初美VS……
――ローグ・ザンダイクは、自ら作り出した影の隅から、連合で呼ばれた勇者を観察していた。
窓のない部屋の中、蝋燭の灯火だけが光源としてあるだけで、あとは最低限の調度品と東西にドアがあるのみという、通路めいた死に部屋。そんな一室に閉じ込められ、いまは辺りを警戒して見回しているその勇者の名は、ハツミ・クチバ。触れば折れてしまいそうなほど儚げな見た目を持つ、まだ年端もいかない少女である。
だが、その見た目にのみ着目を置いて、早合点することなかれ。いくら儚げな見た目の少女でも、身にまとう武威は剣士のそれに相違ない。触れれば斬れてしまいそうなほど鋭さは、自身と同じく七剣が一人、薄明の斬姫ティータニア・ルート・アステルの持つものと似ているが、彼女とは違いギラギラとした強烈さが一切身から滲んでいないのだ。
剣士ならば、殺意斬意は必ずその身から滲み出るもの。それが戦いに臨むとき、警戒しているときなら絶対であるにもかかわらず、いま彼女はその境地にない。
その様はさながら、一点の曇りもない鏡か、静やかな水面か。武威を発しているにもかかわらず、殺気は抑え込まれ、逸る気持ちが見て取れず、であれば、その動きの兆しすらも読み取れない。
ひらひらとした部分の多い異世界の服に身を包み、魔族と戦う際にドワーフに無理を言って造らせたという優美な刀を携え、金の髪を微細な身じろぎで揺らしている。
その立ち姿に隙はない。明らかな鏡が相手の一切を過たず映すように。波の立たぬ水面が決して自ら揺らがぬように。さざ波すら起こる気配もないことすなわち、つけ入る隙がまるでなかった。
――しかしてそんな手練れに、こちらが講じるのは足止めとその戦闘能力の評価だ。
館の主に、もしいずれかの勇者が侵入したとき、測って欲しいと頼まれたものだが、
(まさか、この館にこうも易々と侵入されるとはな……)
公爵邸の警備は万全以上に万全だ。館に常駐する私兵たちは手練ればかりであり、猫の子一匹だろうと通さない。自分が侵入を試みても、おそらくそこそこに苦労はするだろう。しかし、現実はどうか。彼らは警備に気付かれぬまま、こうも簡単に入ってきた。
そのうえ、こちらも足止めすら満足に行えなかった。
館内の警備警戒は、自分の関わるところではない。しかし、もし他の勇者がエリオットを助けるために侵入したときは、その勇者と仲間の足止めをしてそれらの力の強弱を測るのが、自らの役目であったため、勇者に対しての警戒に携わっていたとは言えるだろう。
ゆえにその両方にかからなかったスイメイ・ヤカギの実力は、やはり佳絶と言うべきものだろう。この世界の魔法とは違う技術のその深淵を覗いた者というのを、まざまざと見せつけられた形である。
(彼にあの子を託したのは、やはり正解だったか……)
侵入した四人のうちに、リリアナがいた。聡く、真面目な彼女のこと。おそらくは彼のことを手伝っているのだろう。ふと見た彼女の顔には、生気と希望が戻っていた。見た限りではあるが、闇の魔法を使うこともなく、そればかりか、彼女を掴んで離さなかった闇の力もいまの彼女からはまったく感じられなかった。眼帯の端からわずかに見えていた闇魔法を使う魔法使いに例外なく与えられるあの烙印も消えていることから、呪縛から解き放たれたことは疑うべくもない。
それを考えると、やはり敵に回すには脅威である。
だが、今回は彼の実力の高さに助けられたとも言えるのかもしれない。もし彼がこちらの足止めに引っかかり、自分が三人を相手にすることになったならば、状況は格段に厳しいものになっただろう。勇者ハツミのまともな戦力評価などできず、そうそうに解放する羽目になったかもしれない。
だが、今回は彼女だけを釘付けにできたことで、当初の目的に適ったと言えるが――
(まさか自分から飛び込んでくるとはな……)
思いがけない事態に、笑いが止まらない。嘲笑の笑みではなく、これは剣士としての喜悦だ。同じ剣士としての武威を感じ取ったからこそ、彼女はわざとこの部屋に踏み込んできた。これを笑わずになんとするのか。誉れとせずなんとするのか。
なれば、やはり勇者の実力には侮りがたいものがある。特に現在、館に逗留させているエル・メイデの勇者エリオット・オースティンと、目の前にいる連合の勇者ハツミ・クチバに関しては、今次呼ばれた勇者たちの中では異常とまで言えるほどの実力を備えていると言われているのだ。
通常、勇者は女神の力の恩恵を与るだけの器というのがこれまでの認識であり、歴史を通して見てもそれはその通りだった。
