瑞樹さん困ったことになる
力を使い過ぎた黎二に、再びイルザールが迫っている。今度こそは、逃れられない。その状況を目の当たりにした瑞樹は、いつかのときのような焦燥に駆られていた。
そう、これはラジャスと戦ったときと同じだ。また、自分は無力を味わっている、と。だが、この場では、足手まといであるため後ろに下がらなければいけない。こんなことで、彼を助けたいと言って付いてきた意味が本当にあるのか。そんな自問が、彼女の頭の中で浮かんでは消えていく。
――戦いたいか?
不意に、どこからかそんな言葉が聞こえてきた。
「え? だれ?」
苦痛に汗を流すファイレイを支えながら、聞き覚えのない声の主を探し、辺りを見回す。だが当然、この場にいる者の声ではないゆえ主もいない。
そんな状況に困惑していると、再びどこからともなく声が響いてくる。
――教えろ。お前は戦いたいのか? そうでないのか?
どう言った意図の問いなのか、わからない。だが瑞樹の答えはとうの昔に決まっていた。
「私も、戦いたい。みんなの力になりたい……」
その嘘偽りない本心を口にした直後、瑞樹の意識は闇に呑まれたのだった。
★
事態がまたしても急変したのは、黎二が膝をついたそのすぐあとだった。
どかーーーーーん! というような大きな音と共に、黎二とイルザールの間に挟まれた空間が炸裂する。
「う、うわ……」
「っ、今度はなんだというのだ!」
何の前触れもない爆発に、黎二は顔を伏せる。一方、イルザールはその場から飛び退くが、爆発はどんどんとイルザールを追い詰め、石窟の端まで彼を追いやった。
そして、後ろから聞こえてきたのは、
「フハハハハハハハハ!!」
聞き覚えのある声で、いつか聞いた覚えのある哄笑が、石窟内に響き渡る。
降って湧いた嫌な予感に黎二はすぐさま振り返ると、瑞樹が立ち上がって腕を組み、傲岸なポーズを決めてその場で高笑いを発していた。
「み、ミズキ!?」
「お、おい急にどうしたのだミズキ!?」
同じように瑞樹の方を向いて困惑の声を上げるティータニアとグラツィエラ。しかして彼女たちの発したその問いに返ってきた答えは、
「我は瑞樹ではない!!」
その意味不明な発言に、誰しもの頭の中に「!」と「?」の文字が思い浮かぶ。
そして、「じゃあ誰なんだよ!?」 という全員の疑問に返ってきたのは、
「――皆の者! よく訊くがいい! 我が名はイオ・クザミ! この三千世界の全てを統べる究極の王、九天聖王イオ・クザミだ!」
そしてその発言のあとに続いたのは、黎二の絶叫だった。
「ちょぉおおおおおおおおおおお!? えぇえええええええええええ!?」
黎二は魔力が尽きてへたり込んでいたのも忘れ、とびきりの大声を上げる。彼にとってこの状況は、まさかのまさかだった。度肝を抜かれ、平静を失った彼を見て、またも困惑するティータニア。
「れ、レイジ様?」
「み、瑞樹さん瑞樹さん! それ、ちょっと、いまそんなこと言ってる場合じゃないって!」
「何を言う! いま言わずしていつ言うというのだ! フハハハハハハハハハハ!」
何がご機嫌なのか。瑞樹は黎二の言葉を否定して、またものすごい勢いで笑い出す。そんな不思議な様子に、壁際まで後退したイルザールが鼻白んだように呆れ混じりの言葉を放つ。
「なんだ? おかしくなったか?」
「失礼な奴め。我は少しもおかしなってなどおらんわ!」
そう言って、瑞樹は急に左目を押さえ始めた。
「うずく……うずくぞ……我が左目が。我に仇なす不届き者を滅せよと激しくそして高らかにうずきおるわ……」
よく見れば、瑞樹の片目が金色に輝いている。先ほどまでは両眼とも同じ色だったはずなのに、いつしか瑞樹が昔あれほど憧れていたオッドアイへと変貌していた。
「聞けい上半身ネイキッドよ! これより我が貴様を因果の地平の彼方、神曲が示す地獄が奥底にある永久氷河へと落としてくれよう!」
