魔族の将、イルザール
アッティラの宿屋で一夜を明かした黎二たち一行は、翌日遺物を受け取るため、再び遺物の保管された神殿を訪れていた。
昨日ファイレイに通された部屋でしばし待っていると、遅ればせて彼女が到着する。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえ、お構いなく。それよりも封印はもう解除されているのですか?」
黎二の訊ねに、ファイレイが頷く。
「はい。今朝方全ての封印は解かれました。中にはいつでも入ることができますよ。では、どうぞ」
そう言って、差し出すように手を伸ばすファイレイ。彼女の楚々とした所作に促されると、ふとティータニアが後ろに付いていた騎士たちに声をかけた。
「あなたたちは外で待っていなさい。グレゴリー、二人をよろしく頼みます」
「は」
ティータニアの命令に、礼を取って了承の意を示すグレゴリー。その一方でルカは遺物に興味深々か、どこか入りたそうにしているが、ロフリーに「あとで見せてもらいましょう」といって宥められていた。
グラツィエラの方も、自分のお付きの軍人に、入り口での待機を命じている。
そんな姿を見て、思ったことがあるのか。瑞樹が内緒話をするように近付いてきた。
「グレゴリーさんたちや帝国の軍人さんたち、そんなに仲悪そうじゃないね」
「そうだね。他国の兵士同士だから、もしかしたらと思ってたけど、取り越し苦労だったようだね」
それは、グラツィエラが付いてくるということになって生まれた懸念の一つだ。もしかすれば喧嘩してしまうのではないかと危惧していたのだが、ちゃんと線引きが出来ているようで、いまところ衝突などはしていない。
すると、二人の内緒話が聞こえていたか、ティータニアとグラツィエラが内緒話に加わってくる。
「帝国とは同盟国でもありますし、ただ表立って出していないだけですよ」
「私に付いて来たのはもともと私を補佐している側付きと、長く軍務に付いていた熟練だ。それにアステルの騎士の方も、グレゴリー殿がいるからな。上手くは付き合っているのだろう」
「あ、あはは……」
二人共、内面の事情はちゃんと把握しているらしい。表面上ということは、実際は内心火花を散らしているというのだろう。そんな知りたくなかった事実を知ってしまい、瑞樹は何とも言えなさそうな笑いを漏らした。
ファイレイに導かれ、燭台の並べられた通路を歩いて行くと、下り階段が待ち受けていた。
「地下ですか?」
「はい。少し降りますが、この先です」
そう言われ、階段を降りて行くと、通路の様子が途中から一変する。先ほどまでは神殿内の造りと同じ整えられた石の通路だったが、岩肌のむき出しとなった洞窟そのままのような造りに変わった。
鍾乳洞の中に入っているような感覚に囚われつつ、ファイレイに続くと、通路の先に巨大な岩が待ち受けていた。
「石窟……ですか?」
「神殿の中だよね、ここ」
神殿の保管場所と言うには、他とは全く違う様相を呈している。それに疑問を抱いた黎二は、前を歩くファイレイに訊ねた。
「ファイレイさん。どうしてここだけ造りが違うんですか?」
「封印場所に関しましては、勇者様方のご意向です。何でも封印の場を神殿の形にしてしまうと、女神の神秘性を受けることになってしまい、封印術が弱くなってしまうのだそうです。ですので、別の神秘的な空間にしなければならないのだとか」
「ほえ?」
瑞樹が気の抜けた疑問の声を上げる。彼女の困惑通り、確かによくわからない話である。そう思っていると顔に出てしまったか。黎二はファイレイに内心を読まれてしまう。
「勇者様がおっしゃるには、封印術とはどんなものにしろ、もともとは神の力を抑える術を降下させたものであるため、神と封印術とは互いに互いの力を弱め合ってしまうのだとか」
「ティア、そうなの?」
「申し訳ありません。私にも初耳です」
黎二はティータニアに訊ねたあと、グラツィエラにも視線で訊ねる。だが彼女も知らないようで、肩を竦めて首を横に振った。
魔法に理解のある二人にも、よくわからないことらしい。
「では、少しお下がりを」
ファイレイに促され、黎二たちは彼女から距離を取る。その後すぐ、岩の前でファイレイが何らかの言葉を呟くと、巨大な岩に魔法陣が浮かび上がった。
不意に頭を襲う、キーンという耳鳴りのような音。やがて巨大な岩は引きずるような音を立ててゆっくりと奥に移動し、横にずれていった。
内部の空気が解放されるに伴い、卵の腐ったような臭気が伝わってくる。
「うぐっ……これはきついな」
あまりの臭いに思わず顔をしかめるグラツィエラ。ファイレイ以外は鼻を押さえたり、顔を背けたりする。
「この臭気は暴君の持っていた書物のせいです。あれのせいで、常に周囲のものが湿り気を帯び、腐敗してしまうのです」
そんなただならぬ話に、不安を口にする瑞樹。
「だ、大丈夫なんですか?」
「はい。外に漏れ出る力に関しましては、もう人体に害を及ぼすほどの力はないとのことです」
「よかった……」
ほっと胸を撫で下ろす瑞樹に、黎二は心の中で同意する。一方で、ファイレイはその元凶に指を差す。
「あれが先ほどお話した暴君が持っていた書物になります」
ファイレイのしなやかな指の先には黒っぽい装丁をされた書物が、むき出しのまま台座の上に置かれていた。書物はどことなく不気味な雰囲気をまとっており、見ているだけで気分が滅入ってくる。よく見ると、それを載せる台座は金属製にもかかわらず鍾乳石のように溶けて滴ったような形になっており、それだけでもその書物の尋常のなさが窺える。
