魔族の将軍、ヴィシュッダ
砦で仲間と別れたあと、どこをどう走ったのだろうか。
森の中にいるということは、おそらく魔族の勢力圏内に来てしまったのだろう。南に退路を取れなかったゆえ、まず間違いはない。
前から来る魔族は走りながらに斬り、後ろから追い縋る魔族は振り向きざまに斬り、わらわらと湧いてくる魔族の中を、夢中で走り続けた。いつしか辺りは深い闇に包まれ、視界もよく利かなくなっている。今夜は空に三日月が浮かぶはずだが、この辺りは黒鋼木の群生地であるため、暗さが一層増すのだろう。黒にも近い、深く濃い青鈍色の葉を持った黒鋼木の木は広がるように枝を伸ばし、その樹皮も夜天を剥がして貼り付けたように黒くある。
木々と木々との距離に余裕があるにもかかわらず、鬱蒼とした夜の森にいるような錯覚に陥っているのはそのためだ。
以前から地図を見ていたおかげで自分のいる大体の位置は把握しているが、連合の領土とは完全に逆方向なため、魔族の勢力圏を抜けるには相当骨が折れるだろう。それはおろか、森を抜けるのでさえ、そう簡単にはいかないだろう。
よくよく思えば、魔族たちは自分ばかり狙って来たようにも思える。執拗に自身を狙い、正しい退路を取らせないよう動いていた――つまり。
「これ、最初から私狙いだったんだ……」
全て、相手の策略だった。陽動、分散を織り込んだ多面作戦だと思わせて、その実、勇者の命だけを狙った、他はどうだっていい作戦だったのだ。
人間の軍が窮地に陥れば、勇者が必ず出陣する。勇者は一人で数部隊以上の働きをするため、動かすのに効率が良く、動かしやすい。そのことを逆手にとって、救援に来た勇者だけを狙いすまして討ち取ろうとしていたのだ。
まず連合の本隊が動けぬように正面に同じ規模の大きい軍勢を配置し、いくつかの別働隊を動かす。その別働隊に砦を襲撃させ、内一つは強力な隊に、他は連合の砦を落とせない程度の数にして、勇者が狙った場所に来るように仕向けた。あとはあの砦で起きたことと一緒だ。打って出たら、突然狙いすましたかのように多方向から魔族たちが襲って来た。
急に魔族が増えたのは、他の北東方面を攻めていた魔族たちを壊滅覚悟で分散させたからだろう。他の命など顧みない連中は、簡単に仲間を捨石にできる。
それか魔物だけを置いて、魔族だけ攻めて来たのかもしれない。それなら、あのときの唐突な増援の発生についても納得できる。
思惑があることは最初からわかっていた。だから打破できるよう戦力も十分用意してきたし、情報収集も怠らなかった。だが、敵の目的を正確に察知できなかった時点で、敗北は決定的だ。自分たちは敵の目的を本隊撃破と勘違いし、まんまと策にはまったわけだ。
見え透いた策を隠れ蓑にして、勇者を狙う。そう、つまり本隊に合流した時点で自分たちが取るべき最善の手は、砦に大量の援軍を送るか、味方を見捨てることだったのだ。
大量の援軍を向かわせたところであの数では焼け石に水だろうし、味方を見捨てることなど出来るわけがない。その策を用いられた時点で、勇者である自分には決して打ち破れないと確定していたのだ。気付くには、遅きに失していた。
「そっか……」
全てを悟って、ふと身体から力が抜けた。そのまま、木の根元にしゃがみこむ。そして自分を抱くように、身を小さく潜めた。
いままでの勝利で目が曇っていたのかもしれない。魔族に負けなしだったゆえ、これからも戦っていけると。策を用いる魔族がいることはわかっていたし、気を付けてもいた。
いや、自分では気を付けていると思っていても、真実そうではなかったのか。
真の盲目とはかくして、気付いていないということにすら、気づかぬということなのだ。
見通しが甘かった。力があると言うだけでは、戦いは簡単に勝てるものではなかった。
「一緒に来い、か……」
不意に、あの夜八鍵水明が自分にかけた言葉が思い出される。
こんなことになるのならば、あのとき素直に彼の手を取っていればよかったのだろうか。強がりなど見せず、勇者としての責任も、戦いを投げ出すことへの呵責も何もかなぐり捨ててしまっていれば、こんな不安ばかりが増すような窮地にはいなかったはずだ。
――戦わなきゃいけない理由なんてない。
そう、彼の言う通り、自分はただ呼ばれただけなのだ。そのうえ記憶まで失う羽目になったのだから。無理をする必要などもとよりない。
そんなことを考え、ぶんぶんと頭を振る。そんなものはただの弱音だ。都合のいい言い訳でしかない。自分から剣を振るったのに、自分で単独行動をすると言ったのに、いまさらそれを棚に上げてどうすると言うのか。全ては、自分の身から出た錆だ。
