暗闇への招待
エリオット・オースティンは現在、アステル王国は西方領、クラント市に到着していた。
救世教会から依頼された慰撫も兼ね、アステル王国を経由して北方は王国トリアへ向かう途上にある。そんな彼の目の前にはいま、一軒の館があった。
時刻は夜。魔力光を発する屋外灯の下で、昼間に自分宛てに届いたという書状にもう一度目を落とす。
「――やれやれ、着いてそうそう、ご招待とはね」
げんなりと息を吐いたのは、勇者の忙しなさに対してだ。到着して早々、まるで見計らっていたかのように書状が届けられており、その書状を送った相手こそ目の前にある館の主であった。
館の主の名は、ルーカス・ド・ハドリアス。ここクラント市の領主にして、アステルでも大きな権勢を誇る大貴族である。
救世教会の設定した領主への挨拶は明日だ。だがその予定よりも先に、面会の予定を向こうが組んだ。エリオットは断るわけにもいかず、クリスタを教会の宿舎へと置いて、こうしてここに訪れている。
門を守る衛士に事情を告げ、書状を見せると、すぐに奥に通された。
ハドリアスがいるという私室の扉をくぐると、部屋の中は薄暗く、光源となっているものは月の光のみ。一方呼び出した当人は執務机に就いており、そして、グラツィエラすら圧倒するほどの目もくらむような武威を放っていた。
それにはエリオットも面をくらったが、表に出さぬよう努め、前に立つ。
武威は確かにエリオットに向けられている。しかしハドリアスはそんな事実にそ知らぬふりをして、エリオットに声をかけた。
「エル・メイデの勇者エリオット殿。突然の呼び出しに応じていただき感謝申し上げる。ところで、ご機嫌はいかがかな?」
「さっきまで普通だったのが、ここにきて一番底まで叩き落とされましたよ」
「だろうな」
エリオットの嫌みに、鼻を鳴らして答えるハドリアス。そんな男を前に警戒心を秘めつつ思う。
(やはりこの男、わかってて……)
ネルフェリア皇帝のように、常に威圧感をまとっているものとは違い、ハドリアスの武威は『誰に向かって』というおおよその指向性を持っていた。試すつもりだったのか、いずれにせよ試された方は気分のいいものではない。
エリオットは彼に疑念を抱きつつも、しかし表面上はいつも通りにして訊ねる。
「明かりをつけないのですか?」
「月の光の下でというのも風流だと思ってな。差し支えなければこのままにさせて欲しいのだが」
ハドリアスの不思議な機微に内心首を傾げつつも、エリオットは了承の頷きを見せる。
「それで、今日はぼくになんのご用事で?」
「領主として、挨拶をしなければならないと思ってな」
「挨拶であれば、後日予定があったはず。それに、これが挨拶とは随分なご挨拶ですね」
「それについては、勇者レイジにも言われた覚えがある」
そう言って、薄ら笑いを浮かべるハドリアス。そんな彼に、エリオットは内心の不機嫌を少しだけ露わにして告げる。
「用件がそれだけなのでしたら、帰らせていただきます」
「まあ待て。用はもう一つある。貴様を今日呼んだのは、貴様と二人で話がしたかったからだ」
「きさ――。……なんでしょう?」
咄嗟に口に出そうになった「礼を失した物言い」への文句を噛み殺して訊ねると、ハドリアスは執務机の上で手を組み直し、
「今日は貴様の存念を伺いたいと思ってな」
「存念? ぼくの思うところなど聞いてどうするのです? もしやぼくが何かこの国に害を成すとでも思っていらっしゃるので?」
「いいや、そんなことは思っていない。ただ、貴様はどうしてこの世界を救おうなどと思ったのかと、気になってな」
貴族特有の、戯れか。玩弄するような物言いだが、エリオットは正直に答える。
「ぼくは別にこの世界を救いたいわけではありませんよ。救いを求める人々を助け、ひいてはそれが世界を救うことに繋がると言うだけ。そこまで考えてのものではありません」
「…………」
「お気に召しませんか?」
ハドリアスには、得心の行かない答えだったか。そんな風に考えるが、何故かハドリアスは頭を振った。
「問いかけを間違ったな。貴様はなぜ、魔族を倒そうなどと思った?」
「……? いま言った通り、救いを求める人々を助けるためです」
「そうか。それは崇高な考えだな」
「やはり何か気に入らないとでも?」
「ああ、おかしいな」