興味を惹かれたらしきグラツィエラが、書のもとへと近付いて行く。
それを見咎めたファイレイが、剣幕を変え制止の声を上げた。
「お待ちを!」
「どうした? 急に声を荒げて」
「いえ、失礼しました。それは触れてはならないものですので、少々声に力が入ってしまったのです」
「触れてはいけない?」
「はい。それは決して触れてはならないものなのです。人間が一たびそれに触れれば、暴君を操った悪神に繋がってその隷下に置かれ、再びあの悪夢が繰り返されると伝え聞いております」
ファイレイの話に、瑞樹が疑問の声を上げる。
「え? 倒して解決したんじゃないの?」
「暴君は死にましたが、暴君の正気を狂わせていた存在は倒せなかったそうです。神であるゆえに、人間が敵う存在ではないのだとか」
「昨日説明があったサクラメントではどうなのだ? あれは神をも殺せる武具なのだろう?」
「所持していた勇者様は、元凶は手の届かない場所にいるため倒せなかったとおっしゃられていました」
「そうか。それで、ここに封印してあるのだな」
グラツィエラは納得したのか、書物を一瞥したあと、黎二たちのところへ戻って行く。
確かにそれだけ危ないものならば、誰であろうと書物ごとこの世から消してしまいたいだろう。それが出来なかったからこそ、こうして封印しているのだ。
暴君の遺物の紹介が終わると、ファイレイはもう一つの台座を示す。
「あちらが、目的の遺物になります」
書物が置かれていたものと同じ金属製の台座の上には、小さな小箱が置かれていた。
書物の邪気を寄せ付けないのか、台座は綺麗なままで、腐った様子はない。
ファイレイが近づいて、静かに小箱を開ける。
――果たしてエリオットの言った通り、中に入っていたのは装飾品だった。
ブローチなのか、形状は羽を模した意匠であり、銀で作られているらしくメタリックな光沢を帯びている。そして一際目立つのが、その中心に嵌められた青い宝石。
「これがサクラメントですか。綺麗なものですね……」
「青い宝石。ラピスラズリみたい」
神秘的な蒼の輝きに、女性陣はうっとりとした表情を浮かべている。……そう思ったのだが。
「……なんだ? 私の顔に何か付いているのか?」
「あ、いや、あの綺麗だなって。グラツィエラさんはどう思います?」
「うむ。やはり気になるのは使えるのかどうかだな」
「…………」
帝国の第三皇女殿下は、あまり宝飾品などに興味がないのだろう。見た目は装飾品にもかかわらず、その美しさをまるで意に介していない。格好も案外ラフなものを好むため、お洒落などにはそれほど頓着がないのかもしれない。
実利的なもの以外はどうでもいいことを表すかのように、グラツィエラはファイレイに訊ねる。
「これだけなのか?」
「はい。残されているものはこれだけです」
「もし他に使えそうなものがあれば欲しかったのだがな」
グラツィエラはそう言うが、ファイレイは頭を振る。
「勇者様方が使う品は、我らには使えないものばかりでした。残っていたとしても、扱うことはできなかったでしょう」
「そうなのか」
「我らの使う魔法とは違ううえ、とても高度な技術が使われていたのです。中でもサクラメントが一番高度な技術を使っているらしいのですが、唯一他に使える者がいるかもしれないというのもこれでした」
裏話めいたことを聞いたあと、黎二が訊ねる。
「それでファイレイさん。これはどう使う……武器にするんですか?」
「私もよくはわからないのですが、勇者様は装飾品の状態から武器に変化させるときは、手に持って何らかの文言を口にされていました。おそらくその言葉が、サクラメントを目覚めさせるための鍵だと思われるのですが……」
「ではその言葉とは?」
「申し訳ありません」
頭を大きく下げて謝罪するファイレイに、ティータニアが訊ねる。
「聞いていないのですか?」
「聞いたのですが、わかりませんでした。使える者にしかその言葉がどんな音を発するものなのかわからないそうなのです」
「それでは誰も使えないのではないですか?」
「使える者には、わかるものだと伺っています。まずはお手に取ってみてはどうでしょう?」
ファイレイはそう言って、サクラメントを手に取り、黎二のもとに持っていく。わかる。つまりそれが、武具に選ばれるということなのだろう。武器に意思があるのか。それとも条件に当てはまる者にしか扱えないのかどちらかは知れぬが、まずは言う通り試してみるべきだろう。
ファイレイから受け取ろうと歩み出た折、不意に瑞樹が声を上げた。
「黎二くん!」
「どうしたの?」
「まず私にやらせて欲しいな~……なんて」
「え……えぇ!?」
「ダメかな?」
「うん……まあ別に構わないけど……」
とは言いつつも気が進まない様子なのは、瑞樹が前科持ちゆえだろう。もちろん、その前科とは中二病という名前なのだが、とにもかくにも了承を得た瑞樹は「やったー!!」と喜びの声を上げていた。
苦笑いを浮かべて手を振る黎二に、グラツィエラが近寄ってくる。
「いいのか?」
「まあ、やらせてあげないときっと瑞樹拗ねちゃうし」
「もしミズキが所有権を得たらどうする?」
「そのときは瑞樹に頑張ってもらうしかないんじゃないかな?」
「くくく、お前の力を求めてここに来たのに、ミズキのものになってしまったら立つ瀬がないな」
「楽しそうに言いますね」
「それはそれで笑い話になるだろうからな」
愉快そうにするグラツィエラ。一方それを聞いていたティータニアが、顔を険しくさせて近付いてくる。
「グラツィエラ殿下、あなたはレイジ様を笑いものにするつもりですか?」
「怖い顔をする。それ、そんな顔をするからレイジが怯えてしまっているぞ?」