「…………」
「光栄に思うがよい! さすれば貴様も大魔王に列せられるのだからな! フハハハハハハ!」
瑞樹はイルザールに指を差し、自信満々に言って退ける。その一方で黎二も瑞樹に対し指を差し、口を鯉のようにパクパクとさせていた。
そんな瑞樹と相対しているイルザールは、やはり大言壮語にが気に食わなかったかかなり苛立っている様子。足がめり込むほどに地面を踏みしめ、恐ろしい鬼気を放って迫って来る。
「わけのわからんことを……」
「いみじくも我の口にした貴き言葉が理解出来んとは! 脳みその足りんバカが! 受けよ!」
瑞樹がそう言った途端、彼女の身体から膨大な魔力が解き放たれた。
「え!?」
「何だと!?」
驚いたのは黎二、そして相対するイルザールだった。片やこれまで一緒に旅をしてきた友人の異常な量の魔力量について、片や目の前の者が驚くべき魔力を解き放ったことに付いての驚愕だ。
イルザールが身構える前に、瑞樹は呪文を口走る。
「――火よ土よ。いま栄華なる、産声を上げよ。我が神殿よここに佇立し、赤鉄溢るる炉となりて、全てを呑み込め。我が手にありき、溶鉄神殿!」
火よ土よ。聞こえたのは、これまで耳にした呪文の中には決して出て来なかった複合された一文。
そして告げられた鍵言は、神殿の炉。直後瑞樹の周囲の地面から石柱がいくつも伸びる。やがて彼女を中心にして石窟内に構成されたのは、広大な石窟内にギリギリ収まる程度の小さな神殿だった。
ふとするとそれが急激に赤熱し、溢れんばかりのマグマを辺りに生み出した。
「上に来い! もたもたしていると貴様らも我が灼熱した赤い血潮に呑み込まれるぞ!」
「え? あ、うん!」
黎二たちは瑞樹の指示に従い、彼女のいる場所まで昇る。間もなく洞窟の床は赤く煮え滾った溶岩に沈み、イルザールへと津波となって襲い掛かった。
「まずい、これじゃ息が! 瑞樹!」
あまりのマグマの侵食率に、泡を食う黎二。このままでは発生した熱とガス、酸素の燃焼で呼吸ができなくなる恐れがあった。
すぐに黎二が瑞樹に魔法の消失を訴え出ようとするが、
「案ずるな。たとえ閉鎖空間であろうと我の造ったこの溶鉄神殿の中に居さえすれば、空気に困るとはない。例外もあるようだが――」
「例外?」
「あれを見よ」
そう言って瑞樹が視線で指し示すのは、イルザールがいた方向。黎二がその場に視線を合わせると、見計らったようにマグマが膨れ上がって爆発した。
その中から出て来たのは、魔族の将軍イルザール。
「この威力は……」
イルザールは呟きながら、自分の両手をゆっくりと見回している。確かにマグマに呑まれたはずだが、耐性でも持っているのか肌が少し赤くなった程度。思い付くのは、日焼けのそれだ。
「そんな、あれに呑み込まれてもダメージがないなんて……」
「つくづく化け物だな……」
ティータニアとグラツィエラの愕然とした声が聞こえるその一方で、瑞樹は不気味な笑いを浮かべる。
「その様子では多少肌を痛めた程度か。くくく、さすがだなデミオーガ。いまの魔法を受けてなおその程度の手傷、我が魔法を魔力のみで振り払ったと見える。冥王神が貫いた闇よりもなお深い黒である、我の称賛を受けるがいい」
アブナイ妄想に陶酔し切った瑞樹の台詞はとても痛い。しかし、イルザールは聞き流したようで、
「久々に魔法をまともに使えるヤツが出て来たということか。龍人の咆哮を思い出すな」
「我をそんなものと一緒にするでない! 我は九天聖王! 天上天下にただ一人の存在よ!」
不敵な言葉に傲慢な声が返っていくが、イルザールは大して気にした風もなく、鼻を鳴らす。そして、興が削がれたとでも言うような表情を見せ、
「わけのわからんことばかりほざく贄だ。まあいい」
