞樹は、涙目になって呻く。

 一方、黎二は黎二でゴーレムの倒し方を考えているらしく、



「ロボットを動けなくするためには、足をどうにかするか、もとを断つ……エネルギー源をどうにかするってのがセオリーだと思うけど」


「だが無敵である以上、足は崩せないし、ルーアハを直接攻撃するにしても、やはり無効化される。もちろん重い物を載せたり、胴体を縛ったりして物理的に動きを封じることもできない。どうしたってまずやることは、存在に齟齬を与えなけりゃならないってことになる」


「待って待って水明くん! 護符自体はあるんだから、あれをどうにかするってのはどう? どう?」


「それもダメだ」


「どうして?」


「簡単さ。それは、いまみたいに、誰でもすぐに思い付くようなことだからさ」


「ほえ?」


「どういうこと?」


「だってそうだろ? 護符(フダ)をどうにかするなんてのは、いま俺が言った通り『誰だって思い付くようなお手軽な方法』だ。それに対策しないなんてあると思うか? 魔術師にすれば簡単に剥がせないようにするのはまず真っ先にやんなきゃならないことだし、それに対する防御はもちろん厚くする。あとは……そうだな。どっかの映画よろしく、電子レンジとか、敵の死体とかと同じ扱いもするかもな」


「ブービートラップ……」


「そういうことだ。あれに手を付けた瞬間、ドカン! ……さ。だからこそ見間違いやすいように『אל מת』にしてあるんだろうが……」


 自分の額に拾った小枝をくっつけ、ポンっと放して爆発を演出する水明。その後、一度そこで会話を区切り、自らに没入。思考を加速させる。



「……考えろ水明。ヒントはもう揃うだけ揃ってる。なら倒すのはそう難しくないはずだ。攻撃する対象はゴーレムじゃない。ゴーレムを動かす動力でもない。あれを存在せしめ、動かしているその思想だ。『神は死んだ』。それがニーチェの言葉であり、あれが神の存在を蔑ろにする超人を体現しているなら、要はあれは神の否定を標榜した一連の主義思想の権化だ。この世に真理や善悪はなく、自儘に生きることでこそ超人は作られる。神の教えに従い清く正しく生きることが、絶対に正しいことではない。富める者を追い落とせ。貧しき者を踏み潰せ。幸せになるためにひたすら足掻け。そんな思想のカウンターはなんだ? 眠りを誘う老人か? それとも穴熊を決め込んだ小人か? 重力を操る魔物か? 違うだろ? あれと最も単純に相対しうるものは――」



 ――ルサンチマン。



 そう、ルサンチマンだ。キリスト教が貧富の存在と神の存在の両立を肯定するために作り出した、貧者に偽りの幸福を与える理論にして、既得権益を存続させるための庶民への呪縛である。それはニーチェが『無力からする意思の歯ぎしり』と称し、世の中を呪ったもの。そして彼を死ぬまで苦しめた『不平等』、その怨嗟。それが最も『フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』という存在を脅かすものとなり得るはずなのだ。



 答えは出た。だが、向こうの世界の要素をこの世界で使うには弱い。この世界にはルサンチマンという概念がない以上、単純にこれを突き付けるだけでは、威力が伴わない。

 しかし、この世界には打ってつけの魔法がある。そう、世の恨みつらみや妬みの凝り固まった汚濁を使うあの――



「リリアナ……お前の魔法、借りるぜ」



 つまりそれは――闇魔法。リリアナやこの世界の魔法使いたちがエレメントの一つと勘違いをしていた、怨念の結集体と同期する魔法(レフトハンド)。師として彼女に使うなと言った手前、自分がこの魔法を使うのはいささか以上によろしくないが、この場においては例外だ。



 独り言をぶつぶつと呟いて、挙句黙ったことを訝しんだのだろう。黎二が覗き込むように訊ねてくる。



「水明?」


「……考えはまとまった。黎二、俺はゴーレムの無敵を揺らがせる術を用意する。お前は先に前に出て、あれに一発ぶち込める間合いを確保してくれ。攪乱気味に動いていれば――行けるな?」