「え!? レイジ様私は怖い顔など!」
「いや、僕はなにも」
していない。ティータニアはグラツィエラに担がれたのだ。
「グラツィエラ殿下!」
「ちょっとみんな私のこと忘れないでよ! いまから伝説の武器を目覚めさせるんだよ! ちゃんと見ててよ!」
意識を向けられていないことに地団太を踏む瑞樹は、一転まるで世界を征服できる秘宝をいままさに手にせんとする悪役がするような、不気味な笑いを漏らし始める。
傍から見れば不気味だが、ファイレイは温かな笑みを浮かべている。まるで勇者を夢見る幼い子供を見るような目、穏やかで微笑ましい慈母の笑みだ。
瑞樹の手が、ファイレイの手からサクラメントを握り取った。そして――
「ふふふ、サクラメントよ! 私の声に応えてっ!」
――シーン。
「わかってた! わかってたよ! ふーん! ふーんだ!」
瑞樹がサクラメントを掲げて叫んでも、サクラメントはうんともすんとも言わなかった。
これでなんとか瑞樹の中二病再覚醒という災害は免れたらしい。それと引き換えに瑞樹は涙目になって悔しそうに頬っぺたを膨らませ、台座の隅で女の子座りをしているわけであるが。
「では、今度こそレイジ様が」
「うん」
ティータニアに促され、黎二は瑞樹からサクラメントを受け取る。手のひらから少しはみ出るくらいの大きさがあるサクラメントは、金属製ゆえか随分とひんやりと感じられた。
だが、そんな感覚を手のひらに受けつつも、何らかの力があるような覚えを得た。熱感とはまた違う、魔力とも言い切れない、不思議な脈動。この世界に来て魔法を覚えたときに感じたあの全能感ともまた違う、何と言えばいいか、言葉に当てはめれば。
(見ているだけで、力が湧いてくる……)
そうこれは、この輝きは、希望だ。希望の光だ。どんな絶望の淵にあっても、これを見る者に明日を生きる力を与える、明日を見せる蒼き灯し火である。
いまから自分がこの力を解き放ち、我が物とするのだ。そしてこの力をもってして魔族を打ち倒し、この世界に平和をもたらす。
その思いを叶えるための文言は、いまだ浮かばない。だが、口に任せるがままにすれば、あるいは……という予感もあった。
その予感を信じ、黎二はサクラメントを掲げ、口を開く。
――いや、口を開こうとしたそのときだった。
突然真後ろ、石窟の入り口の方から、石窟全体を震わせるような大きな破壊音が響く。
その震動と音に惹起され、その場にいた全員が入口の方に振り向くと、そこには舞い上がった極小の砂粒でできた砂煙が立ち込めていた。
宙を漂い迫る砂塵。それを吸い込まぬようそれぞれが呼吸器管を守り、目を細めていると、けぶる視界が晴れる前に、砂煙を斬って腕が伸びてくるのが見える。
やがてそこから、一人の男が現れた。
砂煙を煩わしそうに手で払う長身。細面はえもいわれぬような美貌であり、口もとはまるで紅をさしたように赤いため、一見女性にも見紛うほどだが、はだけた上半身には引き締まった胸板が見えるため、男性に相違ない。手足や胴に赤金に錆びた太い鎖を幾重にも巻き付け、細い指には獣のように長い爪が研ぎ澄まされて揃っている。
ファイレイのように白髪だが、エルフではないようで耳が丸い。瞳は血のように赤く、言い知れぬ不気味さを醸していた。
男は長身をいいことに、その赤い瞳で黎二たちを睥睨する。向けられるのは、慈悲などまるでこもっていないような、ものでも見るような冷徹な視線。そのせいか、身体が緊張の糸にがんじがらめにされたように、動かない。それは他の者も同じか、みな驚いたような表情を浮かべたまま固まっている。
謎の男の凍てついた視線に縛られる中、まずファイレイが口を開いた。
「……ここには他に誰も通していけないと厳命していたはず」
「そのようだな。だから、こうして無理やり入ってきたのだ。こうやってな」
「む、無理やり……とは?」
「そのままの意味だ」
「何者だ? 貴様」
不意に放たれたグラツィエラの問いに、男はふっと笑い出す。愉快なことを聞いたという笑み……と言うよりは、失笑が漏れたというような雰囲気を醸している。
「何が可笑しい?」
「俺の名を問うか贄共。たかが『食い物』如きが俺の名を」
「く、食い物だと?」
「そうだ。食い物だ。貴様ら人間は全て。老人から赤子に至るまで、全て放し飼いの豚ども。贄よ」
傲慢な台詞を、臆面もなく言って退ける男。だが普段ならば笑い飛ばせるようなそんな与太が、いまはどうして真実だろうと確信してしまう。
魔族か。そんな考えが頭をよぎるも、魔族の持つ力は感じられない。目の前にいる男はどこをどう見ても人間にしか見えなかった。
しかし男の瞳が映す赤い光が、自分たちにこの男がただの人間でないことを示している。一体何なのか、そう男の存在を訝しんだとき。
「――俺の名はイルザール。魔王ナクシャトラに力を貸す、魔族の将軍の一人だ」
その言葉が耳に聞こえると同時に、全員が弾かれたように後ろに飛んで間合いを開ける。戦いにはまだ慣れたとは言えない瑞樹もそう。確かにいま、自分たちは弾かれたのだ。
イルザールの放つ、強烈な武威によって。
魔族の将軍と目の前の男がまるで結びつかず、その事実を信じ切れないか。ファイレイが、何故、と問うように呟く。
「ま、魔族の将軍……? いえ、それよりもどうしてこんなところに……」
その問いに答える者はいない。怯えが滲んだ声が、ただ虚空に響くばかり。そんな折、グラツィエラが何かを思い出したように、
「まて。貴様、神殿の中にいた者たちはどうした?」
「ああ、奴らなら向こうに転がっているぞ。いくつか食ってやったが、ほとんどは適当にあしらってきたゆえ、まだ息のある者がいるかもな」