だが、この二人は違う。もともとの実力のみで魔族と渡り合うことがすでに可能であり、魔族の将軍さえも圧倒できる力を持っていたのだ。ハツミ・クチバは剣の術理を逸した剣技を備え、一方エリオット・オースティンは剣のみではなく魔法にも秀で、暗示にさえかからない抵抗力を持っていた。
そんな実力を持つゆえ、容量の関係上女神の恩恵の全てを担うものとして、王国の勇者レイジ・シャナが挙がったのだが――
「見えない……」
耳に聞こえてくる勇者の声で気を入れ替え、雑念を振り払う。
部屋の真ん中にいるハツミ・クチバは、独りゆえの困惑を抱いているらしい。だが、『見えない』と呟いていたがゆえに、こちらの存在に気付いていることは間違いない。こんな状況に置かれれば、大抵閉じ込められるだけの仕掛けだと勘違いしてしまうものだが、彼女はこちらのわずかにでも滲んだ武威を読み取っているのだろう。いつ仕掛けられても構わぬよう感覚はすでに鋭く研ぎ澄まされており、まさに氷刃のような武威。
いまはこちらの手出しを誘っているのか、武威に触発された調度品が乾いた紙を破いたかのごとき音を放ち、ひたすらに騒いでいる。
(確かに、これは強烈だな)
ともすれば、こちらの剣士としての興味が惹かれかねない現状ではある。それは剣を己が道として歩んだがゆえの宿命か。
――やはり、いち剣士として、手合わせしたい。
ふいにそんなことを考えてしまったのが、マズかったか。勇者の斬意が高まったのを感じ取り、すぐに逃げるようにして別の影へと入り込む。
「そこっ!」
「……!」
それにわずか遅れて、構えた刀を発声と共に振り抜くハツミ・クチバ。その斬線が通った場所は、ついいまし方まで自分がいた場所に他ならない。おそらくは心の動きと絶気の不和から生まれた微細な機微を感じ取ったと思われる。
これまで不明瞭だった気配を明確に捉えることができたからか、ハツミ・クチバはその場で刀を構え直して、挑発めいた声音を以て言い放つ。
「どこの誰だか知らないけれど、随分絶気が上手いのね? 感心しちゃうわ」
「……救世の勇者にそう言っていただけるのは光栄だな」
もはや存在を隠す必要もなくなったと、姿は隠したままだが、言葉だけを返す。称賛を素直に受け取ると、ハツミ・クチバはまるで礼を取るかのように姿勢を正し、
「そう言うってことは私が何者か知ってて仕掛けてるんだろうけど……剣士として改めて名乗りましょう。私の名前は朽葉初美。もし差し支えなかったら、あなたの名前を教えて欲しいんだけど?」
勇者からの、剣士として尋常な名乗りである。未練はあるが、それに答える気はなかった。
黙っていると、残念そうな音を含んだ声が室内に響く。
「……名乗ってはくれない、か」
「尋常な勝負であったならそれも望むところだったのだがな。なにぶん今回は剣士として立ち会えないのだ。差し支えがある」
「それなら……」
と、ふいに見せた俯き加減は、失望ゆえのものか。そんな風に意気が消沈したように見えた次の瞬間、ハツミ・クチバは武威を爆発させるかのように一気に高め――
「遠慮はいらないわねっ!」
発生と共に、その場で振り抜かれる抜身の刀。白刃は届かない範囲にいるが、突発的な横斬撃に、危機感が否応なく喚起される。なれば慌てて身を低く屈めて対応すると、斬撃に生じた音が、背後から聞こえてくる。
「!!」
斬撃の余韻に目を閉じて揺蕩う剣士、彼女から一瞬目を離せば、背後の壁が、鋭い切っ先を走らせたかのように滑らかに切り裂かれていたのが見えた。
「これが……」
噂には聞いていたハツミ・クチバの剣。連合の剣士たちを残らず驚かせたという、間合いを無視した斬撃だ。腕の長さや得物の長さにとらわれず、斬線の先にある何もかもを掻っ捌いてしまうという剣の理非を逸した技術。それまさに、
「そう、まさに絶技だな」
先ほどの称賛に返すような形となった感嘆の声。だが、そんな剣士の栄誉にハツミ・クチバは自嘲気味な笑みを見せた。
「まさか? これで絶技とか思ってたら、うちのお父さんのとか見ちゃったら驚いてひっくり返るわよ?」
ということは、勇者の父はいまの斬撃を超えるのか。冗談を感じさせないその笑みに、ふっと背筋が冷えるのを感じる。熟練の戦士すら、その背を戦慄にうそ寒くさせるような、危機を予感させるほど不敵なもの。
「それがハッタリでなければ……そら恐ろしい話よな」
「ホントよ。頭おかしいって話じゃないわ。どこかの誰かさんじゃないけど、人間辞めてるもの。それよりも――」
と言って、彼女は何かを探すかのように室内を見回し始める。そして、