「…………」
だが、それでも辛さは募るのだ。
この暗闇の中、一人でいるからか。いや、この孤独に喘ぐ心情が湧き上がってくる理由は、それだけではない。そう、自身はこの世界に来てからずっと、寂しくあったのだ。周囲に笑顔は見せてはいても、それが心からの笑いだったことはないと思う。自分が何者かわからないゆえ、落ち着かなったからだ。
いままで戦ってこられたのは、偏にそれが理由だったのかもしれない。不安が付きまとっていたが、刀を取り、振るっていたときだけ、その寂寞とした思いから解き放たれた。だからいままで、無意識の内に不安から解放されること望み、戦っていたのだと思う。
だが、いまはその不安も多少和らいでいる。何故か。それは自分のことを知っている人間がいて、気が楽になったからだ。
彼は自分に家族と言った。血のつながりのあるいとこであり、大事な身内なのだと。
面映ゆい話だった。だが、他人しかいないここで、その言葉が心に響いたのは確かだった。
自分を思ってくれている。自分を待ってくれている。そんな人がいるのだと。だから少しだけ、少しだけ不安が和らいだのだろう。
目を瞑ると、夢の中の出来事が目蓋の裏に見えてくる。出てくるのは自分と、そして一緒に遊んでいる男の子は、彼。これが、記憶を失くす前、小さな頃に経験した記憶なのだろう。
その記憶の通り、かくれんぼをしたあの夢のように、探しに来てはくれないだろうか。
「――やれやれ、こんなところにいるとはな」
そう、こんな風に、ひょっこりと……。
「え――?」
「よ。随分とズタボロにやられたな」
声が聞こえた方を向いて、我が目を疑う。
声の方に視線を向けると、森の枝葉が作る暗がりの中に八鍵水明の姿があった。闇の中にいるためしっかりとは見えないが、本当にひょっこりと現れてしまった。
「八鍵!? ほんとに!? うそ……」
「や、八鍵ってな……」
そう言って彼は渋い顔をする。そう呼ばれるのが慣れていないからなのか。しっくりと来ないのだろう。以前とは違う出で立ち。前はグリーンの質素な服を着ていたが、いまは黒衣――黒のスーツに身を包んでいる。
「あんた、どうしてここに……」
「そんなのお前を探しに来たからに決まってるだろ? 魔族と戦いに出立したって聞いて、んで本隊に合流したらそれから行方知れずになったとかいう話になってるんだからな。心配するさ」
「あ、うん……」
彼の言葉で、急に顔が熱くなる。それを紛らわせようと、他の質問をかけた。
「す、スーツなんて着て来たの?」
「いや、この世界に来たときは学生服。でも、必要な替えはどこでも取り出せますから」
「魔法使いって便利ね」
「魔術師だ。一応、こっちの世界のとは区別してる」
どう違うのかはよくわからないが、そう言って八鍵は、手持ちのバックから古めかしいタイプのカンテラを取り出した。
「じゃ、火、点けるぞ?」
「え?」
「ん?」
「ちょ、ちょっと! そんなことした魔族に見つかるじゃない!?」
「かも知れんが、これじゃあお前にはいくらなんでも暗すぎるだろ?」
「でも」
「闇は神経をすり減らす。見えないってことは、不安の塊だ。もともと目が見えないヤツなら慣れてるだろうが、そうじゃないヤツには闇は必ず精神に圧し掛かってくる。いざ魔族が襲い掛かってきたときに、集中力が減ってたらそれは致命的だろ?」
八鍵はこちらの了解を聞くこともなかった。どういう手管か、彼がカンテラを軽く指で突くと、ガラス管の中に火が灯った。光は温かみを感じるオレンジ色。光源は小さいながらも焚き火をしたような明るさで、八鍵の顔や姿や森がはっきりと見えるようになる。
明るくなると、彼の言う通りどこか落ち着いたような気がした。
「さてそれじゃあ、傷の方を見せてみろ」
「治せるの?」
「魔術師ですから」
そう頼もしくも涼しく口にする彼に、大人しく腕や足に付いた切り傷を見せる。傷は深いものもいくつかあったが、英傑召喚の加護でいまは小さな傷に変わっている。
すると八鍵は、一言二言唱えると、手のひらに翠色の魔法陣と輝きを生み出した。
その輝きが腕についた切り傷に当てられる。伝わるのは、優しさを感じさせるほのかな温もり。やがて彼の手が離れると、ついた傷はきれいさっぱりなくなっていた。
他の傷を癒してもらっている中、ふと彼の口にした言葉を真似するように口ずさむ。
そう、それは確かに、夢の中で聞いたおまじないと一緒であり、治療の終わりに見せたその微笑みは、夢の中に出てくるあの少年が見せる、頼もしい笑みと同じだった。
治療が終わると、どうして心を縛っていた緊張が解けた。