「くっ!?」
「食った、だと?」
イルザールの口にした衝撃的な言葉に、驚きの声を上げるティータニアとグラツィエラ。そんな二人の表情を見て、イルザールが理解しがたいといったような表情を見せる。
「何を驚くことがある? 先ほど、貴様らはみな食い物だと言ったではないか?」
「人を食う魔族なのか、お前は」
「そうだな。厳密には魔族ではないのだが……まあそんなことは贄にはどうでもいい話。それよりも、だ。ここにはサクラメントというものがあるはずだが?」
向けられる視線は鋭く。まるで命令でもされてしまったかのように、視線が手の中に向いてしまう。しまったと思ったときには、もう遅かった。
サクラメントが黎二の手の中にあることを、イルザールが認める。
「それか。武具と聞いたのだが、奴の見当違いか……? まあいい、それを俺に寄越せ」
「いいや、これは渡せない」
黎二はそう言って、オリハルコンの剣を抜き放ち、一歩前に歩み出る。
「俺の前に立つか贄」
「僕は勇者だ。勇者黎二」
「ほう? 貴様勇者なのか? そう言えばどことなく女神の力が感じられるな」
黎二がそんなものを感じることができるのか、と驚いていると、イルザールは聞き捨てならないことを口にする。
「……だが、その様子ではまだなじみ切っていないようだな。喰うには、いささかばかり早いか」
イルザールのその呟きは、戦慄に値するものだった。捕食者への恐怖は、どんな生き物にも存在する潜在的な恐れだ。人間の姿をしたものが、人を食い物にしか見ていない目をしている。ラジャスも確かに強かった。あのときも恐れを抱いた。だが、いまこのイルザールに抱く恐れは質が違う。
思い出すのは、幼い頃に本などで知った妖怪の話。描かれている妖怪はコミカルなものも多く、どうしてそんなことで恐れられているのかわからないようなものばかりだったが、ふと時折出てくる『人を食う妖怪』がやけに怖かったのを覚えている。
それと同じだ。たとえ人間であっても、捕食者への恐れは他のどのような恐怖よりも、筆舌に尽くしがたいのだ。
黎二がわずかな震えに囚われる中、ティータニアが動き出す。
「レイジ様、援護します!」
「わかった。……瑞樹! 瑞樹は出来るだけ下がってて! この魔族は危険だ!」
「う、うん……」
瑞樹が後ろに下がるのを確認して、イルザールの間合いに踏み込まんと機を窺う。
そんな中、後ろから聞こえてくる麗しい声音の詠唱。
「――木よ。其は我が敵を戒め圧す、、森羅より生まれし大蛇。いまこそ我が意に従い、不条理を強く者を滅せよ。ソリッドスネークバインドマーダー」
呪文が諳んじられ、鍵言が放たれた瞬間、イルザールの周囲が盛り上がり、地中から太い蔦のような幹が伸びる。木属性の魔法だ。周辺から包み込むように成長した樹木はあたかも大蛇であるかのような、うねる動きを見せ、イルザールの腕や足、胴を絡めとっていく。
かなり強力な魔法だ。樹木はいまだ成長を続け、対象を捉えるだけでなく圧死せしめんとするかの如く迫っている。この物量、振り払うには難しい。やがて、伸びた幹は互いに絡まり合い、一つの樹木を形成。イルザールの姿が見えなくなった。
しかして、その魔法を行使したのは。
「ファイレイさん!?」
「私も戦えます。援護をしますので、いまの内に」
「――それで援護とは、クソの役にも立たん援護だな。たかが木ごときで、どうにかなるとでも本当に思っているのか?」
そんなくぐもった呆れ声が響いてくる。その声の主は、いま幹の中にいるはずのイルザールのもの。頼もしいはずのエルフの強力な魔法が、地の底に叩き落とされる。
瞬間、雷鳴が洞窟内に轟き、突如発生した赤い稲妻が樹木の幹を引き裂いた。
その中から、イルザールが悠長に首を鳴らしながら現れる。
まるで、何事もなかったかのように。
「――な?」
「効いていない……」
ファイレイの驚きの声と、黎二の焦りの声が重なる。直後、かったるさを解きほぐしたイルザールが、退屈な仕事に就いたかのような呆れ果てた表情で、
「まずは貴様からだ」
「え――?」
イルザールは視線にてファイレイを射抜くと、腰に巻き付けていた太い赤金の鎖を振るう。赤金の鎖は質量や運動の法則のことごとくを無視しては伸び、赤い稲妻を伴ってファイレイへと襲い掛かった。
「――木よ。其の萌芽たる力を以て我が守りとなれ! リトルフォレストバンカー!」
ファイレイの前に、太い樹木の柱が数本、天井に向かって斜めに伸び上る。樹木の柱はぶ厚く、重みがあるだけでなく、密度の高い魔力によって構成されているため、見た目以上の堅固さがあると思われる。そして、出来上がった壁には傾斜が付いているため、正面からの攻撃には滅法強い――はずだった。
「言ったはずだ。たかが木ごときとな」
赤い稲妻をまとった鎖は、なんの障害もないかのようにあっさりと樹木の柱を突き破った。そして間髪容れず、鎖はファイレイにがんじがらめに巻きついた。
その後は、瞬く間のことだった。彼女が反応する暇もない。鎖にからめとられたファイレイは、イルザールが赤い稲妻を帯びた鎖を振り回すとあっけないほど簡単に宙に浮き、周囲の岩壁に幾度も擦られ、ぶつけられ、そして最後に放り投げられた。
岩壁に叩きつけられたファイレイはボールのように弾み、黎二たちの後方へ飛んでいく。
「ファイレイさん、そんな……」
「ふぁ、ファイレイさん!」
瑞樹が駆け寄って、彼女に回復魔法をかけ始める。