「そっちの見えない技の方が無茶苦茶なんだけど。そういうのって普通、気配を一度でも捉えたらだんだんわかるようになるんだけど。どうなってるの?」
「訊ねられても、悪いが種明かしはできなくてな」
「でしょうね」
さすが道理は弁えているか。ハツミ・クチバはそれ以上の追及もせず、あっさりと口を閉じる。当たり前だが、秘伝は口にできない相談だ。知りたいならば剣にて臨み、その術理を戦って解き明かすしかないのである。そして、それを簡単にさせるこちらでもない。逆にその剣の術理を解き明かして見せるという自負もある。それはこれまで培ってきた剣と魔導があるからゆえのものでもある。
……しかし、相手が相手。こちらも、返り討ちに果てる可能性がないとは言い切れない。長い金の髪を流す勇者、ハツミ・クチバ。異世界の服で風を切る肩は力まず、ほどよい脱力の仕方であり、余念なく辺りを見回し、いまは一つところに居を置かず、ひたすら動き回っている。その動きもなめらかであり、挙動と挙動の間に必ずできるはずのぎこちなさもまるでない。
――これは、骨の折れる仕事になりそうだ。
そう思いながらも、口元に笑みができるのを止めることはできなかった。
★
閉じられた室内で、姿の見えぬ相手の武威に気を配りつつ、刀を正眼に構える。
倶利伽羅陀羅尼幻影剣朽葉流剣士、朽葉初美は、こんな状況に置かれてもなお、心乱さぬよう自らの剣士の在り方を損なわぬように、一人ひたすら一振りの刀にならんと努めていた。
ミスリルの白刃に灯の明かりが映り、それに合わせてゆら、ゆらと影が動く。おそらく相手はその影の中に身をひそめているのだろうが、いかんせんこちらは魔術師ではないため、確実な居場所を見分けることができない。壁の四方には燭台があり、影はいくつもできている。床に伸びあがって張り付く平面の黒の中、ひきこもる術は甚だ不思議だが、これが神秘を操る者たちの道理なのだろう。
自身がここに飛び込んだのは、ここに剣士の気配があったからだ。さながらこちらに来いと誘うような武威だったがゆえに、剣士の矜持が刺激され踏み入った。
だが、入ったら入ったで、姿は見えず気配はわからず尋常な立ち合いは望めずで、このざまである。
剣士としては少々不服だが、しかしこういった趣向も悪くないと言える。話をした限り向こうにも剣士としての矜持と信念があるため、尋常ではなくても道に外れたことはするまいという確信があるのだ。
なれば、敗北はあったとしても後悔はあるまい。遺恨も持つまい。やはり、真っ当な戦いを望める相手に引き合えたことには、感謝してしかるべきだろう。
(声は……たぶん渋いおじさまね)
耳に聞こえた声から知るに、相手の年のころはおそらく父と同じくらいだろう。老けとはまるで縁のない、異常に若々しい父になぞらえるのもおかしな話だが、声音の落ち着きようだけでかなりの研鑽を積んでいることが窺える。そう、強さとは、行動の端々からわかるもの。こちらがどれだけ武威を放っても、向こうは柳に風と流して笑う余裕がある。常ならば多少なり声に動揺が出ようものだが、そんな揺らぎはまるでない。
挑発をかけ、隙を作らせようと心を砕き、鞘走りたい気持ちを抑え込んでいるのだが、いまだほとんど捉えきれない。
だが、この姿隠しの技に対しまったく対応が利かないわけでもない。この世界の技の中でもかなり特殊な部類にカテゴライズされるもののようだが、しかし自分の世界にも、いま相手が使っているものと似たような、隠形を根幹に置いた剣術は確かにある。
そう、
「音無古陰流無明剣鶯渡し……飛剣が飛んでこないだけマシか……」
――音無古陰流。それは俱利伽羅陀羅尼幻影剣と同じく、日本五大秘剣に数えられる剣術である。
日本五大秘剣。それらはGHQが戦後施行した武道教育禁止措置から逃れるため、同じ日本人たちにも秘匿され、陰に生き延びた尋常ならざる剣の技術。禁止措置が解かれて久しいいまも表の世界には出ることはなく、裏の剣とされている。
自身の会得する、倶利伽羅陀羅尼幻影剣不動刻。
音無古陰流無明一刀。
走覇典意流穹窿燕飛。
来蓮幻炎流双剣術火迅(らいれんげんえんりゅうそうけんじゅつかじん)。
隠神新明流氷天破。
そのうちの一つ、音無古陰流。自身の知る限りその剣の特徴を思い出して、いま相対する剣と照らし合わせる。
「――音無の剣は無音の剣。気配も姿もそこにはなく、武威も殺気さえも、さながら弓から撃ち出されたように、狙いすましたお突きや打突が文字通り飛んでくる」