そう言ってイルザールは何を思ったのか、くるりと背を向けた。そのまま、石窟の入口へと戻って行く。
その様子を見た瑞樹が、イルザールへと胡乱そうな視線を向けた。
「何故退く? 貴様サクラメントとやらが欲しかったのではないのか?」
「貴様ら贄などいつでも食うことができるが、どうせ食うなら『食い頃』が一番良いというだけだ。それまでそのサクラメントとかいう武器は預けておく」
「別にいまでも良いぞ? それとも我が力に恐れをなすか?」
挑発的な言葉を繰り返し放つ瑞樹に、ティータニアが目でマズいと訴える。
「み、ミズキ……」
「案ずるな。我ならば倒せる相手よ」
ティータニアに目もくれず、瑞樹はイルザールの方から視線を離さぬままに言って退ける。中二病に冒された彼女は、出所不明の自身に満ちていた。
「贄が。思い上がった口を叩くな。俺が見逃してやると言っているのだ。他の者と同様震えて受けろ」
「……ふん」
射殺すようなイルザールの視線に、瑞樹は不満そうに鼻を鳴らす。
そんな中、イルザールが目を細め、何かを呟いた。
「……奴の言うことを聞くのも、考えてみれば癪だからな」
イルザールが口にした言葉は、誰にも聞こえなかった。ただ不満そうな音であったのは、何となくだが、黎二にもわかった。
……勇者とその仲間の力を軽くあしらった魔族の背中が、入り口へと消えて行く。
やがて、黎二たちを安堵が襲い、緊張で固くなった身体をほぐしていく。
「い、生きてる……」
手の震えが止まらない。気が抜けたのはティータニアたちも同じだったようで、肩をだらりと垂らしたまま、呆然と入り口を眺め呟く。
「本当に、帰って行ってしまうとは……」
「一体何がしたかったというのだあの魔族は……」
イルザールは、場を荒らすだけ荒らして帰って行った。サクラメントが欲しいようだったが、優先順位が低いのか、結局奪うこともしなかった。
ふとそこで、黎二は重要なことを思い出す。
「そうだ! 瑞樹!」
「どうしたのだ? 急に大声を上げて。我が愛しの婚約者よ」
「ふぃ、フィア!」
黎二は彼女の衝撃発言に動転して、言葉を紡げない。彼が盛大に戸惑っていると、瑞樹は小首を傾げ、
「なんだ? 何かおかしいのか?」
「おかしいって! おかしいよ! さっきからどうしちゃったのさ、一体!?」
「どうもなにもせんがな。お主こそ取り乱してどうしたのだ?」
と言いつつも、にやにやと黎二を玩弄するような笑みを浮かべる瑞樹。そんな彼女が一体何を考えているのか読めず、黎二は困惑するばかり。
ふとそこにティータニアが口を挟んだ。
「レイジ様、それよりもまずここから出ませんか? ミズキのこともそうですが、ファイレイ殿の調子やグレゴリーたちの様子も心配です」
「ああ、うん。わかった……」
ティータニアの言い分は、この場ではもっともな話であった。
だが、一抹なんてものでは済まないような不安を抱えながら、黎二はファイレイに肩を貸して石窟をあとにしたのだった。
★
――結果から言うと、アステルの騎士たちやグラツィエラの連れてきたネルフェリアの軍人たちは怪我こそあったが命に別状はなかった。
黎二が彼らから聞いた話によると、黎二たちが奥の石窟に向かったあと、突然イルザールが押し入ってきたという。始めは胡乱な者が入ってきたと、救世教会の修道士たちが追い返そうとしたのだが、イルザールが向かっていった修道士たちを食い散らかし始め、戦闘が勃発。教会の術師が対応するもまるで歯が立たず、向かっていった者たちは全て食い殺されてしまったそうだ。
だがイルザールはある程度食べ終わると腹が満たされたのか、グレゴリーたちのもとに来る頃にはすでに興味がなくなったらしく、戦いぶりもぞんざいになっていたとのこと。
運が良かったと言えば、そうだったのかもしれない。