そんな機微を見て取ったのか八鍵は。心配そうな視線を寄越してくる。
「どうした? 大丈夫か? 動くのは休んでからにするか?」
「歩く。いつまでもこうしてたっていられないもの」
掛けられた優しさにどこか気恥ずかしくなってしまい、ぷいとそっぽを向く。
すると彼は、ポカンと口を開け放った。
「なに?」
「ああいや、治った途端威勢よくなりやがって……ってな。そこは記憶を失う前と変わらないんだな」
「む……おてんばでごめんなさいね」
と、苛立ち交じりに言う。どうも彼にそんな風に見られるのが気に食わなかった。一方八鍵はさも愉快だと言うように声を出して笑っていた。
「じゃあ行こうか」
「帰り道、わかるの?」
「方角はわかってるから、歩けばどうにでもなるだろ」
「適当ね……」
だが、いまはそうするしかない。魔族と鉢合う可能性もあったが、このままここにいても状況は悪くなる一方だし、それにいまは力が漲っているため動いた方がいい。
勇者は気力が失われなければ、女神の加護を受けられると言う。おそらくは不安が解消されたため、その加護が働くようになったのだろう。これなら魔族を前にしても十分戦える。
カンテラを掲げ、歩き出す八鍵。茂みなどを歩くのに邪魔ったるいものを魔法で器用に切り裂いて取り除き、道を作りながら歩いている。
カンテラが放つ光で浮かびあがったオレンジの輪郭を持つ影に気を配りつつ、そんな彼に付いて行く。すると、不意に彼が話しかけてきた。
「これ、随分と硬い木だな」
「ブラック・ウッドって言うそうよ。北方原産の樹木。武器とかに使われてるって」
「そう言えばやたら頑丈な木材って前に聞いたことあるな」
ほーと感心を漏らす八鍵。危機的な状況にもかかわらず、緊張感がかけらもなかった。
そんな彼に呆れつつも、気になっていたことを訊ねる。
「ねぇ、セルフィたちとは途中で会わなかった?」
「ああ、会ったぞ。俺の仲間に一緒にいてもらってるし、たぶん今頃三人とも休んでいるんじゃないかな。詳しくは聞いてないが、他の兵士も一緒だったみたいだぞ?」
「そう、よかった……無事に逃げられたんだ」
懸念が一つ消え、ほっと安堵の息を吐く。みな無事であったのは幸いだ。だがそれによって、例の推測が当たったことになる。
そしてちょうど、八鍵がそれについて、訊いて来た。
「だが、お前だけこんなとこまで来てるとはな」
「たぶん奴らの狙いは私一人だったのよ。だからここに来ちゃったの」
「む……?」
意味深長な答えに眉をひそめる八鍵に、簡略に説明する。
魔族の取った作戦。そして、その策を使った結果、魔族に何が得られるのかを。
しばし静かに聞いていた八鍵は、説明を聞き終わった頃に納得した声を出す。
「……なるほどな。要は狙いがお前だけだったから、他はあっさり逃げ切れたってことか」
「たぶんそう。状況から判断した憶測だけど、そう考えれば策として成り立つから」
しばらく並んで歩いていると、前方の暗闇の奥に、青白い光で照らされた木々が見えた。
「あっち明るい……」
おそらく、月の光が射しこんでいるのだろう。ぼうっとしつつそんな言葉を漏らすと、八鍵がカンテラを向ける。
「行ってみるか」
頷いて一緒に茂みを抜けると、巨大な石の並んだ妙な空間に出た。
周囲は頑丈な黒鋼木の森が広がっているのに、何故かこの場所だけ木々は伐られ開かれており、月明かりが射し込む余地がある。巨大な石はところどころが欠け、長い年月そうしてあったのか風化して削れたような部分もあった。だが、並びの規則性や石の構造から、人の手が加えられたことが見て取れる。
連合にある建造物や残っている遺跡とはまた違う趣。月光に照らされ、夜の空間に浮かびあがっているような風にも見えるその様は、どこか一つの文明の凋落を彷彿とさせた。
「これ、なんだろ? 遺跡」
「みたいだが……」
こちらの訊ねにそう呟きながら、八鍵は遺構に近付いて行く。そんな中彼はふと、遺構の中心が見える場所で立ち止った。
「どうしたの?」
「こいつは……」
彼は問いかけに答えなかった。無視されたというよりは、耳に入って来なかったという様子。彼の顔を見るとやはり驚いた表情をしていて、周囲をしきりに見回しつつ歩いている。
そして、
「こんなところにあったのかよ……」
八鍵は妙に納得したような声に嬉しみを織り交ぜ、独り言のように口にする。
自分も近付くいて、彼のようにあたりを見回してみると、自分にも気付くことがあった。