――音無の剣は、いわば狙撃の剣だ。時代の節目節目、その裏側にのさばる悪党を闇から闇へと葬り去ってきた暗殺剣。その剣の術理を極めると、飛ぶような一刀を以て敵対する者の頭を割り、心の臓を過たず撃ち抜くと言われている。
この剣は音無の剣のように恐るべき打突は飛んでこない。しかし、燭台の灯が見せる光と影のその境界が動くと、それが斬線となってこちらを打つ。剣の姿が見えないところを同じとすれば、ある意味、似ていると言って差し支えはないだろう。
(鶯渡しは気配が感じられなくなって感覚やタイミングが狂わされるけど、これは逆に姿が見えなくなってる。ということは、やっぱりこの技はこの世界の魔法を併用してる……)
斬撃を回避しながら、可能性を瞬時に予想する。気配が消えたせいで視覚との過誤が生じ、混乱させられることはままある。だが、いま講じられている不可視の術は、剣術でできる範囲のものではない。
それに、斬撃の鋭さ、打ち込みのタイミングが加味されるわけだが――
(相手はかなりの実力。もしかして英傑召喚の加護を受けてる私と互角? なにそれズルい……)
勝手さまだが、そんな風に不平に思う。向こうからすれば、バックアップを受けている自分の方がずるいのだが――異常な強さを持つ者に不平不満を抱くのは、誰でも常々あるだろう。
だが、いまの自身にとってもっと気に食わないのは――
(やっぱり、手加減されてる。斬撃に殺気はないし、たぶんこれ木剣の感触……)
真剣勝負であるはずなのに、向こうは殺す気などさらさらないというような武威の出し方。しかも斬撃を受け止めると重さと手ごたえが金属のそれとは微妙に違う。まるで試合だ。自分に向かってくるすべての要素が、これは試し合いのものであると示している。
エリオットの場所へ行かせないための足止めなのか。全員の前に立ちはだからないゆえに、ひとえにそうとは言えないが、ともあれ。
「そっちがそのつもりなら、本気にさせてあげる」
「それは容赦していただきたいな。勇者殿に加え私も本気となると、簡単には終わらなくなる」
「あら? この世界の人たちが頼みにしてるらしい勇者相手なのに?」
「無論」
「ならますます本気にさせたいわ」
相手の剣を見極める守りから、攻めへと転じる。揺らめきの境界から飛来する剣撃をやり過ごして、その先にある影を斬りつける。
先ほどと同じくこちらに手ごたえはなかったが――
「む――?」
困惑ぐらいは与えることができたらしい。おそらく向こうは、太刀にぶち当てたはずの剣撃が、何故か刀身をすり抜けたように見えただろう。当てたはずの太刀は刹那に緑青の幻と霞んで、消え去ったに違いない。
――俱利伽羅陀羅尼幻影剣、夢幻緑青。鋭く研ぎ澄ました武威によって、幻である虚を作り出し、実の剣を見失わせてしまう技。剣士としての感覚が鋭ければ鋭いほどに、作り出された虚に引っかかる。
「これは、太刀が……」
影の内の剣士は、剣筋を見通せず困惑を呟いている。それは意図せず口から漏れたものか。
――果たして緑青とは、銅の表面に生じる緑色の錆を指すという。身近なもので言うと、十円玉や、大仏の表面に浮いたあの翡翠色の汚れである。
鉄の光沢を思わせる幻が、一瞬目の端に閃いて、目に焼き付いた緑青の残像が消えるがごとく霞むゆえ、その名が当てられた剣の技。
「そっちは見えない剣。こっちは当たらない剣。さ、どっちが強いかしらね?」
「ふ、ふふふ……」
聞こえてくるのは、楽しげな声。いまの技で、剣士の心が触発されたに違いない。武を志す者が求めてやまないものが、その武を競い、試すことだ。これまで自分が培ってきたものがどれほどのものなのか、果たしてそれが相手に通用するのか。常にそれを渇望している。
――相手の剣が興に乗ってきた。それを見極めたみぎり、口にするのは、
「我が心剣身幻に、三毒を破する技とせん。岩よりこの身を擲ちて、捨つる命は不動くりから……」
ほんのつかの間心落ち着け、唱えたるは陀羅尼。もとは不動明王を憑らせる法だが、しかしいま口にしたこれに呪力はない。だが、それでも不動尊は仏神であるがゆえに刀には無論神がかかり、それが持明者の王であるゆえに、憑いた刀は真言の呪力を持つと言われている。
心はすでに定まった。そんな中、黙り込んだのを好機と見たか影は、灯し火を揺らめかせて影を動かす。
それを目端で捉えて見極めて、こちらは剣を寝かせ掲げるようにして持ち上げると、すぐに鉄の音が耳朶を打った。両腕にかかる不可視の重み。受けた剣で押し切られることを避けるため、講じるは倶利伽羅陀羅尼幻影剣、雪垂り。
木の枝に積もった雪が、撓んだ弾みで枝先から滑り落ちるかの如く、脱力をわずかな合間用いて、相手の剣を刃先の方へと滑り落とす。