一方のイルザールは、行動を起こさない。まるでこちらが歯向かうのを待っているかのよう。何故とは言わない。向こうが攻めに転じなくてもいいほどの戦力差があり、イルザールは自分の勝利に疑いを持ちあわせていないのだ。
悠然と佇立するイルザールに今度は黎二が向かう。少しずつすり足で詰め寄るが、間合いを詰めてもイルザールはまるで動じない。先手の機を窺うつもりもないのか。
黎二は一足飛びで迫れる間合いまで歩み寄ると、即座にイルザールに斬りかかる。
袈裟がけの斬り下ろしだ。狙いはイルザールの肩口。だが、
「軽い」
「なっ!?」
軽く持ち上げたというような素振りで出された左腕によって、オリハルコンの刃が言葉通り軽く止められる。何の防具も付けていない素肌にもかかわらず、薄皮一枚にすら刃が通らなかった。
手は抜いていなかった。渾身の一撃だ。だが、まったく通用しなかった。ラジャスでさえあの闇色の力を漲らせねば弾けなかった剣撃を、まるで意味のないものと嘲笑うかのように。
いままでにない結果を目の当たりにした黎二は、驚きで一瞬動きが止まる。
直後下されたのは、イルザールの右の手のひら。いや、爪だ。刃物を思わせるほど鋭く伸びた爪が、手の大きさも相俟って被さるように襲って来る。
そこへ、咄嗟にオリハルコンの剣を出した。
「ぐ、ぐう……」
間一髪、爪撃を止める。と同時に、恐ろしいほどの力が身体を貫き、後方へ抜けていく。その威力は、巻き起こった突風が砂塵を吹き飛ばすほど。英傑召喚の加護がなければ、止めることはおろか岩に叩きつけられて死んでいただろう。
「反応できるか。弱いくせに無駄な足掻きを……」
「ま、まだ……」
背の高さを生かし、押し込んでくる。恐ろしい膂力が両腕にかかり、イルザールの手と地面とに挟まれる形となった黎二の身体が圧力に軋んで、骨がギシギシと不吉な音を立て始めた。足が石窟内の地面にめり込んでいく。
逃げられない。受け流そうにもイルザールの力があまりに強すぎて、堪えるのが精一杯だ。額に汗とも冷や汗ともつかない嫌な汗が流れ出す。
気付けば、後方から魔力の昂り。ティータニアの援護の魔法だ。だが威力が低いからなのか、イルザールは視線さえ向けず、冷淡な瞳で黎二を見下ろしたまま。
しかして風の魔法が放たれるが、イルザールは魔法がその身に当たってもまったく身じろぎもしない有様。その様子を目の当たりにしたティータニアが苦々しく呻く。
「くっ……魔法がほとんど通用しない……」
「私がやる。ティータニア殿下はレイジを助けてやれ」
「――っ、わかりました」
ティータニアが承諾すると、前に出て来たグラツィエラが魔力を解放する。
「――土よ。其は我が暴虐の結晶。波乱なる威を持ちて砕けよ。そして散華讃える碑となれ」
洞窟内に詠唱が響き、ともすると黎二は、いつの間にか間近に来ていたティータニアに身体を掴まれた。
後ろから胴に手を回し、抱き付く形となったティータニアに、黎二は、
「ティア!?」
「レイジ様! 全力で受け流すのです! その後のことは私におまかせを!」
「う、うん!」
黎二はティータニアの言葉に素直に従い、押しつけてくるイルザールの手を全身の力を使って横に逸らす。直後、黎二の身体はティータニアに捕まれたまま横方向へ。イルザールの手は地面に叩きつけられ、グラツィエラの鍵言が放たれた。
「クリスタルレイド!」
イルザールの隙だらけの総身に、隆起した透石膏の砕け散った破片の無数が、砲弾のような加速を以て殺到する。
土魔法は重量があるため、他の魔法とはまた違う威力がある。そして放たれた礫の先端は鋭く尖っているため、肉の身体には有効。
……そのはずだったのだが、
「この威力でも無理なのかっ! 化け物め!」
イルザールの身体に突き立った礫の数々は、その運動が減衰されるとその場に音を立てて落ちていった。魔力の残滓となって消える透石膏の礫。イルザールの身体には、一筋の傷もついていない。
「――土よ! 其は我が暴虐の結晶! 波乱なる威を持ちて砕け散り、その先鋭を剣の如く研ぎ澄ませ! 散華讃える碑は、輝き映える剣の墓標! クリスタルレイド・リファイン!」
グラツィエラが口にしたのは、先ほどの魔法とは違う呪文だった。隆起した透石膏はその全てが剣の如く長くそして薄く研ぎ澄まされ、グラツィエラが出した払いの腕で再びイルザールへと殺到する。
「これならどうだ!」
「ふっ、魔法などいくら撃ち込んでも無駄だぞ女ぁっ! かぁあああああああああっ!!」
透石膏剣がイルザールの身体に到達する直前、耳を壊しかねないほどの大音声が放たれる。石窟内を震撼させる音波が、グラツィエラの魔法が生み出した全てを粉々に打ち砕いた。
「ぐっ……馬鹿な! 声だけで魔法を払っただと……」
グラツィエラが呆然と呟く中、イルザールの視線が彼女を捉える。殺気と武威を向けられたグラツィエラは、焦ってその場から飛び退いた。
「く……場所が悪い。ここではディヴィーギコネクティが使えんぞ……」
呟かれる苦々しい声。場所が場所であるため、大質量を転移させるというグラツィエラの奥の手は使えない。全力を出せないことに嘆き、それゆえ後ろへ下がろうと試みた彼女だったが。
「遅い」
イルザールは視線を向けたゆえ、獲物と認識したのか。彼の跳躍がグラツィエラの後退距離を凌駕し、一気に詰め寄った。
「しまっ!?」
「危ない!」
「レイジ様!?」
グラツィエラの危機を目の当たりにした黎二は、咄嗟にティータニアの腕から離れ、跳び出す。向かうは身体の任せるまま、グラツィエラのもと。仲間の危機に、脳が警鐘を鳴らし身体が加速する。