規則性を持った巨石の並びの中心に位置するように、大きな魔法陣が描かれている。中心には三角形を逆にした形。刻まれた文字はこの世界のもの。そして長くこの場所に置かれているのもかかわらず、塗料はまるでいまし方絞ったばかりの鮮血のよう。
しかしてこれは――
「確かこれ、英傑召喚の魔法陣?」
「ああ。アステルで使われたものとはところどころ違う所もあるみたいだが、間違いない」
「でも、どうしてこんなところに?」
「帰る手掛かりを探してるって前に言っただろ? 英傑召喚の儀が初めて行われた場所が連合にあるって聞いたから来たんだ」
「じゃあこれがその手掛かりなの?」
「ああ、俺の目的のものだ。いやまさかこんなとこにあるとは……。こんなときに見つけるとは、皮肉なもんだな」
そう言ってへらへらと笑いながら、ご機嫌な様子で肩を竦める八鍵水明。
「ねぇ、つまりこれを使えばもとの世界に戻れるってこと?」
「ん? ああいや、これじゃあもとの世界には戻れないんだ。こいつは呼び出すための陣だから、戻るためにはこの陣から読み取れるオリジナルの情報を使って新しく転移用の魔法陣を作らなきゃならない」
「めんどくさい」
「言うな。SFのワープ装置とかワームホールとかポータルとかとは違うの」
便利そうな例を挙げ、窘める八鍵。何気なく彼が例えた言葉はどれも聞き覚えがあり、どんなものかも理解できる。やはり、同じ世界の人間とは会話から違うのだ。
「じゃあ悪いんだが、少し待っててくれ」
「え? も、もしかしていま見るの!?」
「すぐ終わる。先に魔法陣を写して、ちゃちゃっと調査するだけだから」
そう言ってスタスタと歩いて行く魔法使いの少年。魔族が来るかもしれないというのにもかかわらず、何を考えているのかこの男は。やがて、彼の魔力が高まっていく。
火をカンテラに灯したときとはわけが違う。魔力をおおっぴらに解放すれば今度こそ、
「本気? 魔族に気付かれるんじゃ……」
「そうかもな」
「そうかもなって」
そう言うが、八鍵は気にした素振りもなく、「へー」とか「ほー」とか感心したような声を出しながら、何やら魔法を起動しはじめる。
「ちょ、そうじゃないでしょ!? どうしてわざわざ気付かれるような真似するのよ!?」
「いや、別に構わないからさ」
「なんでそんな答えに行きつくの!? あんたいま私たちが置かれてる状況が! ほんとに! ちゃんと! わかってるの!?」
「何を怒ってるんだよ。落ち着けって、それでいいんだ。わかってないわけじゃない」
「は……はぁ?」
あまりに平素な反応に毒気を抜かれ、語気が衰える。すると、こちらを向いた彼が困ったように頭を掻く。そうかと思うと一転、諦めにも似たため息を吐いて、まるで最初に宮殿に現れたときのような、冷ややかで静謐な雰囲気をまとった。
知らず知らずに息を呑む。すると彼は瞳を赤く輝かせて、
「お前、さっき魔族にハメられたって言ってたな。魔族共は勇者であるお前だけを狙って、今回の作戦を立てたって」
「そ、そうだと思うけど……それがどうしたって言うのよ?」
「そんな作戦立てるぐらいだ。向こうさんはお前が一人になったときに討ち取りたいんだろうよ。そうだって言うなら、まさか雑魚を寄越すわけはない。確実を賭すため必ず魔族の将軍が現れるはずだ」
「……それは」
その話は納得できた。自分は以前魔族の将軍を倒している。だから、討ち取るためにはそれに近いか上回る力量の相手を切ることが必要となる。ひいては、彼の言う通り魔族の将軍が現れる可能性が高い。
「でも、それがどうしていま気付かれるような真似をすることと関係があるのよ?」
「まあ聞けよ。ということは、だ。目下魔族の将軍がお前を捜してる最中ってことになる。十中八九お前を陥れたヤツだろうが……それに俺たちが取れる対策の選択肢は二つ。逃げるか、立ち向かうかのどちらかだ」
そう区切って、八鍵は続ける。
「お前はまだその魔将を倒さなくったっていいのかもしれない。逃げて体勢を立て直して次に賭けるのもアリだ。だがな、俺は今日ここでそいつを倒さなきゃならない理由がある」
「ど、どうして?」
「次にお前がそいつの策にハメられる可能性がないわけじゃないし、今回みたいに俺がその場にいるとも限らない。だから、俺にとってその魔将はいまこの場で確実に倒しておかないとならないんだよ」
先ほどまでのへらへらとした態度が嘘のように、かけられたのは熱く、真摯な言葉だった。そしてその真っ赤に輝く瞳は確かに、『お前を守るためだ』と言っていた。
「さっさと逃げないのはそれが理由だ。増長してると思うか?」
「う、ううん……わかった」
