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月を狩る



 勇者の表情が、ときを重ねるごとに渋く、苦々しいものになっていく。

 それもそのはず。いくらこの身を斬ろうと感を振るっても、剣撃が空振るのだ。身を焼くような焦りのほどはおそらく、尋常なものではないだろう。



 男が魔法を使うのをやめてから、勇者はがむしゃらに斬りかかってきた。剣が当たらない理由がわかっていないにもかかわらず、それでも何とか足掻こうと剣を撃ち込んでいる。

 流麗な剣技だ。マウハリオの剣などこれと比べれば子供の手習いとさえ言えるほど成熟し、切れ味鋭い。ふと気を抜けば、視線を奪われてしまいそうになるほど美しく、それでいて魔が宿っている。だが、いまはそれも闇雲だ。「中る」という確信がない剣が、冴えているはずもない。無論、曇りの無い剣だったとしても、当たるはずもないのだが。



 勇者が剣を振るうたび、彼女の口から小さく、「どうして」「なんで」と疑問の言葉が漏れている。意図したものではないだろう。焦燥が自然と彼女の口を動かすのだ。

 身体を回して切っ先で螺旋を描き、剣が外側に飛んでいこうとする力を用い、斬りかかってくる勇者。その斬撃に、身をさらけ出す。だが、剣は何の手ごたえもなく、振り切られた。

 あえて斬撃を喰らってみせるという行為を目の当たりにした勇者は、驚愕で瞠目している。剣撃が通用しないことを見せつけられたのだから、当然だろう。



「いくらやっても無駄なことですよ。あなたの剣は決して私の身体には当たらない」


「く――!」



 諭すように言うと、勇者は呻きの声を残して離れる。勇者の攻撃など脅威の欠片もないが、この身のこなしは厄介だった。あのマウハリオを倒したほどだ。それくらいできて当たり前だが、それゆえ決定打を入れるのは骨が折れるだろう。



 だが、いくら勇者とて限界はある。戦う意志さえ損なわせてしまえば、体力と共に弱っていく。砦を攻めたときからの連戦だ。休まるときはなかっただろう。いまは焦りを感じさせ、じわじわとわからせていく。そうすれば、自ずと戦う力もなくなるだろう。

 その様を思い浮かべるだけで、自然と笑いが込み上げてくる。魔王を脅かすと言われる相手を手玉に取っているのだ。堪えることなど到底できるものではない。どれほど愉快で、歓喜を呼ぶことか。



「ひひ……どうやら息も上がっているようではありませんか。もう諦めたらどうです?」


「よく喋る」


「生憎あなたたち人間と違い噛む舌もありませんからね」



 勇者を言葉で追い詰める。人間は心の弱い生き物だ、いくら肉体が強かろう者がいたとしても、精神力さえ削いでしまえば、みな同じ。ひ弱な生き物へと成り下がる。

 その点のことは、ラジャスやリシャバームもよく弁えていた。精神面を狙い撃ちし、戦意を根こそぎ奪ってしまえば、簡単なのだと。ことあるごとに言っていたのを思い出す。

 ゆえに、



「そろそろ諦めて、潔く私に首を差し出しませんか?」


「誰がそんなことっ!」


「後ろの男ももう観念しているようですよ? あなたが剣を振るっているあいだも、ほら、ああしてずっと立ち尽くしているではありませんか」


「……っ!」



 男を引き合いに出した途端、勇者の顔色が目に見えてわかるほど悪くなった。

 追い詰められているのが、如実にわかる。男を出汁にして攻めれば、この勇者は簡単に陥落するだろう。仲間がいたことは厄介にも思ったが、なかなかどうして僥倖だった。



 それもそのはず、勇者が自ら進んで前に出て戦い、主立ってはいたが、実際は後ろの男を頼りにしていることは火を見るよりも明らかだった。逐一男の顔色を窺い、優勢なのか劣勢なのかを判断し、戦いの組み立ても援護ありきの戦いぶりだ。そして、男がうんともすんとも言わなくなってから、焦燥で汗し、及び腰になりつつあるのを見れば、これは確信を持って然りだろう。同胞(はらから)たちを倒し、精密な援護を続けたのはなるほど男もかなりの腕前だが、結局はたかが人間、所詮その程度で打ち止めだ。男の魔法は、この身に傷一つ付けることはできなかったのだから。