嫌み交じりの婉曲な返答の連続に、声に少し苛立ちを滲ませるエリオット。
「誰かのために立ち上がるということは、人として自然なことだと思いますが?」
「だが、貴様には関係ないだろう? この世界の危機など、別の世界の人間である貴様にはな」
「確かにそうですが……」
確かにそうだが、エリオットにも矜持はある。エリオットとて、自分の住む世界では名の知れた勇士だ。そこで積み重ね培った矜持や価値観は、決して己が利ばかりを是とするものではない。確かに関係はないだろうが、できた縁は、無下にはできない。
だがその考えも見抜かれているのか、
「ではなぜそれが魔族を討つということになる? 別に魔族と戦わなくとも、この世界の人間を助けることはできるのではないか?」
「ぼくが魔族と戦うのは、そう請われたからです。そして、ぼくには戦う力がある。だから、応じたのです」
「そうか。そこは他の者と同じなのだな」
「……?」
ハドリアスの不可解な物言いの真意に対し、エリオットが答えを出すのに苦慮していると、
「……貴様はあの男より理解がある。世界というものの在り方に対して」
「……?」
「先ほどの貴様の答えを踏まえた上で訊ねるが、魔族を倒すと決めた意思が、どうして己から出たものだと思った? 見も知らぬ世界とそこに住まう人々を救うことになんの疑問も抱かないことを、貴様は不思議には思わなかったのか?」
「不思議も何も、戦おうと思ったのはまごうことなくぼくの意思です」
そう、魔族との戦うことにしたのは自分で決めたことだ。確かに、意欲が底を尽きないのは、疑問にも思ったことはあるが――
「違うな。貴様は、いや貴様たちは操られているのだ」
「操られている? 誰に?」
「女神だ。貴様らがこの世界で戦うと決めた意思には全て、女神の思惑が絡んでいるのだよ」
「…………」
ハドリアスの断言に、エリオットは一時口を噤んで考える。この問答には、一体何の意図があるのか。自身の戦う理由に始まり、ここにきて女神を出す。話の終着がまるで見えず、意味を持たない言葉遊びの延長上のようにも思えるが、どうして一笑に付すことができないのは、何ゆえなのか。
「それがどうだと言うのです? ぼくら勇者は女神から加護を受けるゆえ、介入があるのは当然のこと。それに、人々を助けるためならことのほか悪いことのようには思いませんが?」
「貴様の言う通りだ。だがそれが、人々のためではないとしたら? 勇者の存在が女神の私利私欲のためのものだとしたら、貴様はどう思う?」
「異なことをいいます。神格は存在の大きさゆえ、人のように細かい意志は持たないものだ。神格に欲などという余分なものはない」
断言した。だが、言葉を口にすると共に、じわりと汗がにじんだ。そう、気付きたくない真実が、すぐそこまで迫って来ているゆえに。
だが、その真実を求めようとするものは、容赦はなく、
「そこまで神の性質をわかっているなら、貴様とてわかっていよう。確かに神は欲を持たぬ。だが、神とは結局なんなのだ? それらは一体何をするものだ?」
ごくりと唾を呑み込むエリオット。神は何なのか。何をするものなのか。以前、スイメイ・ヤカギと交わした問答を思い出す。この話は、あのときの彼との話によく似ている。神に対してどう思っているか問うた、あのとき。結局スイメイ・ヤカギは濁したし、自分は彼のことをこの世界の人間だと勘違いしていたゆえ追究などしなかったが、続けていればもしかすればこんな話に行き着いていたのではないか――
「エリオット殿」
「……自らの力を高めるため、権能を振るう存在だ」
「そんな存在が自らの権能を分け与えた者共を自由にさせると思うか? 貴様も心の底では女神に踊らされているとわかっているのだろう?」
そうだ。確かに自らの意思だけではないのかもしれない。やらなければならないと思ったのは、何か暗示のようなものが働いていたからだとも考えられる。
しかし、
「……それがいけないことなのか?」
「ぬ?」
「確かに自らの意思だけではないかもしれない。ぼくたちの戦いは女神の専横の結果なのかもしれない。だが、結果それで人々は救われる。ならば、そう悪い話ではないはず。仕方のないことと言える」
「その仕方のないことで、人は可能性を奪われている。女神に管理されていることで、弱い命を救う手段が潰され、いつも切り捨てられる。貴様はそれも、仕方のないことだと言うのか?」