眼差しの不意な重なりを予期し、目線を下に逸らしてしまう。見ることができなかった。そう、彼のその決意に輝く瞳を直視してしまえば、たちまちの間に自分の心がとらわれてしまうと思ったからだ。
それを忌避したのは、ひとえに記憶喪失という状態にあるからだろう。もとの自分がこの男に対してどんな感情を持っていたのかわからないのに、この男に心奪われて良いものか。おそらくそんな風に、いま自分は無意識の内に思ってしまったのだろう。
考えと覚悟を口にした八鍵は、先ほどのように調査に戻ってしまった。
そんな彼の背中を見る。
彼は侵入したときと同じく、自分のためにここに来た。何の見返りも欲することなく。要求することなく。そうあるのが自分の自然な在り方なのだとでも言うように。
ゆえに、訊ねずにはいられなかった。
「……どうして?」
「……?」
「あんたはどうしてそこまでしてくれるの?」
「言っただろ? 俺にとってお前は家族だ。だから……」
「それはわかってる。いとこだからだってことも。でも、本当にそれだけなの?」
「それだけ……?」
「だから、私とあんたは……」
訊ねようとしたとき、森の枝葉がにわかにざわめいた。追って空気がピリピリとしたしびれを伴い始める。遠間から湧いてくる足音と羽音、そして不気味な気配。
「――お出ましか」
八鍵の口にした言葉通りだろう。彼がおびき寄せるために蒔いた魔力と言う名の餌に、魔族たちが釣られてきたのだ。
森のざわめきがふとやむと、木々の間の闇から魔族のおぞましい姿が現れる。遺跡を背に、後ろにはいないが、半包囲されていた。
「…………」
無言で抜きの構えを取る。歩み寄ってきた気配にチラリと横を窺うと、八鍵がスラックスのポケットに手を突っ込んで隣に立った。
魔族が襲って来るような素振りを見せない。普段なら人間を見つけるとすぐにでも襲い掛かってくるのだが、ただ歯を剥いて敵意を滲み出させながら見ているだけ。その様はまるでお預けをくらっている最中の犬のよう。
やがてその中心から、金刺繍で縁どられた黒いローブを着た何者かが現れる。その姿に一瞬人間を考えたが、よくよく見るとローブの中にあるはずの身体は漆黒の靄で構成されており、人ではないことがわかった。
まとう雰囲気が他の魔族と違うし、周囲の魔族も彼の様子を窺い、従うようにしている。おそらくは魔族の将軍だろう。闇の中に赤い目が爛々と輝いている。
その予想を、八鍵がどこか気だるげな様子で訊ねる。
「お前、魔族の将軍か?」
八鍵の問いに応えるか、宙に浮いた黒ローブから声が出る。
「七つの軍勢の内一つを任されているヴィシュッダと申します。初めまして憎き女神の祝福を受けた勇者殿」
ねっとりとした口調。内心小馬鹿にしているのか、嘲笑っているのか。そう言った感情が胸の内にあるのが如実にわかる口ぶりだ。
「そちらは報告にあった人物たちとは特徴が似ていませんが、勇者のお仲間ですか?」
「いいや。身内だよ」
「…………」
魔族の将軍――ヴィシュッダとやらには、よくわからない返答だったのだろう。確かに、異世界から呼ばれた人間の身内と聞いても、しっくりこないか。
ふと、ヴィシュッダが笑い声を上げる。
「一度見失ったと報告があったときは少し焦りましたが、探す手間が省けましたよ。なんせここにいると言わんばかりに、わかりやすく魔力を放ってくれているんですからね」
「そいつは良かった。俺も力を使った甲斐がある。そのかわり謝礼は弾んでくれよ?」
「ええ、もちろん。対価はあなた方の血で贖って差し上げましょう。ひひひ……」
不気味な笑い声を発するヴィシュッダと、対照的に口振りとは裏腹、口もとをピクリとも動かさない八鍵。そんな男に、非難を浴びせる。
「……何話に乗ってるのよ?」
「ピリピリするな。軽口くらいいいだろ? しかしこの類のヤツは挑発が利きそうにない」
「……む」
いまので計っていたらしい。お巫山戯ではなくどうやら彼の抜け目なさだったようだ。
今度は自分がヴィシュッダに訊ねる。
「この作戦を立てたのはあんた?」
「そうです。連合の勇者、あなたは強い。だから策で倒そうと思いましてね。こういった形を採らせて頂きました」
「それがこれってわけね」
「ええ、あなた方はマウハリオを倒した。そうなれば必ず調子づき、策に引っかかりやすくなるだろうと思いましてね。けしかけた甲斐があったというものです」
「あんた、同じ仲間の将軍を」
と言ってから、気付く。こんな策を仕掛けている時点で、この魔族に仲間を思う倫理はないと。そしてヴィシュッダは思った通り笑い出す。
「違いますね。マウハリオは仲間である私のためにその身を尽くしてくれたのですよ」
「この下衆……」