そして丹田に力を込め、集まった心気を発し、はっと吼えた。
「はぁああああああああああああ!!」
滑り落とした傾きから、押さえつけられることによって溜まった力を解放。腕を捻り、剣を大きく回すようにして相手の右肩のあるだろう場所へと叩きつける。だが、やはり明確な位置を掴めない以上、手ごたえはない。常ならばそこに人体があり、右肩があるはずだが、やはり影は影でしかないのか。虚空が太刀風の鋭い音をヒュンと一鳴きさせるだけに止まった。
体勢を少々崩したが、火影は揺れない。相手も不用意に仕掛けては来なくなった。剣を振り出すごとに捉えられ始めているため、もう無駄な牽制も出すわけにもいかなくなったのだろう。
刀を振り落とす。燭台の火影が反射し、赤みがかった斬線が落ちるが、虚を警戒しているのかやはり斬撃を以て受け止めることはしないらしい。
姿のない。蠟燭の火の灯る部屋にて踊るのその様、さながら一人きりの演武のよう。だが、いまだ肉を断った手ごたえはない。
ならば、切り裂けるまで刀を振るのみ。
一つの意にさえ専心すれば、水滴とて岩をも通す。その真っ向単純な意思のもと、臨む技は、
「……いくら姿は捉えられなくても、さすがにそっちだって部屋ごと斬ればどうしようもないわよね」
不敵な声は、まるで不動が打ち払うはずの悪魔が我が身に宿ったかのよう。
――俱利伽羅陀羅尼幻影剣、禅頂、涅槃寂静の太刀。
「はぁああああああああああああ!」
その無限にも及ぶ斬撃は、部屋を、原形を止めぬほどに切り裂くまで、ただひたすらに続けられたのだった。
★
屋敷内を捜索する最中、初美が「先に行って」という言葉を残し、一室へと消えてしまった。
何か彼女の気を引くものがあったのか。水明たちが初美を追って部屋を開けても、そこに彼女の姿はなし。さらに奥に進んだのか、それとも別の場所に飛ばされたのか、忽然と消えてしまった。
無論、調べればすぐに見つかるのかもしれないが――
「そりゃあ、さすがに無粋ってモンだよな……」
初美は一人で入っていった。一人で十分だと判断したのだ。それをこちらで勝手に見誤ったと判断するのは、いくら何でも浅慮だろう。こっちはこっちで何とかするという言葉を信じて踵を返すと、ティータニアが眉間にしわを寄せて訪ねてくる。
「スイメイ、どうですか?」
「見ての通りさ。俺たちは行こう」
「行くとは……このまま進んでよろしいのですか?」
「いいもなにも、俺たちはそのために来たんだろ? エリオットを助けるっていう目的を果たすためにな」
「しかしそれではいなくなったハツミ様が……」
初美を心配し食い下がるティータニアに、水明は特に心配などしていないという風に、
「初美なら大丈夫だ。あいつだって連合で魔族の将軍を相手にしてたんだ。そうそう遅れは取らないだろ。それに、あいつ自分から飛び込んでいったしな」
そう、自ら踏み入った通り、初美は意外と好戦的だ。普段は落ち着いていておとなしいのだが、そこは父親譲りというべきか。強い相手を見ると、手合わせしたくなるらしい。
彼女の父鏡四郎曰く、そういった意欲――つまり「貪欲な渇望がなければ、強くはなれない」という意思を、正しく持っているとのことだ。
だが、ティータニアはやはり落ち着かないらしく、
「先にハツミ様を探した方がいいのでは?」
「よっぽどの相手ならまず館ごとぶった斬るさ。それに、もしかしたら俺たちが見つけるよりも、初美が飛び出てくる方が早いかもしれないぜ?」
「館ごと、ですか……」
「それができないとは思えないんだよな……恐ろしいことによ」
舌をべろりと出して身震いし、肩を抱く所作を見せる水明。冗談めかすようにおどけてはいるが、言ったことは真実だ。
刀一振りでこの三階建ての館を斬る。聞けばあり得ないと誰もが口を揃えて言うだろうが、そこは尋常ではない剣士の実力だ。初美は高層ビルを剣一本で縦に割るあの男が認めるほどの剣士である。あれを親のひいき目として差し引いたとしても、三階程度ならば楽勝だろう。
ならば、エリオットを捜すのが優先されるという話。捜しに来た者がいなくなったからそちらを捜し出してでは、いつまでたっても目的は果たせないし、それに、
「初美のヤツがことを済ませて出てきたときに、まだ見つけてませんだったら、なに言われるかわかんねぇって」
「……まあ、それでよろしいのでしたら、私もこれ以上は何も言いません」
そう呆れ声を発して、砂除けのマントを被り直し、先へと進むティータニア。彼女のあとを追おうと水明も歩み出すが、ふとリリアナが続かないことに気付いた。