 不可能なのだ。誰も、おそらくはこの技を教示してくれたリシャバームも、魔王ナクシャトラとて、自身を傷つけることはできないだろう。

 やっと、勇者の肩が諦めに下がる。どうあっても倒せないことをいま時分ようやく悟ったのか。俯き、肩を落とし、悔しそうに唇を噛んでいる。威勢を放っていたのが嘘のようなその姿は、あまりにも滑稽すぎた。



「ひひひひゃはははははは!!」



 抑えきれない喜悦を発し、おどみをまとった魔手に、力を込める。

 もうすぐだ。もうすぐこのヴィシュッダが、勇者の首を取り、初の勇者殺しの名誉を手に入れるのだ。誰にも、邪魔をすることなどできはしな――




「――ああ、なんだよ。そういうことか」




「……な?」


「……え?」



 まるで場違いな気付きの声に、声を出したのはおそらく同時だった。

 気付けば、勇者の後ろで立ち尽くしていたはずの男が、呆れ顔で息を吐いている。

 それはまるで、何故このような簡単な事実にいままで気が付かなかったのだと言うような、自分に呆れたそんな顔。



「随分やりにくい相手だなと思ったら、なるほどどうりで攻撃が通らないわけだ。こっちに本体が露出してないんじゃ、そりゃあ攻撃が通る道理はないわな。どうしてこんな簡単なことにすぐに気付けなかったのやら。マヌケすぎるぞ俺……」



 と、黒衣をまとった魔法使いの男は顔色を悪くさせ、大仰に頭を抱えている。その仕草はさながら、自身と勇者の戦いなど、まるで外の世界の出来事だと言うような苦悩の仕方。

 そんな場違いに緩い物言いが鼻につき、魔手に溜まったおどみから魔弾を飛ばす。しかし、それに気付いた男がすかさず指を鳴らすと、こちらの攻撃は爆裂ごと吹き飛んだ。

 先ほどまでは諦めたように黙っていながら、いまは初めに見たときと変わらずつまらなさそうな表情をしてこちらを見ている。



 気付けば勇者はこちらの攻撃を忌避するように、男のもとへと退いていた。



「あんた諦めたんじゃ……」


「は? 何言ってるんだよお前? この状況で何を諦めるって言うんだよ?」


「え……? だってその、生きることとか……」


「いや、勝てなかったら逃げればいいだけだし。お前、記憶なくなってから頭の良さまで失ったんじゃねぇのか?」


「誰が馬鹿よ!」



 勇者が男に向かって怒鳴る。男もとぼけた顔を彼女に見せているが、しかし視線は油断なくこちらを向いている。攻撃しようと力を高めると、男は下げた手を持ち上げた。迎撃は万全か。どうも手が出しにくい。



 勇者が剣の切っ先をこちらに向けつつ、男に訊ねる。



「……気付いたの?」


「ああ。全く、この世界の連中にこんなことなんてできないと思っていたが、例外はあったらしい。ちょっと気になる部分もあるが……ま、それは置いといてだ」



 男の口振りは、この技がどうにでもなるような言い方だった。もしやハッタリではなく本当に気付いたと言うのか。いや、それは絶対にあり得ない。



「……何を言っているのかわかりませんが」



 そう低く言うと、男はつまらなさそうにむっつりとしながら、



「じゃあわかりやすく言ってやろうか? お前に攻撃が当たらないのは、実体を曖昧にしてるんじゃなくて、自分がいまいる場所を曖昧にしてるんだろ?」


「…………」


「身体が靄みたいになってるから、最初は気体化してるかもしくは実体を曖昧にしてるんだとばっかり思ってたんだが……いやいやもとからそういう身体だったてのは恐れ入る。まあ魔族だから、なんだってアリなんだろうがな」


