コーヒーの味
「――竜種、ですか?」
とある日の夜。現代魔術師である八鍵水明は、父、八鍵風光の口からそんな有名な幻想生物の名を耳にした。
――竜種。幻想小説の溢れる現代では、爬虫類の身体と翼を持ち、口から毒や火を吐く怪物としてその名を広く知られている生き物だ。
東洋では龍として善の象徴と目されるが、西洋においては悪魔――悪性を持つ精霊の化身と見做され、神や天使などにより退治される『悪』としての役割を担っている。
そんな竜のイメージの大元は、爬虫類の身体からわかる通り蛇だ。世に言う聖書では蛇は悪とされ、アダムとイブを唆したものとして罪の象徴にもなっている。
これは古い時代、聖書を規範とする宗教が、古エジプトや土着の宗教など蛇を信仰する宗教と敵対してきたことが起因しており、蛇=悪魔という考えが多く西洋圏に広まったせいである。
そのため、古の時代から竜は人間の敵として描かれ、悪とされてきたのだ。
……水明の聞き返しは、やにわに耳に飛び込んできた「お前は竜種を知っているか?」という父の問いがあったからだ。無論、水明には父ほどの深い知識などあるはずもなく、ソファの上で頭を振るしかなかった。
「竜種は、歴史書や文献にはその形跡を残すが、その存在はないものだ。そして、我ら魔術師の中でも、その存在は秘匿されているものでもある」
「秘匿されている……?」
「と、いうことはだ」
婉曲な言い回しに眉を寄せた水明に、救いの手を差し伸べるかのように、安楽椅子の肘掛けを指で叩く風光。
「実際は存在する、ということですか?」
「もう過去の話だがな」
そう宣った父は、やはりベランダから見える曇った空を眺めるばかり。彼の話の続きを待っていると、ふと、父の視線が水明を射抜く。
「水明、コーヒーを淹れてくれ」
「こんな話しの途中でですか」
「飲みたくなったんだ。仕方ないだろう。息子にコーヒーを淹れさせるのは親の特権だ」
「どんな特権だよ。……インスタントでいいですか?」
「構わない。だが……」
「ブラックですね。わかってますよ」
「お前も飲むか?」
「ミルクとシロップを入れてなら」
「お前も早くブラックを飲めるようになれ」
「いつかね」
代わり映えのない表情を向けてくる父に、小さく笑みを返す水明。石膏像のように表情を変えない父だが、決して感情がないわけではない。感情が面に出なくなってしまっただけで、いまのように気さくな軽口を言ったりもするのである。
それがわかるのは、彼と近しい者だけだが。
「で、竜のお話は? 魔術界でも秘匿されてきたのでしょう?」
「そうだ。秘匿されてきたのは、知る者は一握りでいいからだ。だが、そういうわけにもいかなくなった」
水明の淹れたコーヒーに口を付けてから、風光は再び口を開く。
「アカシックセイヤーが、ヨーロッパで竜の現界を導き出した。史上これまでにない最大規模の神秘災害としてな」
アカシックセイヤ―
光を告げる者とは、千夜会の事象予測器だ。ありふれた小事象から大事象の結末を予測する――ありていに言えば未来予知ができる代物とも言い換えることができるだろう。本質は、それとはまた少し違うが、それはともかくとして。
「史上最大規模って……」
「形容としては、曖昧だな。だがそれゆえに、他の魔術師に知れるのは時間の問題ということだ。こうあっては秘匿性などもはや至極どうでもいい話。もちろん、先ほど言ったように本物はもういない。竜種の生き残りは三十年も前に滅ぼしたゆえ、この世に竜が生まれることは二度とないのだ」
「では、どうして竜が現れると予測が出たんですか?」
「その答えは、終末事象にある。スペインに因果の不安定な場が突発的に発生したらしく、甲種型の発生源たりうる規模のものであるらしい。そこから生み出されるケ物の形態が、おそらくだが竜の姿と性質を持って顕現すると予想されるのだ」
「ケ物が……」
ケ物。終末のケ物たちと呼ばれ、終末事象の一種とされる。まだ詳細な解明には至ってはいないが、世界に定められた終末という終焉を加速させるために、世にあるあらゆる生物を滅ぼすとされる事象が、『生き物を襲う怪物』という形をとった概念的な存在である。