リリアナは、気になることがあるかのように、ちらちらと初美がいなくなった部屋を窺っている。
「リリアナ、どうした?」
「……いえ、なんでもありません」
「にしては、随分落ち着きがなさげだが?」
訊ねると、リリアナはトコトコと進み、扉を開けて、誰もいない部屋の奥を見る。そして、やはり何もないことを確認し、静かに扉を閉めた。
さて、何を思ったのか。すると彼女は口を開き、
「……どこか、大佐の術の気配に、似ているような気が、しました」
「ローグさんのか?」
「はい。どこか、その、雰囲気と言いますか……」
言葉にはできないわずかな機微が、彼女の離愁を駆り立てたのか。養父を慕う思いは根強く、それだけ彼のことになると機敏に反応するのだろう。
確信があると言うよりは、まだ似ているにとどまっているだけのようだが。
「どうする? 調べるか?」
「……いえ、勇者エリオットの捜索を、優先させましょう」
「わかった」
とまれ、優先されるべきを優先すると、初美が入った部屋に関しての話はこれで決着となった。
そして、再び歩を進め始める一同。各々油断せず、各人の警戒を以て先を進む中、水明は先行くティータニアに訊ねる。
「ティア、この館については知ってるのか?」
「以前訪れたことはありますが、そのときとはだいぶ内装が変わっています。おそらくは王室に無断で造り替えたのでしょうが……だいたいならば」
わかる、か。王族ゆえ、貴族の屋敷の内装にも知識があるのだろう。もっとも家のつくりなどは、大抵基本の造りがあるため、そこからそうそう変わることもない。
だが、
「スイメイ、隠し部屋があると手が付けられません。それに関してはそちらで把握できますか?」
「そっちはあらかじめ調べているから問題ない。というかそもそも隠し部屋っぽい空間はなさそうなんだよな……地下もワインセラーっぽいだけだし」
「そうですか。では――」
彼女が何か言いかけたみぎり、水明の警戒網に気配が引っ掛かる。
「止まれ」
「!?」
「…………」
ひどく冷え切った声を急にかけたためだろう。ティータニアは驚いて足を止め、無論水明の声音に慣れているリリアナは、静かに袖口から魔杖を手元に滑らせる。
廊下正面には壁があるのみ。それ以外には、左方向への曲がり角だ。
「誰か、この先に?」
「曲がり角の奥だ。動く様子はないからな、待ち構えてるのかね」
「どうし、ます?」
「ま、進むしかないだろ。何かするのはそれからでいい」
待ち伏せているということは、向こうも気づいているだろう。出会い頭に何かしてくる恐れもあるが、何者かわからない以上、こちらが先に手を出すのはよろしくない。こちらはまだ確固とした大義を持って侵入しているわけではないし、無論エリオットが見つかっても、その扱いによって理由になるかどうかは変化する。それに館の中であるため、守衛や私兵以外の者である可能性もあるのだ。
最悪こちらの立場だけが悪くなるということもあり得る。そうなるのはあまりよろしくない。
もちろん防御行動はすぐに取れるようにしてあるため、安全に関しては十分だ。
水明が口にした通り、曲がり角を行くと人影。通路の真ん中で静かに待っていたのは、むっつりとした表情で武装する一人のメイドだった。
水明はその姿を見てすぐに暗示をかけようと踏み出すが、何故かティータニアに手で制される。
しばし黙っていると、メイドがその表情のまま、
「ここは、ルーカス・ド・ハドリアス公爵閣下のお屋敷にございます。館の主人の招待なく踏み入るとは、物取りか夜盗の類でしょうか?」
トゲを多めに含んだ訊ねに、答えたのはティータニア。
「私はアステル王国第一王女、ティータニア・ルート・アステル。この出で立ちと名乗りを前にしても偽りと疑うならば、この両の剣にて信を問うことになるが、よいか?」
ティータニアは名乗りと共に殺気を溢れさせる。本人であることを証明するために武に走るのは、彼女が七剣の一人ゆえか。一方メイドの方も、ティータニアの堂々とした立ち振る舞いと容貌、その武威で本人だとわかったか。その場で静かに跪いた。
「失礼いたしました姫殿下。私はこの館で働かせていただいている使用人にございます。姫殿下を夜盗が如き下賎な者と心得違いをしてしまった段、平にご容赦を」
「私は救世の勇者、エリオット・オースティンがここにいらっしゃると聞いて参りました。彼はここに?」
ティータニアは少々高圧的に訊ねる。簡単には引き下がるつもりもないゆえのものだろう。とまれその言葉に対し、真っ当に回答が来るとは思っていなかったが、
