ゆえなきゆえの光
舞い上がった土煙が落ち着くと、視界には均され起伏のなくなった地面があり、その中心に、土が渦を巻いたような形が出来上がっていた。
地面封じの術でインルーを地面に沈めたことにより、勝利を確信したか。後方で見ていた初美が喝采を上げる。
「やった!」
「いいや」
喜びの交じった声音に、否定を返す。勝利を考えるには、未だ早いのだ。
目の前の状況とこちらの物言いが合致しないことに初美は「え?」と怪訝そうな声を出す。そんな彼女を手で制し、後ろへ下がることを促すと、案の定地面の渦の中心が轟音と共に破裂した。
再び舞い上がった土煙の中から、龍人インルーが姿を現す。
「――虚を突くと聞いたときは不意打ちのことかと思ったが、なるほどこういう意味だったとはな」
称賛めいた物言いを紡ぐのは、まるでダメージを感じさせない涼やかな声音。そんな相手の状態に内心歯噛みしながら、返礼の軽口を返す。
「卑怯と優美さの違いってヤツさ」
「いやいや、勉強させてもらったな。魔法使いは唱えて撃つが基本ゆえ、意外と行動が単調になりがちなのだが――気持ちよく覆されたぞ?」
「そいつはどうも」
水明が暗に「うるさい」と返答すると、インルーが怪訝そうに問うてくる。同時に身体を射抜いたのは、険が混じった表情に埋まった黄玉の眼光。
「俺が倒れなかったのは気付いてたのだろう? いまの間に、何故撃たなかった?」
「さてな」
「絶好の隙を貴殿が見逃すとは思えん。先ほど魔法が不自然に途切れたときもそうだ。となれば、撃てない理由があったというところだろう」
「…………」
「その様子では、当たりのようだな」
確信を得た表情に、ぎりりと二度目の歯噛み。
そう、果たしてインルーの言葉は、正鵠を捉えていた。確かに彼の言う通り、魔術の行使が途切れたのは、使うことができなくなったためだ。魔術の連続行使で、場のエントロピーが限界に近付いていた。
その状況では、決め手を撃つことができず、かといって魔術融解現象が起こらない程度まで位格を下げた半端な魔術を打ち込むのは無駄でしかない。ならばと、最悪時間稼ぎになる術を選んだのだ。
現代魔術理論で編まれた魔術は行使速度が速い。だがエントロピーの増大を招くため、インターバルが必要になるネックが後ろをついて離れない。そのため、戦いではいまのようにあと一歩に困ることがままある。メリット、デメリットは弁えているが、やはりこういった状況に陥ると口惜しかった。
身体に付いた泥や砂を払いのけ、再び戦う態勢を整える目の前の男。自身の隘路となって立ちはだかるその姿、泰然として一寸の瑕疵なし。さながら、それは強者の在り方と言って差し支えないだろう。
外見から予想して東洋の龍寄りかと思ったが、戦いぶりはなかなかどうして西洋の竜に通じるものがある。竜の語源となった技、邪視と起源を同じくする視殺に関しては、龍にも八大龍王は徳叉迦の視毒があるゆえ断言はできないが、先ほど使った地面封じの術が通用しないゆえ、土剋水である水神とはもはや考え難い。大地の力を吸い上げ死をまき散らす、西洋の竜だろう。これでもう、間違いはない。
竜として存在が似通っているのも自身にとっては脅威だが、恐るべきはその攻撃と、それにまつわる重さだ。
先ほどから目の当たりにしている強力な打撃攻撃。あの華奢な身体では物理的に不可能だが、比重が違えば話は別だ。特にああいった人とは違う生物は得てして、見た目に反する重量がある。それゆえ、別の力――魔術などではない純粋な腕力と、初美の使う絶刃の太刀など至った者が持つ理外の『理』によって、あれだけの力が出せるのだ。
あの男にとって近距離は絶殺の間合い。だが、離れすぎるのもまた悪手だと言えよう。
遠距離にあって怖れるべきは竜哮だ。科学的な側面から見ると、高出力のマイクロ波と衝撃波、音響兵器が合わさったプラズマ発生装置のようなものであり、魔術的な側面から見ると、熱素増速による脱燃素の結果とも言える。急激に発生させた熱素を周囲のものに与え、万物に存在する燃素を無理やり追い出し、燃焼という結果を生み出したのだ。
戦いが始まる前に使われたものは周囲を焼き尽くしたが、息吹のように指向性を持たせることも可能だろう。