 小枝を指し棒に準え、ピシっと黎二に向ける水明。そんな彼に黎二は頷き、



「うん。僕の方が動きはいいから、ゴーレムの間合いに入ってタイミングを窺うのはそう難しくはないよ」


「よし。一応こっちも苦し紛れと思わせるために魔術を撃ち込むわ。ま、それもそこそこ攪乱にはなるだろ」



 そんな風に大雑把に案を出すと、瑞樹が泡を食ったように騒ぎ出す。



「ちょ、ちょっと待ってよ! どういう作戦なのそれ!? 術を用意するから、間合いに入れって……それに水明くんも何をするかって言ってないんだよ?」


「それで十分だろ? 術が効けば、無敵じゃなくなるんだ」


「そうそう。それにダメだったらまた違う手を考えればいいよ」


「それは、そうかもだけど、でも……」



 食い下がる瑞樹に、水明は諭すように口を開く。



「あのなあ瑞樹、俺が黎二の戦法に口出ししてどうするんだよ? こうこうこうして、相手を斬れってこいつに指示でも出さなきゃならないのか?」


「それは動きにくいかなぁ……そこは自由にやらせて欲しいね」


「…………そうだよね、黎二くんと水明くんって、いっつもそんな感じだよね」



 やり取りを聞いて何かを思い出したか瑞樹は。結局呆れのため息を吐いて納得する。だが呆れるほどでもないだろう。向こうにいたときに何かあったときは、大概こんな『ゆるい感じ』だったろうに。

 とまれ、それはもういいと、水明は物陰から顔を出してハドリアスを窺う。



「公爵の方は、やっぱり動くつもりはないらしいな」


「あの人は僕のことを試すって言ってたから、危害を加える気はないんだと思う。いまはゴーレムっていう新しい計測器があるから、きっとゴーレムを倒すまで動く気はないんだろうね」



 黎二の言葉のあと、水明は小枝を片手でへし折り、



「よし、ちゃっちゃと倒してぶん殴ろう。しこたまな」


「オーケー。その案で行こう」


「というわけで、作戦会議お終い」


「じゃ、僕先行ってるから、水明は例の魔術の方よろしくね。もし効かなかったら、あとでなにかおごってもらうから」


「おう、任されよ」



 水明が返事をすると、黎二は作戦通りゴーレムの間合いに入るべく、物陰から勢いよく飛び出していった。

 水明はそれを見据えながら、光輝術式を発動し、ゴーレムに向かって撃ち込んでいく。

 決まったあとは、振り向くことも、言葉をかけることもない。



 それは、二人の間に、これまで築き上げてきた確かな信頼があるからだ。



 ――水明ならば、皮肉は言っても、引き留めても、一度決めたら最後まで全力で突き進む。だから、彼なら必ず、自分が望む援護をする。してくれる、と。



 ――黎二ならば、信じたものは最後まで信じ抜く。曲がらず、折れず、一本筋が通っているから。だから振り向かない。声も上げない。ただこちらの出方を信じて突き進む、と。




 二つの信頼。固く固く結束されたその信心に、果たして事象は好転によって応えてくれた。

 ゴーレムは黎二の動きに翻弄され、水明の魔術によって動きが鈍る。ハドリアスは動かない。いずこかにいるはずの蜃気楼の男もまた、動かない。この出方を苦し紛れと思っているのか。ゴーレムは動きが鈍り、すべてが良い方へ良い方へと転がっていく。



 一方の水明と黎二には、お互いの動きに一切の疑いがないために、迷いで生じてしまうはずの隙がまったく生まれない。行動の一つ一つがさながら計算されたように組み合って、ただ一つの結果に向かって動いていく。



 無論、それを止める術はない。二人の間にしかとある、彼らの一条を断たない限りは。



「……ゴーレム。もとは導師(ラビ)が創造した人造人間だ。それは自分の命令を忠実に聞く存在、人間を生み出すという人の持つ果てなき欲望の結果であり、カバラの奥義の一つ。あんたはそれを叶う限り完璧なものとして現出させるため――いいや、俺たちの力と知識を試すために、ニーチェの思想を用いてここに現界させた」