そのほとんどが狼と犬の中間のような姿をしているが、甲種型と呼ばれる存在はその時々によってその姿形を変え、人が生来的に怖れを抱く姿を取るという。
それが、ヨーロッパの人々の思想に根付く悪の象徴、竜と重なったのだろう。
「ですがそんなものが世に出ることになれば」
「ヨーロッパに甚大な被害……いや、おそらくはそれだけにとどまらないだろうな」
史上最大規模、それに竜の姿形やその特性を持つとなれば、英雄や聖人レベルの超人がいなければ倒すことは叶わないだろう。だが、いまの世界に黄金伝説に記された聖ジョージや聖シルウェステルなどの偉人はいないのだ。
対処の仕方に失敗すれば、世界が滅ぶ可能性すらある。
「では、父さんも?」
「ああ、その通りだ。私にも召集がかかった。今回の竜討伐に選ばれた魔術師は二十人ほど。少数精鋭で倒しに行くことになる」
「主導は?」
「千夜会だ。今回ばかりは他に全て委託できないと踏んだらしい。統括はカトライア家の長女、千夜会執行総代フーメルクルス。統括補佐はその妹、ゼアルキスだ」
「執行官歴代最強の二人が、総指揮ですか……」
「名目上はな。実際に現地で各魔術師を動かすのは他の者の役目になるだろうが」
――竜との戦いでは彼女たちが主力になるだろうがな、と静かに続けた風光。
彼が名前に上げた二人、カトライア姉妹は現在の千夜会執行局の力の象徴だ。両者とも時間と空間を操作する魔術を扱い、戦闘では無類の強さを誇るという。だが、二人共まだ二十代前半という若さゆえ、旗頭であっても、現地では場数を踏んだ魔術師に指揮を譲るという形になるのだろう。
まだ哲学者級でしかない水明にとっては、全く次元違いの話だが。
「竜に、執行局のトップ。すごいお話しですね。ヨーロッパはよく行きますが、随分と遠いお話しに感じられます」
「いや、お前にもこれは他人事ではないのだ」
父が口にした言葉の意味が呑み込めず、一瞬理解に滞る水明。
「は? 他人事じゃないって……」
「今回の予知に際し、アカシックセイヤーはいくつもの可能性を導き出した。竜種の発生、ヨーロッパ壊滅、覚醒、多くの死、終末化の加速。無論、それらは可能性ゆえ、変えることもできる」
そんな持って回った言い方のあとに、父が口にした核心は、
「そして、事象予測器に求めた最後に我らを導くとされた答えは、水明。お前を必ず連れて行くことだ」
言葉のあとに、父の鋭い眼差しが向けられた。追って、水明は驚愕の叫び声を上げる。
「お、俺ですか!?」
「そうだ。理由についてまでは出なかったらしいが、おそらくは竜との戦いでお前の力が鍵になるのだろう」
八鍵風光は重大な話を、素っ気ない表情そのままで口にする。だがそんな父の言い様には少しだけ、誇らしいような感情の揺らぎが垣間見えた。
息子の力が大事な局面で必要とされる。それが嬉しいのだろうがしかし、やはり水明にとってその話は寝耳に水でしかない。
「ですが父さん、俺がそんなところで役に立つとは思えません。俺は階級も低い低位の魔術師ですよ?」
「魔術師の階級に関しては本来与えられるべきものを保留していたに過ぎん。それだけの実力を得ることができる教え方はしてきたつもりだし、お前もそれなりにやっていける自信は持っているだろう?」
「魔術師として戦えはします。これまで父さんの戦いに付いていましたし、神秘災害への対応についても教えてもらいました。ですが、そんな高位の術師たちに交じって戦えるかと言えば、やはり不安が……」
ある、と最後に小さくこぼす水明。彼が重圧に語尾をすぼませたのは、ある意味もっともなことでもあった。
低位の魔術師と高位の魔術師が敵対や協力の如何にかかわらず、魔術を同時に使うには、大概の場合『位格差消滅』という魔術法則が壁になる。低位の神秘は高位の神秘の前に打ち消されてしまうため、低位の魔術師が使用した魔術が高位の魔術師の使用した魔術の支配領域に接近すると、消滅してしまうのだ。
本来ならば、よほど格差がない限り起こるものではなく、成立には条件もあるためさほど気にするようなことでもないが、今回集まる魔術師たちが魔術師たちであるため、そんな問題が浮上するのだ。