「雷の吐息の方がよっぽどひでぇが……」
以前目にした、似たような攻撃を思い出す。竜哮とは違うが、人間と同じ人型をした生命体が口腔の奥から吐き出す『あらゆる生物を殺す吐息』雷の吐息。地上にいる人型の生き物が持ちうる破壊的な生体運動の中で最も凶悪と目されるものの一つだ。防御に鈍いという特異な性質を持つゆえに、どんな防御術を使っても力を減衰し切れないという馬鹿げた技。
現代世界でも、そんな人に対して使うには過剰な攻撃を使う似たような生き物がいる。いわゆる最強種と呼ばれるあらゆる生態系の頂点に立つ霊長のことだ。その力は人知を凌駕し、まるでお伽話や神話に出てくる英雄がそのまま本から出て来たのかと錯覚してしまうほど、次元違いの力を誇るという。
そしてその全てが例外なく、人型の形を取っており、人の原型とさえ言われている。もしやすれば、この世界でのその役割を担っているのが、目の前にいる龍人と呼ばれる生命体なのではないか。
それを証明するかのように、龍人、インルーは「人間離れした」では済まない動きを見せ始める。周囲を跳び回り、こちらを翻弄するかのような動作は、魔術師の目を以てしても見切れない。速さはさほどでないにもかかわらず目で追うことができないのは、人間が想像できる動きをしていないからだろう。落雷が地面で弾けたように緑に迅雷が跳ね、その先を覆うと視線を負わせるといつの間にか行き過ぎている。気付いて視線を戻したときには、尾を引く光の余韻しか残っていない。それは回を追うごとに目で追えなくなり、やがてはどこを向いてもインルーの姿を捉えることはできなくなるだろう。
別次元の速度域に入られては、手の出しようがない。
ゆえにこちらは、魔力炉の稼働率を上げる手に出る。解放した炉心にいま一度想いという名の火をくべる。励起される心脈。鼓動は何よりも大きな音となって自らを襲い、限界を超えたさらに先へと、自身の位格を押し上げて行く。
「どれだけ魔力を……」
いまはもう捉えきれなくなったインルーが、感心の声を上げた。
――そう、魔力炉心とは、魔術師の魔力消費に堪えうる規模の魔力生成を行う器官だ。通常魔術師は、自らが持ちうる魔力の現界値であり安定時には常にそれ以上をオーバーフローしない『定常魔力』が設定されている。
そして魔術行使時には、その定常魔力分と共に常に炉心によって生成される魔力を用い、神秘を発生させていく。定常魔力を使い切り、炉心の魔力生成が追い付かなくなったときに初めて魔力切れを起こすのだが、それを回避しかつ定常魔力をオーバーフローさせ出力を上げるのが、炉心解放と呼ばれる技術なのである。
こうなると、魔術師の肉体の限界強度が堪えうる限り、魔力を常に膨れ上がらせることができる。そして、魔力の規模が多きくなることにより大量に魔力を消費する魔術の行使はもとより、影響を及ぼすことのできる領域を広げ、かつ己の存在を高次のものへと押し上げ、扱うことのできる神秘を増やすのだ。
インルーの姿は未だ見えない。相手を捉えられないのは致命的だが、それでもただ一点、捉えることができるときがくる。インルーがこちらに攻撃をし終わったそのとき、初めて自身はこの怪物の居場所を特定できるだろう。
自身に賄うは身体能力強化術式、身体強度向上術式、その両方をかけ終わったとき、背中に稲妻のような一打が加えられる。常なら必殺の一撃も、限界を超えて底上げした総身は、一度きりの踏みとどまりを許してくれた。吹き飛ばされなかったことにより、幾ばくもないインルーの隙が、好機として巡ってくる。
己が背に拳を押し当てたまま止まるインルー。彼が圏内から脱出を図る前に、周囲の空間を魔術で歪める。ぐにゃりとマーブリングのように歪む視界。それによってインルーは重心の置き場を変化させられ、動きが鈍った。そこへ間髪容れず高重力をかける。
「――Gravitatem.Bis coniunctum!」
(――重力式、二重連結!)
これでは足りない。魔術を重ねるのではなく、連結秘法によって魔術と魔術を繋げ、間に空いた時間を消す。
「――Gravitatem.Triple contexitur!」
(――重力式、三重連結!)