 問わず語りに、そう解き明かしを始めていく。これから行うことを成功へと導くため、事象を強化させるかのように。



「神は死んだ、とは有名な言葉だ。今日(こんにち)までこの言葉はあらゆる解釈のもと扱われ、人の自由を肯定し、人の罪業を否定してきた。その大本は膨れ上がった既得権益に対する掣肘であり、人々に新たな道を示すための確かな一歩になった。そしてそれが浮き彫りにしたのは、キリスト教が説いた『弱者を勇気づける理論』であり、弱者が強者へ抱くもの――そう、怨恨(ルサンチマン)だ」



 そう、キリスト教が庶民(じゃくしゃ)に刷り込み続けてきたのがこれだ。貧富の差によって弱者が抱く不平不満を、神を持ち出し肯定した。「富める者が天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」との言葉の通り、強者は地獄へ、弱者は天国に行くのだと、あえて貧富の差を肯定することで、清貧であることが正しいのだと――つまりそれを正しいと説くキリスト教の教えが絶対だとしているのだ。



 それが弱者を勇気づけるための言葉と言えば聞こえはいいが、そんなものは既得権益に対する一揆を封じ込めるための方便でしかない。富める者を恨んでもよい。しかし、己は清貧を貫けと。そうやって死後天国に行き、地獄へ行ったものを嘲笑えと。



 貧者は貧者のままで、死ぬまで不幸を貫けと。



 ゆえにニーチェは、そんな世界に絶望したのだ。この世界にいる限り、自分は決して認められず、死ぬまで苦しまなければいけないことがわかったから。だからその築き上げられてきた価値観を打破するために、神は死んだと言ったのだ。清貧は、決して貧者を幸福にするものではないと。認められない者は認められるよう努力しなければ、一生認められず埋もれたままなのだと。そうやって、彼はキリスト教の価値観によって作られた欧州世界の在り方を否定したのだ。



 ならば、そんな怨恨(ルサンチマン)の存在は、思想へのカウンターとなり得るし、恨み、妬み、憎しみそれらで構成された闇の魔法は、このゴーレムへのカウンターマジックとなり得るのだ。



 闇の魔法の大本が負を担う感情ならば、その中に、弱者の強者への妬み(ルサンチマン)は必ずあるのだから。



「――Come, come, follow me.the guide is my blasphemy voice.Everyone hates swirling intention……」

(――来たれ来たれ来たれ。侮蔑すべき腐り果てたる我が声をその行き道のしるべにして。この世全ての者たちが唾棄すべきとする、うねりうねる意志どもよ……)



 取り急ぎ瑞樹の足元に外界防護の魔法陣を敷いたあと、魔法の効力を高めるために再度魔力を解き放って、自身の位格を暫定的に引き上げる。刀印で逆転した星を描くと、周囲に満ちた魔力が喚起した悪意によって貪り食われ、夜の闇よりもなお漆黒を湛える絶望の色彩が、暗幕が敷かれた空にあぶくを数多生み出していく。



 ……闇泡沫。色濃い闇の中を漂ってなおその存在を明確に浮かび上がらせる悪意を、(あぶく)と見立てて具象化された闇魔法の攻性呪力。それが現れた途端、周囲に怨念の声が渦巻く。



 それは恨みを叫ぶ女の金切り声か。それとも妬みにとらわれた老人のしわがれた声か。もしくは怨嗟をいつまでも吐き続ける男の胴間声か。または泣き喚く子供のかんしゃくの声か。



 耳を脅かし、脳髄に突き刺さるような奔流が大きな大きなうねりとなって、響き、こだまし、ハドリアス邸の庭を阿鼻叫喚の巷へと変えていく。



 にわかにその渦中へと落とされた黎二が、逼迫した叫びをあげた。



「す、水明! いくらなんでもこれはちょっときついって!!」


「我慢しろ! これぐらいやらないと効果はないんだ! お前には女神様のご加護とやらがあるから大丈夫だっての!」


「む、無茶苦茶だよっ! 敵に倒される前に味方に倒されるって洒落にならないってもう!!」



 さすがにこれには彼も危惧を抱くか。黎二の泣き言を聞く最中、



「――闇よ。汝あまねく此岸を彩る紫紺の儚き。華々しさは禍々しさにかかずらうことなく変化し、あらゆる運命の芽を摘み取れ。Eva,Zurdick,Rozeia,Deivikusd,Reianima……」