声に明確な嫌悪を込めつつ、切っ先を宙に浮かぶローブに向ける。殺気を向けるが、相手は全く動じることはない。一歩足を出すと、八鍵の当惑したような声が背に追い縋った。
「おい初美」
「私が前に出る。あんたは他の奴をお願い」
「いや、こいつは俺が」
呼び寄せるような真似をしたゆえ、責任を持って倒すと言いたいのだろう。だが、守られているわけにはいかないのだ。身体に流れる剣士の血が、自分にそう言っている。奴を倒せと。あんな悪意は他者に任せてはいけないと。
ちらと顧み目配せすると、こちらの意志を汲んでくれたか、それとも説得を諦めたのか。ため息ともつかない吐息を吐いて、大人しく引き下がる八鍵。
「わーった。まず周りのヤツをどうにかするわ」
八鍵はそう言うと、身体に魔力を漲らせる。それを感じ取ったかヴィシュッダは、不気味な笑いも早々に切り上げ、腕を振り上げた。
「さあ、かかりなさい!」
腕を振り下ろす行為と、そして号令が宣言されると同時に、魔族が一斉に飛びかかってくる。だがこの第一波も、特に危機感を持つようなものではない。いつもと同じだ。連中は有象無象の如く、毎度同じように一斉に攻めてくるのだから。
そう、まるで無造作に置かれた餌の肉に飛び付いてくる獣さながらに。
それは確かに、最も確実な手だ。数、質量に一斉に飛びかかられては普通の人間などなす術もないのだから。だが、それは普通の人間であればの話。あ程度力量がある者なら、多対一に臨むときの心得や、打開策など持っている。
であれば、囲まれて袋叩きに遭う前に自分から手近な魔族に斬りかかるが肝要。敵に囲まれたとき、守るのではなく、自分で敵を切り崩すのだと言ったのはいつの時代の剣士だったか。記憶が定かではないいま、その名を出すのは自身には有り余る行為だが、その行為を実践することには何ら問題はない。
魔族が間合いに入ってくる前に疾風の如く駆けて、一番端の魔族を自分の間合いに取り込む。彼我の距離を一瞬でゼロにした足さばきに魔族は驚く暇もない。それをやっと表情に出せたときにはもうすでに、地面に首が転がっていた。そしてその勢いを殺すことなく、次の魔族へ。隣がやられて方向転換をしようとする魔族へ向かって飛び、身体が魔族の高さを超えたところで、鬼の面のような顔に向かって右片手一本突き。
多数を相手にする戦闘において突きは甚だ悪手である。強力な技だが、ひとたび突きを繰り出せば、相手の身体から刀を抜くのに動きを取られ、次の一手が滞るのだ。
だが、そんなものはお構いなくと言えるほど、自身の力量は確かにあった。顔面に突きを出して、貫いてなお切っ先を引くことなく、はばき元まで勢いで押し込む。血液も肉片も脳漿も浴びることを厭わずに、魔族を押し倒して前に。前にいる次の敵に斬撃を撃ち込む。
次の魔族は一息で五つになるようバラバラに切り裂いた。舞い上がる血煙。それが晴れるまでのわずかなみぎり、時間にして刹那。何もかもがスロー再生で動く最中に大太刀を担ぎ、魔族数体を斬線と重なるように狙いを定め、思い切り空を斬る。
振り抜いた瞬間から遅々としていた空気は解かれ、今度はクイック再生が如く全てが斬撃の前に二つになって吹き飛んだ。
自分に襲いかかってきた魔族はこれで全て。いまの連撃で全て仕留めた。
だが、ぬるい。魔族の実力など全く問題にならない。そして自分の力も漲っている。まるで決して涸れぬ間欠泉のように、力は際限なく湧き上がっていた。
ヴィシュッダに警戒を怠らぬまま、八鍵の方を気にする。彼も魔族に囲まれており、いままさに彼のもとへ飛びかかろうとしていた。
八鍵の動作は遅々として、まだ動かない。それは彼が最初に宮殿に来た夜、連合の兵士に囲まれたときの鷹揚さだ。飛びかかった魔族の数は十体近い。逃げ場はなく、対処するには間に合わなそうにも思える。だが――
魔族が八鍵の周囲の地面ごと、一瞬にして爆ぜた。
「…………すごい」
爆裂の音が聞こえる中、知らず知らずそう呟く。八鍵が手指で模った刀印で横一文字を切り、その指先を上空へと振り上げた途端、魔族が地面もろとも爆炎に呑まれた。
爆心地に立つ男は、身体を半身開いてゆらりと動き、まるで炎を統べる鬼神のように泰然としている。
……やはり、かなりの力量だ。魔族との戦いで魔法は何度も見たが、この男のものはそれと比べると別格であり異質である。
そして、八鍵は鷹揚にヴィシュッダに視線を向けた。
「この程度いくらけしかけても、俺たちは倒せないぜ?」
「ですが、魔力や体力が尽きるほど多くいれば、別でしょう?」
ヴィシュッダがそう言い返した途端、森の中から魔族が大量に湧いてくる。