踏み込みのあと、蹴り出されるイルザールの右足。グラツィエラの絶望に染まった顔。ティータニアや瑞樹の声。グラツィエラの顔面を蹴り飛ばさんとするイルザールの脚に、思い切り剣を叩きつける。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」
まるで、金属の塊でも打ったような感触。彼我の力量差の開きゆえ、足は打ち返せない。だが、多少なりと威力は減衰する。そこが、黎二の咄嗟に出した判断だった。
全ての力を出し切った瞬間、黎二はオリハルコンの剣を手放し、グラツィエラに飛びついてその場から離脱する。
抱き締めたグラツィエラと共に地面を転がる。全力で飛び、なおかつグラツィエラを庇ったため、背中を何度も地面に打ち付けた。
勢いが削がれ止まると、何が起こったか理解したグラツィエラが叫びを上げる。
「馬鹿かお前は! 何故私を助けた!」
「何故って、危なかったから、ついね……」
「ついではない! 勇者なのだぞお前は! お前が私を庇ってどうするのだ!」
痛みと揺れにとらわれ、わずかに意識が朦朧とする中、黎二はふと傍若無人なグラツィエラにしては意外な叱責だなと思う。相手を侮るような物言いばかりすると思っていたが、実のところ勇者の必要性と優先順位はちゃんと弁えているらしい。
――ごめん。そんな言葉が、自然と黎二の頭に思い浮かぶ。それは、グラツィエラに対してだけでなく、自分を信じて付いて来てくれたティータニアや瑞樹、そしてここにはいない大事な人たちに向かってのものだった。謝罪の理由など、言わずもがな。
抱えたグラツィエラを、放り投げた。
「この馬鹿者――!!」
「レイジ様ぁ!!」
「黎二くんっ!!」
これでいい。そう納得した瞬間、背後に恐ろしい気配が近づいた。
「女を庇うか! つまらん終わり方だぞ勇者!」
「く……」
死ぬ。そう確信したそのとき、突然目の前に青い風が吹いた。
「む?」
イルザールが怪訝な声を出したかと思うと、彼は「何か」を厭ったように後方へと飛び退った。その様子に、すぐさま振り向く。しかして自身とイルザールの前に割り込んだのは、二剣を交差させて構えたティータニアだった。
「え!? ティア!? その剣いったい……」
「そのことはあとですレイジ様! いまは全力でお下がりを!」
彼女の言葉でハッと気付き、黎二はその場から離脱する。
いつしかティータニアは外套の襟で口元を覆い、剣を逆手に構えていた。かと思った矢先、ティータニアは視界から消え失せ、瞬間移動が如くイルザールの背後に出現して斬りかかった。
気配を察したイルザールが振り向いたときには、ティータニアは剣撃をせずにまたその場から消え失せる。そして再びイルザールの背後に現れ、再びの剣撃。今度は実を伴い、イルザールも鎖を守りに出して剣を受け止める。
「ち、ちょこまかと……」
煩わしそうなイルザールの声。そしてまた、ティータニアの姿が消えた。
「すごい……」
図らずも口から呟かれたのは、そんな稚拙な感想だった。
ティータニアはイルザールを翻弄するように動いている。英傑召喚の加護で得た動体視力でも、彼女の動きは見るのがやっと。跳んでくる赤金の鎖を剣で払い、懐に入って二刀の剣撃を続けざまに打ち込んでいく。
対して、イルザールの取った行動は回避だった。自身の剣撃は受け止めたと言うのに、ティータニアの剣撃には当たりたくないのか、刃から逃れるようにステップを刻んでいる。しかも、ティータニアの剣撃は弧を描くような独特な斬線を描いているため、回避するには普通の斬撃のそれと比べ、大きく動かざるを得ないようであった。
ティータニアの斬撃は止まらない。イルザールの隙を突いて、彼女が舞い上がった。
直後打ち下ろされた交差斬撃がイルザールの顔面を捉え――着地したティータニアが飛び退った。
ミスリルの剣は確かにイルザールを捉えたように見えた。だが、
「女神の加護もないというのに、随分とマシな戦いぶりだ。それと――」
斬撃が捉えたのは、イルザールの頬の皮一枚だけだった。イルザールは、ティータニアが目の前にいるにもかかわらず、その血を不敵に指で拭って確かめるように眺める。
「久しぶりに付けられた傷が、ただの人間のものだとはな」
「舐めるなっ!」
「だが、これまでだ」
吼えるティータニアが岩壁を駆けて迫る一方、イルザールは無造作に手を振るう。それは鋭い爪での斬撃か。瞬間、指の数と同じ五条の斬撃が岩肌を襲い、ティータニアは足を止めざるを得なくなった。
見れば、イルザールの鎖が浮き上がり、その先端が幾条にも分裂する。分かたれ広がった鎖の先端はまるでアンカーとなって、ティータニアを取り囲むように地面に突き刺さった。
これはさながら、鎖の檻か。
「ティア!」
「――っ! 土よ! 我を囲みては堅固なる防壁となれ! この命のあとには如何なるものも通すことまかりならん! ロームウォールライジング!」
ティータニアの詠唱の直後、彼女と鎖の間に土壁が形成され、赤い稲妻が襲う。土壁は真紅と漆黒の明滅に包まれると、繰り返される雷撃の打擲で土塊を弾き出し、いともたやすく崩れて行く。ティータニアの姿が露出し、巻き起こった白煙で彼女の姿が見えなくなった。
「ティアぁあああああ!」
稲妻の音に消されまいと黎二はあらんかぎり叫ぶ。だが、呼びかけに返る言葉はない。
「うそ、そんな……」
瑞樹の絶望の入り交じった呟きが聞こえる。その場にいた誰もが、彼女と同じ予感に息を呑んだ。
……立ち込めるのは、赤い稲妻をまとった白煙。赤い稲妻はファイレイの魔法をいとも簡単に引き裂いた強力な攻撃だ。それをまともに受けては、華奢で英傑召喚の加護もないティータニアの身体では、耐えられるとは誰にも思えなかった。