「どういうことです?」
問いかけると、しかしハドリアスは問いに問いを返す。
「先に聞かせてもらおう。貴様の世界はどんなところだ? 人々が日々の暮らしをより豊かなものとするために邁進し、そしてそれが叶えられている世界か?」
「何を言っているんです。それは当然――」
そう、上を目指すのは当然のこと。発展は、人が生きて行く上で、至極当たり前のことだ。だが、いまのハドリアスの言い分では、その在り方に疑問を持っているような――
そこで、気付く。この問いの先にあるだろう、世界の機構に。
「……まさかこの世界は」
核心を訊ねようとした瞬間、執務室のドアが開かれ、そこから数人の兵士たちが現れる。
淀みなく整列する彼らを一瞥して、ハドリアスに問いかけた。
「なんのつもりですか?」
「話しはひとまず終わりだ。貴様を試させてもらう」
「暴力的なことでしたら、救世教会に訴え出させていただきますが?」
「それは、ここを出ることができればだろう?」
「彼らでぼくを止めることができるとでも?」
不敵で傲慢とも取れる物言いだが、相手はただの兵士たちだ。束になったところで、女神の加護を受ける自分には敵わない。
そう考えていると、どうしてハドリアスが机から離れる。
「貴様の相手は私だ」
「公爵様直々とは、怪我するとお困りになるのではないですか?」
「まずは打ち込んでみるがいい」
エリオットの嫌みを無視して、ハドリアスは挑発する。領主の館で争いは不味いが、応じなければ物事は進まないだろうと判断し、剣を抜いて斬りかかる。
だがいつの間にか抜かれていた剣によって、エリオットの剣は止められた。
「なっ!?」
「ほう……やはり他のものとは違い飛びぬけているようだ」
「ぼくの剣を片手で止めた……だって?」
当てるつもりはなかった。寸止めで終わらせるつもりだった。だが、剣の速度は普通の人間が見切れるような速さにはしなかった。それゆえ受ける羽目になったのは、大きな驚きだった。
「勇者。よもやその程度ではあるまい? 帝国の第三皇女殿下と戦ったときも、加減していたのだろう?」
「……何故それを?」
「知り得る術がある、ということだ」
エリオットは重ねた剣に力を込め、反発によって自ら飛び退く。そして、一度剣を鞘に収めた。
……この男、得体が知れない。無論、何を考えているのかも。このままでは、何が起こってもおかしくはないだろう。そう、捕まることも、殺されることも、あり得ない話ではない。
そう判断したエリオットは腹を決める。いまやるべきことは、ここを全力で切り抜けること。徒手空拳の状態で、右腕の袖を捲る。すると、エリオットの腕に白銀のガントレットが現れた。
そして、最後通告。
「……ぼくが本気を出せば、館もただでは済みませんよ?」
「それは、力を出し切れればの話」
「いいでしょう。ぼくの力、あなたにお見せします」
電撃がまとわりついた。私室の調度品が、雷撃に打たれ壊れていく。これでもまだ抑えているほうだが、ハドリアスはそれすら見抜いているようで、
「大きな力だ。なるほどこれでは街の中心では使えないわけだな」
「当然です。英傑召喚の加護の力も加わって、力が増しているのです。これを街中で使えば、無関係な多くの人に迷惑をかける」
言葉のあと、ハドリアスに打ち込もうとしたそのとき、
「それだけの力があれば十分だな」
「十分……?」
「加護のことだ。それだけ身体に馴染んでいれば、必要な分は満たしているだろう」
「何の話かは知らないが、いまさら止めようといったところで」
「かまわぬ。なにせ、止める役は私ではないのだからな」
そんな風にハドリアスが思わせぶりな言葉を発した直後、エリオットのうなじに衝撃が走った。
「な、に……?」
上げた声は、疑問の声。不意な打撃で朦朧としはじめた意識のまま、全力で自分の感覚に問いかける。後ろの兵士が動いた様子はなかったはずだ、と。
だが、
「――さすがだ孤影殿。その勇者にすら気取られないとは。付けられた異名は伊達ではないな」
耳に聞こえたのは、聞き覚えのある呼び名。帝国にいたとき、時折軍人たちがその者のことを、孤影と言って怖れていた。その者は、そう、灰色混じりの黒髪をオールバックにした男。鳶色の双眸を厳格な顔に埋め、気配を発さず影法師と同化したような、帝国最強の剣士にして暗殺者。