現在は全員回復魔法による手当てを受け、ファイレイと共に別室で休んでいる。
そして黎二たちは神殿内の一室を借り受け、集まっていた。
イルザールとの戦いを思い出したか、ティータニアがため息をこぼす。
「途轍もない相手でしたね」
「魔族の将軍、イルザールか……。僕たちはこれからあんなのを相手にしなければいけないんだね」
誰に言うでもなく口にした黎二の言葉に、力はない。それだけ、イルザールは途方もない強敵だった。あの魔族のことを考えると、自分がいかに無力であり、そんな無力のまま戦うなどと大層な口を開いたことの愚かさが、よくわかるというもの。
これから強い敵と戦うというのは、ラジャスと戦ったときからわかっていたことであった。無論相対する覚悟もしていた。だがあれほどまで圧倒的で、なにもさせてもらえない相手であることは、予想だにしていなかったのだ。
サクラメントは手に入れることができた。だが、いまは武器の形からもとの装飾品の形に戻っており、また武器にしようとしてもうんともすんとも言わない有様だ。これでは再びあの魔族の将軍が現れたとき、再び進退窮まってしまうだろう。
このままで本当に大丈夫なのかと、不安で胸がいっぱいになる。そして不安を抱くのは、ティータニアもグラツィエラも同じか、二人共イルザールのことを考えると気が重そうで、元気や前向きさと言った気概が全く感じられなかった。
イルザールやサクラメントのこともそうなのだが、それについては、いまは置いておくことにして――
「ふむ、どうした? 地の底に眠る灼熱竜の心臓よりも熱く、大いなる存在の僕たる天使たちよりも尊いデザイア―という名のジャスティスを胸に秘める我が婚約者よ。さっきから随分と顔色が悪いぞ?」
「誰のせいだと……」
「我のせいというのか? 失礼な物言いだが……まあ許してやろうではないか」
そんなことを言う瑞樹は、言動もそうだがやはりどこかいつもとは違う。イオ・クザミを名乗り尊大な態度を見せることを差し引いても、違和感を覚えるレベルである。
そしてやはり目を引くのは彼女の瞳である。彼女の黒目が、片方だけ赤く輝き、オッドアイになっているのだ。
石窟から、常に得意げな態度で腕を組んで愉快そうにしている。現在はそんな彼女を神殿で借り受けた一室にて、難しい顔で眺める始末。ティータニアもグラツィエラも胡乱そうな視線を隠せない。
「というか瑞樹、そういう設定的なこと、もう止めるんじゃなかったの? 自分でも過去の黒歴史なんでしょ?」
「我は瑞樹ではない。九天聖王イオ・クザミだ」
「だからその設定はもういいから。もうだいぶ昔に聞き飽きたから……ううう、話が一向に進まないよ」
瑞樹……いや、イオ・クザミが恥ずかしげもなく羅列するイタイ言葉の数々を耳にして、頭を抱え出す黎二。過去のドタバタを思い出すと、頭が痛くて仕方ない。だが、イオ・クザミはそんな彼の気も知らず、
「設定も何も、事実そうなのだから他に何もあるまい。我は天上天下において唯一の存在、天上を統べる原初の覇者より生まれし落とし子、九天聖王イオ・クザミなのだからな」
「口を開くたびに設定がどんどんどんどん盛られていく……ああ、やっぱりマズい時期の瑞樹だ……」
黎二はひとしきり懊悩し唸ると、彼女の方を向く。
「ねぇ……瑞樹」
「だから何度も言っているではないか? 我は瑞樹ではないと」
重ねて否定するイオ・クザミに、今度はティータニアが話し掛ける。
「……あの、本当にあなたはミズキではないのですか?」
「うむ。我は正真正銘、この身体の真の持ち主である瑞樹ではない。この世のあらゆる生命の求めを受け天上より降臨した聖なる身ぞ」
何が正真正銘なのか。聖なる身なのか。ただ使いたいだけのような気もする言い回しに辟易していると、グラツィエラが不思議そうな表情で訊ねてくる。