だが、白煙が晴れると、膝をついた彼女の姿が現れた。
「ま、まだです……」
「防御が間一髪間に合ったか。だが――」
地面から鎖が抜け、ティータニアを絡めとった。そのまま、彼女は邪魔な羽虫でも振り払うように、黎二たちの後方へと投げ飛ばされる。
「が、はっ……ぁ」
ティータニアは身動きの取れない状態で身体をしたたかに打ち付けられた。投げられた先には暴君の残した遺物を置いた台座があったようで、ティータニアが打ち付けられた衝撃で書物が吹き飛んでいった。
その行く先は、イルザールの足もと。目に留めて興味を惹かれたか、イルザールが本を拾おうとする。
それを見て叫んだのは、瑞樹に支えられたファイレイだった。
「それは!」
「なんだ? これがどうかしたのか?」
「そ、それに触れてはなりません!」
身を案ずるような叫びにも聞こえるが、そうではない。ファイレイの話した通りならば、その書物に触れたものは、暴君と同じようになってしまうという。
もし魔族の将軍がそうなれば、どうなるかは想像がつかない。
「ふん、確かにこれはあまり良くない気を放っているな」
「わかっているなら……」
触れるな。触れないでくれ。お願いだから。彼女はそう言いかけたが、しかし、
「だが――こういった手合いに覚えがないわけでもない」
願い叶わず、イルザールはそう言って書物を拾い上げた。だが、何も変わらない。イルザールは装丁を矯めつ眇めつしているのみで、ファイレイの言ったようなことは起こらなかった。
「……どうして。それに触れて、正気を保っていられるなど……」
「それに関しては、この身の特権だろうな。それにしても、ゼカライアと似たような力が他にあるとはな……」
イルザールはそう意味ありげに呟いて、書物を腰の鎖に括り付けた。
「これはもらっていこう。――さて、これでまともに動けるのは、勇者である貴様と、奥の女だけだな」
「くっ……」
イルザールは黎二と瑞樹を交互に見やって、迫って来る。グラツィエラをあしらい、そしてあれほど激しい戦いができるティータニアを、こうも簡単に倒してしまった。化け物だ。それも、掛け値なしの。
いまの黎二の手もとには剣がない。先ほど手放したため、無手の状態だ。魔法を撃つにも、効果があるとは思えない。完全に、万事休すだった。
「……レイジ、お前はミズキを連れて逃げろ」
「え……?」
「勇者であるお前がやられてしまっては元も子もない。奴は私が食い止める。行け」
「で、でも」
黎二が躊躇っていると、起き上がっていたティータニアもグラツィエラに追随する。
「れ、レイジ様。グラツィエラ殿下の言う通り、私たちのことは構わずここは逃げるのです」
「そんな! みんなを置いてはいけない!」
「心配はご無用。ここにはグラツィエラ殿下とファイレイ様もいます」
「レイジ、お前はお前のやるべきことをやるのだ。いまその武具を取られ、お前まで殺されたらどうなる? 勇者という牙城が一角でも崩れれば、魔族の勢いはさらに増すぞ」
「だ、だけど」
「覚悟はあるはずだ。他の者を見捨てなければならないことも。行け。このままではここにいる全員が無駄死にするぞ」
「…………」
「最悪。ティータニア殿下を盾にして逃げる」
にやりと八重歯を剥くグラツィエラ。余裕を見せたつもりだろうが、この状況では悲壮な決意にしか聞こえなかった。
「死ぬ前の算段は終わったか?」
鷹揚に迫って来る影。自分にとっての、死神だ。いまの自分では、決して勝てない相手。逃げるしかないのか。彼女たちの言う通り。それは嫌だとそう思っても、そのわがままを許してくれるものは何もない。
「いや――」
そこでふと気付く。いや、まだ剣を抜く前にしまっておいたサクラメントがある、と。だが、使うことができるのかはわからない。この武具を目覚めさせる文言はいまもってしても、頭に思い浮かばないのだから。
「く……」
無力感に、歯噛みする。さっさと行けと急かすグラツィエラやティータニアの声。不安そうな瑞樹の眼差し。残酷な判断を迫られる中、自分の内から囁きが聞こえてくる。ここで逃げていいのかと。いま力を振るえられないでどうするのかと。助けることができなくてどうするのかと。
いま縋ることができるのは、これしかなかった。ゆえに、サクラメントを強く、強く握り締める。
そして、
「目覚めろ……覚醒めろぉおおおおおおおお!」
それは、自分でも思いがけぬほどの音声だった。選択を迫られた者の、運命に抗う魂の咆哮だったのだろう。
しかしてその危機に、サクラメントは――応えた。
装飾品の中心に据えられた蒼い宝石が一瞬、一際強い煌めきを放つと、緩やかな青い波動が周囲へと放たれる。気が付けば、周りのあらゆるものが白黒になって動くことを止めていた。瑞樹も、ティータニアも、グラツィエラも、ファイレイも、そしてイルザールも例外ではない。時がモノクロになって停止して、ただ唯一自分とサクラメントだけがその限りでないというように、強い色味を持っていた。
やがて、青い波動が巻き戻しのように宝石へと帰ってくる。
手の中にあった装飾品はいつしか、冷たい輝きが刃になぞる青白い剣へと変化していた。
「やった……」
形は、細身の長剣。剣ではあるのだが、この世界や現代世界でよく見るような剣とは全く異なり、切っ先や切り刃は白磁でもできているような金属を思わせない見た目で、中心の剣身はまるで琺瑯製の美術品のような青の色彩が美しい意匠。グリップは白と青のカラーで構成された瀟洒な握りであり、ガードを模しているのか縦に揃えられた白磁の両翼と白い二重円環が剣身とグリップの間に浮いている。そしてその円環の中心には、青い宝石がその内に稲妻と結晶、そして輝きを湛え、収まっていた。