「……まったく見当違いですね」


「ハッ――そんな嘘いまさらよせよ。前にお前みたいな技を使うヤツと戦ったことあるんだよ俺は。まあもっとも、そいつはお前よりも数段術が上手かったがな」



 男は自分の説が正しいと確信している。誤魔化すことなどできないか。



「……いいでしょう。あなたが正しい。見破ったことは褒めてあげましょう。ですが、この技は誰にも破れはしない」


「ンなこたぁないさ。やりようはいくらでもある」



 そう口にする男の顔には、笑みが。まるで見当違いなことでも聞いたような仕草である。

 その嘲笑うような態度が、自身の苛立ちを盛大に煽った。



「そのような術など」


「あるって言ってんだろ? あんまり知ったかぶりしてるとカッコ悪いぜ?」


「――っ! 何を、そのような虚勢など!」


「ふん、虚勢(はったり)かどうか、試してみるか?」



 そう言った男の口もとが不気味に歪む。それほど自信があるのか。

 万が一を考慮し、こちらも動く。男が何をしようとしているかは知らないが、要は使わせなければいいだけなのだ。

 男が無防備に目をつむり、詠唱に口を開くのを見て、魔手に一際力を込める。



「はぁあああああ……」



 手の周囲のおどみが膨れ上がり、巨大な手の形となる。それを思い切り振るうと、衝撃と共におどみが地面の土塊を巻き込んで、男に向かって飛んでいく。

 男の防御は間に合わない。勇者も、反応できたときにはすでに手遅れだった。

 だが、そんな姑息な手は、すでに予想済みだったのか。衝突の瞬間、男の姿は立ち消え、気付けば勇者と共に別方向に移動していた。



 ……何をしたのか。技の起こりすら読めなかった。一方、仲間である勇者さえも、瞬間的な移動に困惑し、辺りをしきりに窺っている。

 そして、男は静かに目を閉じて、謳い上げるように諳んじる。



「――Atman. Eye of those with wisdom, in all cases it is within the fools, some with light dismiss all the ignorance. Sophisticated soul Jnanachakusya. It is drawn on my feet as Pinyin」

(――真実を見出すもの。それは識者が開く、愚者の持ちし第三の眼であり、全ての無知のことごとくを因果の地平へと還すもの。純化された魂はジュナーナチャクシャ。それら表す九十六輻は二つの玉と半円と写されて、我が脚下に描かれん)



 響く、男の呪文詠唱。それに伴って男の魔力が昂り、その隆盛に合わせるように周囲の空気が男のもとへと逆巻いて行く。吹きすさぶ風は地面を規則的に傷つけ、やがて男の目蓋が開いた。




「――Open, Eye of Danguma. And Dase illuminate the truth」

(――ダングマの開いた眼が前に、全ての偽りよ滅せよ)




 瞬間、男の足もとから目を焼くほどの煌めきが噴き上がった。

 辺りの何もかもが、水面に反射する陽光のような眩い光に呑まれる。だが、すぐにそれは収まり、先ほどと同じ、繊月照らす闇に包まれた黒鋼木の森に舞い戻った。

 いまの光に何の効果があったのか。だが、自身は何も変わってはない。勇者もそれに気付いたらしく、怪訝そうに男を見ている。



「八鍵……? いまの魔法って?」


「終了」



 そう言って魔法が終わったことを告げる男。やはり、苦し紛れの虚勢だったか。



「ふ、ふ、ふはははは! 何です!? やはりハッタリではないですか!? 大仰なことをしたかと思えば、何が起きたわけでもない! 全ていままでと同じだ!」



「いいや、そんなことはないさ。――ほら、違いはここにあるだろう?」



 そう言い放って男は、地面を靴裏で叩く。そこにはいつしか目を模したような、淡い煌めきを持った陣が描かれていた。



「その絵がなんだと言うのです?」


「ん? 説明すると長いぞ? 松果体、ダングマ、アジュニャー。西洋魔術からインド仏教まで話さなきゃならないことになる」


「わけのわからないことを……」



 余裕ぶっているが、変化がないのは変わらない。足もとの絵は、ハッタリに使い終わった魔法陣が残っ

ているだけ。大したことではない。



「ちょ、ちょっと! あれだけ自信満々に言っておいて何も変化がないじゃない!? どうなってるのよ!?」


「……お前もそんなこと言うのかよ。専門外なんだから黙ってろって」


「でもっ……」


「ほら、じゃあこれでどうだよ?」



 男がそう口にした途端、不意に冷たく冴えた光が走る。

 男の魔法だ。効かないことはわかりきっているにも関わらず、同じことを繰り返すのは、馬鹿の一つ覚えよりもたちが悪い。

 当たらない。決して――そのはずだったが。



「ぐうっ――!? な、何がっ……」



 予想を裏切り、その光は確かに自身の肩を貫いた。

 魔法で撃ち抜かれた衝撃と、鋭い痛みが肩口に走る。



「ほらな? 当たったろ?」


「うそ……じゃあさっきの魔法はこのために」


「きっ、貴様一体何を……」


「魔族の将軍ヴィシュッダ。お前はお前のいる場所を偽った。だが、このダングマの眼が物質の領域に開いている限り、お前は自分の居場所を偽ることはできない。いまここに見えるお前のヴィジョンがそっちの位相に消えるか、全てこっちに露呈されるかどちらかだ」