インルーには刹那の猶予であっても、重力の檻から抜け出される。ゆえに手を、口を、魔術を止めてはいけないのだ。
インルーの苦々しい、しかし喜びの垣間見える顔が見える。もっと魅せろ。もっと食いついて来い。そんな思いがありありと判る表情だ。重力の檻の中にあっても決してブレないその姿、恐れ入るというほかない。
ならば、と。五属性の魔術をそれぞれ放つ。五行の教えでは互いに助け合って世界を構成し、そして拮抗しながら破壊を生む元素たち。初美の真下にはサークルを。やがて荒れ狂った五元素は次第に反応を起こし始め最後には対消滅によって、――世界が吹き飛んだ。
吹き飛んだ規模は、先ほどのインルーの竜哮を凌ぐほど。今度こそ、黒鋼木の森は連合北から残らず消し飛んだ。
だが、森は消し飛ばすことができても、龍人まで倒せるかとは、言えなかった。そういった『威力を頼みにする攻撃』には耐性があるのか、インルーは間合いの外で楽しそうに笑っている。
五大元素で効果は薄い、上位概念による攻撃しか龍人には有効打とはなり得ないのだろう。結論に行き着くとときを同じくして、押さえ付けていた背中の痛みが殊更大きな悲鳴を上げる。
図らずもふらつく足もと。その隙のせいで、冷汗が氷となって背を滑り落ちた。
そう、目の前には一分の隙も見逃さない迅雷の姿。
「貰ったぞスイメイ・ヤカギ」
咄嗟に頭を腕で防御すると、その防御を貫くほどの拳打が頭を揺さぶった。守りに出した左腕は折れ曲がり、しかもそれだけでは足りぬというように両足にそれぞれ一撃ずつ、最後に胴体にとびきりの蹴撃を打ち込まれた。
「ぐっ、はぁ――ぁ……」
蹴り飛ばされ、地面を転がる身体。回転する意識と揺さぶられて朦朧とする頭に鞭を打って、すぐに治癒魔術を、怪我を負った部分に施す。すぐに復帰しようとするも、眼前にはインルーの影。隙を捉えられたが最後、攻撃を受け続けるのは必至だった。
「づっ、ぐ、がはっ……」
打撃を受けるその都度、身体に治癒を施す。だが当然徐々に治癒が間に合わなくなっていき、身体の動きに淀みが出てくる。巨大な鉄球にでも打たれたかのような打撃を受け続け、ついには襤褸のようになって跳ね飛ばされた。
――ここで、負けるのか。己は。
地面を一転、二転、数転し、うつぶせに転がる。口には血と土の味。間断ない痛みの連続に悲鳴を上げる身体と心。それでも立ち上がろうと、地面を掻くいて土塊を握った。
己が自問を見透かすかのように、前方から言葉が放たれる。
「これで終わりか?」
「黙れ……」
「だが、立てぬのであろう?」
「黙れ!」
「次がないのなら、女を連れて行ってしまうぞ?」
「黙れぇえええええええええええっ!!」
「そうだ! 叫べ! 決して譲れぬのならば思いを高らかに叫ぶのだ! 吼えろ! そして曝け出せ! 貴殿の力はまだそんなものではないはずだ! この期に及んで出し惜しみなどするものではないぞ!」
言われるまでもないことだ。剣士が剣を抜いたその場所を、己が死に場所と定めるように、魔術師もまた、命を懸けると定めた場所で、魂と魔力のあらんかぎりを燃やし尽くさねばならないのだ。
ゆえに、立ち上がる。身体が動くことを放棄するまで。心が決してくじけぬまで。あの日目指したあの夢が、この両眼から失われるそのときまで。
「――Fiamma est lego!Vis Wizard.Hex agon aestua sursum!Impedimentum mors!」
(――炎よ集え! 魔術師の叫ぶ怨嗟の如く! その断末魔は形となりて斯く燃え上がり、我が前を阻むものに恐るべき死の運命を!)
「その魔法は先ほど見せてもらったぁ!」
そうだ。見せた。見せたのが、布石なのだ。
その心奥に答えるように、違う形態を取る魔術。まるで推進機構のジェット噴射のように炎が後方へ噴き出し、アッシュールバニパルの輝石を握る右手、そしてそれに服う右腕は、眩い烈火に包まれた。
隙を取ったと正面から踏み込んでくるインルー。己はその判断を予断に貶めて、飛び込んでくる龍人の懐へともぐり込んだ。
驚きに目を見開くインルーのその眼前で、渾身の魔術行使。
「――Fiamma o asshurbanipal!」
(――ならば輝け! そして撃ち抜け! アッシュールバニパルの眩き石よ!)