「うじゃうじゃと雑魚ばかり……」
「ひひひ、あなたはその雑魚の相手をしていてください。私は勇者の相手をしなければなりませんのでね……」
そう不気味な笑いを響かせて、こちらを向くヴィシュッダ。早速前に出る気か。ヴィシュッダが動くのを見定めて、自分から走り込む。
控えていた羽根つきの魔族が、右、左、両方向から飛びかかってくきた。大太刀で八の字を切り、一息で二対とも切り伏せ、狙いをヴィシュッダに。ヴィシュッダの動きには八鍵のような鷹揚さがあるが、ふわふわと浮かんでいるような姿に不気味さが感じられる。
左回りに回り込み、こちらは大太刀を伸ばし、一方向こうからは紫色のオーラを爪にまとわせた魔手が伸びてくる。
横合いから大立ちを薙いだが、かわされた。魔族の将軍はやはり雑魚とは違うらしい。まるで空に浮かぶ紙が太刀風を受けて逸れるかのように、切っ先はヴィシュッダのローブにさえかすらない。
「く……」
容易ではないことに、わずか苦渋を漏らしつつ後ろへ飛び退く。そしてその後に来るだろうヴィシュッダの攻撃に備えていると、突然背後から紫色の閃光が走り抜けた。
「ぬっ?」
光から逃れるように黒いローブがふわりと浮かび、ヴィシュッダが大きく距離を開けた。その合間に撃ち込まれたのは、いまもって多くの魔族を相手にしている八鍵の魔法である。
「八鍵!」
「……器用なことができるものです」
彼は返事の代わりに、視線だけこちらを向いた。だが眼差しはすぐに襲い来る魔族へと戻り、炎や雷を以ってして次々と魔族を撃ち落としている。
八鍵は後ろから援護してくれている。周囲の魔族を相手取っている上で、こちらの攻撃の隙を縫うようにして、ヴィシュッダに牽制を入れているのだ。
(ほんとなんて技量なの……)
十数の魔族を相手にしつつ、こちらの戦いにも援護を入れるなど尋常ではない。目や耳などの感覚器官や脳みその知覚領域が、常人の十倍あるのではないかと疑ってしまうほどだ。
その一方で、こちらは――
「せぁあああああ!」
ヴィシュッダに、気合いを込めて斬りかかる。無論簡単には当たらないが、剣撃を組み立てつつ連撃を繰り出す。絶え間ない連続攻撃をしていると、身のこなしが追い付かず、やがてヴィシュッダの動きに鈍さが出た。
(ここ!)
その隙に、一気に右肩口から左脇腹へ袈裟がけに斬り込む。必殺の一撃は気合いを発さず、その気合いを剣に込め、静かに打つ。狙い通り剣はヴィシュッダの身体に食い込んだ。
だが、
「え――? くぅっ!?」
目の端に紫色のオーラが映り込み、咄嗟に身を引く。こちらが大太刀を振り抜いた直後、間髪容れずヴィシュッダの魔手が襲って来たのだ。
「上手くかわしましたね。これで討ち取る算段だったのですが」
「何を気の早いことを!」
予想外の出来事に一瞬動転したが、すぐに怒鳴り返して刀を振るう。と、今度は身じろぎすることなく、かわしもしないヴィシュッダ。かわす必要などないかと言わんばかりに、大立ちは手応えのない闇だけを切り裂いた。
「どうしました? そんな攻撃では私は倒せませんよ?」
「そんな!? 確かに剣撃は……」
通った。にもかかわらず、手に斬った感触が伝わらない。その謎めいた状況に焦り、攻めと守りがおろそかになる。すると、後ろで八鍵が怒鳴った。
「初美! どけっ!」
「――っ!」
声に反応し、咄嗟に身を大きく後退させる。瞬間、突出してきた八鍵から、パチンと小気味良いフィンガースナップの音が聞こえ、その余韻はすぐに大きな破裂音で掻き消えた。
爆裂するヴィシュッダの目の前の空気。その衝撃は直にヴィシュッダの身体を叩いた。だが、黒のローブは何事もなかったかのように、風でふわふわと揺れている。
「――あぁ?」
「どうしました? その程度の魔法、私には効きませんよ?」
「…………」
挑発めいた言葉に、しかし八鍵は答えぬまま。後ろから迫りくる魔族にも構わず、無言でヴィシュッダを睨み据え――
「え――?」
八鍵の姿が、煙のようにその場から忽然と掻き消えた。目標を見失う魔族たち。気付けば、困惑する魔族たちの後ろに、彼の姿があった。
そして、夜天に浮かぶ、いくつもの魔法陣。
「ちょっ……!?」
数多の魔法陣が、夜空を埋め尽くすように浮かぶという光景に、思わず焦りの声が生まれる。味方の起こしたものだとは理解できているが、頭の中の整理についてはまるで追いつかなかった。
「――Ad centum transcription.Augoeides maximum trigger!」
(――光輝術式最大稼働。爆装は一番から百番までを連続展開、絨毯爆撃!)