「馬鹿な! そんな絵ごときで私の本体(からだ)に魔法が当たるはずがない! 私は常に幽世にこの身を置いているのだぞ!」


「は? 常に幽世にこの身を置くだ? おかしなこと宣ってんじゃねぇよこのタコ。それは単にこっちと別位相(あっち)の境界線を曖昧にしてるってだけだろ? 技は使えるクセによくわかってないのか? 別にお前の身体は遠いところにあるわけじゃないだろうが」


「こちらからあちらへは攻撃など」


「そう、できないさ。本当に繋がってなけりゃあな。だが、お前がしていることは曖昧な地点に居座って、攻撃と防御の都度、自分の状態をこっちかあっちかに合わせてるだけだ。別位相で胡坐掻きながら遠隔攻撃するなんてそんな神技、クドラックにしかできやしねぇよ。要はお前のは、ちょっとそこらの裏っ側に身体を隠してあるようなモンなんだよ」


「な……!?」



 衝撃だった。こちらの知らない部分すら、男には看破されていた。



「だ、だが、この技が破れたからと言って私が負けたわけでは!」


「――でも、私が斬れるようになったのは、大きいんじゃない?」



 いままで黙っていた勇者が、そう言い放って殺気を発する。戦い始めたころと同じ、いや、それ以上に気が漲っていた。



「ぬかせ小娘が!」



 魔手から魔弾を撃つと、男もそれに合わせ光の魔法を撃ち出してくる。勇者と自分の間で交差する魔法。おどみによる防御障壁を展開すると、男の魔法は防がれて消えた。

 一方、こちらの攻撃も男の魔法障壁によって防がれている。空に浮かんだ金色の魔法陣が、男の前で縦のように展開している。



 ふと、勇者が男に視線を向けた。


「八鍵」


「なんだ。余計なお世話だってか?」


「えと、そうじゃないけど……」



 控えめな調子に変わった勇者。彼女の心情を察したか、男は諦めのため息を吐く。そして、



「いいぜ。倶利伽羅陀羅尼幻影剣はこの世に巣食う魔を斬る剣だ。五百年、潰えず続いたお前の剣技、アイツにとくと見せてやれよ」



 その不敵な物言いに、勇者は決然と頷いた。次いで切っ先をこちらに向け、横薙ぎに斬りかかってくる。



「はぁああああああああ!」


「舐めるなぁぁあああ!」



 目の端に捉えたかと思うと、視界からすぐに消え、横方向に回って斬撃を浴びせてくる。こちらの視界に留まらない立ち回り。そして先ほどよりも動きのキレが、歴然としている。

 だが、



「要は当たらなければいいだけのこと! 私は既にお前の剣を見切っている!」



 いくら剣閃に曇りが消え、冴えようとも、刃が当たることはないのだ。

 そう自身は勇者の剣を見切っている。見切っているのだ。勇者の剣撃など手に取るようにわかる。斬撃が飛んでくるたび、ミスリルの刀身がぎらり、ぎらりと輝いているのだから。

 視界から勇者が消えても、前触れが如く刀身が光り、斬線が通る位置を前もって教えてくれる。それを戦い始めたときのように、かわすだけ。それだけだ



 愚かな勇者はそれに気付いていないらしい。ただ愚直に剣を打ち込んでいる。

 あとは当初の算段と同じ、勇者の力が損なわれるまで翻弄してやればいいだけのこと。



「くっ、当たらない……」


「そう! お前の剣撃など姿移しの技がなくても当たらないのだ! 決してな!」


「…………」



 押し黙る勇者を見て、口の端から喜悦が漏れる。

 情熱に熱くなった敵が、無力に歯を噛みしめているところがたまらなく心地いい。



「ふ、ふは、ふははははは! 勇者の小娘を倒したら、次は小僧お前だぞ!」



 そう、勇者を倒したあとは黒衣の男だ。姿移しの技を看破され、そしてそれを破る力を持つあの男は絶対に生かしておくわけにはいかない。



 男の魔法ではこちらの防御は貫けないことは、先ほどの魔法で承知済みだ。調子に乗った物言いの代償は、それこそ高く付けてやらなければならないだろう。そう、死を以てして。



 一方勇者はどうしたのか、動き回っていたいましがたまでとは打って変わり、正面で静かに剣を構えている。切っ先を目元に向けて伸ばし、剣の柄自分の胸より少し下。

 出方はまだわからない。だが、剣の輝きが勇者の次なる挙動を指し示してくれる。

 自身に、如実に。そう、剣に映った月の光が。



 つきの、ひかり、が。



「は――?」



 消えた。次なる一手を示してくれるはずの剣の輝きが、あるべき場所から、それこそ唐突に消え去った。



 そして剣閃を見失った直後、直近は前方から聞こえてくる女の声。



 ――倶利伽羅陀羅尼幻影剣、霞十字抄(かすみじゅうじしょう)