輝石を握る右手は固い拳となり、後方へ噴き出す炎は加速を助ける機構となって、インルーの水月を捉える。叩き込まれる拳は今度こそ逃れられないダメージとなってインルーを後方へと吹き飛ばし、そして体勢のままならない男に追撃のようにアッシュールバニパルの焔が殺到する。
炎の中から聞こえてくる、インルーの咆哮。
「まだまだぁああああああああああ!」
鼓膜を貫き、まとわりつく炎さえ吹き飛ばしそうな大音声。生きる者に破滅の運命をもたらす宝石の輝きをまともに受けてなお、龍人は地に伏すことはない。
なれば、二度目の交錯のときは近い。行使終わりの余韻に浸らず、水明は再びの近距離を見据え最後の一手に取り掛かる。
にわかに作った右の刀印のその指先に、魔力光を灯す。暁光のような煌めきを放つそれを静かに曳いて描くは、魔術を生み出す文字記号。
すぐに足もとに発生する魔法陣。そのまま挙動を重ねて行くと、その魔法陣の外周にさらに魔法陣が重なって行った。
魔術を編む中で胸の内に去来するのは、拭い切れぬあの過去。実力はあったくせに心が弱かったから、取り返しのつかないことになったあの日あのときあの戦場。
そう、あの場所で大事なものを失ったのだ。そう、あまりに強すぎる存在を前に、動くことができなかったから。防御に遅れ、庇いに入った父が、赤竜の咆哮をまともに受けるはずだった自身のその身代わりになってしまったのだ。
そしてそのとき、意志を継いだ。救えなかった自分の代わりに、救われない女を救ってくれと。そんな誓いが確かにあった。
そう、だからあの日あの場所で、弱かった八鍵水明は死んだのだ。
だから――
「もうあのときみたいなことは二度と御免なんだよ……」
肺から空気を引き絞るように呟いてから紡ぐは――真詠唱。
――Emerge from the sky of dawn. A person who has fulfilled all the wishes.
――祖は黎明の空より来たりて、天地あらゆる願いを成すもの。
――Emerge from the sky of dawn. A person who has fulfilled all the wishes.
――使いから子らを解き放つため、そして子らを自らの手から解き放つため、祖は使いの前に降り立った。
詠唱に晒された世界が震えていく。静かに、ゆっくりと、やがて激しく、誰もその場で立っていられないほどに、大きく。炎をやっと振り払ったインルーが、周囲の変動を目の当たりにして息を呑んでいる。完成に差し掛かった魔術を止めるには、いまさら駆けてこようとしてもすでに間に合わない距離。
ゆえに、
――Apostle fell to the ground Because it deprived of wings to light.
――しかして使いは地に落ちた。光に翼をもがれたゆえに。
――Apostle was dropped to hell. And because we affirm the evil.
――しかして使いは堕とされた。身に巣食う悪心を良しとしたがゆえに。
――The fall of the Apostle. As punishment.
――ならば堕とせ。祖が断罪として使いを追いやったように
――Please petition. As it has been so. In order to manifest the infinite light.
――ならば願え。祖が示したように。そう、彼のゆえなきゆえの光をここに斯く現さんがために。
インルーが間合いに入ったその直後――
「hope those that do not know anyone――!」
(我が悉皆なるは不可知なりし■■■!)