その場合は高位の魔術師が威格差消滅の発生を加味して魔術を編まなければならず、一つ、煩わしさが増える。竜討伐などという大事な局面。高位の魔術師が手練を駆使する戦場で、低位の魔術師を活かす手間などかける余裕はないはずだ。補助、付与、などの魔術を使い協力するならば威格差消滅を気にする必要もないため話は別だが、水明は自分の使う補助や付与の魔術が、高位の魔術師たちが必要とするとは思えなかった。
ならば、役に立てるかと問われて頷けるはずもない。
すると、風光が目を伏せる。
「お前がいま不安に囚われているのは、私の育て方が悪かったとも言える。鏡四朗からも、それに関しては小言を言われていたくらいだしな」
「……どういうことです?」
「ありていに言えば、いままで厳しくし過ぎたということだ。よほどのことがない限り、私はお前を褒めはしなかっただろう?」
「え……ええまあ、確かにそうでしたが……」
風光が水明に魔術を教えるにあたり、水明が出来の良い行使を見せたときも、風光がそれ褒めることはあまりなかった。確かにそれは事実なのだ。だがそれについては水明も、父があまり喋らない性分ゆえ、水明も仕方ないことだろうと思って享受していたのだ。
それが、どう悪かったのか。父の婉曲な言い方では、どうも要領を得ない。
「……水明。大魔術は使えるな」
「え……? はい、それはもちろん。一端の現代魔術師を名乗るならば、一つくらい使えるようにならなければならないと言ったのは父さんですから。まあ詠唱速度を考えれば、実戦で使うには多少厳しいものがあるでしょうが……」
父の課した試験のため、少し前に戦闘用のものをいくつか編み出したことがある。父が負う激しい戦いに付いて行くことが増えたため、それらの魔術を選んだのだが、実戦で使うにはまだまだ自分の力量は足りていない。
「スペインの戦いでは、単独で大掛かりな儀式なしに大魔術を発動できる実力者は、私とお前を含めて五人がせいぜいだろう」
「では今回の戦い、執行官のお二人以外はそこまでの魔術師が来ないのですか? ヨーロッパに大打撃を与えるような怪物が発生するにもかかわらず?」
「ああいや、そういう意味ではないのだが……ふむ、ここにきてこうも私の至らなさが出てくるとはな」
目を閉じて思案に耽る父の姿そして言葉は、水明にとっては不思議でしかなかった。
…………だが、他方風光にとって、ここでの水明の察しの悪さについても、自身の不徳ゆえのものと理解している。
現在の水明の実力は、他の高位の魔術師からしても竜との戦いに十分連れていける戦力なのだ。だが、風光自身、水明を慢心するような魔術師にしてしまうのを嫌い、魔術の師としては彼に難題ばかり課してきたこと。風光を含め周囲の魔術師の力量が尋常ならざるものなのだと正しく伝えてこなかったこと。魔術漬けの生活ばかりではいけないと考え、魔術と関わりない普通の人間との生活――本来ならば魔術師には余分とされる生き方をさせてきたことなどが、いまの水明の勘違いを生んだと言っていい。
どこに出しても恥ずかしくない息子だ。むしろ他の魔術組織にも、喜んで迎えられるだろう実力と才がある。だがそうなるべく育てた弊害が、『自分の力を正しく理解していない臆病な魔術師』を生んでしまったのだ。
魔術師にとって最大の敵である『慢心』は滅ぼしたと言えただろう。だが、その代償に敵に回った慎重さが、果たしてどんな敵になるかが、今後の水明の課題と言える。
だが、いまは――
「理由は行けばわかるだろう。無論、気を抜かないことだ。お前にとっても、今後この戦い以上に厳しい戦いはおそらくないだろうからな」
「…………はい」
水明は風光の言葉に頷き、やがて飲み終わったカップを持ってシンクへと立った。
蛇口から流れ出る水の流れを見詰めていると、ふとうなじに違和感を感じることに気付いた。
「竜、か……」
首筋が、何やら不吉な予感に焦がされるかのように、じり、じりと不思議な灼熱感に襲われる。父が言うには、それは母が持っていた力のせいだという。それが何を示唆しているかは、いまの水明には知る由もない。
……そう、ゆえに魔術師八鍵水明の戦いは、この日から始まったのだとも言えた。