「それに関しましては、すでに旦那様から言付かってあります。どうぞこちらへ」
「あ――?」
むっつり顔のメイドは答えになっていない答えを口にしたが――まさかおとなしく案内してくれる様子。それには水明もリリアナも困惑を隠せなかったが、一方ティータニアは落ち着き払った態度でそれに応じ、メイドのあとを追い始める。
そんな彼女に声をかけると、
「スイメイ、参りましょう」
「そっちがそれでいいならいいが……」
まだ疑念は晴れないが、ひとまずはティータニアを信じることにして歩き始める。そして、わだかまった疑念を、メイドにぶつけた。
「それで使用人さん。すでに言付かっているってのはどういうことだ?」
「もしもティータニア姫殿下が館に現れることがあれば、隠し立てせずお通ししろと、閣下から」
言われていたのか。ふとティータニアの方を見ると、不服そうに目を細めていたのが見えた。公爵とは仲が悪いと言うが、これでは馬が合わないというよりは、彼女が一方的に敵視しているだけなのかもしれないようにも思える。
「公爵は、私がここに来ることをすでに予想していたと?」
「もし訪れたときの対応についてでございます。まさか本当に姫殿下が直々に訪れるとは、私も驚いています」
にしては、眉筋一つ動かさない。そういう風に訓練されているのだろうか。
「なるほど、侵入されるってことも事前に予想はしてたってことか」
エリオットを抑留しているかもしれないのだ。誰かが助けに来ることは想定しているだろうし、ティータニアも黎二に付いているため、勇者との繋がりがある。それを鑑みれば、彼女がここに来るのも一つの可能性として考えられるだろう。
だが、そうなると、だ。こうしてあっさり解放することが不思議でならない。どういうことなのかわからず、答えを求めリリアナに視線を向けるが、彼女もわからないと首を振るばかり。
そして、ささめき声で、
「……なんともよくわからんな。初美は引き離す、でもエリオットのもとへは連れていく。罠にしてはそういったような感じじゃない」
「……私も、読み切れません」
「……意図も行動も一貫してないのが一貫してるってことは、変わらないんだがな」
また増えたもやもやに難渋していると、やがて目的の場所らしい一室へとたどり着いた。
メイドが扉をノックすると、部屋の中から若い男の声が返って来る。声には聞き覚えがあり、声音の調子から無事そうだなと判断していると、メイドが扉を開けた。
しかして水明たちの目的であるエリオットは――ソファに腰かけ、優雅にお茶をすすっていた。
彼は気付くと、彼らしいわずかにニヒルさが混じる二枚目の笑顔を向けてくる。
「――まさか、君たちが来るとはね」
「意外と元気そうだな」
「ああ。この通り、丁重にもてなされてるよ」
そう言って金の髪を気障ったらしく払って、大仰に手を広げるエリオット。無事なことを伝えたいのか。だが、これでいよいよもってわからなくなってきた。
エリオットはお高そうなカップをソーサーに戻すと、改まった態度でティータニアに礼を取る。
「ティータニア王女殿下。あなたのお手を煩わせてしまい誠に申し訳ありません」
「いえ、エリオット殿もご壮健そうで何よりです」
二、三言葉を交わし、会話が終わったのを見計らい、水明が訊ねる。
「で? お前なんで大人しくもてなされてるんだよ?」
「それしかやることがないからね。ぼくもここから出られないし」
「出られない? なんで脱出しない? 拘束されてる様子もなし、お前にとって出るだけならそう難しいことでもないだろ?」
「確かにやろうと思えばできるさ。でも、勝手にいなくなったらクリスタを危険に晒すだろうって脅されてさ」
「なるほど。にっちもさっちもいかなくなったと」
引き離されてしまえば、どうすることもできない。守ろうにも守れないのだ。
とまれ、それを聞いたティータニアが額に筋を作り、憤慨を露わにする。
「救世教会の神官を人質にしようとはなんと罰当たりな」
「あの男、あまり信心があるような貴族様ではないみたいですからね」
「で?」
「少しここで待ってくれればいいって話だからね。しゃくだけど、こうするしかなかったのさ」
「それは、何故?」
「さあね? ぼくも捕まったときは、最初は何かされるのかと思ったけど、こうやって不自由なく普通にもてなしてもらってるんだ。一体なんなんだろうね? もちろん訊いても教えてはくれなかったよ」
彼も、よくわからないようで不思議そうに唸りながら首を左右に振っている。
(単に引き留めるのが目的だった? いやまず引き留めてどうすんだよ?)