「ろ、ローグ・ザンダイク……一体どこから」
「最初からだ。後から入ってきた兵士に気を配っていたのはいいが、他に誰か潜んでいないかを考えなかったのは、勇者らしからぬ失態だな」
「く……」
身体の支えが利かなくなり、震えたまま膝を突く。ローグの忠告を耳にしながらに、やがてエリオットの意識は泥のような闇に呑まれていった。
意識を失ったのを確認したローグは、エリオットを抱え、ソファに寝かせる。
そしてハドリアスに問いかけた。
「……私が手を下さずとも、良かったのではないか?」
「私よりも、孤影殿の方が確実だ。勇者の力は侮れぬよ」
「その力を真正面から受けようとした身で、どの口がいうのやら」
むっつりと返すローグ。彼の態度は不遜だが、話し方については双方納得がいっているのか嫌そうにはしておらず、控えの兵士も何も言わない。
そんな中、ふいにハドリアスがローグに問う。
「しかし、よかったのか? 我らと同じ、普遍の鍵の使徒となって」
「愚問だ。私の剣は、ゴットフリート殿に預けた。それは貴殿もそうだろう?」
「いいや」
「……どういうことだ?」
「私の剣は、すでに捧げた方がいるのだ。それに関して嘘は付けん。もちろん、あの方に対する敬服を忘れたことはないがな」
そう言って誰を思うのかハドリアスは。ローグには、彼が視線の先に幻視した相手が見えたような気がした。
「……ハドリアス殿。貴殿に伝えておかなければならないことが一つ」
「聞こう」
「魔族が動いた。すでにトリアを呑み込み、帝国に向かってきている」
「そうか。やはりあの方の予想通り動くか」
嘆息するハドリアスに、ローグは常々思っていた疑問をぶつける、
「いいのか? 当初の予定とは少し違うのだろう? アステルへの魔族侵攻や、その後のレイジ殿の自治州行き。連合の勇者の奪還失敗。当初の予定とは違い、無視できないズレがある」
「それに関してはその都度修整が図られているゆえ問題はない。それと、だ。先に全ての勇者をこちらに引き込む手筈だったが、それは少し変えるそうだ」
「どういうことだ? それでは帝国は勇者なしで魔族に立ち向かわなければならなくなるぞ?」
「いや、そうはならん」
「……む。では連合の勇者を帝国に? それともやはり魔族の討伐は当初の予定通りこの勇者殿にやってもらうということか?」
ローグはエリオットを横目で見るが、ハドリアスは首を横に振る。
「いや、その役目は勇者レイジに担ってもらう」
「しかしレイジ殿ではまだ力量が足りないのではないか? 魔族の大軍相手では荷が重いだろう。帝国とてあのときの策で有力貴族が減った。エリオット殿でなければつり合いが取れるとは思えん」
「力量に関してはかまわないとのことだ。上手く勝てるよう手は回すとのこと。それに、いまは勇者レイジの方が有名だ。アステルで一万の魔族を倒したことになっているゆえ、名声は勇者エリオットよりも高い」
「だが連合の勇者も、魔族の将軍を倒しているぞ?」
「連合の勇者ハツミは此度の魔族との一戦は痛み分け。ミアーゼンでの騒ぎも抑えられなかった。それだけで名声には傷が付く。その一方で、勇者レイジは自治州で古い勇者の武具を受け継ぎ、襲ってきた魔族の将軍を追い払った。その上、今度帝国に押し寄せる魔族を追い払えば」
「確かにレイジ殿が最も強い勇者と知れ渡るな」
現在、黎二の勇者としての功績は、エリオットに迫るものがある。実力に比べいささか過ぎたものではあるだろうが、そんなことなど勇者を盲信する民衆にはなんら関係ない。
納得した様子のローグを見て、ハドリアスがエリオットを一瞥する。
「大事なのは民衆の信仰心だ。確かに魔族を追い払うためには力があることが重要だが、それに関しては二の次だ。現に連合の勇者の方は元々の力が強いためか、女神の加護があまり芳しくない。しかし、着々と頭角を現してきている勇者レイジなら、女神はあの男に目を付けるだろう。無論他の勇者も使わせてもらうが」
そう区切って、ハドリアスは窓の外の月明かりに視線を向ける。
「――あの勇者レイジには、せいぜい名を挙げていただこう。女神の恩寵を最も受ける、稀代の勇者としてな」
祭り上げられるのには、苦労が付き物だ。実力が伴わなければ、それは大きくなって本人に返って来る。
ローグは黎二に対し、少しばかり気の毒だなと呟いたのだった。