「レイジ。私たちはそのイオ・クザミとやらがよくわからんのだが。説明してくれるのだろうな?」
「……言わなきゃいけない?」
「どうしようもないものだとはわかっているが、一応な」
「何というか気恥ずかしいと言いますか……」
「何故お前が恥ずかしくなるのだ?」
「あるでしょ? ほら、居間で家族団欒の最中にテレビでアダルトな情報が流れたときとかさ……」
「お前の世界の言い回しではわからんのだが」
「他に上手い例えが見つからないんだ」
黎二が説明を渋っていると、イオ・クザミがやけに嬉しそうに胸を張って言う。
「よかろう。我のことを知りたいと言うなら、教えてやる。我が婚約者以外は伏して聞くがよい」
「誰も伏さん。いいから言え」
「ああ、言っちゃうんだ……ぶちまけちゃうんだね瑞樹……」
そう黎二が絶望の呟きを口にするのを余所に、イオ・クザミはベッドの上に仁王立ちをする。それは必要なのかと問いたくなるのを三人が堪えていると、イオ・クザミは高いところからの睥睨を終えたあと、得意げに切り出した。
「我が名は九天聖王イオ・クザミ。このつまらぬ世界に蔓延るくだらない存在である人類を真・暗黒界へと導くため覚醒した、深淵より来る黒き炎の絶対支配者であり、あらゆる生命に等しく死を与える存在、またの名をグランドリーパー・デスチャイルド…………だったな?」
「僕に訊かないでよ! わからないよ!」
「確かこういう名乗りは他に三つくらいあってな……世界中の悪意を漆黒の闇と等しくあるまで煮詰めたカルマという名のパンドラに……」
「言わなくていい! もう言わなくていいから!」
耳を塞いでいやいやをする黎二。そんな彼の苦しみがティータニアには伝わったか、険しい表情でこめかみをぐりぐりと揉む。
「……何故かはわかりませんが、聞いていると頭が痛くなりますね」
「意味がわからないから頭が痛くなるんだよティアぁ……」
二人は苦悩しかしていないが、一方でグラツィエラは真面目に考えていたらしく――
「レイジ、ティータニア殿下。もしかすればミズキは、おかしなものにとり憑かれているのかもしれないぞ? 確かエルフが言っていただろう? この辺りを治めていた王が暴君になったのは、暴虐なる意思がとり憑いたからだと」
「そういえば」
と、黎二が思い出す横で、イオ・クザミが「そんなものと一緒にしないでもらおう」と不満げに息巻く。確かに一緒にされては暴君がかわいそうだ。
「先に言っておくが、我は別にあの書物には触れていないし、第一それはあやつ、天地上下を震わせ三千世界に名を轟かせる降魔の拳を持つ、ゴッドよりもサタンよりも悪逆をサティスファイドした鬼の神が持って行ったではないか」
イオ・クザミが言ったあやつとは、イルザールと名乗った魔族のことだ。確かに、ファイレイが暴君を暴君たらしめた原因があの本だと言っていた。
というよりもまず、そんな暴君が瑞樹にとり憑いていたとして、その意思が瑞樹が闇に葬った過去を暴いて回る必要性を見いだせない。
どういうことなのかわからず眉間にしわを寄せる黎二に、ティータニアがすり寄ってくる。そして、彼女は耳打ちをするように顔を近付け、
「……レイジ様、どう思います?」
「たぶん、たぶんだけど、いまの瑞樹の中には、彼女とは違う別の人格が生まれてるんじゃないかな?」
「別の人格、ですか?」
「うん。多重人格っていう精神症でね、人が強いストレスを受けると、精神の均衡を保つためにもともとの人格以外にまた別の人格が生まれてしまうことがあるって」
黎二はティータニアに、解離性同一性障害の一部の症例を簡単に説明する。
一方その説明を横から聞いていたグラツィエラも、二人の話に入ってくる。
「それが、いまミズキが置かれた状況ということか……ふむ。確かにあのとき、あの魔族は強力な武威を放っていた。精神的にやられてしまったとしてもおかしくはないな」