 しかして、口にされる鍵言はあまねく絶望を謳う挽歌。



 ――|希望は等しく失望に帰結する(トランジェントホープ)。



 無敵の崩壊を期して放ったのは、リリアナの使った闇の魔法。それに神秘修辞技法(レトリック)蛮名(ノミナ・バルバラ)のおまけを付けた強化版。



 周囲を埋め尽くすほど浮かんだ闇泡沫が、唐突に鋭角な闇となってゴーレムへと殺到する。果たして闇泡沫の生み出した鋭角な楔の数多は、水明の目論んだ通りにゴーレムの身体へと突き刺さった。

 ゴーレムは足元が覚束なくなったかのように、唐突にぐらりとふらつく。それを見て取った水明は、ゴーレムと正面切って相対する黎二に向かって、



「揺らいだぞ! 黎二!」


「ああ!!」



 黎二の雄々しく頼もしい返事が通る。そして――



「はぁああああああああああああ!」



 周囲に響く、黎二の裂帛の気合。彼はさながら腰だめになって銃を撃つかのように剣を構え、大きく吼える。それは武威を放つかのように、魔力を高めるように、戦意を奮わせるかのように。

 巨大な雄叫びが辺りに鳴り渡り、それが終わると、黎二は静かな所作で、輝けるオレイカルコスの剣をゴーレムへと差し向けた。



「――ッ!!」



 声にならない声、心の内のみでの吼え声を以て、黎二は無敵の崩れたゴーレムへと斬りかかる。苦し紛れに伸ばされた巨腕を一太刀にて斬り飛ばし、すぐさまその大きすぎる懐の中へ。ゴーレムの中心(まんなか)に狙いを定め、輝けるオレイカルコスの剣を突き立てた。



「おぉおおおおおおおおおおおお!」



 再度、黎二が気合を発する。突き立てた剣を、ゴーレムのさらに深くへと押し込むように。止まらない黎二の攻めに、もがくゴーレム。残った腕が黎二を脅かさんとするが、黎二はゴーレムの絶殺にのみ意識を傾け、意に介さない。



「す、水明くん、え、援護とかしたら……?」


「ダメだ。いま魔術を撃つと黎二が危ない。それに、あれにとどめを刺せるのは黎二しかいない」


「黎二くんだけ……?」


「そうだ。ニーチェが否定したかったものは、やはり神という偶像に帰結する。結局は、ニーチェも神にとらわれていたからだ。そしてその加護を持つあいつだからこそ、ゴーレムを切り崩すことができる」



 そう、黎二には女神アルシュナの加護がある。その加護によって彼の力は強化され、その身体や魔力に加護が馴染んでいるのならば、それもゴーレムへのカウンターへとなり得るのだ。そう、この世界もきっと、神によって人の禍福が定められているのだから。



 ゆえに、女神の力が馴染んだ魔力を注ぎ込むことができれば――



「黎二! 突き込め! 突き込んでガツンと魔力をぶちまけろ!」



 その叫びに応えるかのように、黎二は高めた魔力を集中させて、ゴーレムに剣を介して注ぎ込む。

 そんな中、輝けるオレイカルコスの剣がゴーレムに刺さった部分から折れた。



「ッツ!? 剣が!!」


「黎二!!」



 落雷の折に弾け飛ぶ火花が如き最中から、そのただ中にいる黎二を、魔術を用いて引きはがす。

 ゴーレムは、しかし崩れかかった身体を起こして、



「……く、ダメだ。あと一押し、一押し足りないっ……!」


「しぶとく作りやがって……ちょっと待て、いま剣を作る」



 スーツの懐から再度試験管を取り出して、水銀刀を作り出そうとしたそのみぎり。



「いや」


「黎二?」



 彼は危険を顧みず、前に踏み出す。その行為は何なのか。勝機に後押しされた一歩なのか、やけになった者が迷い踏み出すときの蛮勇なのか。

 しかしてその答えは、黎二の口から発せられる。



「僕に力を……僕のサクラメント、もう一度僕の求めに答えてくれ!!」



 黎二がサクラメントを握りしめて叫ぶと、彼の身体は砕けた紺碧(ラピス・ユーダイクス)から放たれた蒼色の極光に包まれたのだった。





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