中空を埋める魔法陣から、幾条も閃光が放たれる。着弾した光の穂先は炸裂と同時に激しい光を放ち、魔族やヴィシュッダを逃げる間も、その場所もないほどの広範囲を吹き飛ばす。その様はまさに絨毯爆撃に相応しい。
これなら、生きてはいまい。これを喰らう方のことを考えるとぞっとするが――それはともかくとして。やがて閃光が目に焼き付けた残像が消えていく。しかして、ヴィシュッダは。
「ひひひひひひ……」
「そんなっ!?」
羽根つき魔族は閃光の前に全て消し飛んだが、ヴィシュッダは変わらぬまま。ただ静かに興奮の滲んだ不気味な笑い声を上げている。
先ほど八鍵の使った魔法は、寸地の逃げ場のない激しい範囲攻撃だった。頑丈な黒鋼木の幹は無残に吹き飛んで辺りに転がり、広範囲の地面が掘り起こされるほどの閃光の嵐だった……にもかかわらず、ヴィシュッダは健在。何事もなかったかのように、ローブが宙にふわふわと浮いている。
ヴィシュッダに視線を向ける八鍵が、怪訝そうに呻く。
「高位の魔術でも通らないだと……? さっきのは位格差消滅じゃないのか? いや、魔術が身体を突き抜けている……?」
聞こえるのは、何かの専門用語が混じった困惑の声。ヴィシュッダに攻撃が当たらない理由が、彼にもわからないらしい。
困惑もわずかにして、八鍵は再び口を開く。
「――Et factus est invisibilis. Instar venti! Tempestas!」
(――我が刃は不可視なりて、しかし我が敵を鋼の如き鋭さを以って血だまりへと沈めん! 微塵に吹き飛べ!)
ヴィシュッダが行動に移る間もなく、次の魔法が発生する。八鍵の詠唱が終わった直後、ヴィシュッダの周囲の黒鋼木が、地面の土が、転がる石が、突然千切れに千切れて吹き飛んでいく。空気の刃か、見えない刃かはわからないが、ずたずたに切り裂かれてなお、見えない斬撃の嵐は止まない。ヴィシュッダは舞い上がった土煙や木屑で隠れてしまい、黙示は不可能。だが、全てが塵と還るまで、竜巻のような暴風は続いた。
今度こそ、
「これで……!」
「いいや、こいつは前座だ」
「え――?」
八鍵が言うと同時に、自分の身体は見えない力によって彼のもとまで引き寄せられた。
彼のそばに着地させられると、目の前に出来た木屑交じりの砂塵に、赤い糸のような細い火の線がいくつも走った。
やがて、舞い上がった木屑の交じった砂塵の中からもこっ、もこっと真っ赤な魔物が生まれ、そして膨れ上がる。次いでそれら全てが、爆裂へと反転した。
予期された爆風と熱はこちらには来なかった。八鍵が遮断したのだろう。遺構にも被害は一切ない。だが、
「こ、これってもしかして……粉塵爆発!?」
驚きに見舞われるこちらとは対照的に、八鍵は何事もないかのように、どこまでも冷ややかな視線を爆炎の向こうに送っている。魔法を撃っただけでなく、こんな現象まで攻撃の枠に組み込んでいたのか。魔法のあとに現象を組み入れた絶え間ない連続攻撃に、こちらの背筋が寒くなる。
だがそれでもなお、ヴィシュッダは健在だった。
「吹き散らすこともできないの……か」
そう、事実を事実として受け入れるような、八鍵の神妙な声音が響いた。
そしてそれきり、彼は口を開かなくなった。
ヴィシュッダが無防備なのにもかかわらず、彼は詠唱もせず、魔法を撃ち込まない。
「八鍵!」
「…………」
八鍵は答えない。まるで倒すことを諦めたかのように、俯き加減で棒立ちのままだった。