届けと叫ぶ。未だ見ぬ領域へと。届けと吼える。ゆえなきゆえの光を、いまこの手に確かに掴み取るために。
だが、水明が扱おうとしたその光は、彼にはまだ強く、そして早すぎた。
「う、ぐ……くそ、っ届けぇえええええええええええ!!」
どれだけ意思を強く持っても、言葉を番えなかった魔術は失敗に終わる。すぐに制御しきれない力と概念の奔流その余波が、衝突する二人を巻き添えにして呑み込んだ。
目眩い光が収まると、やがて戦場に冷ややかな夜気が吹き込む。
あるのは、焼け焦げた土塊と炭化した木々の残骸とも言えぬ炭が積もる大地。
吹き飛ばされた先で、インルーが疑問を口にする。
「……何をした? 空気が少し前のものに戻ったぞ?」
「余波で、時間が停滞したか、空間が巻き戻しを喰ったってところだ。低速の光が発生した影響だろ。発生したから、辻褄合わせが起きたのさ。……ま、んなことはどうでもいい……」
内腑から込み上げてくる熱と喉を冒す灼熱感に、血の混じった咳を出す。内臓が少しやられたか。
しかして、乾坤一擲の一撃には失敗した。いまここある結果は頭に描いた想像には程遠いものだ。口にした最後の呪文を音にできなかったゆえに、不完に終わった。いや、自身がその魔術を使うに足りるものではなかったがゆえに、最後の呪文が音にならなかったのだ。
魔術失敗で起こる跳ね返りであるリターンオーバー――いわゆる返礼風によって、水明はゆっくりと膝を突く。一か八かで臨み全力を注いだため、対策を講じる余力はなかった。身体を襲う強い痺れ。まだしばらくは動けない。
「…………」
戦いにおいては致命的な間だが、向こうも動かない。いや、動けない。おそらくはインルーも、無傷ではないのだ。先ほどアッシュールバニパルの焔による奇襲を喰らい、いま『ゆえなきゆえの光』の奔流をその身に受けた。魔術として成立はせずとも、影響はあったのだ。
そのまま動けずにいると、不意に目の前に影ができた。
顔を上げると、刀を抜き放ち構えを取った、制服姿の少女が見える。
「初美……お前、下がってろって……」
「動けないんでしょ。なら、誰かが前に出ないといけないじゃない」
「いまのを見ていたなら、敵わないことはわかるはずだろ」
「っ――、そんなの言われなくてもわかってる。でも、それでもあんたが動けるまで時間稼ぎくらいはできる。……それにそっちのあなただって、ただでは済んでないんでしょ?」
「クク、確かにな」
インルーは笑みを浮かべているが、やはり動かない。初美が前に出ればそちらとしては千載一遇のチャンスだろうに、焼けた着物を破り身を整えるのにかかずらっている。
一方の初美は、刀を正眼に構え切っ先をインルーへと重ねている。だが刀の柄を握る手には冷汗が滲み、わずかな震えを伴っていた。
「やるの?」
初美が問うと、インルーは首を横に振る。
「いや、水が入った。ここは帰らせてもらおう」
「え?」
「なんだと?」
予想だにしないインルーの言葉に、初美と水明は同時に疑問の声を上げる。
「なんだ。おかしいか?」
「そりゃあ……」
「戦いが途切れたということは、ここまでにしておけということだからだろう。退くべき機会が巡り合ったということさ」
果たして、それは真意なのか。意図の見えない験を担ぐような物言いに、水明が怪訝そうに訊ねる。
「いいのかよ? 初美を連れてくんじゃなかったのか?」
「そうだが、それは貴殿に勝利したときに得るべきものだ。それに、貴殿とは遺恨を残したくない」
「遺恨だと?」
「そうだ。俺が勇者を連れていくことによって、俺と貴殿の間に遺恨が残れば、その後の戦いは憎しみという余分を持った戦いになる。それは俺の望むべくものではないのだ。楽しめる戦いとはたとえ不公平であっても、正面からでければならない」
「だから、今回はその余分があるから、俺との戦いも最後までやらないってのか」
「そうだ」
インルーは目を閉じて静かに頷く。無茶苦茶な話であるが、この男が戦闘に楽しみを見出す類の手合いゆえ、あながち違うとも言い切れない。
訝しんでいると、インルーは引き下がるような挙動を見せ始める。本当に戦うつもりがなくなったのだろう。漲らせていた武威を解いて、熱くなっていた空気も涼風へと変えてしまった。
そんな姿を目の当たりにした水明は、その場に胡坐をかいて、半ば呆れたような笑いを見せる。
「……とんでもないぜアンタは。俺はこれまでアンタ以上に戦いに純粋なヤツを見たことない」
「この上ないとは嬉しい言葉だ。これまで腕を磨いてきた甲斐があるというもの」