まるで未来の武具と言われれば、そう頷いてしまうかのような造りだが、古の美術品とも言える赴きがある。
武具の現界に遅れて、ティータニアやグラツィエラの驚愕の声が響いた。
「レイジ様!」
「レイジ、お前……」
黎二も驚きにとらわれたまま、何気なく振り返れば、瑞樹の顔がぱあっと明るくなっていたのが見えた。
直後、気配を察し飛び退くと、たったいままで自分がいた場所を巨大な赤金の鎖が過ぎ去って行った。
「ふん。それで奴は武具と言っていたのか。なるほど面白いものもあるのだな……」
イルザールはそんな悠長な感想を漏らしつつ、しかし視線の鋭さには少しの翳りもない。
黎二は終始態度の変わらないそんな魔族にサクラメントを向ける。すると、サクラメントは黎二の意志に反応するかのように彼の魔力を吸い上げ、動き始めた。
並行だった白い円環はそれぞれ斜めに傾き反対に回転、白磁の翼から心地よい冷気とパーティクルを伴った魔力の蒸気が腕をなぞるように噴き上がり、まるで内燃機関が動き始めたような震動が伝わってくる。
抑えきれないその震えは、剣自体の脈動なのか、それとも振るうのをいまかいまかと待つ己の抑えきれない衝動なのか。
足もとに青い輝きを放つ魔法陣が描かれる。すっと剣を振ると、切っ先がなぞった空気が青く凍てついて結晶化し、粉々に散じていった。
しかして結晶は連鎖し、前方の空気や地面を凍てつかせていく。その反応は、まるで激しさを伴わない。ティータニアやグラツィエラ、ファイレイが使った魔法に比べれば、ゆったりとしており、全く力を感じさせなかった。
だがその緩やかな力は、絶大だった。
「ツッ――!?」
瞬間、結晶が届く先にいたイルザールが、何らかの機微を察してその場から飛び退った。回避の間に合わなかった赤金の鎖の先が青色に凍結し、そして砕け散る。強力な魔法を突き破った鎖が、いとも簡単に。
「結晶剣イシャールクラスタ……」
ふと頭に思い浮かんだのは、剣の名前。ファイレイはあらゆるものを凍てつかせると言ったが、あれは間違いだ。おそらくはこの剣の持つ力によって、凍ったという形態をとったにすぎないのだ。
……しかし、何故か先ほどからイルザールの動きに緩慢さが見て取れる。剣の現界、力の行使、その時々で随分と隙を作ったはずなのに、何故かその隙を突く気配がない。それは強者の余裕の成せる油断なのか。黎二は疑問に思いつつも、イシャールクラスタのグリップを固く握り、イルザールに向かって跳躍する。
「え? ええっ!?」
そのとき、黎二が口から発したのは驚きだった。跳躍に際し身体に加わったのは身に覚えのない加速。いま、考えていた以上の距離を、考えていた以上の速度で跳躍していた。
そんな、制御を超える挙動に宙にいながら泡を食う。このままではマズいと空中で翻って着地点に左手を突き、両足を大きく開いて地面に突っ張るように制動。勢いが削ぎ切れず、ざざざ……と後方に砂を掻いていってしまう。
「止まった……」
壁にぶつからず、ほっと安堵の息が出る。そしてすぐ、自分が隙だらけなことに気付いたのだが――
「後ろかっ!?」
「え……?」
イルザールの驚愕の声に、黎二は困惑の声を上げた。気付けばみな、驚きで目を丸くさせている。まるで予想だにしないものでも目の当たりにしたかのように。
その様子を見て、まさか――と推測が産声を上げる。いまの動きに驚いたのは、自分だけではなかったのかと。遅ればせて驚きの声が聞こえたのは、誰も反応できなかったからではないのかと。先ほどから、イルザールがやたらと反応に遅れているのは、自分の感覚が多少なり加速されているからなのではないかと。
その推測を胸に、イルザールの動きに視線を集中させる。案の定イルザールの動きは先ほどよりも遅く感じ、余裕を持って反応できる程度まで落ちている。そして何故かその動きから、先ほどまで抱いていた絶望的な力量差を感じなくなった。
打ち付けんと飛んでくる赤金の鎖を、イシャールクラスタで受け止める。腕に重みを感じるが、先ほど爪撃を受けたときとは比べ物にならないほどに力は減衰されていた。
「これが、この剣の力――」
「……なるほど。ゼカライアに届くとまで奴が言うわけだ。贄の力を一応は戦えるくらいにまで引き上げるとはな」
イルザールの声に驚きは感じられるが、まだ余裕と言いたげだ。確かに、絶望的な力の差は覚えないが、それでもまだ強者と相対している感覚はある。
ここは剣の力を解放するべきだろう。黎二はそう断じ、地面に思い切りイシャールクラスタの切っ先を突き立てる。
「おぉおおおおおおおおおお!」
咆哮と共に魔力が急激にイシャールクラスタに吸われ、青い氷が巨大な水晶鉱のように突き上がって、イルザールを包み込まんと石窟を侵食する。イルザールも対抗して赤い稲妻をまとった鎖で打ち壊すが、砕いた端から青い氷が広がり、青い氷を砕く鎖までもどんどんと凍らせていく。
これならいける。太刀打ちできる。黎二がそう思ったとき――
「――え? う、あ……な、なんだ……?」
ふいに視界がぐらついた。まるで立ちくらみでも起こしたかのよう。それに合わせ膝が笑い出し、身体の力が抜けたようにふらついてしまう。次いで、水晶鉱のような青い氷の隆起が砕け散って消えてしまう。
「レイジ様!?」
「身体が……魔力が吸われて……」
「この力だ。当然相応に魔力が持っていかれるだろうな。お前には身に余る武器だったというわけか」
そう、わけ知ったような台詞を吐きつつ、イルザールが迫って来る。
万事休すは、まだ終わっていない。