エリオットを動けなくさせるのが目的だったのか。だが腑に落ちない。彼がいなくなった折、あったことと言えば――真っ先に挙がるのが魔族との戦争だ。となれば、それに参戦させたくなかったということになる。
「そういや初美のヤツもなんか足止め食ったって言ってたなぁ」
「ですが、勇者れーじは、いましたよ?」
「魔族にレイジ様を倒させたかったということですか?」
ティータニアの言うように、黎二一人ならば、魔族でも倒せる可能性は確かに高まるだろうが――
「いや、それはないな。結局勝てるように細工してる。普遍の使徒の連中が助けに来てたからな。まあ、普遍の使徒とも関係ない勢力だっていうなら話は別だが」
「そっちはそっちでいろいろ情報を持っているみたいだね」
「ああ、あとで話すさ」
だがそれでも答えは出ていない。普遍の使徒であるなら、勇者をかどわかす計画の一環になるはずだが。そういったわけでもないらしい。
(どこかで計画が変わったってことか? 攫う必要がなくなった。だが。まるで何かタイミングを計っているような……)
水明が思考しながら低く唸っていると、エリオットがメイドの方を向く。
「それで、ぼくはもう帰っていいのかい?」
「はい。ご随意に」
「エリオット殿を解放すると?」
「旦那様からはそう言付かっております。ティータニア様のご命令であれば、逆らうことはできないと」
「王家に従順なところは、変わらずですか」
ティータニアがため息のように吐き出す中、水明が訊ねる。
「なんなんだ? お前らは一体何を考えてる?」
「旦那様の大望に関しましては、私も存じ上げてはおりません」
「それは、アステルに仇なすことじゃないのか?」
「それは決して」
「でしょうね。あの男に限ってそんな血迷ったことはしないでしょう」
むっつりとした様子で言うティータニアに、水明は胡乱げな視線を向け、
「……こんなわけわかんねぇことされてても、信頼は厚いのな」
「正当な人物評価と言って欲しいですね。嫌いな相手でも、客観的に評価できる目線を持っていると」
「悪事を暴いてやるとか言ってたヤツの言葉じゃねぇな」
「さて、そんなこと言いましたか?」
「へーへー覚えてないんですねーつごーのいい頭でございますことー」
ティータニアに嫌みを返して、水明は肩をすくめる。まあ、実際これで目的は達した。あと、やるべきことは、余剰ではあるが――
「ティアはこいつを頼む。俺は外に行くわ」
「外で何をするのです?」
「俺も一応恨みがあるからな。一発ぶん殴って、問い質さなきゃって思ってな。外じゃあもう、始めてるようだし」
「始めている? ですがそのような気配は……」
「上手くわからないようにしてるようだな。たぶんこれも初美が追ってったヤツの仕業だろ」
すでに水明の方では、外で戦闘が始まっていることを感じ取っている。多人数が動いているため、ハドリアスが私兵を動かしたのだろう。
水明が背を向けると、ティータニアが、
「ではその際には私の分も入れて、二発分殴っておいてください」
「オーケー任された。こっちが終わるまで、そっちはゆっくりしててくれ。んじゃ、リリアナ、あとはよろしくな」
「はい」
水明がその場から消えようとしたとき、ふとティータニアが、
「スイメイ、あなたも剣を使うので先に警告しておきますが、公爵と剣で戦う気なら気を付けなさい」
「なんだ、あのお貴族サマ、強いのかよ?」
「ルーカス・ド・ハドリアスは、七剣の頂点。この世界最高の剣士です」
「……は?」
間の抜けた表情のまま、リリアナの方を向くと、彼女も頷き。
「ルーカス・ド・ハドリアス公爵は、七剣の頂点に君臨する男、です。つまり、ここ北方最強の剣士、です」
「お、お前らそういうのはもっと早くに言えよ!!」
そう叫び返して、水明はハドリアスと対峙する黎二のもとへと走ったのだった。