控えめな笑みを見せつつ身を翻すインルーは、去り際、まるで戦友と友誼をかわすかのように言い残す。
「ではな、スイメイ・ヤカギ。また見えよう」
「ああ」
また見えようとは、再戦の約束だ。戦いなど二度と御免で、甚だ不本意な言葉だが、ああと了承の言葉を口にせずにはいられなかったのは、相手の真摯さに応えねばならないと心が訴えたためか。
インルーが去ると、やがてもとの静かな森が戻ってきた。ぱちぱちと音を立てる余燼はまだ多くあるが、それでもそう思ったのは、胸の内を騒がすものがいなくなったためだろう。
初美は身体に漲らせていた気が抜けたか、ぽんっとその場に座り込む。
「行っちゃった……」
「だな」
「一体なんだったんだろ、あの人」
「さあな。いまは妙な敵だったとしか言えねぇよ。あと戦闘狂な」
インルーに対する私見はそれまでにして、水明は大きく息を吐く。
「くそ、次は、負けねぇ……」
肺腑に残った嫌な空気を吐き出して、そして漏らしたのは悔しさの滲んだ超克の言葉。敗北ではない。むしろこちらの目的は達成されたゆえ、どちらかといえば勝利だろう。だが、戦いは劣勢のまま終わった。気分的な話、とても勝ったとは思えない。なれば引き換えに得たものは、やはり敗北だったと言えるだろう。
「大丈夫?」
「まあ、生きてりゃなんとかなる」
水明がおどけて言うと初美は「そう」と一言返す。そして、何か思い出したように彼女は再び口を開いた。
「そういえばあんた、随分あいつの言葉に耳を傾けてたみたいだけど」
「ん?」
「話、してたじゃない。あいつと」
「そういえばそうだな」
「どうして? 敵の言うことなんて聞く必要なんてないんじゃない? それに戦ってる最中も無駄に話してたし」
「そりゃあそういうときもあるだろ。ああいう殺し合いとはまた違う試合と死合いがごっちゃになってる戦いだと、そういう機微とか暗黙の了解とかさ」
「喋っている間に仕掛ければいい」
「まったく同意なんだがな。ああいう手合い相手のときはどうも無粋なんじゃないかと思うんだよ。そうだろ? 真っ向から倒さなきゃならない相手ってのは、誰にだって、どうしたって、一人や二人いるモンだ。だから俺は自分に嘘はつかなかった。もちろんお前だけ逃がす手だって考えてたんだぜ?」
正直なところ、水明の本命はそちらだった。インルーの目的が初美ならば、最悪初美だけ手の届かないところに移動させればいいのだ。
だが、初美は承服しかねるといった表情を見せており、
「……それでも考えなしだって言いたい顔してるな」
「そりゃあね」
「なあ、お前も俺の力は見ただろう?」
初美がこくりと頷くと、水明は続けて、
「まだ道半ばだけど、持ってる力が大きいのは自覚している。要は俺は自立行動する火薬庫みたいなもんさ。そんなヤツが思うままに、何も知らないままに力を振るえば、どうなるかくらいわかるだろ?」
「それは……」
「俺は魔術師だ。怪異に限らず、人間だって魔術を使って沢山ぶっ殺したこともある。もちろん、そのときは襲ってきたヤツとかばっかりで、そうしなきゃならないからだって納得してるからいいが、それがもし、そうじゃなかったらどうなる? 周りの状況を正しく把握してない状態で力を振るって、それが取り返しのつかないことになったら――」
待っていたのは、重い沈黙だった。水明の言葉に、初美は言葉を返せなかった。当然だ。そんなもしもは、記憶のない初美の方が、意識すべきものなのだから。
「俺はやっちまったあとに後悔はしたくない。だから知ることが、半ば義務でもあるんだよ。相手の内情なんて往々にして見えないもんだ。相手が敵対してくるからってだけで、倒さなきゃならないって決めつけるのは早計過ぎる。まあ、慎重すぎて機会を逸してしまうってこともあり得るから、どちらが良いとは言えないけどさ。悩みどころなんだぜ? 結構」
自嘲に貶めた訊ねるような言葉と笑いのあとに、返る言葉はなかった。何かを吟味しているかのように初美の顔に、インルーに対する所感を告げる。
「まーだからってヤツが正しいことしようとしてるようには見えなかったが」
「使うって言ってる時点で交渉の余地はありません」
むっつりとした初美の断言に、水明は「ですよねー」と気の抜けた同意を返す。
そして、急にその場に大の字になって寝ころんだ。
「八鍵?」
「……疲れて死にそう。ものすごくお布団が欲しいです」
そんな間の抜けた発言に、がっくりと肩を落とす初美。これではすぐには引き上げれそうになかった。