 冴えた夜気よりもなお鋭く、そんな勇者の凛然とした声が鼓膜に響き渡ったみぎり、己が身体は地に斬り伏せられていた。

 闇の中にある首を動かす。いつしか身体は四つに分かたれていた。

 苦悶を上げるよりもなお先に、疑問が口の中から溢れ出る。



「な、ぜ……」



 何故なのか。一体何が起こったのか――



「――新月の夜は、決して剣士と争うな。いやいや、さすが父さんだな。あの人にはホント頭が下がるよ」



 夜風に吹かれるがまま任せるが如く空を見上げる黒衣の男。あたかもこちらの頭の中を読んだかのように、そんな言葉を口にする。

 そぞろに放たれた声音に宿るのは、過去に対する懐かしみと嬉しみだった。

 だが次に自身に向けられたのは笑み。それも、まるで魔王ナクシャトラが見せるような、全てを手の内で転がす者のみに許された笑みである。



「馬鹿な……月は細くあれど、確かに中天に輝いていた……はず」


「そうかな?」



 その嘲笑うような声音があまりに自信に満ちていたため、釣られ空を見上げる。

 しかして、そこには輝く三日月が、



「ない、だとぉっ……!?」



 そう、まるで最初から繊月など存在しないかのように夜空は黒く暗くあり、まして空には星一つとして輝いてはいなかった。



月を狩る

「――Square of the moon。曰く、月とは太陽系における真実の鏡でなければならない。月下におけるあまねく全ては、その光によって明らかにされなければならず、あらゆるものはその光に服うものとなる。それゆえに、いまは空から狩らせてもらった」



 男の謳うような物言いは、まるで理解できなかった。だが黒衣の男はこちらの困惑をせせら笑うかのように、肩を竦める。



「なんてまーご大層なこと言ったが、ここは地球でも太陽系でもないし、九十度(スクウェアー)のスペクトルもどうだかわからん。いっちゃあ終いだが、ただの気休めだよ。気休め。だが――」



 ――いまのお前には、随分と致命的な気休めだったろうがな。



 差し向けられたのは、魔王ナクシャトラの瞳よりもなお不気味に赤く輝く瞳と、ぞっとするようなうそ寒さの感じられる音声(おんじょう)。今更ながら、男が死神だったことに気が付いた。



「貴様……私が、剣に映った光で剣閃を捉えていたことを」


「いまさっき見切っているって自分で言ったし、その通りお前は初美の大太刀を目で見ている節があった。その姿だと闇にぼんやり浮かんだ目は随分と目立つからな。これは当たりだなと思ったよ。ま、刀の材質が腐食銀(ミスリル)じゃなくて輝けるオルカレイコスだったら、そうはいかなかっただろうが」



 まあ、畢竟(ひっきょう)、殺意に目を奪われたお前の負けさ。



 そんな言葉が、夜の森に無慈悲に響く。そして、再び黒靴で足もとを叩く男。

 それで、違和感に気付いた。そう、月の光が射していないのならば、辺りも闇に包まれ、見えはしない。だがそれでも周囲が明らかに見渡せていたのは、黒衣の男の足もとにある目を模した陣が、淡い光を湛えていたからだったのだ。



「真実を見せる光はときとして嘘を隠してしまう眩さになり得る。そういうもんだ」


「この……貴様さえ、いなければ……」


「さあ、それはどうだろうな? 他にもお前の実体を捉える術があったかもしれないし、初美が土壇場で何か出来たかもしれない。それにいまの剣閃だって、お前の目測を裏切って胴薙ぎの方が先に来ただろ? 気付く前にぶった切られてたかもしれないぜ?」



 男はそう言って、こちらの勝利の可能性が皆無だったと嘯いた。



「まあせめてお前がラジャスくらい強かったら倒せてたかもしれないが、お前じゃ土台力不足だったようだな」



 何かを思い出すような男の言い回しに、まさかと戦慄がよぎる。



「貴様、まさか」



 すると男は、まるで嘘がバレたようなイタズラ小僧のような表情(かお)をして、薄く笑った。

 ……ではこの男が、魔将の中で筆頭だった先手大将を打ち破ったというのか。



「ラジャスを倒したのは黎二だ。そういうことにしておいて、ここでくたばっておいてくれよ」



 その煙に巻くよう男の声音が、自身、魔将ヴィシュッダに聞こえた最後の言葉となった。





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