「もとには戻るのですか?」
「僕も医者じゃないからなんとも……でも、そう言った症例の人は時折人格が入れ替わったり、そのストレスが解消されると人格が統合されてもとに戻ったりするって聞くし、ある程度時間が立てば解決の糸口くらいは見つかるかもしれない」
「ミズキの人格が消えたわけではないのですね」
「おそらくはだけど……」
安堵に胸を撫でおろすティータニア。ふと、イオ・クザミは黎二たちの方を向き、
「三人で内緒話か。我も交ぜよ。貴様らの話す、ライスグレインよりもちっぽけで、愚かしい予測を聞かせてみろ」
「いえ、いまのミズキを混ぜると話が進まなくなります」
「瑞樹。心配しないで。君が元に戻るまで、しっかり協力するから」
「いよいよ無視に入ったか。不届きな奴らめ」
そう言って不満げに鼻息を出すイオ・クザミ。だが、そんな彼女は不満顔もそこそこにして、急に不敵な笑みを見せた。
「そんなことよりも、だ。我が婚約者よ。お主は我のことばかり気にしていてよいのか?」
「え?」
「それだ」
イオ・クザミが指さしたのは、黎二の着ているブレザーのポケット。彼女が指さしたそこには、サクラメントと共にファイレイから貰った刻の秤と呼ばれるものが入っている。
これがどうしたのかと、黎二がポケットから取り出すと、
――カチリ。
「え――?」
時計の針が動くそんな音を、頭が認識する。聞こえた、という表現はいまの現象には似合わなかった。まるで音が耳の奥の直接響いたかのよう。
「レイジ様?」
「いまの、聞こえた?」
「何がです?」
ティータニアは、何が何やらという表情。彼女には、時計の動く音、ギア音が聞こえなかったのか。やがてすぐに、ティータニアが訊ねてくる。
「レイジ様、いま何か聞こえたのですか?」
「私たちには何も聞こえなかったがな」
グラツィエラも辺りを油断なく見回し、音源を探している。だが、その音源はいま黎二自身が持っているものである。ということは本当に彼女たちには聞こえなかったのだろう。
一方のイオ・クザミは、先ほどのようににやにやとこちらを玩弄するような笑みを浮かべるばかり。
その笑顔をに細めた目を向けつつ、黎二は懐中時計の蓋を開けた。
やはり、そこには手に取ったときと同じように、短針と長針、ショーテルのように湾曲した短針と長針がある。しかし、
「動いてる……」
最初に蓋を開けたときとは、確かに違っている。湾曲した針が動いており、ほんのわずかにだが、一分経つか経たないかのわずかな場所を指していた。
「何とも業の深い計測器よ。みな誰もがいずれ滅びると言うのに、それに抗おうとするためそんなものまで作ってしまうとはな」
「……瑞、じゃなくてイオ・クザミさんにとってこれは何なの?」
「これは世界終焉の秤よ。逆走する未来とそれに抗う現在の時限の拮抗を示す魔導遺物だ」
「……そんなことをファイレイ殿も言っていましたね。終わりの始まりがどうだとか」
「つまり、ファイレイの言葉を大層な言い回しに変えただけか」
「大層な言い回しは否定せんが……まあ好きなように言っているがいい。そうしていられるのもいまのうちだけなのだからな。フハハハハハハ!」
黎二が刻の秤に険しい表情を向けている最中、笑い出すイオ・クザミ。その哄笑は、どんどんと大きさを増していき、黎二の思案を妨げる。
それに堪え切れなくなった黎二は、イオ・クザミに対して叫ぶ。
「もう少し大人しくしてよ瑞樹!」
「いい加減に覚えろ! 我の名は九天聖王イオ・クザミだ! 断じて瑞樹ではない! 断じてな!」
「ああもう! もうっ! もうっ! どうしてこうなるの! 水明! 助けてぇええ!!」
イオ・クザミの哄笑と黎二の絶叫がこだまする。
そう、それは水明がインルーと戦って一週間後の、夕暮れ時であった。




